Keystoneより
※あなたが、イエスの愛と救いを受ける為にもぜひ以下の記事をお読み下さい。
「何故その姉妹が殺されなければならなかったのか? 」
そして「主は彼女を生き返らせて下さいましたが、どのような主の計画があるのでしょうか? 」
と言う事について検証していきたいと思います。
まず、2人の姉妹がおしゃべりをしていたのになぜか、その一人の姉妹だけがサタンの標的になってしまいました。
彼女のその当時の教会での主な働きは、教会の会計係兼先生(奥さん)の秘書的な働きでした。
それと、賛美をリードして女性では唯一の前に出ての働きを与えられている素晴らしい姉妹でした。
つまりその時の先生(奥さん)の右腕に当る姉妹でした。
僕もこの事件のすぐあとに教会を出る事にしましたので、牧師先生も右腕を失い、奥さんも右腕を失いと言う霊的立場になってしまいました。
しかもその姉妹の霊的賜物は素晴らしい物がありました。
ですから僕と彼女以外は、ミニストリーで賛美リードなどをさせては頂けませんでした。
今考えてみると、サタンの狙い定める標的は的確だと言うのが分かります。
そう言う訳で、働き手であり素晴らしい賜物を持っている姉妹を標的にしたと言う事だと思います。
ですからサタンは間違いなく用いられている働き人を追い詰め、破壊し、殺そうとしているのだと言う事が分かると思います。
そう言う訳で、働き人の為のとりなしがとても大切である訳です。
更にこの事件を通して霊的に学ぶ事が出来ました。
それは現代の教会の現状です。
例えば、彼女が教会を代表していると仮定します。
そして彼女は悪霊に憑かれていると言われ、按手を通して偽りの油注ぎを受けてしまいます。
そして、教会はサタンに支配され死人のようになり、やがて殺されると言う訳です。
悲しい事ではありますが、もしかしたらこれが多くの教会の現状なのかも知れません。
でも聖霊様はこのまま教会を見捨てるような事はしません。
なぜなら教会はキリストの花嫁であるからです。
その姉妹も聖霊様によって生き返る事が出来ました。
それはキリストの身代わりの十字架があったおかげでした。
主イエスが教会を愛し、自ら進んで命を与えてくれた事によって教会は例え死んでも生きるのだと思います。
十字架の消極的側面は罪の許しに対する義の為でした。
十字架の積極的側面は花嫁である教会に対しての愛のゆえでした。
ですから、その姉妹が生き返ることが出来たのも主の大いなる目的があったからだと思います。
ほんとに誰よりも素晴らしい姉妹だったのですから。
その姉妹は主の愛と憐れみを誰よりも体験した事でしょう。
なぜならサタンが命を奪いましたが、聖霊様の憐れみによって又生かされたのですから・・・。
このように主はこの姉妹を愛し、そして教会を愛しておられます。
この主の愛のゆえに私たちは敵と戦う事が出来ます。
偉大な主イエスに全ての栄光をお返し致します。
Keystoneより
※あなたが、イエスの愛と救いを受ける為にもぜひ以下の記事をお読み下さい。
本文
Q.「古い自我とは罪の体のことですね。
自我(自分?)とは、悪魔が罪の種をまいてくる思いの領域ですよね。」
A.ここで言う自我と言う表現についてですが、これは魂の領域、つまり肉の思いの事を指していると思います。
Q.「自我(自分)を十字架につけよという聖書箇所はありましたでしょうか?」
A.そのようなみことばは無いと思います。ただし、ローマ人への手紙6:6に「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。」とは書いてあります。
Q.聖書には、古き体はイエスの十字架とともに付けられたとあります。
A.「古き体」では無いと思いますが、ローマ人への手紙6:6に「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。」とは書かれています。
Q.なぜ何度(日々)も自分を十字架につけなければならないのでしょうか。
A.古い人はキリストが対処したのでもう必要ないのですが、私たちの肉の思いを対処する必要はあると思います。
☆ローマ人への手紙8:13☆
「なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。」
Q.「聖書では古き体は死んだとあります。」
A. 「古き体は死んだ」と言うみことばは、もしかして「古き人」の間違いではありませんか?古き人ならばその通りすでに死にました。
ローマ人への手紙6:11には「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり」と書かれています。
Q.「だからもはや生きているのは古き私ではなくキリストのいのちですね。 」
A.はい。生きているのは古き人ではありません。
ローマ人への手紙6:11に「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」と書いてあります。
Q.「日々の十字架=霊的戦い」という根拠となる聖句をお教え下さい。
A.「日々の十字架について」
☆ルカによる福音書14:26~14:27☆
「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。 自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。 」
☆ガラテヤ人への手紙5:24☆
「キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。」
※ローマ人への手紙6:6の「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。」に書かれている「古き人」ならキリストが完了したのでそれ以上殺す必要は無いのですが、ガラテヤ人への手紙5:24に書かれている「自分の肉を、その情と欲」と言う肉の働きに関しては日々十字架につけてしまわなければいけないと思います。
なぜなら、ガラテヤ人への手紙5:13~5:26には肉の働きや肉の行いの事が書かれています。と言う事はこの肉や肉の思いをを十字架につけなければいけないと思います。
☆ガラテヤ人への手紙 5:13~5:26☆
「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。
律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。
気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。
わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。
肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。
このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。 互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。 」
※又、ローマ人への手紙8:1~8:13の中でも肉の働きについて詳しく書かれていますが、これも日々十字架で対処すべきものだと確信しています。
特にローマ人への手紙8:13には「なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。 」とありますので、これは霊的に十字架の働きの事を語っていると思います。
☆ローマ人への手紙8:1~8:13☆
「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。
なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。
律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。
これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。
なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。
肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。
なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。
また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。
しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。
もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。
もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。
それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。
なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。 」
A.「霊的戦いについて」
☆ローマ人への手紙7:15~7:25☆
「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。
もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。
そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。
わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。
すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。
もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。
そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。
すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。
わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。
わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。 」
※ローマ人への手紙7:22には肉の思いと霊とが肢体の中で戦っていると言う事がハッキリと書かれています。
又、7:20には「それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。」と書かれていますが、これはローマ人への手紙6章に出てくる古い人の罪とは違います。
これは古い人の性質を言っているのであって、古い人そのものではありません。これは肉の思いの事を語っています。
そして聖書ではこの肉の思いが罪だと語っています。
ですから私たちはこの肉に戦いを挑むわけです。
これが十字架の霊的な力なのだと自分は認識しています。
まとめると、「古い人」の問題である、「原罪」はキリストの死によって完全に取り除かれて完了しました。
でも私たちは肉の弱さのゆえに罪を犯してしまいます。
そのような時は、イエスの血を適用して一切の罪を清める事が出来ると思います。
しかし、肉の思いに関しては、罪ではなくて罪の性質ですので、清める事も出来ず、その為にイエスの血も適用出来ません。
しかし、肉の働きを殺す方法が一つだけあります。
それが、御霊によって肉の働きを殺すと言う事です。
この働きを担っているのがキリストの十字架だと認識しています。
ですから、日々十字架を背負い、自分の肉に対して戦いを挑むのと言うのが、十字架を通しての霊的戦いだと信じています。
又、これがクリスチャンの信仰生活でもあり、霊と真の礼拝にも繫がると信じています。
☆ローマ人への手紙7:19 ~7:23☆
「すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。
もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。
そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。
すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。」