Keystoneのアンビリバボー体験談集

No.19 霊の2倍の賜物( 1 / 1 )

僕が、元の教会を出て次の教会で教えを受けているときの事でした。
先生が突然こう言いました。

 

「今日は、みなさんに御霊の賜物が与えられるので、自由にそれを求めて下さい。」

御霊の賜物とは、イエス様を信じたクリスチャンに与えられる霊的な能力のことです。

 

聖書のみことばから御霊の賜物についてまとめると、

 

1.知恵のことばの賜物
2.知識のことばの賜物
3.信仰の賜物
4.癒しの賜物
5.力あるわざの賜物
6.預言の賜物
7.霊を見わける力の賜物
8.種々の異言の賜物
9.異言を解く力の賜物

 

以上、9つの御霊の賜物があります。

 

この賜物を自由に求めなさいと、聖霊様を通して先生が語ったのでした。

そこで僕は、聖霊様に語り掛けました。

 

「聖霊様、僕は全ての賜物が与えられていると思うのですが、どうしたらいいですか?
もし、よろしければ、先生の2倍の霊の賜物を与えて下さい。」

 

僕は、何とも贅沢なお願いをしてみました。
つまり、先生の力の2倍も求めてしまったのですから・・・

 

しかし、聖霊様がすぐに答えてくれました。

「もちろん、あなたにはそれも与えられます。しかし、あなたはそんなことよりもただ、父の愛だけを求めなさい。そうすればそれらのものは与えられます。」

 

僕は、なるほどと思い、

「分りました。僕は単純に父の愛だけを求めて行きます。」

 

そして感謝を捧げました。

 

その学びのセミナーが終わって、次の奇跡の集会のときが来ました。

僕はいつも、先生と奉仕をしていたので、僕自身が呼ばれて按手を受けたり祈ってもらうことはないのですが、その日はいつもと違いました。

 

「兄弟、どうぞ前に出てきて下さい。」

僕は、先生に呼ばれて前に出ました。

そして、先生が言いました。

 

「今日、あなたは私の2倍の霊を受けます。
そのしるしとして幻を見ます。
その幻をみるとあなたは私の霊の2倍を受けることが出来ます。」

 

僕は驚きましたが、聖霊様が約束してくれていたので感謝しました。
そして、一体何が起きるのだろうかと期待していました。

先生が按手をして祈ると、物凄いものを見てしまいました。

 

突然、宇宙のような大きな空間が視野に広がりました。

 

そして「光あれ!」と声がしました。
その瞬間、暗闇のかなたからまぶしいほどの閃光がきらめき、更に光の粒子が僕をめがけて一斉に飛んできました。
更にその光の粒の一つが僕の胸の辺りに入り込んで行きました。
僕は、イエス様の言葉と光の粒子を同時に体の中に受けました。
そして例えようのない感動と平安に包まれました。

 

実は、これはこの世が作られたときの瞬間映像でした。
何と僕は、しるしとしてその瞬間を見せられてしまったのでした。

 

興奮したまま、その日はそれで終わったのですが、次の集会の前の日に聖霊様が語りました。

 

「明日、集会の前の祈りのときに、私が示した一人の姉妹を講壇の前に立たせて、天に向かってハレルヤと神を褒め称えながら両手をあげさせなさい。」

僕は、「はい。わかりました。明日姉妹にその通りにしてもらいます。」

 

僕は翌日集会の前にその姉妹に事情を説明して、その通りにしてもらいました。
二人で、講壇のおいてあった場所に立ちました。

ここはいつも先生が、メッセージを語ったり神様の力により奇跡や不思議や癒しをおなう場所です。

つまり、教会の中で最も清くて聖なる場所です。
なぜなら、そこに天からの油注ぎが集中的にあるのですから・・・

 

油注ぎとは、聖霊の圧倒的な力のことです。
これを受けると、癒しや奇跡が起こります。

その真上の天が開かれるのでそう言うことが起きます。

 

さて、僕は彼女をそこに立たせて両手をあげさせて「ハレルヤ!」と言ってもらいました。

そして、心の中で聖霊様に言いました。

 

「聖霊様、あなたの言うとおりにしました。でも、一体これから何が起きるのですか?」

僕がそう尋ねると、すぐに信じられないことが起きました。

 

何と、姉妹が立っている場所の天が開かれ、何かが洪水のように落ちてくるのを感じました。

僕は彼女の両手首を支えていたのですが、更に天の幻をみていると、竜巻のようなものが発生して、僕らはその竜巻に振り回されて、体は宙に浮き、お互いが2メートルも吹き飛ばされてしまいました。

 

そして僕は吹き飛ばされて床に倒されました。
目を開けると天が開いていて、そこから大勢の人が僕らを眺めていました。

何と、天の住民と目が合ってしまいました。

 

そして体中に今まで一度も体験したことのない圧倒的な油注ぎを受けました。
受けましたと言うよりも、ナイアガラの滝を受けているように油注ぎをうけ続けていてそれが全然止まりません。

姉妹も、全く同じ状況で満たされすぎて叫んでいました。

 

この油注ぎの中に入れば誰でも癒され、悪霊は出て行き、死人は生き返り、更にイエス様のことを話さなくても、一瞬で誰でも神様を認めることが分りました。

それほどの強烈な油注ぎでした。

 

僕も姉妹も、その臨在の余韻に浸りながら神様に感謝して礼拝しました。

この体験はその時1度きりのものでしたが、神様は必要に応じてその油注ぎを使わせてくれると信じています。

 

あれから、7年になりますが、実は最近その封印が解かれました。

ですから、僕はこの証を先生にも初めて証をして、このように公開しています。

 

ちなみに、旧約聖書に出てくる偉大な預言者エリヤとエリシャの間でもそのことが起きました。

それを紹介します。

 

第2列王紀2章9節~12節

 

彼らが渡ったとき、エリヤはエリシャに言った、「わたしが取られて、あなたを離れる前に、あなたのしてほしい事を求めなさい」。
エリシャは言った、「どうぞ、あなたの霊の二つの分をわたしに継がせてください」。
エリヤは言った、「あなたはむずかしい事を求める。あなたがもし、わたしが取られて、あなたを離れるのを見るならば、そのようになるであろう。しかし見ないならば、そのようにはならない」。
彼らが進みながら語っていた時、火の車と火の馬があらわれて、ふたりを隔てた。そしてエリヤはつむじ風に乗って天にのぼった。
エリシャはこれを見て「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と叫んだが、再び彼を見なかった。

 

以上ですが、どうでしょう?
なんだか僕が体験したことと似ていますね。

 

預言者エリヤが、生きたまま天にあげられる前に起きた出来事なのですが、その弟子のエリシャはエリヤが「わたしが取られて、あなたを離れる前に、あなたのしてほしい事を求めなさい」。と言われてエリシャはすかさず、「どうぞ、あなたの霊の二つの分をわたしに継がせてください」。と、僕と同じ言葉を発しました。

 

そしてエリヤが言いました。
「あなたはむずかしい事を求める。あなたがもし、わたしが取られて、あなたを離れるのを見るならば、そのようになるであろう。しかし見ないならば、そのようにはならない」。

 

すると、エリシャは幻を見ました。
「火の車と火の馬があらわれて、ふたりを隔てた。そしてエリヤはつむじ風に乗って天にのぼった。」と書いてある通りです。

 

凄いですね。
竜巻まで同じです。

 

そして、エリシャはそのすぐあと、エリヤの2倍の霊を受けたことが証明されました。

続きを読むと分ります。

 

第2列王紀2章12節~15節

 

そこでエリシャは自分の着物をつかんで、それを二つに裂き、 またエリヤの身から落ちた外套を取り上げ、帰ってきてヨルダンの岸に立った。
そしてエリヤの身から落ちたその外套を取って水を打ち、「エリヤの神、主はどこにおられますか」と言い、彼が水を打つと、水は左右に分れたので、エリシャは渡った。
エリコにいる預言者のともがらは彼の近づいて来るのを見て、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」と言った。

 

神様はエリシャの願いどおりにエリヤの倍の霊を頂くことが出来ました。

Keystoneもそれを頂いたのですが、7年間も封印されていました。

 

しかし、つい最近仕事をしていると、聖霊様から声がかかりました。

「Keystone・・・」

僕は驚きました。
なぜなら、僕の本名ではなく、「keystone」と呼んだからです。

 

僕はすぐにその意味が理解できました。

つまり、「今から主の為に動きなさい!主の為に働きなさい!」と言うメッセージだと分ったからです。

 

ちなみに、このKeystoneと言うネーミングに関してなのですが、実は今から5年以上前にインターネットで仕事をするようになったときに、聖霊様が言いました。

 

「あなたは自分の名前を名乗らないで、ニックネームをKeystoneと言うことにしなさい。」

 

「Keystone」と言うのは、直訳すると「要石」と言う意味です。
更に、沖縄の別名でもこの名前が使われています。

 

僕は、どういう意味があるのだろうかと考えてみましたが、その時に幻が見えました。

それは、ペテロがイエス様に対して信仰告白をするシーンでした。

 

マタイによる福音書16章13節~20節

 

イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。

 

彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。
そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。

 

すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。

そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。

 

わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。

そのとき、イエスは、自分がキリストであることをだれにも言ってはいけないと、弟子たちを戒められた。

 

以上ですが、僕のKeystoneと言う名前と、このペテロの信仰告白のシーンと一体、何の関係があるのかを考えて、僕はこの聖書箇所を何度も読み返しましたが、凄いことに気がつきました。

 

ここで大事なことは、ペテロが自分の考えなどではなく、天の父の啓示により、信仰告白をしたところです。

更に、重要なのは、その言葉に対してイエス様が言っている事です。

 

「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。

わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」

 

イエス様は物凄いことを語っていますね?

ペテロが啓示により信仰告白をすると、それに応答してみことばを語りました。

 

「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。」


「ペテロ」の本名は「シモン」でした、直訳すると、「葦(あし)」と言う意味です。
「葦(あし)」とは、背の高いイネ科の草の一種のことで、ペテロの性格をよく表しています。

 

つまり、風に吹かれると、あっちに傾いたりこっちに傾いたりでいつも、環境に振り回されて不信仰な状態をイメージさせています。

そのことが、実際に起きてしまいました。

 

マタイによる福音書14章25節~33節

 

イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。
弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。


しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。
するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。


イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。
しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。


イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。
ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった。
舟の中にいた者たちはイエスを拝して、「ほんとうに、あなたは神の子です」と言った。

 

これがペテロの本来の性質でした。
しかし、天の父の啓示により信仰告白をした瞬間、何かが変わりました。

 

これまでのシモン、つまり風に吹かれて揺らぐあしのようではなく、イエス様が彼のことを「あなたはペテロである。」と言いました。
ペテロの意味は、「岩」です。

 

イエス様は、信仰告白をした「ペテロ」、つまり「岩」の上に教会を建てると宣言しました。
そしてその教会は、「黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。」ほどの力を持っています。

 

更にペテロに対して言いました。


「わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。」


つまり、ペテロだけではなく教会に対しての宣言です。

 

教会には天国の扉を開く鍵が与えられているということですね。

 

更に、イエス様はこう言いました。

 

「そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」

 

これは凄い言葉ですね。
なんと、教会が地上でつなぐことは天でもつながれ、地上で解くことは天でも解かれる。
と言っています。

 

これはどういう意味でしょう?

