今日は、聖霊のバプテスマと言う事についてのお話をさせて頂きます。
イエス・キリストが宣教活動をする前にヨルダン川のほとりで洗礼者ヨハネが悔い改めのバプテスマを授けていました。
このことは、旧約聖書のイザヤ書ですでに預言されています。
「呼ばわる者の声がする、荒野に主の道を備え、
さばくに、われわれの神のために、大路をまっすぐにせよ。
もろもろの谷は高くせられ、もろもろの山と丘とは低くせられ、
高底のある地は平らになり、険しい所は平地となる。
こうして主の栄光があらわれ、人は皆ともにこれを見る。
これは主の口が語られたのである」
洗礼者ヨハネは群集に大声で語りました。
「悔い改めよ、天国は近づいた。わたしは、預言者イザヤが言ったように、『主の道をまっすぐにせよと荒野で呼ばわる者の声』である」。
実は、イエス様が活動をする前に、群集の心を神に向けさせて悔い改めに導くのが洗礼者ヨハネの役目でした。
神様の救いを受けるためには、罪の悔い改めがまず第一に重要です。
その象徴として水のバプテスマがあります。つまり洗礼ですね。
もちろん、その前にイエス様を自分の救い主と認めて信仰告白をすると言うのが原則です。
この水のバプテスマは、イエス様の十字架で流された血に関わる重要なことです。
なぜなら、人類の罪を許すために血を流されたからです。
これは罪の許しと清めのためです。
それによってこの世から救われます。
ですから、イエス様がこられる前に水のバプテスマをヨハネは授けていました。
また、その時代にはクリスチャンになるとまず水のバブテスマを受けました。
神様は、義なるお方なのですべての人は罪を悔い改めて清められる必要があります。
それを象徴するのが水のバプテスマです。
その次に重要となるのが、聖霊のバブテスマです。
イエス様が、水のバプテスマを洗礼者ヨハネから受けたときに天からハトのように聖霊が下りました。
そしてそのときに天の父が「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」
と、言われました。
三位一体の神、父・子・聖霊が人類で最初に同時この世で現れた歴史的瞬間でした。
聖霊のバプテスマは、イエス様だけが授けるものです。
水のバプテスマは罪の許しのためためですが、聖霊のバプテスマは聖別のためです。
つまり神様のものとなるために、この世から聖なるものとして特別に分けるためのしるしです。
これは人間が授けることは出来ません。
授けることが可能なのは死んでよみがえった復活のイエスキリストだけです。
旧約聖書時代の王様や預言者を任命するときには必ず預言者や大祭司などが油を注ぎました。
これは、神様が聖なるものとして特別に選んだと言う証拠になります。
それと同じく、今の時代にも大祭司のイエス様自身が直接聖なるものとして、罪のこの世から完全に分けるために聖霊のバプテスマを授けます。
ですから、この聖霊の満たしのことを油注ぎとも言います。
イエス様が復活して天にあげられる前に、弟子たちに対してこう預言しました。
「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。
すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」
また、更に、こう言いました。
「ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」
この言葉通り、イエス様が復活してから50日目の日に、弟子たち一同に聖霊が下りました。
つまり、聖霊のバプテスマが下りました。
この日が教会の誕生日になります。
更に、キリストの将来の花嫁の誕生となるわけです。
ちなみに、黙示録では子羊の婚姻のことが書かれています。
みなさん!これが本物の大祭司による霊的な油注ぎです。
この油注ぎを受けることによって私たちは力を受けます。
そして復活のイエス・キリストを述べ伝える証人となります。
更に、御霊の賜物や御霊の実が与えられます。
御霊の賜物についての聖書箇所は、コリント人への第一の手紙・第12章:4節~11節です。
「霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。 務は種々あるが、主は同じである。
働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。
各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。
すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、
またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、
またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。
すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。 」
このみことばから御霊の賜物についてまとめると、
1.知恵のことばの賜物