つまり、イエス様の権威を用いて教会が地上でみこころを執行すると言う意味です。
ほんとに凄いことですね。

 

僕はこの聖書箇所を読みながら感動していましたが、僕のKeystoneと言う名前と何の関係があるのかな?と考えてみました。

 

そしてもう一度、聖書箇所をよく読んでみると、何と、僕の名前が隠されていました。

 

まず、「キーストン」を英語に直すと「Keystone」と言うことになりますが、「key」と言う意味に関連する言葉を捜してみました。

そうすると、「天国の鍵」の「鍵」が英語で訳すと「key」であることに気がつきました。

 

次は、Keystoneの「stone」の部分を探してみました。
「stone」とは直訳すると「石」と言う意味です。

僕は「石」に関係する言葉を捜しました。そして発見しました。

 


ペテロの名前は「岩」と言う意味があります。
「岩」を英語に訳すと、「Rock」になりますが、「岩」をイメージしてみるとそれが石であることが浮かびました。

ですから、「stone」とは「石」のことで、その塊が「岩」と言うことになります。

つまりそれは、ペテロの名前のことを意味しています。

 

更に言うと、教会の事を指しています。

教会は信仰告白の上になりたっていて、それには「黄泉の力」つまり、「死」でさえも打ち勝つことは出来ないと言う意味です。

 

更に、天国の鍵を授けて、天と地上を結ぶ権威も与えられています。

「Keystone」の名前にはこんな深い意味があったのですね。

僕自身が驚いてしまいました。

 

ですから、聖霊様に「Keystone」と声をかけられたときに、その意味がよく理解できました。

僕は、それから1ヶ月後に更に啓示とみことばをもらいました。

 

実はそれを頂いてまだ、1週間にもなりません。

僕が、この働きについて答えを求めていると、幻が見えました。

それは有名な絵です。

 

イエス様が子羊を両肩に乗せている画像です。

そして、みことばが与えられました。

 

「あなたは失われた1匹の羊の為に命を捨てなさい」

 

僕は、「アーメン。分りました。」と、迷わずその言葉を受け入れました。

更にその聖書箇所を読んでみると啓示が与えられました。

 

マタイによる福音書10章5節~14節

 

イエスはこの十二人をつかわすに当り、彼らに命じて言われた、「異邦人の道に行くな。
またサマリヤ人の町にはいるな。

むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。

行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。

病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。

財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。

旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。働き人がその食物を得るのは当然である。

どの町、どの村にはいっても、その中でだれがふさわしい人か、たずね出して、立ち去るまではその人のところにとどまっておれ。

その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。

もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。

もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。

 

以上ですが、僕はそのままこのみことばを受け入れました。

僕が1匹の羊の為に命を捨てると、このことが起こると言う啓示です。
なので、僕は聖霊様の言葉に従いそれを行う決心をしました。

 

・・・と言っても、今までしてきたことと同じことを使命感を持って行うだけの話です。
そのためには、僕のことを祈りで支えてくれる人が必要です。

 

今は、その人たちを捜し求めている状態ですが、準備が整えばその働きを喜んでしたいと思いますので、祈りの必要を感じてくれた方がいらっしゃいましたらぜひ、この働きの為にお祈り下さいね。

 

その方々にも主の豊かな恵みがありますように・・
イエス・キリストの名前によりお祈りします。
アーメン。

 

このようにして、僕は7年目にしてこの賜物が開放されたわけです。

 

どうか、あの油注ぎが豊かに注がれて多くの方々を癒してイエス・キリストに出会わせて下さいますように・・・
主イエスの名前によりお祈りします。
アーメン

 

Keystoneより

 

 
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No.20 血の清めと油の聖め( 1 / 1 )

今日は、「癒し」や「礼拝」や「務め」に関して奥義を語りたいと思います。
これは、聖霊様の啓示と実体験から学んだことです。
そして、それを証明するものが、「聖書のみ言葉」と「聖霊様の現われ」との一致です。

 

「癒し」については、一般の方でも理解出来ると思います。
「癒し」とは、体や心や霊的な部分の病的問題が解決することを言います。

 

人間の体は、三位一体です。
「体」、「心」、「霊」が一つになったのが人間です。
そして、人間は神様の形に似せて作られています。
神様も父・子・聖霊の三位一体です。

ですから、癒しを考える場合には、体と心と霊の癒しも考えなければなりません。

 

例えば、こういう話があります。

自殺願望のある少女がいました。

ある日、彼女はアパートから飛び降り自殺をしましたが、車の屋根に落ちて一命を取り留めました。

医者は彼女のために一生懸命治療をしました。
そして体が良くなり、歩けるようになると、その病院の屋上から飛び降り自殺をしました。

心が病んでいるときには、体だけをどんなに癒しても、心が癒されていないのなら、健全な状態ではありません。

それと、彼女の場合には自殺願望を起こす悪霊の影響もありました。
この場合には霊的な癒しも必要です。

 

また、こう言う事もありました、

ある若い青年がいました。
この青年は肝臓の病で、日本では治せないと言うことで、海外で臓器移植をするために家族が数千万の募金活動もしている状態でした。

しかし、僕の仕事仲間が食事療法の指導で関わることになりました。

 

最初は、指示通りに食事療法を実践してて、肝臓が治っていきました。
それで、僕の仕事仲間は、彼に言いました。

「調子が良くなっても、お酒は絶対に飲まないように、それと夜遊びもしないように、食事療法もいいと言うまで絶対に止めないように」

 

しかし、その青年は彼の言いつけを守りませんでした。

調子が良くなり、お酒を毎日飲み、友達と夜遊びもして食事も好きなものばかり食べていました。

そしてある日、肝臓が機能停止して死んでしまいました。

これも、体だけ治しても、心の状態が癒されていなかったので、自制心が無くて死んでしまった例です。

 

医療機関で治せないものを、改善・完治して生きていく可能性があったのに、自制力がないために死んでしまいました。

僕は、仕事仲間に言いました。

「人間は、三位一体の存在なので、体も心も霊も癒す必要がありますね。これからはそう言うこともテーマにして一緒に活動しましょう。」

と言うことで、「三位一体の法則をテーマに癒しの指導もしてきました。」

 

詳しくは、Keystoneの管理している「ラジオ健康相談室」と言う、ブログをご覧下さい。
そこに、三位一体の法則や癒しについて詳しく解説してあります。

★ラジオ健康相談室
http://ultimateclub.cocolog-nifty.com/

 

イエス様の名前により命じると、癒しが起きるのは、イエス様が鞭を打たれて十字架で死んでくれたからです。

聖書にちゃんと書かれています。

 

イザヤ書53章4節~5節

 

「まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。


しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。


彼はみずから懲しめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。」

 

イエス様の名前で、癒しが起きるのは、イエス様が罰を受けてくれたからです。

 

では、続いて「礼拝」について考えてみましょう。

一般的に、礼拝と言うのは、日曜日に教会に行くことを言っていると思います。
しかし、実は神様を礼拝すると言うのはそれだけではありません。

 

例えば、イエス様はこう言いました。

 

ルカによる福音書9章23節~24節

 

「それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。」

 

ヨハネによる福音書4章24節

 

「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。

 

イエス様が言っているように、「礼拝者は霊とまこと」とをもって礼拝すべきだということです。

 

それと、礼拝と言う儀式だけじゃなくて大事なのはいつでも自分を捨てて、日々十字架を負ってみ言葉に従い、聖霊様に従うと言うことです。

その犠牲を、礼拝のときに携えて毎週捧げればいいというわけです。

よく、「礼拝を受ける」と言いますが、「礼拝とは捧げる」ものです。

 

僕が、礼拝の姿勢について参考になると思うのは、アブラハムです。
彼こそまことの礼拝者です。

 

創世記第22章1節~14節

 

「これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。

神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。

 

アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。

三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。

 

そこでアブラハムは若者たちに言った、「あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」。

 

アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。

 

やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。

アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。

 

彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。

 

そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、
主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。

み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。

 

この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。

 

それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。」

 


これが、アブラハムの礼拝に対する姿勢です。
彼は神の御心にしたがって自分の十字架を背負い、自分の命よりも大事なものを礼拝として捧げました。

 

その姿勢を神様は喜ばれ、アブラハムを信仰の父と認めました。

これが礼拝の姿勢だと思います。

 

次に、「務め」についてです。

務めとはパウロが言う「奉仕のわざ」のことです。
キリスト教では、このことを「ミニストリー」などと呼び、集会などで癒しや奇跡を起こしたりします。

 

しかし、それは一部分であり、パウロが言う本当の意味での務め・奉仕のわざ・ミニストリーとは「キリストのみからだを建て上げる」と言う事です。

 


エペソ人への手紙4章11節~13

 

「そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。
それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、
わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。」

 

ここで、語っていることは重要です。
キリストは使徒・預言者・伝道者・教師・牧師を教会に立てました。
これは5役者とも呼ばれています。

 

5役者を立てた理由は、キリストのからだを建てあげる為です。

つまりそれが奉仕のわざであり、務めと言う事になります。

 

私たちが、務め、奉仕のわざ、ミニストリーをするというときには、「キリストのみからだを建てあげる」と言うことをしていることになります。

さて、このミニストリーについてなのですが、実は教会でのミニストリーのときに賛美をしていると、聖霊様が僕に語りました。

 

「今日、あなたにミニストリーについての秘訣を教えます。あなたはこれを知ることでいつでもその準備が整います。つまり、あなたはいつでもそのときが来ると、ミニストリーができる様になります。」

 

更に聖霊様は言いました。

 

「そのために、必要なのが血の清めと、油の聖めです。これについてはすでにあなたに教えました。」

 

僕は、そう言われて、そのことを思い出しました。

 

それは、 「No.14 創造の奇跡」 の中で紹介されている、創造の奇跡についてのことでした。

もう一度、そのことを証します。

 

ある日曜日の朝に、教会へ行きました。
そして、教会に入るなりある姉妹が僕に「息子のためにどうか祈ってほしい」と言うことでした。

僕は「いったいどうしたのだろう?」と思いながらも、案内されるまま、まだ生まれて半年くらいの赤ちゃんのところに行きました。

名前はリキ君と言います。

 

お母さんは、僕に「これを見て下さい。」と言って、その赤ちゃんの上着をまくって腰の辺りを見せました。

僕はリキ君の腰椎部分をを見て衝撃を受けました。
何と、腰椎の一部分がゴルフボールを半分に切ったような形で飛び出ていて、更にその骨を中心に背骨が大きく湾曲していました。

どう見ても現代の医学では治療困難な状態でした。

 

僕は、心の中で思わず聖霊様に「聖霊様!僕には無理です!」と叫んでしまいました。

そして、いつものように「聖霊様。僕はいったい何をすればいいのですか?」と聞きました。

 

すると、聖霊様はすぐに答えてくれました。

 

「あなたの指で触れてイエスの血で清めなさい。」

 

僕は聖霊様に言われるまま、その異常な骨に指先で触れて、「イエスの血で清めます。」と言いました。

そして、又聖霊様に、「次はどうすればいいですか?」と聞きました。

 

すると今度は、「息を吹きかけて聖霊の油で聖めなさい」と言いました。

 

僕は聖霊様に言われるまま、その異常な骨に息を吹きかけて、「聖霊の油で聖めます。」と言いました。

そして又、聖霊様に、「次はどうすればいいですか?」と聞きました。

 

すると今度は、「母親が信仰を持って祈り続ければ、今度教会に来るときには完全に癒されるからと言いなさい。」と言われました。

 

僕はお母さんにその事を伝えました。

するとお母さんは、「わかりました。神様の癒しを信じて毎日感謝して祈ります。」と言ってくれました。

 

それから、ちょうど次の週の朝になりました。

いつものように、教会のドアを開けると突然、あの姉妹が僕に泣きながら抱きついてきました。

僕は、ビックリして「何?何?いったいどうしたの?」と姉妹に聞きました。

 

そうすると、「とにかくこっちに来てみて下さい。」と言われたので、僕は案内されるまま先週と同じ子供部屋に連れて行かれました。

 

そして、母親とその子供たちが興奮して言いました。

「リキ君の腰が、癒された!骨が治っているよ!」

そう言って僕は、リキ君の腰の骨を見せてもらいました。
するとどうでしょう!

 

何と、あの飛び出ていた骨が普通の状態に戻っていて、尚且つあんなに湾曲していた背骨が綺麗にまっすぐ整列していました。

 

僕はあまりにも感動して思わず「聖霊様は凄い!」と 叫んでしまいました。

 

お母さんに更に詳しく状況を聞いてみると、教会に着いたばかりの時にはまだ以前の状態だったそうです。

しかし、ちょうど僕が教会に着く直前に、何となく骨に触れてみたら何とあの出っ張りがなくなっていたので、「もしかして」と思い、背中を開けてみたら、何と、完全に癒されていたという事でした。

 

あまりにも凄すぎて、みんなで叫んでいたそうです。

どう考えても、世界一の外科医の手術でも治せないような状態でしたが、聖霊様はほんの一瞬で治してしまいました。

治したと言うよりは、全く新しい骨に造り替えてしまったのでした。

 

以上ですが、この体験のことを聖霊様が僕に思い出させてくれました。

聖霊様がリキ君を癒す為に指示したことは2つでした。

 

まず、「あなたの指で触れてイエスの血で清めなさい。」

 

そして、「息を吹きかけて聖霊の油で聖めなさい」と言うことです。

 

この、イエス様の血の清めと、聖霊の油での聖めが癒しの基本であり、ミニストリーの基本であり、礼拝の基本でもあります。

 

僕は、聖霊様に

 

「今日、あなたにミニストリーについての秘訣を教えます。あなたはこれを知ることで、いつでもその準備が整います。つまり、あなたはいつでもそのときが来ると、ミニストリーができる様になります。そのために、必要なのが血の清めと、油の聖めです。これについてはすでにあなたに教えました。」

 

と言われましたが、そのあと、癒しのミニストリーが始まりました。

 

そして先生が突然こう言いました。

 

「兄弟、前に出てきて下さい。今日、あなたに油注ぎがあるので、ここでミニストリーをして下さい。」

 

僕は、驚きましたが、聖霊様から予告されていたので、躊躇をしないで前に出て行き多くの人たちに油注ぎをして癒していきました。

 

先生はそばでそれを眺めていました。

僕がしたことは単純なことです。

それは、まずは手をかざしてイエス様の血でその人の罪を清めて、更に息を吹きかけて聖霊の油で聖めて、イエス様の為に聖別するという作業です。

 