2.知識のことばの賜物
3.信仰の賜物
4.癒しの賜物
5.力あるわざの賜物
6.預言の賜物
7.霊を見わける力の賜物
8.種々の異言の賜物
9.異言を解く力の賜物
以上9つの賜物があります。
更に、御霊の実というものがあります。
御霊の実についての聖書箇所は、ガラテヤ人への手紙5章16節~26節です。
「わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。
なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。
もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。 肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、
偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、
ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。
しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。
キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。
もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。 互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。」
このみことばから御霊の実についてまとめると、
1.愛の実
2.喜びの実
3.平和の実
4.寛容の実
5.慈愛の実
6.善意の実
7.忠実の実
8.柔和の実
9.自制の実
以上9つの実があります。
聖霊のバプテスマを受けるとこのような御霊の賜物や御霊の実が与えられます。
と言うことは、この聖霊のバプテスマによる油注ぎのおかげで、イエス様と同じ権威・同じ力が与えられます。
つまり、イエス様が行った癒しや奇跡や不思議も起こります。
・・・と言うか、実はイエス様自身はこの油が注がれると、「私よりも更に大きなわざをおこなうであろう」とさえ、言いました。
それほど、この聖霊のバプテスマやその後に受け続ける油注ぎはキリストの弟子として重要になります。
悪霊にだって病気にだって打ち勝つ力が与えられます。
それ以上に爆発的な力があるのが主の油注ぎです。
なんと、死人でさえも生き返ります。
僕自身も生き返り、僕の目の前で数人生き返りました。
それほど、油注ぎには力があります。
ですから、みなさんもぜひ、聖霊のバプテスマを求めて下さいね。
ところで、新約聖書にもありますが、実は水のバプテスマよりも先に、聖霊のバプテスマを受けている人々がいました。
そう言う方々は、あとから水のバプテスマを受けています。
聖霊のバプテスマはイエス様がご自分の権威に基づいて注いでくれるものですので、ぜひ皆さんもそれを慕い求めて下さいね。
イエス様はそう言う人を求めています。
例えて言うなら、水のバプテスマは婚約式で、聖霊のバプテスマは結婚式のようなものと言えるのではないでしょうか。
ですから、ぜひ、イエス様のものとなって下さいね。
ちなみに、僕が聖霊のバプテスマを受けたときのことなのですが・・・
僕を教会に導いてくれた兄弟の家で毎週家庭集会があったのですが、メッセージが終えて交わりをしている時に聖霊のバプテスマやそれに伴う異言の賜物についての話題が出ました。
この異言の賜物については、先ほど説明した通り、世界で最初に聖霊のバプテスマが弟子たちに下ったときに現れた御霊の現象でした。
弟子たちに聖霊が下った時についての聖書箇所は、使徒行伝第2章1節~4節です。
「五旬節の日がきて、みんなの者が一緒に集まっていると、
突然、激しい風が吹いてきたような音が天から起ってきて、一同がすわっていた家いっぱいに響きわたった。
また、舌のようなものが、炎のように分れて現れ、ひとりびとりの上にとどまった。
すると、一同は聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、いろいろの他国の言葉で語り出した。」
このように、聖霊のバプテスマを受けると同時に異言の賜物がしるしとして与えられる場合があります。
しかし、必ずしもそれが起こるとは限りません。
なぜなら、先ほども聖書のみことばで説明したように、神様のみこころに従って各自に賜物が与えられるからです。
ですから、異言の賜物が無くてもそれ以上に多くの賜物が与えられている場合があります。
話を戻しますが、僕の友人の母が突然、「2階の娘の部屋で聖霊のバプテスマを求めて祈りに行きましょう」と、提案してくれました。
それで、みんなで2階の部屋で聖霊のバプテスマが与えられるように祈り求めることになりました。
僕は、友人の母親の斜め後ろにひざまづいていましたが、いつものように彼女は異言で祈り始めていました。
そのときに、その油注ぎが僕にも流れるようにとの願いをこめて、友人の母親の体にそっとくっつきました。
するとどうでしょう!