それを行うと、聖霊様が働きみんな癒されていきました。

実は、このことが聖書にも書かれています。
らい病人の清めについての儀式が、まさにそのことでした。

 

レビ記第14章1節~18節

 

主はまたモーセに言われた、 「らい病人が清い者とされる時のおきては次のとおりである。

 

すなわち、その人を祭司のもとに連れて行き、 祭司は宿営の外に出て行って、その人を見、もしらい病の患部がいえているならば、
祭司は命じてその清められる者のために、生きている清い小鳥二羽と、香柏の木と、緋の糸と、ヒソプとを取ってこさせ、祭司はまた命じて、その小鳥の一羽を、流れ水を盛った土の器の上で殺させ、
そして生きている小鳥を、香柏の木と、緋の糸と、ヒソプと共に取って、これをかの流れ水を盛った土の器の上で殺した小鳥の血に、その生きている小鳥と共に浸し、
これをらい病から清められる者に七たび注いで、その人を清い者とし、その生きている小鳥は野に放たなければならない。

 

清められる者はその衣服を洗い、毛をことごとくそり落し、水に身をすすいで清くなり、その後、宿営にはいることができる。

ただし七日の間はその天幕の外にいなければならない。

そして七日目に毛をことごとくそらなければならい。

頭の毛も、ひげも、まゆも、ことごとくそらなければならない。

彼はその衣服を洗い、水に身をすすいで清くなるであろう。

八日目にその人は雄の小羊の全きもの二頭と、一歳の雌の小羊の全きもの一頭とを取り、また麦粉十分の三エパに油を混ぜた素祭と、油一ログとを取らなければならない。

 

清めをなす祭司は、清められる人とこれらの物とを、会見の幕屋の入口で主の前に置き、
祭司は、かの雄の小羊一頭を取って、これを一ログの油と共に愆祭としてささげ、またこれを主の前に揺り動かして揺祭としなければならない。

 

この雄の小羊は罪祭および燔祭をほふる場所、すなわち聖なる所で、これをほふらなければならない。

愆祭は罪祭と同じく、祭司に帰するものであって、いと聖なる物である。

 

そして祭司はその愆祭の血を取り、これを清められる者の右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指とにつけなければならない。

祭司はまた一ログの油を取って、これを自分の左の手のひらに注ぎ、
そして祭司は右の指を左の手のひらにある油に浸し、その指をもって、その油を七たび主の前に注がなければならない。

 

祭司は手のひらにある油の残りを、清められる者の右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指とに、さきにつけた愆祭の血の上につけなければならない。

 

そして祭司は手のひらになお残っている油を、清められる者の頭につけ、主の前で、その人のためにあがないをしなければならない。

 

以上ですが、

聖霊様が啓示してくれることは必ず、「み言葉の一致」があるし、それと同時に「聖霊の現われ」が伴います。

 

つまり、み言葉の一致とは、聖霊様が啓示したことは必ず聖書のみ言葉と一致します。

そして「聖霊の現われ」とは、聖霊様によって行われる癒しや奇跡のことです。

 

啓示と、み言葉の一致と聖霊の現われは一致しています。

矛盾がありません。

 

これを、いつも確認すれば安心です。

他のアンビリバボー体験のバックナンバーを確認してみるとそれが一目瞭然です。

聖霊様の啓示があり、聖霊の現われや、み言葉の一致が必ずあります。

これも、三位一体ですね。

 

癒しも、礼拝も、務めも、血の清めと、油の聖めが基本になります。

これは聖霊様から直接学んだことでした。

 

つまりこれは、旧約聖書で言う、祭司の務めになりますね。

実は新約の時代では誰でも祭司になれます。

万民祭司とも言います。

 

それについての聖書箇所を紹介します。

 

ペテロの第一の手紙2章9節

 

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。
それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。」

 

祭司の仕事は、祭司職と言い、主に礼拝に関わることをします。

らい病人を清めるのも祭司の役目ですね。

イエス様が10人のらい病人を清めてあげたときに、「その体を祭司に見せなさい」と言いました。

らい病人は病気ですが、普通の病気とは分けられています。

なぜなら、罪と関わりがあるからです。

 

イエス様が、12使徒を遣わすときに言った言葉で分ります。

 

「病人を癒し、死人を生き返らせ、らい病人を清め、悪霊を追い出せ!」

「らい病人を癒せ」ではなくて、「らい病人を清め」とありますね。

 

ですから、12使徒の働き自体が祭司の仕事であったというわけです。

イエス様が教会の中に5役者を立てましたが、それらの人にはそれぞれ御霊の賜物が与えられています。

これは、その奉仕者や、癒しや恵みを受けた方や、一つの教会が癒され、祝福されるためのものではありません。

賜物が各自に与えられているのは、キリストのみからだの建て上げるためです。

 

コリント人への第一の手紙12章4節~11節

 

「霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。 務は種々あるが、主は同じである。

働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。
各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。

すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。

すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。」

 

ここで、「各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。」と書かれています。

全体の益の為とは、キリストのからだの建て上げのためと言う意味です。

 


更にこう書かれています。

 

コリント人への第一の手紙12:27~12:28

 

「あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。
そして、神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、次に力あるわざを行う者、次にいやしの賜物を持つ者、また補助者、管理者、種々の異言を語る者をおかれた。」

 

イエス様を信じた私たちが全体がキリストのからだであり、一人一人はその肢体、つまり機能器官だと言うわけです。

ですから、御霊の賜物を活用するのは全て個人的なことでもないし、一つの教会のためでもありません。

これは教会全体、キリストのみからだの建て上げの為です。

 

聖書に、「清くなければ神を見ることはできません。」と書かれています。

ですから、私たち個人はイエス様の血で毎日清め、聖霊の油で聖めなければなりません。
これが、日々の霊的な礼拝となります。

なぜなら自分のからだを日々神様に捧げているのですからね。

 

私たち自身が祭司です。
ですから、自分も他人も清めてあげましょう。

そうすることにより、キリストのからだが建て上げられて、成長して、キリストのかしらに達していきます。

 

からだが健康なら、かしらの指示が分るようになり、からだは健全に機能します。
つまり、からだの中に調和が生まれます。

教会と教会、信者と信者の間に和合と調和が見られます。

 

キリストのみからだが建て上げられると、人間的な思いや宗教的な要素は消えていきます。

からだの分裂や分派や病いや悩みも自然に消え去ります。

その基本になるのが、イエス様の血の清めと、聖霊様の油による聖めです。

 

どうか、イエス様を信じた皆さんは、日々の礼拝としてそれを毎日行って下さいね。

そうすることにより、キリストのみからだが建て上げられていきます。

イエス様をまだ信じ受け入れていない方は、ぜひイエス様を救い主としてお受け下さいね。

祈り方は、簡単です。

 

「イエス様、私の罪のために十字架にかかってくれてありがとうございます。私が罪人である事を認め、罪を告白します。そしてあなたを救い主として信じ受け入れます。イエス様の名前によりお祈りいたします。アーメン。」

 

バックナンバー「どうしても知って欲しい大切な情報」に更に、救いについて解説していますので、ぜひ確認してみて下さいね。

 

Keystoneより

 

 
証し(youtube
(※イエスを信じる人に神は現れます。)

癒し・奇跡
(※あなたが神の子の特権を行使すると全く同じことが起こります。)
天国と地獄
(※死後の世界が確実にある事を知って下さい。)
 
キリストの再臨
(※大艱難時代が目前なので、今すぐ神の国を目指して下さい。)
 
■賛美
 
■オンライン教会

No.21 娘達の聖霊体験( 1 / 1 )

僕には娘が二人いて、二人とも聖霊体験をしています。

長女は5歳のときに僕と二人きりで暮らしました。

それは、妻と別居していたからです。

 

しかし、そう言うこともすでに啓示をもらっていました。
これはいつかお話したいと思います。

 

長女だけ、連れて一緒に仕事に出ているときに、僕の母親に預けていた次女を、妻にだまって連れて行かれました。

僕は、それが、あまりにも悲しくて、1週間1日中涙が止まりませんでした。
仕事をしていても、誰かと話しをしていても、涙が全然止まりませんでした。

 

僕はあまりにも悲しいので、親友に連れられて彼の教会に行きました。

そこでは、ちょうど笑いの集会が行われていました。

それは、聖霊の働きでみんなが笑い出すと言う現象でした。

その笑いの霊を受けると、心にある傷の癒しを受けます。

 

しかし、みんなが笑いまくっている中で、僕だけは涙が止まりませんでした。

かなり、浮いていました。
それほど僕の悲しみは深かったからです。

 

ちなみに教会の牧師先生は、僕が高校の時の日曜学校の先生でした。

僕が余りに、涙が止まらず悲しいのを見て、先生も笑うのもやめてしまいました。

そして、祈ってもらいました。

 

僕もイエス様に祈りました。

「イエス様、僕はあまりにも悲しすぎて涙が止まりません。
心が痛くて、苦しくてどうしようもないです。どうか僕を癒して下さい。」

祈りというよりも、自分の苦悩を必死に訴えました。

 

すると、聖霊様が答えました。

「あなたは自分の悲しみよりも、あなたの妻が私から離れ去ったことを悲しみなさい。
そして彼女を許し、愛しなさい。」

 

僕は、そう言われて、自分のことばかりで悲しんでいたことに気がつきました。
そしてそれを悔い改めして、聖霊様に言いました。

 

「聖霊様、分りました。僕は自分の事だけを考えていて、自分のことだけを悲しんでいて、彼女のことを全く考えてもいませんでした。どうかこのことを許して下さい。それと、あなたが教会を愛するように、僕も彼女を許し、愛します。」

そして、それを言ったと同時に、幻が見えました。

 

突然、イエス様の腕が出てきて、その手が僕の体の中に入っていき、僕の胸の辺りにある根深い悲しみや痛みの塊を根こそぎ、引き抜いてくれました。

そうすると、その瞬間、1週間も心が痛くて悲しんでいたのに、それがまったく消えてしまいました。

それで僕は、完全なる心の癒しを体験しました。

 

その時から涙も止まり、心の痛みも消えて平安になり、自分のことよりも妻の事を祈れるようになりました。
そして妻と次女のために、毎日長女と一緒に涙を流しながら祈りました。

ある時、礼拝で聖餐式を受けている時に、僕は聖霊様に示されて、長女に聖餐式についての説明をしました。

ちょうど、電話口の壁にレオナルド・ダヴィンチの「最後の晩餐」の絵が飾ってあったので、聖餐式の途中で、彼女をそこに連れて行き、聖餐式のことを説明しました。

 

「これはね、イエス様が十字架にかかるまえに、弟子たちと一緒に食事をしたときの絵だよ。イエス様は自分が十字架で死ぬことが分っていて、それを記念にして、パンとぶどう酒を与えたのだけど、これはね、パンはイエス様のからだを意味していて、ぶどう酒はイエス様が十字架で流した血のことを言っているんだよ。だから、それを食べて飲むことによって、自分もイエス様のように十字架にかかって死んでもいいほどイエス様を愛して信じて従いますというための聖餐式だよ。」

僕は、小学1年生の娘に分りやすいように説明しました。

 

娘は僕の説明を聞いて言いました。

「お父さん。私もイエス様の為に死んでもいいから、聖餐式を受けたい。
どうしたら子供でも受けられるの?」と、涙を浮かべて言いました。

 

僕はこの言葉を聞いて驚きました。

彼女は、イエス様の為に命を捨ててもいいほどの信仰を持っているし、それほどにイエス様を愛しているのだということが分りました。

 

しかし、残念ながら教会では子供には聖餐式を授けていません。

それで僕は娘に言いました。

「わかったよ。でも、教会では大人しか受けられないから、夕方にでもお父さんと一緒に聖餐式をしようね」

そう言うと、娘は更に涙を浮かべて喜んでいました。

 

そして、その日の夕方、ぶどうジュースとクラッカーを買ってきて、車の中で聖餐式を行いました。

ちゃんと、み言葉も読んで本格的にそれを行いました。

 

コリント人への第一の手紙11章23節~:26節

 

わたしは、主から受けたことを、また、あなたがたに伝えたのである。
すなわち、主イエスは、渡される夜、パンをとり、
感謝してこれをさき、そして言われた、「これはあなたがたのための、わたしのからだである。わたしを記念するため、このように行いなさい」。

 

食事ののち、杯をも同じようにして言われた、「この杯は、わたしの血による新しい契約である。飲むたびに、わたしの記念として、このように行いなさい」。

だから、あなたがたは、このパンを食し、この杯を飲むごとに、それによって、主がこられる時に至るまで、主の死を告げ知らせるのである。

 

以上ですが、僕は娘と一緒に聖餐式を受けて、そして彼女の両手に僕の両手を添えて、感謝を捧げ、そして、娘の祝福を祈りました。

 

娘と聖餐式を受ける事が出来て、僕は心から主に感謝しました。

そして、お祈りが終わると娘が言いました。

「お父さん。あのね。お父さんが、私の手に両手を置いてお祈りしたときに、空から天使が飛んできて、お父さんの両手に天使が両手を置いて、一緒ににこにこしながら祈ってくれたよ。」

 

僕はこの証しを聞いて心からイエス様に感謝しました。

この時から娘は幻を見たり、聖霊様の声を聞いたり、啓示を受けたり、癒しが出来るようになりました。

それどころか、なんと、ミニストリーが出来るほどになりました。

 

僕の親友の母は、僕の娘のことを「女サムエル」と、呼んでいたほどです。

サムエルとは旧約聖書に出てくる、偉大な預言者のことですが、よくキリスト教の絵画に子供が祈ってるかわいい絵がありますよね?