何と、僕の口から勝手にわけのわからない言葉が出てきました。
僕は、驚いて思わず口をふさぎました。
そして、誰にも言わずに1階へみんなと戻りましたが、お茶を飲みながら友人の母が言いました。
「実は、なぜ、わざわざ2階へ行って祈りに行ったかと言うと、”今日ある人が聖霊のバプテスマを受けるから必ず2階で祈らせなさい”と、聖霊様から啓示があったからなのですよ。それでそれを受けた人は誰ですか?」
僕はこの言葉を聞いて思わず、「あっ・・・それ僕だ!」と、手をあげて言ってしまいました。
そして、起こったことをみんなに証しして神様を一緒に褒め称えました。
このように、聖霊のバプテスマを受ける場合には神様からの啓示を誰かが頂く場合も多いです。
僕の身近にも必ずそう言う人がいれば聖霊様が教えてくれます。
例えば、ある姉妹の場合には「今日、あの姉妹に聖霊のバプテスマを授けるので、祈祷会が終わった後に更に聖霊のバプテスマを求めて祈らせなさい」と言われました。
そこで、姉妹にそのことを言って祈ると、その通りに聖霊のバプテスマが与えられ、異言の賜物も与えられました。
また、ある姉妹の場合にも「今日、姉妹に聖霊のバプテスマを授けるのでそれを受けさせなさい。」と言われました。
彼女は、とても我が強く聖書のみことばも聖霊に対しても懐疑的でした。
しかし、僕は彼女にこの話をして素直に求めてみるように促しました。
僕は彼女に対しては圧倒的な油注ぎが与えられることを示されていましたので、その場合には人は立っていることが出来ません。
なので、危険防止のためにまわりに、クッションを敷き詰めました。
そして、僕が祈りを誘導しました。
「イエス様、あなたの約束通り今日、彼女に聖霊を注いで下さい。あなたのことばを信じ受け入れます。イエス様の名前により祈ります。アーメン!」と、まだ祈り終わらないうちに聖霊様が彼女に激しく臨みました。
その瞬間、彼女は後ろに倒されてしまいました。
そして、彼女は激しく油を注がれているのがわかりました。
僕は、思わずこう言いました。
「もうわかった?これが聖霊の満たしだよ。説明なんかなにもいらないよね?」
彼女は立ち上がれないどころか返事さえも出来ないほど圧倒的な油注ぎで満たされました。
ただ、「うん。うん。」と、うなずくので精一杯だったようです。
僕は、もう一度彼女を立たしてあげて今度は感謝を捧げる祈りを誘導しました。
するとどうでしょう。
更に激しく聖霊の油注ぎがあって、彼女は倒されてしばらくは起き上がれないほどでした。
実はこの姉妹に関しては、水のバプテスマを受けるときにも僕は祈らされました。
海辺の砂浜でみんなで姉妹に手を置き祝福を祈りました。
僕は、彼女の右肩に手を置いて心の中でこう祈りました。
「イエス様、彼女の心はまだまだかたくなです。どうか海に体を沈めたときの一瞬、彼女に分るように声をかけてあげて下さい。イエス様の名前によりお祈りします。アーメン!」
そして、賛美をしながら姉妹は水のバプテスマを受けました。
そして、僕はそばにいた別の姉妹にあることをお願いしました。
「彼女がここに戻ってきたら強く抱きしめてあげてください。」
そんなことをすればその姉妹はずぶ濡れになります。
しかし、僕の願いどおりにしてくれました。
そしてお互い感動してしばらく抱き合っていました。
そして、バプテスマを終えてしばらくすると、彼女が僕にあることを話してくれました。
「実は、砂浜で祈ってもらったときに、右肩に触れた誰かの手から力が流れてきて、とてもそこだけ熱く感じたの。それと、海に沈められたときに、”あなたは素直になりなさい”と声が聞こえた。それで私は感動して砂浜にいた姉妹と泣きながら抱き合っていた。」
僕は、この話を聞いて聖霊様に感謝しました。
そして、僕が祈ったことなどを姉妹に証しして一緒にイエス様を褒め称えました。
それから、彼女は聖霊様の声が聞けるようになりました。
この世で生きるためにはいろんな悩み苦しみも起きます。
しかし、イエス様は十字架にかかる前に約束の聖霊についてこう語りました。
「 しかし、わたしはほんとうのことをあなたがたに言うが、わたしが去って行くことは、あなたがたの益になるのだ。わたしが去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はこないであろう。もし行けば、それをあなたがたにつかわそう。
それがきたら、罪と義とさばきとについて、世の人の目を開くであろう。 罪についてと言ったのは、彼らがわたしを信じないからである。
義についてと言ったのは、わたしが父のみもとに行き、あなたがたは、もはやわたしを見なくなるからである。