あれが預言者サムエルの幼いころの姿です。

 

教会の先生からも娘は預言者だと言われました。

なぜなら、毎日書く日記がおもしろいからです。
まだ起こっていないことばかり、前もって日記に書くようになっていたのですから・・・
それを読むのがいつも楽しみでした。

そして娘が前もって書くことは全てその通りになりました。

 

聖霊様は、子供たちの信仰を祝福してくれています。

僕は、それから毎月、娘と聖餐式をするようになったし、自宅でお祈りも礼拝も一緒に捧げる様になりました。

そして、彼女の賜物が僕から分与されて預言も出来るし、聖霊様と会話も出来るし、幻も見るし、幻や夢の解き明かしも出来るし、とにかく、聖書もほとんど知らないのに、聖書の奥義さえも語りました。

それには、僕もびっくりです。

 

ある時、こう言う事がありました。

僕が教会の癒しの集会の前に、教会で数人で祈っていた時の事です。

聖霊様が僕に言いました。

 

「あなたは幼子を軽んじてはいけません。天国は幼子のものです。」

 

僕は、それを聞いて、「聖霊様、分りました。僕は、幼子を軽んじません。そして、その人格を尊敬して、一人の神の器として受け入れます。」と言いました。

僕がそれを心の中で告白したとたんに、娘がおもしろいことをし始めました。

 

講壇の前で、僕らが祈っていると、僕らの後ろに立って、手をかざし力を全身にこめて祈っていました。

これって、小学1年生が普通やらないですよね?

つまり、聖霊様からの啓示を受けて僕らのとりなしをしているわけです。

 

普通なら、「今、お祈りしているから、隣の部屋で絵でも描いていてね。」と言っていたと思いますが、その時には聖霊様から啓示があったので、彼女が導かれるままにさせました。

 

そして、娘が言いました。

「お父さん。神様の為にイスを用意したいけど、準備してもいい?イエス様からお願いされたから、イスを持ってきて並べたいから。」

僕は、「うん。いいよ。イエス様がお願いしているのなら、なんでもしてね。」

僕は、そう言いました。

そして、そばにいた姉妹たちも、それを眺めていました。

 

僕は、一体どうするのだろうかと、それを見守っていました。

そして、講壇の前にイスを並べ始めました。

一つ目を並べ、もうひとつも並べ、更にもうひとつを並べました。

僕は、少し不思議に思いました。

「どうしてイエス様のためにイスを3つも並べるのだろう・・・」

 

娘は、並べ終わると僕に言いました。

「お父さん、あのね。イエス様が教えてくれたことを言うね。
このイスは、イエス様のお父さんのイスで、このイスはイエス様のイスで、このイスは神様のイスだよ。」と、にこにこ顔で言いました。

 

僕はこの説明を聞いて驚き、そして感動しました。

なぜなら、聖書の神様は、父・子・聖霊の三位一体の神様であるからです。

もちろん、娘にこの真理が分る訳もないし、聖霊様のことも説明したことなんかありませんでした。

聖霊様の事をどう呼んで言いか分らないので、「イエス様のお父さんと、イエス様と、神様」と、表現していたのでした。

 

そしてこれだけではありません。

娘が更にいました。

 

「お父さん。イエス様が言っていることで、私が言っていることじゃないから、今から言うことを怒らないで信じてね。」

 

それを聞いて僕は言いました。

「お父さんが、怒るわけないよ。大丈夫だからイエス様が言ったことを、ちゃんと聞くから教えてくれる?」

すると娘が言いました。

 

「あのね。教会が終わったら、いつも行ってる海に行きなさいって・・・。これは私が行きたいから言ってるんじゃないよ。イエス様が言ってるんだよ。」

 

僕は、笑いながら、「うんうん。大丈夫。分ってるよ。だから何でもそのまま話してね。」

 

そうすると、娘が言いました。

「海に行ったら、お父さんは7回海に入ったり出たりしなさいって、イエス様が言ってるよ。そしたらね。お父さんの足の病気が治るからそれを言いなさいと言われた。」

 

僕は、この言葉を聞いてほんとに驚いて感動してしましました。

なぜなら、その頃僕は、原因不明の足の皮膚病で数ヶ月も苦しんでいたからです。

しかも、皮膚病を海に7回も出入りして治すと言うのは、聖書に全く同じ事が書かれているからでした。

 


第二列王紀第5章1節~14節

 

スリヤ王の軍勢の長ナアマンはその主君に重んじられた有力な人であった。

主がかつて彼を用いてスリヤに勝利を得させられたからである。

彼は大勇士であったが、らい病をわずらっていた。

さきにスリヤびとが略奪隊を組んで出てきたとき、イスラエルの地からひとりの少女を捕えて行った。

 

彼女はナアマンの妻に仕えたが、
その女主人にむかって、「ああ、御主人がサマリヤにいる預言者と共におられたらよかったでしょうに。彼はそのらい病をいやしたことでしょう」と言ったので、
ナアマンは行って、その主君に、「イスラエルの地からきた娘がこういう事を言いました」と告げると、
スリヤ王は言った、「それでは行きなさい。わたしはイスラエルの王に手紙を書きましょう」。

そこで彼は銀十タラントと、金六千シケルと、晴れ着十着を携えて行った。

 

彼がイスラエルの王に持って行った手紙には、「この手紙があなたにとどいたならば、わたしの家来ナアマンを、あなたにつかわしたことと御承知ください。あなたに彼のらい病をいやしていただくためです」とあった。

 

イスラエルの王はその手紙を読んだ時、衣を裂いて言った、「わたしは殺したり、生かしたりすることのできる神であろうか。どうしてこの人は、らい病人をわたしにつかわして、それをいやせと言うのか。
あなたがたは、彼がわたしに争いをしかけているのを知って警戒するがよい」。

 

神の人エリシャは、イスラエルの王がその衣を裂いたことを聞き、王に人をつかわして言った、「どうしてあなたは衣を裂いたのですか。彼をわたしのもとにこさせなさい。

 

そうすれば彼はイスラエルに預言者のあることを知るようになるでしょう」。

そこでナアマンは馬と車とを従えてきて、エリシャの家の入口に立った。

 

するとエリシャは彼に使者をつかわして言った、「あなたはヨルダンへ行って七たび身を洗いなさい。そうすれば、あなたの肉はもとにかえって清くなるでしょう」。

 

しかしナアマンは怒って去り、そして言った、「わたしは、彼がきっとわたしのもとに出てきて立ち、その神、主の名を呼んで、その箇所の上に手を動かして、らい病をいやすのだろうと思った。

 

ダマスコの川アバナとパルパルはイスラエルのすべての川水にまさるではないか。わたしはこれらの川に身を洗って清まることができないのであろうか」。こうして彼は身をめぐらし、怒って去った。

 

その時、しもべたちは彼に近よって言った、「わが父よ、預言者があなたに、何か大きな事をせよと命じても、あなたはそれをなさらなかったでしょうか。まして彼はあなたに『身を洗って清くなれ』と言うだけではありませんか」。

 

そこでナアマンは下って行って、神の人の言葉のように七たびヨルダンに身を浸すと、その肉がもとにかえって幼な子の肉のようになり、清くなった。

 

以上ですが、聖書に書いてある、そのままのことを娘は聖霊様から受けて、それを僕に伝えてくれたのでした。

そして言われた通りに信仰を持って、海に7回浸りました。
7回目に足を見てみると、すでに癒しが始まっていて数日で完治してしまいました。

どんなに薬を塗っても全然癒されなかったのに、聖霊様の啓示によって娘の言葉で僕はそれに従い完全なる癒しを受けました。

 

更に、このことは僕の内側の高ぶりを完全に打ち砕き、それからは更に娘の人格を尊重するようになりました。

親子と言うより、信仰の友と言う感じになりました。

ほんとに、聖霊様は素晴らしいですね。

その後も更に、娘の信仰も賜物も聖霊様が育てて祝福してくれました。

 

ある時、僕がテーブルの前に座り、聖書を読んでいると、目の前にいる娘が言いました。

「お父さん。もう少しだけ右によってくれる?」

僕は何だろうと思いながらも、言われたとおりに右側によりました。

「もうちょっと、右によって、そうそうそこでちょうどいいよ。」

僕は娘の言う通りにしましたが、意味が分らなかったので質問しました。

「何で?それがどうかしたの?」

すると娘が笑いながら答えました。

 

「お父さんの隣にイエス様が座っていたから、一緒にくっついて聖書を読んで欲しかった。」

僕はこれを聞いて感動しました。

「ああ、娘はほんとに素晴らしいな。
清くなければ神を見ることは出来ないし、清い子供だからこそ神様が見えるんだ。」

 

そう思って、更に僕が聖書を読むときでも、いつでもイエス様が隣にいてくれていることも分りました。

考えてみたらそれは当然です。
なぜなら、僕が聖書を読むと聖霊様が必ず話しかけてきてくれたのですから。

こんな感じで毎日が奇蹟の連続でした。

 

それと、週末だけの約束で、娘を妻のところにお泊りさせていましたが、ある時に起きたことです。

妻が僕に、いつものように暴言を吐き、言葉で責め続けていました。

僕は、黙ってそれを聞いていました。

そして、しばらくして彼女は突然家に戻っていきました。
すると、娘が言いました。

 

「お父さん。あのね。お母さんが、お父さんに怒って文句を言っている時に、お母さんの胸のところから小さくて黒い天使が出てきて、お父さんに向かって、ボクシングみたいにパンチを出しながら、もっとやれやれ!って言っていたよ。だから、私はイエス様に助けて下さいってお祈りしていたんだよ。そしたらお母さんは黙ってお家に帰ってくれた。」

 

僕は、その言葉を聞いて娘の霊的成長に心から感謝をしました。

普通なら小学1年の子供が、両親のそんな姿を見たら、傷ついて悲しいだけの話なのに、それどころか娘は、僕ら両親のことを祈りで支えて、一人で悪霊と戦っていたのでした。
ほんとに素晴らしい祈りの戦士ですね。

 

僕はその時に、「幼子を軽んじてはいけません!」と言う意味がほんとによく分りました。

考えてみたら、まだ一緒に家族で住んでいるときにも、土曜学校と言う子供集会を僕が開いていたのですが、その子供たちは娘がリーダーになって賛美や踊りを指揮していました。

そして、娘に油注ぎがありました。

なぜなら、子供たちの賛美が半端なく凄いからです。

どう言う事かと言うと、子供たちが賛美をすると天が突き抜けるからです。

そこには油注ぎがあります。

 

それで、あるとき僕は、日曜学校の教師に言いました。

 

「日曜学校の子供たちは何であんなに元気が無いの?僕らの家の土曜学校は賛美をすると、天が開き、子供たちは教会の子供たちよりも輝いて力もあるし、元気いっぱい。もしよければ、僕に1ヶ月だけ時間を下さい。子供たちにそういう賛美を教えてあげたいのですけど、いいですか?」

 

そうすると、先生は喜んで僕らに任せてくれました。

それから1ヶ月4回ほどでしたが、日曜学校の時間に、僕と娘達が賛美をリードして子供たちに僕らが家で行っていることを教えました。

そして、1ヵ月後に礼拝でそれを披露する事になりました。

突然のサプライズで僕と娘達が前に出て、他の子供たちを前に出して賛美をしました。

するとどうでしょう。

 

みんなは感動して大喜び、更にその瞬間、日曜学校の教師に油注ぎがあり、突然大きな声で異言を語り始めました。

彼が、教会で異言を語るのを初めて見ました。
更にその油注ぎがほかの兄弟姉妹にも注がれていきました。

 

あまりにも素晴らしいので、その日の夕拝にも子供たちの賛美を披露させてもらいました。
そうすると、更に教会全体に油が注がれました。

このように、娘や子供たちの油注ぎのパワーは素晴らしいです。

皆さんも、ぜひ幼子を受け入れて下さいね。

 

それからあるとき、僕はなんとなく旧約聖書のような祭壇で礼拝をしたいと思い、簡単ですがまねごとのようにして、お香に火をつけてイエス様を礼拝してみました。

すると娘も僕のそばで黙って礼拝をしました。

礼拝が終わり、娘を見てみると目を丸くしていました。

「どうしたの?」と聞いたら娘が言いました。

「お父さんがお祈りしたら、お父さんの背中から大きな火が出てきて、それが天井まで焼けるくらいに燃えていたよ。」

僕はそれを聞いて驚きました。

 