さばきについてと言ったのは、この世の君がさばかれるからである。 」(ヨハネによる福音書第16章7節~11節)
凄い事が書かれていますね。
「約束の聖霊」、「助け主」とも呼ばれているのは、復活したイエス・キリストの霊で聖霊様のことです。
この聖霊が下ると、世の人の目が開かれます。
まず、罪について目が開かれて救い主を求めるようになります。
そして、義について目が開かれて聖書の奥義を理解できるようになります。
更に、裁きについて目が開かれサタンの働きや天国や地獄に関することや週末に起こることなどがわかるようになります。
聖霊のバプテスマを受けると人間的な説明が要らなくなります。
なぜなら聖書に書かれている通り、この油注ぎによってのみ、神のみこころが理解できるようになるからです。
ヨハネの第一の手紙第2章27節
「あなたがたのうちには、キリストからいただいた油がとどまっているので、だれにも教えてもらう必要はない。この油が、すべてのことをあなたがたに教える。それはまことであって、偽りではないから、その油が教えたように、あなたがたは彼のうちにとどまっていなさい。」
そう言うことなので、ぜひイエス様を救い主として信じた方は、聖霊のバブテスマを求めて下さいね。
更に、毎日主の油注ぎを求めて下さい。
あなたの人生はダイナミックなものになりますよ。
この、お話を聞いて下さった全ての人がイエス様を救い主として信じ、助け主聖霊様を自分の人生に迎え入れることが出来ますように、イエス様の名前によりお祈りします。
アーメン
Keystoneより
僕は、高校の頃から母親を憎んで何年も口をききませんでした。
それは、彼女との交際を邪魔されて別れさせられたからです。
電話でしか付き合うことが出来なかったのに、母が電話口で居留守を使ったり嫌がらせもしていたので、それをきっかけに会うことも電話も出来なくなっていきました。
その頃から僕は母親とはほとんど口もきかず、朝、僕を起こしに部屋に来るだけで学校に行く気にもなりませんでした。
学校もほとんど行かなくなり、2年以上もほとんど口もきかない状態でした。
そんなある時、ある奇跡的な体験を通して同級生に誘われて教会へ行きましたが、そこでイエス様と出会いました。
そして、聖書も学ぶことが出来ました。
詳しいことは 「No.3 高校の時の奇跡」と「No.4 最強の友人」 に紹介してあります。
聖書自体は黙示録などに興味があったので、その前からよく読んでいましたが、教会に行きだしてからは、更に読むようになりました。
あの頃はスポンジが水を吸い取るように、聖書の言葉が僕の心に染み渡りました。
1節読むだけで涙があふれてきました。
そして、聖書を読むと必ずイエス様が心に話しかけてきました。
そんなあるとき、とても心に引っかかる聖書のみことばを発見しました。
旧約聖書の申命記5章16節
「あなたの神、主が命じられたように、あなたの父と母とを敬え。あなたの神、主が賜わる地で、あなたが長く命を保ち、さいわいを得ることのできるためである。」
僕はこのみことばを読んで、「じゃあ、僕は祝福されないな・・・」と、感じるようになりました。
なぜなら、父親は浮気をして家に帰らず、結果的に離婚、更に母親とはずっと口もきかず憎んでいたからでした。
心の中では、分っていてもなかなか憎しみや怒りは解決出来るものではないし、それが習慣化してしまうと家族関係ほど修復は困難なものです。
でも、僕は聖書を読むたびに心が痛みました。
そんなある日、ちょうど母の日の週の祈祷会の時にあることが起こりました。
集会中にみんなで賛美をしていると、突然「お母さんを愛しなさい」と、言う声が聞こえました。
僕はびっくりして、思わず隣にいる友人の母の顔を見ました。
目が合いましたが、何事も無かったように賛美を歌っています。
「おかしいなあ・・・」と、思いながらまた、賛美を歌い始めると今度は「お母さんを許しなさい」と、静かで暖かい言葉が聞こえてきました。
そのとき、上から声が聞こえてきたので、「あっ、これはイエス様の声だ!」と、すぐに分りました。
そして、幻を見せられました。
それは僕が小さい頃、母親におしめをかえてもらったり、ごはんを食べさせてもらったり、遊んでもらってかわいがってもらったりしているシーンでした。
僕は祈祷会が終わると、教会の外で激しく泣いていました。
そして、あることを決意して家に戻りました。
僕は、家に戻り、玄関を開けて「ただいま」と、言いました。
すると、ちょうど僕の母が、玄関の前からリビングに飲み物を運んでいる途中でした。
そして、僕の「ただいま」と言う声を聞いて母は、目を丸くしながら、僕を見ました。