この礼拝を神様は受け入れているのだと知りました。
それと、娘が毎日でも幻と同時に、その解き証しをもらえるので、それも楽しみでした。

 

あるとき僕は、娘に質問をしました。

「お母さんとお父さんはいつごろ仲直りできるかイエス様に聞いてくれる?」

そしたら娘は目を閉じて聖霊様と話をしていました。

そしてすぐに言いました。

「お父さん。あのね。お父さんが羊をたくさん養ったら、お母さんとなかよくなれるってイエス様が言ってるよ。」

 

小学1年生の娘が羊を養うと言う、霊的な意味を分るはずもないので、僕は驚きましたが、聖霊様に感謝しました。

羊を養うとは、実はイエス様を信じた人々を養いなさいと言う意味です。

またある時、僕が祈っていると幻を見ました。

 

それは、祈っている僕の後ろで大きなカマを持っている天使がいました。

そして、麦のような草のようなものを僕の後ろで刈り取っていました。

それを見て僕は思いました。

 

「これは、僕の犯してきた罪の行いの結果を刈り取りしているんだ。」

そして、聖霊様にお祈りしました。

 

「聖霊様、僕の過去の罪の結果の刈り取りがあるのならどうぞ、それを一気に刈り取って下さい。僕はそれを全て受け入れます。」

 

僕はそれを真剣に祈り求めました。

すると、聖霊様が言いました。

 

「それなら、それらを一気に刈り取ります。あなたはそのために娘を手放しなさい。」

 

僕はこの言葉を聞いて衝撃を受けました。

なぜなら、次女も奪われた上に長女まで手放すことになるからです。

しかし、その時に後ろにいた天使が全ての刈り取りを一気に終えていました。

刈り取る音が「バサッ」と聞こえました。

 

僕は、もうそれを受け入れるしかない事が分りました。

そして聖霊様に言いました。

 

「聖霊様、分りました。その通りにします。その代わり、娘たちをどうぞ僕の代わりに守っていて下さい。」

 

僕は心がとても痛くて大変でしたが、娘が学校から帰ると、「お父さんと一緒にドライブして公園でお弁当を食べようね。」と言って、最後の日を迎えることにしました。

そして、食事を終えて公園のベンチに座り、娘に言いました。

 

「今から、お父さんが大事なお話をするから聞いてね。今日、お父さんがお祈りをしていたら、イエス様が娘をお母さんのところに行かせなさいって言われたよ。」

僕が、そのことを言うと、娘は泣きながら言いました。

 

「お父さんのそばから絶対に離れたくない。お父さんのほうがいいよ。お父さんは何も悪くないのに、何でお父さんはひとりぼっちになるの?」

そして僕は言いました。

「お父さんも、悲しいけど、男だし強いから大丈夫だよ。でも、心配ならイエス様に何でお母さんのところに行かないといけないのか自分で聞いてごらん。」

 

僕がそう言うと、娘は目を閉じて静かに祈り始めました。

そしてしばらくして娘が言いました。

「お父さん。あのね。イエス様が明日からお母さんのところに行きなさいって。そしてお母さんと妹のために毎日祈りなさいって言われたよ。だから悲しいけど私がお母さんと妹を明日から守るね。」

 

僕はその言葉を聞いて、娘と抱き合い、涙を流しながら精一杯褒めてあげました。

娘はほんとにお父さん思いです。

 

彼女が3歳位の時でした。

僕は、お正月に一人で家のペンキ塗りをしていました。

せっかくの正月なので、家族で近くの動物園に行く約束をしていました。

妻と娘は、正月と言うことで実家に戻っていましたが、僕は約束の日時にペンキ塗りを終える為に、ほとんで眠らないで2日も作業をしていました。

 

しかし、約束の日時が来ても連絡もないし、返事もありません。

僕は肉体的にも精神的にも疲れがピークに達していました。


そして約束の日の暗くなる頃に、妻と娘が戻ってきました。

「何で、連絡も取れないし、こんなに遅く帰ってきたの?
こんなに、遅くなったらもう動物園は閉まっているからもう行けないよ!」

 

僕が、そう言うと、妻が言いました。

「ああ、それなら大丈夫。動物園には家族と行って来たよ。」

僕は、この言葉を聞いて怒りが込み上げて、妻の背中に飛び蹴りをした・・・と言うか、ペンキで両手が汚れていたので、足で背中を押して倒しました。

 

そしたら、それを見た娘が走ってきて、倒れた妻の背中を何度も足で蹴っていました。

僕は、それをみて怒りが治まり、それ以上は何も言いませんでした。

 

なぜ娘がそう言うことをしたのかと言うと、それには大きな理由があります。

実は、毎日妻の暴力を僕は受けていたからです。

気に食わない事があると、娘の目の前で殴る蹴るはもちろん、しまいにはヌンチャクで僕を叩きまくります。

娘はそれを見ていつも僕をかばい、妻を押しのけていましたが、妻は娘を払いのけて倒れさせました。

そして、部屋の鍵を閉めて娘が見れないようにして、僕をヌンチャクで気が済むまで叩き続けました。

娘は部屋の外でドアを叩きながら、「お父さんをいじめないで、お父さんを叩かないで」と、何度も大声で叫んでいましたが、妻にはそんな声なんか全然届きませんでした。

 

そう言う僕が、初めて反撃をしたので、それを見て長女は、倒れた妻の背中を何度も蹴り続けていました。

その娘の姿を見て僕は、怒りが消えたので、娘に言いました。

「もうお父さんは怒っていないから、お母さんを蹴らなくてもいいよ。お父さんを助けてくれてありがとう。ほんとにいい子だね。」

 

普通なら叱るべきかも知れませんが、僕は娘の愛情に癒されました。

しかし、それを見た妻はショックを受けて無言で部屋に入りました。

 

そう言う愛しい娘達を妻に預けたのですから、僕はかなり悲しい思いをしました。

ほんとに父親思いの優しい娘達でした。

僕が、長女を妻に完全に預けると、毎週二人を僕が預かり、週末だけは寝泊り出来るようになりました。

 

しかし、それからしばらくして、妻に呼び出され、待ち合わせをしました。

そうすると、彼女の兄弟たちが全員夫婦ごとに集まっていました。

 

そして数時間、僕を罵倒し続け、離婚を迫りました。
そして、それを条件に、これからも娘たちと毎週会わせるとからと言う約束をしてもらいました。

僕は次の日に仕方なく離婚届にサインをしましたが、その時に妻の長男にお願いをしました。

「この、離婚の理由がもし、彼女の浮気とかなら僕は絶対に認められないので、その時は僕の味方をしてくれますか?」

僕が兄にそう言うと、「そこは責任を持つので、印鑑を押しなさい。」と言われたので、そうすることにしました。

 

それから、1週間ほどたった日のことです。

たまたま夜遅くに娘たちと、妻の家の前を通りかけました。
そしたら、お風呂の明かりがついていたので、それを娘たちと眺めていました。
そして、夜遅くでしたが彼女は車に乗って、ある場所に向かいました。

 

娘たちも、「お母さんはこんな夜遅くからお化粧してどこに行くのかな?」と不思議がっていたので、後を着いていきました。

そうすると、ある民家に入っていきました。

僕は、すぐに彼女に電話をしました。

娘たちには静かにするように言いました。

「実は家の近くに来ていて、どうしても子供たちがお母さんの顔を見たいというのだけど、数分でいいから出てきてもらえないかな?」

 

僕が、そう言うと彼女が言いました。

「ごめんなさい。実は今、頭痛がひどくて家で寝込んでいて、起き上がれないので、今日は無理だと子供たちに言ってくれない?」

この会話を子供たちも聞いていたので、僕は彼女にいました。

「実は、申し訳ないのだけれど、さっき、そちらの家の前を通りかかったら、車で出かけるのを子供たちと目撃して、そのまま着いて行ったら、誰かの家の前で車を止めたよね?子供たちもそれを見ているし、今もそばでこの会話を聞いているよ。だから、近くのファーストフードの駐車場に来てくれないかな?」

 

僕がそう言うと、彼女は納得してしてその場所に来ました。

 

次女は、彼女を見て泣きました。
長女は、涙をこらえていました。

 

僕は、何も言わずに、目の前で彼女の兄に電話をしました。
そして、その内容を話しました。

しかし、兄は全くめんどくさい態度で僕の話を無視しました。

 

それで、僕は「やはりこう言う事だったんだね。子供たちに対してどう説明するの?」

次女が泣き止まないので、僕は母親の車に黙って乗せてあげました。
そして、長女に向かって言いました。

「お母さんの家に泊まる?」

 

長女は首を横に振りながら、「お父さんと一緒に眠って明日教会に行きたい。」と言いました。

無言で僕らは手を振っていましたが、妻は、泣きながら長女に手を振っていました。

そして、次女を抱きしめ家に戻ってくれました。

僕は、彼女が家に戻るのを長女と確認して、一緒にイエス様に彼女の為に悔い改めをして祈り、その日は家に戻り休みました。

 


次の日は教会だったので、次女を迎えに行きました。

 

僕は、次女を運転席のそばに座らせて心の中でこう祈りました。

「イエス様、僕は次女の事が心配です。どうか彼女が傷ついたりしないように守って下さい。」

 

僕が心の中でそう祈り終えると、突然、次女が僕の顔を見て言いました。

「お父さん。あのね。イエス様がね。大丈夫だから何も心配しないでって言ってるよ。イエス様が今すぐお父さんに教えてって言ってた。」

 

僕は、まだ4歳の次女の言葉を聞いて涙が止まりませんでした。
そして、心から感謝しました。

なぜなら、聖霊様はしっかり僕の祈りを聞いてくれているし、長女だけではなく、次女にも毎日リアルに話しかけてくれていることを知ったからです。

 

次女は更にいました。

「お父さん。イエス様の力がいつも肩に乗ってるから大丈夫だよ」

と言って、自分の肩を指差しました。

つまり、イエス様が肩にいるのが見えているわけですね。

 

ほんとに素晴らしいイエス様に栄光をお返しします。

更にある時、娘たちと一緒に教会の前を通り過ぎました。

そしてすぐ後に、次女が言いました。

「お父さん。さっき、教会の前を通った時に夢を見たよ。」

 

しかし、次女は実は起きていました。

僕はそれにピンと来ました。
それで、次女に聞きました。

「どんな夢を見たの?」

 

「あのね。教会のところから大きなイエス様が出てきて、悪魔のおしりを叩いてからね。そしてイエス様が、お母さんの邪魔をする悪魔はイエス様が、おしりをぺんぺんするからお母さんを教会に連れてきてねってイエス様が言っていた。」

 

僕は、それを聞いて聖霊様に感謝しました。

実は次女は夢ではなくて、幻を見てイエス様から直接啓示を受けたのでした。

 

そして僕は、次女に言いました。

「じゃあ、お母さんにそれをちゃんとお話して教会に連れて行ってね。」

そうすると、娘たちは喜んで「うん!」と返事をしてくれました。

幼子ってほんとに凄いですね。

素晴らしい信仰です。

大人も見習いたいほどだと思いました。

 

しかし、僕はそのあとからは一切子供たちと会わせてもらえないし、連絡さえ拒否されるようになってしまいました。

もう8年以上も娘達の顔も見ていないし、声も聞いた事がありません。
でも、イエス様の約束を信じて今は祈るしかありません。

 

素晴らしい娘達を育てて日々リアルに守って下さる聖霊様に感謝を捧げてイエス様の栄光を褒め称えます。

主イエス・キリストの名前により全てのことを感謝します。

アーメン

 

Keystoneより

 

 
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(※イエスを信じる人に神は現れます。)

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No.22 痛みを通して神の愛を知る( 1 / 1 )

この話は、最も封印していた部分のお話になります。
この内容を公開するのは、まるで心理学者フロイトが自分のプライベートな体験談を犠牲にして、精神医学のために赤裸々に公開したのと同じです。

(※この件に関して20年以上たって初めて知った不思議な事実があります。この章の最初から最後まで順番にお読み下さい。)

今回は、僕が壮絶な結婚生活を通して、学んだ神様の深くて激しい愛についてお話しします。
僕は、結婚前に9年ほどお付き合いした女性がいましたが、彼女の遊び癖に何年も悩んでいて、もうお別れしようと決断して、別れた翌日位に、偶然ですが、9年ぶりに幼馴染だったある女性と再会したのでした。

僕はその時、仕事中の仕入先で、彼女に突然名前を呼ばれて、そちらに向かって歩いて行きました。

そうすると、聖霊様から声がありました。

「彼女を助けなさい。」

僕は、「どういうことだろう?」と思いました。

しかし、「聖霊様がそういうのなら、何か大きな問題があるはずだ」と確信しました。

すると、彼女は僕に、「ひさしぶりだね。なつかしいから一緒にお酒でも飲みに行こう」と誘ってくれましたが、僕は彼女に答えました。

「僕は、お酒は飲まないし、単なるおしゃべりなら他の人といけばいいとは思うけど・・・でも、もし、コーヒーとか食事だけでもいいのなら明日ならOKだよ。」と答えました。