その弾みに、おぼんから飲み物をこぼして、コップも割れてしまいましたが、母は涙を流しながら、「おかえり」と言いました。
実はこの時、普通に口をきいたのは、数年ぶりだったからです。 僕の決意とは、とにかく母と口をきこうということでした。
それにしても聖書のみことばも聖霊様も凄いですね。
聖書を読むと心が変えられていきます。
しかし、人間には自我があるのでなかなか素直に行動を改めることが困難です。
でも、イエス様の霊である聖霊様が働く時には人間的な力を超越して奇跡が起こります。
つまり、僕の心に母を許すと言う心が生まれました。
数年間、母親に対して怒りと憎しみに満ちていたのに、それが一瞬にして変えられたのでした。
しかし、人間には完全な行いを継続することが困難です。
それからは言葉を交わすし会話もするようになりましたが、どちらかと言えば心のそこから許せない状態だし、いつも険悪な雰囲気でした。
僕は母親の影響もあり、世の中の女性を心の中で否定するようにさえなっていました。
「No.8 賛美の力3」 の中で、母親のことを紹介していますが、母親はある時、脳出血が原因で意識を失って、誰もいない時に半日以上も倒れていました。
そこで僕は賛美を捧げて死の霊を追い出して母親の命を救いました。
・・・と言っても、賛美をイエス様に向かって捧げただけです。
そして、母の命を救ってくれたのは聖霊様です。
詳しくは、 「No.8 賛美の力3」 をご覧下さいね。
僕の母親は一命を取り留めましたが、その日から入院してリハビリをする毎日となりました。
また、母は、別の新興宗教の熱心な信者だったので、僕がクリスチャンであること自体否定的でした。
しかし、毎日病院に通ううちに神様があることを示してくれました。
それは、母親に対してのことでした。
僕は決意をして病院へ向かいました。
そして母に言いました。
「今日は、どうしても言いたいことがるので聞いてもらえるかな?
僕が高校の頃、ひねくれて学校も行かなかったのとか、口もきかなかったこと覚えてるよね?」
僕がここまで話すとそれをさえぎるようにして言いました。
「どうせその時の文句を言いたいのでしょ?私が悪いのだから仕方ないね。」
僕は、その言葉を聞いてこう言いました。
「違うよ。それどころが逆だよ。今日は文句を言うために来たんじゃないよ。実は謝りに来たんだよ。」
僕がこの言葉を言うと、母はかなり驚いた様子でした。
そして僕は更に、言いました。
「あの頃は、僕はまだ子供で、自分の苦しさだけで精一杯でお父さんに浮気されているお母さんの気持ちを理解してあげることも出来ないで、苦しめてばかりでいたからそれを許して欲しい。
ほんとうはまじめに学校も行って、やさしくしていたら必要以上に苦しめることも無かったよね?
男のくせにそんな力も無くて傷つけてしまったことをほんとに反省してるので許して欲しい。
あの時はほんとにごめんなさい。」
僕がそう言うと、母は涙を流して喜んでくれました。
その姿を見て僕は自分自身が癒され喜びがあふれてきました。
自分の愛すべき人や愛されるべき人を憎んだりすると言うのが、どんなにお互いを傷つけ、人生を破壊していたのかがはっきり分りました。
その時から、僕は女性に対する心の態度も変わりました。
表には出ませんが、心の中では女性を見下していました。
これは無意識に母親とリンクしていたのだからだと思います。
母親が女性なので女性は全部自分の敵なのだと、無意識に思っていたのかもしれません。
そして、母親のところに毎日通ううちに洗面器で足を毎日洗ってあげるようになりました。
以前なら絶対に考えられないことです。
母の体に触れるどころか、口をきくことも目が会うことも、同じ場所で空気を吸うのさえ嫌だったのですから・・・・
そんなあるとき、いつものように母の足を洗っていました。
すると、突然その足元が、白い衣に変わりました。
僕は思わず顔を上げてみました。
するとどうでしょう。
何と、僕の母親が白い衣を着た御座に座しているイエス・キリストの姿に入れ替わっていました。
そして、イエス様が僕に語りました。
「あなたがこの世で母親に仕えるならば、それは同時に私に仕えるということになります。あなたが母の足を洗うのなら、同時に天にいる私の足を洗っているのと同じです。この世であなたが私の声に従うのなら、それは同時に天でもつながります。それをよく覚えて感謝して誰にでも仕えなさい。」
僕は、この言葉を聞いて感動しました。
そして感謝しました。
すぐに元の母親に姿が戻りましたが、それから僕はイエス様に仕えるように母に接するようになりました。
その頃から母はよく笑うようになりました。