聖霊様から、「彼女を助けなさい。」と言われていたので、僕は彼女の誘いに乗ることにしました。

そして翌日、僕の車でドライブをすることになりました。

ある海辺のレストランで一緒にディナーをしましたが、その時に僕が言いました。

「今日君と会ったのは、デートとかが目的ではなくて、実は、神様から啓示があって、君を助けなさいと言われたからだよ。ばかみたいに思うかもしれないけれど、僕はクリスチャンなので、神様の声が聞こえるから、これは真剣な話だよ。それで一体どうしたの?そんなに深刻な問題があるのなら、何でも気軽に僕に話して欲しい。」

僕が最初にこのことを話すと、彼女は涙をぼろぼろ流して言いました。

「実は、毎日苦しくて誰にも相談出来なくて、いつも死ぬことばかり考えているの・・・」

彼女は、最初で僕が自分のことを打ち明けたので、信頼して全てを打ち明けてくれました。

彼女の悩みを簡潔に言うと、こう言う事でした。

彼女は実家の家業をしていて、仕事内容は、毎日夜中に起きて、大きなトラックに荷物を山積みして乗せて、それを店舗で販売すると言うことでした。

その中で問題なのが、彼女のお付き合いしている男性の件でした。
水商売をしているときに出会った男性で、元々は暴力団員。

しかし、お付き合いをしてからは彼女の運転手をしていました。

ところが、毎日仕事前にお酒を飲もので、運転もできない状態で、更に重たい荷物を彼女一人でトラックに載せていて、彼はそばで熟睡しているだけなので、体も心も疲れ果て、長年の無理がたたり、子宮内膜症で出血も止まらないし、どんなに苦しくても家族にも相談出来なくて、うつ状態になってしまいました。

また、そのための解決法がないのでいっそのこと死んでしまいたいと言う極限状態でした。

そして、更にこう言いました。

「あなたが、中学の時にもっと私に優しくしていてくれたら、人生はもっといいものに変わっていたかも知れない・・・」

僕は、この言葉を聞いて心が痛くなりました。

実は、彼女とは小学校からの同級生で、更に家も近所なので、よくみんなで遊んだりしていました。

そして彼女の初恋の相手は僕でした。
中学にあがると、そのことがうわさになり、みんなが僕を冷やかしました。
思春期の僕は、それが嫌でたまらずに、彼女を逆恨みして徹底的に無視して、影で悪口ばかりを言っていました。

しかも中学の3年間ずっとです。
廊下で会うと、僕は彼女を避けて反対方向にいつも歩いていました。

露骨にみんなが分るように、そう言うひどい態度を3年間も続けてしまいました。

ほんとは、彼女のことを嫌いではないのに、僕は赤面症なので、みんなが冷やかすのが耐え切れませんでした。

しかし、修学旅行のときに夜遅く、誰もいないときに船の中で彼女とばったり出くわしてしまいました

僕は二人きりだったので、どきどきしながらも声をかけました。
簡単なあいさつだけでしたが、ほんとは意地悪なことをして心が苦しかったので、そのときはお互い、にこやかに少しでも会話が出来たので、僕は嬉しかったのを覚えていますが、話をしたのはその時1度限りでした。

そう言う背景があっての再会でしたし、だからこそ僕は、彼女に対してすまないと思いました。

そして、それだけではありませんでした。

実は、夜のお仕事をしている時に、僕の職場の同僚が数名、彼女との結婚を目当てに毎晩のように会いに来ていたらしいのですが、僕をぜひお店に連れてきて欲しいと毎回お願いしたそうです。

しかし、僕は仕事が忙しくて全然来てくれないと言う事でした。
でも、僕はそんな話は一度も聞いたことがありませんでした。

その後、彼女はとても落ち込んだそうです。
そしてその頃に、この例の男性と出会って、寂しさを埋めるためにお付き合いしたと言うことでした。

僕はなお更、彼女に対して心が痛くなり、その場で今までのことを謝り、そのことを許してもらいました。

そうすると、彼女はとても癒されて満足していました。

しかし、現実的な問題は残されたままです。

そこで、僕は言いました。

「じゃあ、僕はこれから君の事を命がけで助けるので、心配しないでいいからもう、死にたいなんて考えないでね。」

彼女は、うなずいて涙を流して喜んでくれました。

そしてその後は、夜通しいろんなお話をして、夜が明ける前に彼女を帰してあげました。

それから結婚前提でちょうど1年お付き合いをして僕らは結婚しました。

実はその1年も波乱万丈でした。

それと、結婚前に彼女と話をしていると、何度も同じ幻を見ました。

それは、新約聖書の使徒行伝に出てくる、殉教者ステパノのシーンとよく似ていました。

ステパノは12使徒ではありませんが、使徒達の給仕役でした。
しかし、ステパノは恵みと力とに満ちて、民衆の中で、めざましい奇跡としるしとを行っていました。

更に、イエス様とまったく同じ経験をして殉教しています。
つまり、正しい神の言葉を述べて、更に癒しや奇跡や不思議を大胆に行い、イエス様と同じく不当な裁判にかけられて、それでも神の言葉を大胆に語り、石で撃ち殺されましたが、イエス様と同じで彼らの為にとりなしをしました。

では、彼が殉教するシーンだけ紹介します。

使徒行伝第7章54節~60節

人々はこれを聞いて、心の底から激しく怒り、ステパノにむかって、歯ぎしりをした。

しかし、彼は聖霊に満たされて、天を見つめていると、神の栄光が現れ、イエスが神の右に立っておられるのが見えた。

そこで、彼は「ああ、天が開けて、人の子が神の右に立っておいでになるのが見える」と言った。

人々は大声で叫びながら、耳をおおい、ステパノを目がけて、いっせいに殺到し、彼を市外に引き出して、石で打った。

これに立ち合った人たちは、自分の上着を脱いで、サウロという若者の足もとに置いた。

こうして、彼らがステパノに石を投げつけている間、ステパノは祈りつづけて言った、「主イエスよ、わたしの霊をお受け下さい」。

そして、ひざまずいて、大声で叫んだ、「主よ、どうぞ、この罪を彼らに負わせないで下さい」。こう言って、彼は眠りについた。

以上ですが、ステパノは僕がイエス様の弟子達の中で一番尊敬している人物でした。

そのステパノと同じシーンの幻を数回見ました。

僕が、彼女の家族にかこまれて罵倒され、石で撃ち殺されているシーンでした。
このリアルな映像が結婚の直前に何度もはっきり見えました。

そして、それが現実なものになりました。

不当な裁判を受け、迫害に遭い、挙句の果てに無残に殺されてしまったのと同じでした。

それに関連してのことなのですが、僕は仕事中にいつも一人の時間を持ち、祈っていました。

あるときの事ですが何と、僕が自分の意識しない言葉で勝手に祈りだしました。

簡単に言うとこう言う事です。

「イエス様、僕はこれから自分に降りかかる、多くの災難を感謝して受け入れます。」

僕は、この言葉が自分の口から出たときに、びっくりしました。

なぜなら、自分の結婚や将来についての祝福を祈っていたからです。

ですから、自分の口から勝手に全く正反対な言葉が出てきたので、驚いてしまいました。

ステパノと同じ内容の数回にわたる幻といい、結婚生活はかなりの苦難があることを覚悟していましたが、それでも僕は彼女を愛しぬこうと決めていました。

しかし、そんな僕の思いを簡単に完全に打ち砕くことが起こりました。

ある時、僕が一人でコーヒーを飲んでいた時の事です。
突然聖霊様が言いました。

「あなたは預言者ホセアの体験をしなさい」

実は、僕は偶然ですが、ホセア書だけはなぜか読んだことがありませんでした。
あんなに聖書を読んでいるのに自分でも不思議です。

教会に行って7年も経つのに、なぜだか、そこだけは読まないで、その日までいたのでした。

僕は、一体どういう体験なのだろうかと思いながら、かなり期待をして聖書を開けてみました。

なぜなら、預言者の体験なので、神様の栄光が現れる特別な素晴らしい働きだと知っていたからです

しかし、僕は最初の数行を読んだだけで、一気に血の気が引き、失意と絶望のどん底に突き落とされてしまいました。

ホセア書第1章1節~11節

ユダヤの王ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの世、イスラエルの王ヨアシの子ヤラベアムの世に、ベエリの子ホセアに臨んだ主の言葉。

主が最初ホセアによって語られた時、主はホセアに言われた、「行って、淫行の妻と、淫行によって生れた子らを受けいれよ。この国は主にそむいて、はなはだしい淫行をなしているからである」。

そこで彼は行ってデブライムの娘ゴメルをめとった。彼女はみごもって男の子を産んだ。

主はまた彼に言われた、「あなたはその子の名をエズレルと名づけよ。しばらくしてわたしはエズレルの血のためにエヒウの家を罰し、イスラエルの家の国を滅ぼすからである。

その日、わたしはエズレルの谷でイスラエルの弓を折る」と。

ゴメルはまたみごもって女の子を産んだ。主はホセアに言われた、「あなたはその名をロルハマと名づけよ。わたしはもはやイスラエルの家をあわれまず、決してこれをゆるさないからである。

しかし、わたしはユダの家をあわれみ、その神、主によってこれを救う。わたしは弓、つるぎ、戦争、馬および騎兵によって救うのではない」と。

ゴメルはロルハマを乳離れさせたとき、またみごもって男の子を産んだ。

主は言われた、「その子の名をロアンミと名づけよ。あなたがたは、わたしの民ではなく、わたしは、あなたがたの神ではないからである」。

しかしイスラエルの人々の数は海の砂のように量ることも、数えることもできないほどになって、さきに彼らが「あなたがたは、わたしの民ではない」と言われたその所で、「あなたがたは生ける神の子である」と言われるようになる。

そしてユダの人々とイスラエルの人々は共に集まり、ひとりの長を立てて、その地からのぼって来る。エズレルの日は大いなるものとなる。

以上ですが、僕はこのホセア書を数行読んで、泣きながらイエス様にお願いをしました。

「イエス様、どうかお願いします。僕には無理な体験です。僕は死ねと言われれば、それさえ受け入れますが、この体験だけは止めて下さい。絶対に無理です。どうか助けてください。」

しかし、イエス様は何も答えてくれませんでした。

僕は、仕方がないのでホセア書全体を一気に読みました。

そして、結果的に神様の深い愛を知ることが出来ました。
ホセアの体験が無ければ、人間が神様の愛の深みや激しさを知ることは、不可能だと言うことがよく理解できました。

そして、その神様の深くて激しい愛を知るために、僕はそのことを受け入れるしかありませんでした。

そして僕は静かに祈りました。

「ただただ、あなたのみこころが行われますように・・・あなたの深くて激しい愛を知ることが出来ますように・・そしてイエス様だけが栄光を受けますように・・・イエス様の名前によりお祈りします。アーメン。」

僕はそれ以上の祈りの言葉が出ませんでした。

僕は、結婚前にこの啓示を受けましたが、それを受け入れました。

その後、僕は結婚をするにあたり、彼女に条件を付けました。

「もし、この条件を守れないのなら、結婚は到底無理なので、必ず守るように」とお願いしました。

それは、「今は仕事はしない」と言う事と、「今は家族との縁を切る」と言う事と、「教会には毎週行く」と言う事です。

そして僕は、彼女に対して最低でも体を1年以上は休めて、体も治して丈夫な赤ちゃんをちゃんと産める体になる為に、仕事を今すぐ辞めてとお願いしましたが、誰も彼女の為に仕事を代わってくれる人はいませんでした。

職場の人間は皆、家族や兄弟であるにもかかわらず、誰も彼女の体の事には気を使わず、更に、酒を飲んで遊んでばかりいる元カレの事で死にたいくらいに悩んでいる彼女の苦しさを誰一人、知ろうとはしませんでしたし、そればかりか、誰も元カレに文句を言う人もいませんでした。

又、彼女が仕事を辞めると、他の誰かが嫌な仕事を代わりにやらないといけなくなるので、その理由だけで僕はみんなに嫌われていました。

つまり、誰一人僕が彼女と付き合うのを喜んではいませんでした。

逆に、彼女の元彼が仕事を辞めたり、彼女と別れることなどが、会社や自分らにとっては不利益だと考えているくらいの、何とも言えない凄い家族でした。

仕方が無いのでしばらくは、僕がタダ働きでずっと彼女の仕事を手伝っていました。
そして、結婚前には仕事を辞めてもらいました。

しかし、妻は結婚後、たったの2週間で僕に一言も相談せずに勝手に仕事を始めてしまったのでした。

僕は、そのことについてかなりショックを受け、ほんとに裏切られたと言う気持ちでいっぱいでした。

あれだけ苦しんでも元カノよりも妻を選んで結婚したのに、簡単に僕との約束を破って家族を選んでしまったのでした。

妻は、「たった2週間だけお願いと言う事だったので、それならいいと思って引き受けた。」・・・と言う事でしたが、僕は家族を全く信用していませんでした。

しかし、それよりも妻が僕の事を全く無視して、結婚についての約束を破ってしまったと言う事が何よりも衝撃的でした。

結果的に僕の願いに反して、それからも妻は仕事をしていましたが、元彼と仕事をさせるのが嫌だったので僕が代わりに仕事を手伝いました。

僕自身も仕事を別にしていたし、更に妻の父親の会社の子会社も設立して事業を行っていたので、その中で夜中から朝までハードな肉体労働を手伝うと言うのは、まさに殺人的な仕事量でした。