ある時、クリスマスが近づいたのでそう言う話をしていたら、突然「教会に行ってみたい」と言われました。
僕は、驚きましたが、喜んでクリスマス前から教会に母を連れて行くようになりました。
クリスマス前の癒しの集会のときに聖霊様が言いました。
「今日、あなたは死が命に移り変わる瞬間をその目で見ることが出来ます。」
賛美をしているときに聖霊様が語ってきました。
僕は、「一体どういうことだろう?」と、思いながらも聖霊様の言葉に期待していましたが、あとから思いがけない形でそれが起こりました。
牧師先生がメッセージの途中でこう言いました。
「今日は、聖霊様の啓示があったので、用意していたメッセージの内容を変えてお話します。」
そして、話の内容が「イエス様の十字架と魂の救いについて」の内容になりました。
更に、先生がこう言いました。
「今日は、聖霊様の啓示により、このメッセージをある姉妹のために語っています。それは実はあちらにいる姉妹のためなんです。」
先生が指を指してその姉妹のことをみんなに知らせました。
僕は、「一体、どの姉妹なのだろう?」と、心の中で思いながら後ろを振り返り、その姉妹を見ました。
すると、なんと、その姉妹とは僕の母親のことでした。
これには、僕も驚きました。
「え~?そうなの?」っと、信じられないような感情が起こりました。
なぜなら、僕のこともイエス様のこともずっと今まで否定してきたからです。
メッセージが終わって、癒しの時間が始まりました。
僕の母は前に出るようにと言われました。
そして、イエス様を信じて受け入れるための信仰告白をしてもらい、その場でイエス様を受け入れました。
母は先生に祈りを導いてもらいながら、「イエス様を私の救い主として信じ、受け入れます。」と、告白しました。
その時、僕は母に油注ぎがあることを知っていたので、母の後ろに立ち、母が後ろに折れたら支えようとしていました。
なぜなら、聖霊の油注ぎがあると、ほとんどの場合、人は立っていることが出来ないからです。
ちなみに、油注ぎについての詳しい内容は 「No.15 聖霊のバプテスマ」 をご覧下さいね。
僕が母の後ろに立って母が信仰告白をしたときのことなのですが、母の背中を見つめていると、突然幻が見えました。
実は背中のところに、黒雲のようなブラックホールのような黒いもやもやした影がはっきり見えました。
そして、信仰告白をして「アーメン」と言ったときに、物凄いことが起こりました。
なんと、その暗黒の雲のようなかたまりめがけて左側のほうから何かが飛んできてその黒雲をどこかに吹き飛ばしてしまいました。
よくみてみると、なんとそれは、旧約聖書に出てくる「神の契約の箱」でした。
イエス様を信じて告白した瞬間に、この「契約の箱」が凄い勢いで飛んできて、死を象徴する暗黒のブラックホールのようなかたまりを外に吹き飛ばし、「神の契約の箱が」母の背中の中にはっきり見えてそのまま体の中に消えていきました。
僕はこの幻を見て、さっき聖霊様に言われた言葉を思い出しました。
「今日、あなたは死が命に移り変わる瞬間をその目で見ることが出来ます。」
その預言どおりのことが目の前で起こったことが理解できました。
イエス様を信じていない状態の人間の霊は死んだ状態と同じです。
なぜなら肉体が死んだら永遠の地獄に行ってしまうからです。
しかし、イエス様を信じ救い主として告白して受け入れた瞬間、死んだ霊の中に復活したイエス・キリストの霊である、聖霊様が宿ります。
つまり、霊が生きた状態になります。
人がイエス様を信じて告白した場合にはこんなことが現実に起きていると言うことが目で見て更に深く理解出来ました。
これは、どんな奇跡よりも大きなことです。
死んだ人間が生き返るのと同じです。
イエス様が十字架の上で死んで墓からよみがえったのと全く同じ現象です。
なぜなら、その復活の霊が信じた母の胎内にも宿り、告白して受け入れた全ての人にも同じように命の根源であり、復活のキリストの霊である聖霊様が宿るのですから・・・
これは地上で最大の奇跡と言えます。
このことを見せてくれた聖霊様に感謝します。
聖書に、「イエスを信じなさい。そうすればあなたもあなたの家族も救われる」とあります。
どうかみなさんも、ぜひ、この復活のイエス・キリストを自分の救い主として信じ受け入れて下さいね。
祈りは簡単な言葉で十分です。
先ほどの母の祈りでも大丈夫です。
それを告白することにより、あなたの罪は許され死が命に移り変わります。
そして、聖霊様がいつもあたなを導いて下さいますよ。
どうかあなたもあなたの愛する人たちも一人も滅びないで救われますように・・・
イエス様の名前によりお祈りします。アーメン
Keystoneより