あまりにも仕事が忙しいので、お互いに時間的なすれ違いが多く、結婚をしてからの2週間以外は一緒に食事も出来ず、一緒にお風呂も入れず、一緒に寝ることも出来ませんでした。

しかも、仕事を3つもこなしていたので、ほとんど妻の実家の会社で寝泊りをしている状態でした。

家に戻るのはお風呂に入る時くらいでしたが、その時でも妻はいつも家族と食事をしたり、遊びに行ったりして、僕と時間を共にする事は全くありませんでした。

更に、こんな状態でも仕事とは言え、妻は元彼と二人きりで車に乗って家に帰ってくることがありました

僕は何よりそれが耐え切れなくてずいぶん苦しみました。

「僕は、一体何のために妻と結婚したんだろう?二人が少しでも長い時間一緒にいたいから誰でも結婚するのではないのか?だとしたら自分の結婚生活は何て悲しい結婚生活なんだろう?」

いつも、そんな事を考えながら、毎日忙しい日々を過ごしていました。
こんな事が結婚してから3年も続きました。

ちょうど、そのころ僕の体はあまりの過労のために、極限状態にまで来ていました。

僕は、ほんとは早く二人とも健康になって、そのあとにかわいい赤ちゃんも欲しくてたまりませんでした。

それは、毎日その為に苦しくて惨めな思いをしていたからです。

例えば、妻の妹夫婦が出来ちゃった結婚をした時のお祝いの席で、家族や親戚に「何でお前たちは結婚して3年にもなるのに子供が出来ないんだ?もし作りかたが分からないのだったら、妹夫婦に習ったらいいんじゃないのか!?」

と言われて、皆、大爆笑でしたが、僕はただ下をうつむいて涙を必死にこらえているだけでした。

そして、妻の実家で飼っている牛の去勢手術の手伝いをしている時にも、「お前も全く何の役にも立たないから、牛と一緒に去勢をしたほうがいいんじゃないのか?」と、親兄弟に言われ、みんなに腹を抱えて笑われてしまいました。

僕は、妻に最初で約束したとおりに、彼女が仕事を辞めて体調を整えてからしか子供を作ろうとは考えていなかったので、悔しいけれど将来の元気な赤ちゃんの為に、どんな屈辱にも耐えていました。

しかし、肝心の妻がどうしても仕事も辞めずに、僕よりも家族の方を大切にするので、いつまでも苦しく惨めな日が続きました。

それからしばらくたったある日、僕は原因不明の腹痛と共に高熱を出して苦しんでいました。

熱は40度近くにもなっていましたが、それでも妻が看病をしてくれるわけではありませんでした。

それどころか、「今日は年末だから家族と忘年会があるので、付き合いでもあるし行ってくるね。」・・・と、言われてしまいました。

僕は、高熱を出しながらも、さすがにその言葉にぶち切れてしまいました。

「何で自分の夫が死にそうな思いで苦しんでいるのに、又家族を選ぶの?しかも今日は年越しなのに自分はまたいつものように一人でいるしかないわけ?それなら自分は家の鍵を閉めるよ!それでもいいなら行けばいいよ!」・・・と、言いましたが、妻は「なるべく早く帰ってくるから・・・」と言って、僕を残して行ってしまいました。

僕は結婚して3年間もこんな事が続いていたので、もう何もかもが嫌になっていました。
そして、深夜零時を過ぎても妻が帰らなかったので、怒ってドアの内鍵をかけてしまいました。

それから、何時間かして妻は帰ってきましたが、僕は高熱のせいで声も出ないし、全く動く事も出来ませんでした。

ましてや自分の事を捨てていった妻の為に、もはや起き上がる気力もありませんでした。
僕はそのまま気を失うようにして寝てしまいましたが、翌日の午後に妻は帰ってきました。

そして、妻は帰ってくるなり、泣きながらこう言いました。「何でドアのロックをかけたの?何で何度開けてとお願いしても開けてくれなかったの?」

僕は、「何を泣いてるんだこいつは?」と思いながら、「何でって、そんなに行きたいのなら鍵をかけるからと最初で言ってあったし、その前にあまりにもきつくて声も出ないし、動く事も出来ない状態だったから仕方が無いよ。」と言いました。

そして、「泣きたいのはこっちのほうだよ」と心の中で怒っていました。

しかし、妻はそれでも泣き続けていたので僕は何かおかしいと思い、「どうしたの?何か悲しい事でもあったの?」と、聞きました。

そうすると、妻は泣きながら答えました。

「実は、あなたに鍵を閉められたから、仕方なく妹の家に泊めてもらいに行ったのだけど、朝になったら妹は出かけていて・・・そしたら妹の旦那が突然私に抱きかかってきて・・・そして、前からお前の事が好きだったとか言われて・・・・
それに、このことを内緒にしないと妹と別れてしまうから誰にも言わないようにと言われたの・・・」

僕は、妻の言葉を聞いて、とても怒りを感じ、すぐに妹夫婦の家に行こうとしました。

しかし、僕は妻の言葉で行くのを止めてしまいました。

「私のせいで妹が離婚をしたらかわいそうだから、絶対に行かないで!お願いだから何も無かった事にして!」

僕は、妻の口から全く想像もしなかった言葉を聞いてしまい、とても心が苦しいうえに無気力になり、激しい怒りも一瞬にして消え、僕の心はただのむなしさと、深い悲しみとに変ってしまいました。

しかし、この後更に、苦しくて悲しい出来事が突然の津波のように立て続けに起こるとは全く想像もしていませんでした。

その後も、殺人的なスケジュールの中で、仕事をこなしていましたが、それから2ヶ月たったある日に又、過労で2日ほど高熱を出してしまいました。

しかも、お腹の痛みが尋常ではありません。
僕は一人で病院へ行き、診察の前に妻に電話をしました。

「実は、ある遠くの病院の駐車場で今激しい腹痛と高熱で死にそうになっているのだけど、もし今まで通りの結婚生活を送るつもりなら、自分はこのまま死んでもそれでいいと思っている。だけどもし、君が僕の事を、家族よりも大切に思って、毎日ご飯も一緒に食べたり、普通の夫婦のように愛し合ってくれるんだったら、診察をうけて治してもらおうと考えているのだけど、君はどっちがいいの?」

僕がこのように真剣に尋ねると、

「ごめんなさい。自分が今まであなたに対して悪い事をしていたので、それは心から謝るし、これからは反省して、良い妻になるから、だから病院でちゃんと診て貰って、お願いだから死んでもいいとか言わないで・・・」

と、妻は泣きながら言いました。

「じゃあ、君が今すぐ来てくれるのなら、自分は診察を受けるから、どうか気を失わないうちに気をつけてこっちに来てね。」

僕は、そう言って高熱と激痛の中、妻をひたすら待っていました。
その後、妻がやって来たので一緒に病院へ入り診察を受けました。

その結果、緊急入院となりましたが、大きな総合病院であるにも関わらず、全く原因が分かりませんでした。

各専門の検査師や医者が体中を調べましたが、レントゲンを写しても僕の内臓は、影が出ていて全く内臓の状況が分からなかったそうです。

もっと言えば、内臓が全く写っていなかったので、「あなたは宇宙人なの?」と先生方に言われてしまいました。

1週間以上も40度近い高熱が続き、お腹の激痛もピークに達していたのですが、原因が分からない為に、薬の投与も無く、一切の治療行為も行われませんでした。

連日の高熱と、あまりの激痛の為に何度も気を失ってしまいましたが、僕のそんな姿を見るたびに妻は、心が締め付けられ、自責の念に駆られ、自宅に帰ってからいつも泣いていたそうです。

そんなある日の夜遅くに、このままでは危険だと言う事なので、緊急手術を行うと言う事になりました。

手術の説明の時に、執刀医の院長先生が僕に言いました。

「あなたは、このままだと確実に死ぬでしょう。でも、原因はまだ分かりませんが、手術を今すぐ行えば助かるかもしれません。しかし、無事成功出来たとしても、一生子供は作れないと思いますので、それは覚悟していて下さいね。それでは、手術の前にぜひ家族を呼んでいて下さい。」

僕は最初から、「もう死んでもいい」と思っていたので、それは仕方がないと、死を受け入れていましたが、このままでは心を入れ替えてくれた妻がかわいそうです。

それで僕は、妻に電話をしました。

「もしもし?実はこれから緊急手術に入るけど、もしかしたら手術しても死ぬかもしれないし、成功しても子供は作れないと言われた。それと、家族を呼べと言われたけど、僕は誰にも会いたくないし、君ひとりだけがいれば、自分はそれで十分なので、ここに来て欲しい。」

電話を切った後、僕は死を覚悟しました。

しかし、そのとき突然、聖霊様から、ある、み言葉を頂きました。

コリント人への第一の手紙第15章55節

「死は勝利にのまれてしまった。
死よ、おまえの勝利は、どこにあるのか。
死よ、おまえのとげは、どこにあるのか」。

何とこの聖書の言葉が目の前に浮かんでいました。

僕は、聖霊様に感謝して平安を得ました。

そして、しばらくして手術は行われましたが、部分麻酔だったので、その一部始終を僕は覚えています。

まずは麻酔を打って、お腹を切開しました。
そして、しばらくの沈黙の後、看護婦が一言。
「先生。これは一体なんですか?」
そして、医者の言葉。
「う~ん。これはちょっと分かりません。」

この医者の言葉を聞いて僕は「確実に今日で自分は死ぬな」と思いました。


それから数秒間、沈黙が続いた後、
「誰か、急いでカメラ、カメラを持ってきて下さい。」

医者がそう叫ぶと、突然手術室が慌しくなり、ドタバタと看護婦達が走り回っていました。


僕は、「もしかしたらお腹からエイリアンでも出てきたのかな?」と考えてしまいましたが、誰よりも落ち着いていたので、

「先生。落ち着いて下さい。僕は大丈夫ですが、一体何があったんですか?」と言いました。

そうすると、医者は言いました。
「医学的にとても珍しいので、学会に発表したいと思いますから、写真を撮ってもよろしいですか?」

僕は「何だそんな事か」と思い、「いいですよ。ではその代わりに、僕がVサインしているところも一緒に写して下さいね。」といった後、「これで僕は助かる!」と、なぜか確信していました。

何枚も写真撮影をしていましたが、その後、無事手術は成功しました。

しかし手術後は更に、地獄の苦しみが待っていました。
麻酔がすぐに切れて、更に痛み止めも睡眠薬も全く効果が無く、お腹の激痛の為に、1週間も眠れませんでした。

その痛みを表現すると、お腹の上にガソリンをかけて24時間燃やしているような感じの痛みでした。

それが連日続き、1時間以上も連続して眠る事が出来ませんでした。

究極の痛みと、睡眠不足で気が狂いそうでしたが、手術から10日ほどたったある日、久しぶりにぐっすり眠る事が出来ました。

起きた後、妻に電話でそのことを報告すると、泣きながら喜んでくれました。

僕は、とても狂しい体験をしましたが、妻の心を取り戻す事が出来たので、とても満足していました。

そして、地獄の永遠の火で焼かれ続ける苦しみとは、こういう事なのだと、体験して分りました。地獄は絶対に誰も行くべきところではないと理解できました。

そして、そんなある日、妻が病院で僕に言いました。

「実は、ずっと生理が無かったから、思い切って今日産婦人科に行ってみたら、妊娠2ヶ月と言われたんだけど・・・いつのまに妊娠したのかな?

僕は「本当?良かったね。」と、言いましたが、良く考えてみると、確かに妻の言うとおりだと思い「いつのまに妊娠したのかな?」と、僕も深く考え込んでしまいました。

なぜなら、仕事がハードすぎてほとんど自宅にも戻らず、一緒に寝ることもありませんでした。

でも、2ヶ月前には今回と同じように高熱を出して自宅で寝込んでいましたが、その時に妻は、妹の旦那に襲われてしまいました。

しかも、「その事は何も無かった事にして」と言う事だったので、僕はとても狂しいながらも今でも誰にも言わずに、その事で妻を責める事もありませんでした。

「・・・とすれば、一体この子は・・・。」
僕はあまりの受け入れがたい事実に、衝撃を受けてしまいました。

医者からは「例え手術が成功しても、子供は作れない」と言われました。
それならば、今回子供が出来た事は何よりも喜ぶべき事です。

しかし、お互いに何の覚えもないのなら、本来は最も嬉しい事が、最も受け入れがたい事実となります。

僕は、地獄のような肉体的苦しみの後、更にその痛み以上の精神的苦痛を味わう事になってしまいました。

「一体どうすればいいのだろう。」

僕は、ひとり悩んでしまいましたが、預言者ホセアのことを思い出しました。
そして、心の中で言いました。

「ああ、神様はこういう事を通して神様の深い激しい愛を僕に教えたいんだ。」

そして、その子を心から祝福し、生涯心から愛していこうと決心しました。

1ヶ月後には無事退院して自宅へ戻りましたが、まだ痛みがあったので、僕は仕事がほとんど出来ないような状態になっていました。

仕方がないので、肉体労働をしなくてもいいようなセールス業を選び、子供が生まれるまでに収入を稼げるようにしました。

子供に対しては、お腹にいる時から子守唄を歌ってあげたり、話しかけたり、音楽を聴かせてあげたりして、毎日コミュニケーションをとりました。

やがて子供が誕生し、妻の家族がお祝いにやってきました。
僕は、心の内側ではただ苦しいばかりでしたが、愛しい子供の為に我慢していました。

しかし、あまりにも妹夫婦のやり方が僕の人格を傷つける事ばかりなので、それからの娘の誕生日には一度も家にいる事はありませんでした。

娘の誕生日の日には、夜明けごろまで一人で海沿いをドライブし、ただただ悔しくて悲しくて泣いてばかりいました。

そんなある日、仕事場に僕の元カノの一番の親友が来ていました。

そして、僕に突然こう言いました。

「お願いだから彼女のところに戻ってあげて。彼女を見ていてあまりにもかわいそうだよ。いつもあなたのことばかり考えて泣いているし、あなたが彼女を愛していないなんて、絶対に考えられない。結婚したのも何か仕方のない理由があるからなのでしょ?ほんとは奥さんよりも彼女のことを愛しているんでしょ?どっちにしても今のあなたが幸せとは絶対に思えない。だから今からでも考え直して!」

僕は、彼女が言っている事は全く図星だし、元カノの事を考えると、とても心が痛みましたが、「もう、子供もいるし今更そんな事を言われても、悪いけど僕にはどうする事も出来ないよ。だから彼女にはごめんと言っておいて。」と言って、その親友を帰しました。

その後、娘も2歳になったので保育園に預ける事にしたのですが、そんなある日保育園で元カノの別の同級生に会いました。

そして僕は彼女から衝撃的な事を聞いてしまいました。

「久しぶりだね。実は、あなたの元カノの事で今噂があるのを知ってる?
あなたと別れてからは、かなり落ち込んでいたみたいだし、彼女をこの1年誰も見かけないし・・・彼女はきっと自殺したんだよと今、物凄い噂だよ。」

僕は、彼女からこの話を聞いて愕然としました。

「どうしよう、彼女が自殺したなんて・・・。
もしそうならそれは間違いなく自分のせいだ。
彼女だけには幸せになって欲しかったのに。」

僕は言葉では言い表せないほど心が痛み、胸が引き裂かれそうになりました。

あまりにも苦しくて仕事も手につかないので、妻に電話をして、元カノの事と同時に、自分の気持ちを打ち明けました。

そして、妻が彼女の自宅に電話をして、その事実を確認すると言う事になりました。
その結果、お母さんが電話を取り、「娘は今、出かけています。」と言う事で、彼女が生きていると言う事が分かりました。

それを聞いて僕はほんとに安心しました。
しかし、以前から彼女が毎日苦しんでいると言う事も、彼女の親友から聞いていたので、自殺をするとか、そんな噂が立つほどに苦しめていたのだと言う事が、更に分かり、毎日苦しくて仕方がありませんでした。

それからしばらくして、僕は妻との生活がいよいよ息苦しくなっていきました。

なぜなら、子供が生まれてしまうと、結局、僕との約束を忘れ、僕の事をないがしろにする生活となってしまったからです。

それに、いつも妹夫婦が家を出入りするので、それが一番苦しくて我慢が出来ませんでした。

その為に毎日仕事ばかりして、家に帰るのは夜中や明け方になっていました。

又、子供が生まれてからはいつも二人の間で寝かせていたし、時間も気持ちもいつもすれ違っていて、夫婦関係なんてありませんでした。

それに、いつも妻が、僕の仕事の邪魔をしたり、縛り付けたりするので、ほんとに何もかも嫌になっていきました。

しかし、ある日妻が意外なことを打ち明けてくれました。

「私が、あなたにわざと意地悪したり嫌な目に合わせたりするのは、あなたのことが嫌いだからじゃなくて、ほんとはもっと私のことを誰よりも心から愛して欲しいからなんだよ。それに毎日私の事を愛して欲しいし、いつでも私の事を大事にして欲しい。」

僕はこの言葉を聞いて、びっくりしたのと同時に「何だそんな理由だったのか」と言う事が分かり、妻の事が愛おしく思えるようになりました。

それから、二人は結婚した頃のように愛し合うことが出来ました。
そしてその頃愛し合った結果、二人目の娘が与えられました。

しかし、妻との愛を取り戻した瞬間から、逆に妹の旦那に対する怒りや、妹の全くプライバシーの無い態度に怒りを感じてしまい、家にいるのが以前よりも苦しくなりました。

更に、二人目の子供を身ごもってからは、姉妹のところに入りびたりで、食事も一緒に摂らないし、僕が食事を用意しても、いつも家族と外食に行ったりしていたので、僕は毎日一生懸命作った食事をゴミ箱に捨てていました。

僕は、朝早くから毎日夜中や明け方まで働いていましたが、自営業なので時間を自由に使うことは、ある程度可能でした。

しかし、家に帰ってもいつも誰もいないし、正月休みやお盆休みの時でも妻は、子供を連れて家族と休暇を過ごすので、僕は結婚をして子供がいても、まるでさびしい独身者のようでした。

又、それ以外にも妻のヒステリックや、暴力行為にはとても悩まされていました。
娘はそれをみていつもお父さんを助けようと一生懸命でしたが、いつも母親に突き飛ばされ、更に目の前で僕の事を棒やヌンチャクなどで叩きました。

妻は気に入らない事があるといつでも暴力や暴言を吐くようになっていきました。

それで僕は、あまりにも結婚生活に虚しさを感じてしまい、どこか遠いところで一人で暮らそうと考えました。

娘達と別れるのはとてもつらいことではありましたが、教育上悪いし、もう自分にとっては限界でした。

毎日娘を保育園に送った後は、ひとりでリゾートホテルや海辺へ行き、食事をしながらどうやって出て行こうかと計画を立てていました。

それで、とにかく県外に行こうと決めました。

自分は今の生活から離れて、県外で自分のやりたい事が出来ると思いました。

しかし、その後、この計画が妻にばれてしまったので、全ての計画がだめになってしまいました。

僕は半年以上も、家で監禁に近い状況を強いられ、子供の保育園の送迎以外は仕事も一切しないようにと言われてしまいました。

結果的に次女が生まれたすぐあとに、彼女は子供たちを残してどこかに出て行ってしまいました。

僕は、二人の子供を連れて自分の実家で暮らすようになりましたが、


いつのまにか自分の家の持ち物は、全て持ち去られ、僕の私物や子供たちのアルバムやおもちゃなどはその兄弟たちにより、全てごみに出されていました。

そして、その年のクリスマス・イブの日に妻が僕の実家に突然押しかけ、何の断りも無く次女を連れて行ってしまいました。

長女は一緒に連れ歩いてたので、大丈夫でしたが僕は1週間ほど次女の事を想って涙を流し続け、仕事も全く手につきませんでした。

僕は、突然自分の長女以外の全てのものを、失ってしまいました。

まるで、旧約聖書のヨブの体験のようでした。
僕はあまりに苦しくて、イエス様に言いました。

「イエス様、僕はあなたを自分の救い主として信じて来ましたが、あまりにも今の状態は残酷です。僕は救われているのですか?それとも呪われているのですか?もし、救われているのなら今すぐ、その証拠を見せて下さい!」

僕はあまりにも状況が受け入れきれなくて、今すぐ証拠を見せてくれと、無理なお願いをしました。

ところがすぐに、イエス様が言いました。

「私は2,000年前にあなたの為に十字架にかかり、死んで生き返りました。これがあなたに対する救いの証拠です。」

僕は、この言葉を聞いて、イエス様に悔い改めて感謝を捧げました。
これもイエス様の偉大な計画に違いないと分りました。

そして、それから3年ほどは長女と二人で暮らしていましたが、次女のことを考えるととてもかわいそうになってしまい、さらに娘を手放しなさいという啓示を頂いたので、長女を母親に預ける事にしました。

長女はお父さん子なので、「お父さんとは絶対に離れたくない」と言いましたが、「妹がかわいそうだし、お母さんも一緒に暮らしたいはずだから、お母さんたちと一緒に暮らしてね。」と言いました。

娘は、「でもお父さんがひとりぼっちでさびしくなるから嫌だよ。」と言いましたが、「お父さんは男だし、お母さんよりも強いから大丈夫だよ。それにいつか必ずお母さんと仲直りするからその時まで我慢して待っていてね。」と、約束をして妻に預けました。

しかし、実際はしばらくしてから強制的に離婚をされてしまいました。

一体、自分の人生や結婚は何だったのだろうと思ってしまいましたが、今では自分自身に相手を徹底的に愛しぬく力が無かった結果だと思っています。

それと、結婚前から、そう言う啓示も与えられていて、そのことも、最初から受け入れていました。
このことは、人間的には絶対に、理解不可能で、受け入れがたいことです。
しかし、僕は、ホセアの体験を通して、神様の深くて激しい愛を知りました。
究極の痛みを通してしか知ることの出来ない、神様の愛を体験しました。
これは、体験してみないと分らない愛です。
この、ゆるしの愛があれば、誰も人を憎まないし、離婚なんてありえません。僕は、誰にもこの体験を明かしていませんが、痛みを通して神様の愛を知る事が出来た事を感謝します。

全ての栄光が主イエス・キリストにありますように・・・
アーメン

追伸 1

妹の旦那に対しての事ですが、ある時、僕があまりにも苦しくて祈っていました。
すると、聖霊様は僕に幻を見せてくれました。

そこは世の終わりに開かれる裁判の席でした。

なんと僕は、イエス様のそばに座り裁きを行っていました。

するとそこに、例の婿兄弟の弟が出てきました。
そして彼に、裁きが宣告されました。

僕は、彼が絶望に浸っているのを見て、イエス様に言いました。

「イエス様、彼は僕の弟でした。彼は罪を悔いていますし、僕も彼を赦しています。なので、彼の罪を赦してあげてください。」

そうすると、イエス様は彼の罪を赦してくれました。

僕は、幻の中で彼を赦すことが出来ました。

自分の罪を赦されたからこそ僕も誰かの罪を赦すことが出来ます。
それから僕は心の痛みが消えて完全に彼を赦すことが出来ました。
偉大なイエス様に栄光をお返しします。
アーメン!
 
追伸 2
 
この記事を書いたのは、東日本大震災(2011/3/11)のあった翌年の夏のことですが、更にその4年後の2016年の1月ごろに、SNSで娘二人の写真を発見しました。
長女は僕の若いころによく似ていて、次女は母親の若いころにそっくりでした。
また、長女の他の写真を見てみると、僕の母の若いころにもよく似ていました。
実はそれらを見てとても驚きました。
なぜなら、自分と元妻の間で生まれた子ではないと信じていたからです。
夫婦とも、覚えがなかったし、その頃はほとんど職場で寝泊まりしていて夫婦関係もなかったからでした。
更に、婿兄弟との事件もあったし、ほんとに不思議ではありますが、神様の計画で行われたことですし、結婚前に預言者ホセアの体験をしなさいと言われていたので、とても苦しくて悲しい出来事ではありましたが、娘のことを生涯愛しています。もちろん、次女のことも生涯愛しています。
 
ところで、アブラハムは神様に生け贄としてイサクの命を捧げなさいと言われてその通りイサクの命を奪おうとしたときに神様がそれを止めました。
理由は、アブラハムが独り子でさえも神様に対して捧げることが出来るか信仰を試した結果、アブラハムの信仰心を認めたからです。
それで、実際にはイサクを殺さなくて済みました。
そして、その代わりに子羊を神様が用意してくれました。
アブラハムは、たとえイサクを殺しても、神様が生き返らせてくれると信じていました。
神様はアブラハムの信仰を義と認めました。
 
それと同じように、今回神様が特別な計らいで、僕らの正真正銘の娘として神様が与えてくれたと今は信じています。
自分の実の子だとわかりましたが、たとえ自分の実の娘でなかったとしても当然ながら生涯娘として愛しています。
 
Keystoneより
 
 
 
 
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