Keystoneのアンビリバボー体験談集

No.43 教会はキリストの花嫁( 1 / 1 )

※mixiの日記に、以前書いた内容です。
アンビリバボーを書くきっかけになったので、紹介しています。



「何故その姉妹が殺されなければならなかったのか? 」
そして「主は彼女を生き返らせて下さいましたが、どのような主の計画があるのでしょうか? 」

と言う事について検証していきたいと思います。

まず、2人の姉妹がおしゃべりをしていたのになぜか、その一人の姉妹だけがサタンの標的になってしまいました。

彼女のその当時の教会での主な働きは、教会の会計係兼先生(奥さん)の秘書的な働きでした。

それと、賛美をリードして女性では唯一の前に出ての働きを与えられている素晴らしい姉妹でした。

つまりその時の先生(奥さん)の右腕に当る姉妹でした。

僕もこの事件のすぐあとに教会を出る事にしましたので、牧師先生も右腕を失い、奥さんも右腕を失いと言う霊的立場になってしまいました。

しかもその姉妹の霊的賜物は素晴らしい物がありました。

ですから僕と彼女以外は、ミニストリーで賛美リードなどをさせては頂けませんでした。

今考えてみると、サタンの狙い定める標的は的確だと言うのが分かります。

そう言う訳で、働き手であり素晴らしい賜物を持っている姉妹を標的にしたと言う事だと思います。

ですからサタンは間違いなく用いられている働き人を追い詰め、破壊し、殺そうとしているのだと言う事が分かると思います。

そう言う訳で、働き人の為のとりなしがとても大切である訳です。

更にこの事件を通して霊的に学ぶ事が出来ました。

それは現代の教会の現状です。

例えば、彼女が教会を代表していると仮定します。

そして彼女は悪霊に憑かれていると言われ、按手を通して偽りの油注ぎを受けてしまいます。

そして、教会はサタンに支配され死人のようになり、やがて殺されると言う訳です。

悲しい事ではありますが、もしかしたらこれが多くの教会の現状なのかも知れません。

でも聖霊様はこのまま教会を見捨てるような事はしません。

なぜなら教会はキリストの花嫁であるからです。

その姉妹も聖霊様によって生き返る事が出来ました。

それはキリストの身代わりの十字架があったおかげでした。

主イエスが教会を愛し、自ら進んで命を与えてくれた事によって教会は例え死んでも生きるのだと思います。

十字架の消極的側面は罪の許しに対する義の為でした。

十字架の積極的側面は花嫁である教会に対しての愛のゆえでした。

ですから、その姉妹が生き返ることが出来たのも主の大いなる目的があったからだと思います。

ほんとに誰よりも素晴らしい姉妹だったのですから。

その姉妹は主の愛と憐れみを誰よりも体験した事でしょう。

なぜならサタンが命を奪いましたが、聖霊様の憐れみによって又生かされたのですから・・・。

このように主はこの姉妹を愛し、そして教会を愛しておられます。

この主の愛のゆえに私たちは敵と戦う事が出来ます。

偉大な主イエスに全ての栄光をお返し致します。

 

Keystoneより


※あなたが、イエスの愛と救いを受ける為にもぜひ以下の記事をお読み下さい。


★No.2 どうしても知って欲しい大切な情報

 

 
証し(youtube
(※イエスを信じる人に神は現れます。)

癒し・奇跡
(※あなたが神の子の特権を行使すると全く同じことが起こります。)
天国と地獄
(※死後の世界が確実にある事を知って下さい。)
 
キリストの再臨
(※大艱難時代が目前なので、今すぐ神の国を目指して下さい。)
 
■賛美
 
■オンライン教会

No.44 聖書に関する質疑応答( 1 / 1 )

※mixiの日記に、以前書いた内容です。
アンビリバボーを書くきっかけになったので、紹介しています。
 
 
今日はある方から聖書のみことばや教理に関して質問を頂きましたので、それにお答えしたいと思います。

かなり、鋭い質問でしたので、驚きましたが、聖霊様にヘルプして頂きました。

本文

Q.「古い自我とは罪の体のことですね。
自我(自分?)とは、悪魔が罪の種をまいてくる思いの領域ですよね。」

A.ここで言う自我と言う表現についてですが、これは魂の領域、つまり肉の思いの事を指していると思います。

Q.「自我(自分)を十字架につけよという聖書箇所はありましたでしょうか?」

A.そのようなみことばは無いと思います。ただし、ローマ人への手紙6:6に「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。」とは書いてあります。

Q.聖書には、古き体はイエスの十字架とともに付けられたとあります。

A.「古き体」では無いと思いますが、ローマ人への手紙6:6に「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。」とは書かれています。

Q.なぜ何度(日々)も自分を十字架につけなければならないのでしょうか。

A.古い人はキリストが対処したのでもう必要ないのですが、私たちの肉の思いを対処する必要はあると思います。

☆ローマ人への手紙8:13☆

「なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。」

Q.「聖書では古き体は死んだとあります。」

A. 「古き体は死んだ」と言うみことばは、もしかして「古き人」の間違いではありませんか?古き人ならばその通りすでに死にました。

ローマ人への手紙6:11には「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり」と書かれています。

Q.「だからもはや生きているのは古き私ではなくキリストのいのちですね。 」

A.はい。生きているのは古き人ではありません。

ローマ人への手紙6:11に「このように、あなたがた自身も、罪に対して死んだ者であり、キリスト・イエスにあって神に生きている者であることを、認むべきである」と書いてあります。

Q.「日々の十字架=霊的戦い」という根拠となる聖句をお教え下さい。

A.「日々の十字架について」

☆ルカによる福音書14:26~14:27☆

「だれでも、父、母、妻、子、兄弟、姉妹、さらに自分の命までも捨てて、わたしのもとに来るのでなければ、わたしの弟子となることはできない。 自分の十字架を負うてわたしについて来るものでなければ、わたしの弟子となることはできない。 」

☆ガラテヤ人への手紙5:24☆

「キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。」

※ローマ人への手紙6:6の「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。」に書かれている「古き人」ならキリストが完了したのでそれ以上殺す必要は無いのですが、ガラテヤ人への手紙5:24に書かれている「自分の肉を、その情と欲」と言う肉の働きに関しては日々十字架につけてしまわなければいけないと思います。

なぜなら、ガラテヤ人への手紙5:13~5:26には肉の働きや肉の行いの事が書かれています。と言う事はこの肉や肉の思いをを十字架につけなければいけないと思います。

☆ガラテヤ人への手紙 5:13~5:26☆

「兄弟たちよ。あなたがたが召されたのは、実に、自由を得るためである。ただ、その自由を、肉の働く機会としないで、愛をもって互に仕えなさい。

律法の全体は、「自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ」というこの一句に尽きるからである。

気をつけるがよい。もし互にかみ合い、食い合っているなら、あなたがたは互に滅ぼされてしまうだろう。

わたしは命じる、御霊によって歩きなさい。そうすれば、決して肉の欲を満たすことはない。

なぜなら、肉の欲するところは御霊に反し、また御霊の欲するところは肉に反するからである。こうして、二つのものは互に相さからい、その結果、あなたがたは自分でしようと思うことを、することができないようになる。

もしあなたがたが御霊に導かれるなら、律法の下にはいない。

肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、 偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。

このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。

キリスト・イエスに属する者は、自分の肉を、その情と欲と共に十字架につけてしまったのである。

もしわたしたちが御霊によって生きるのなら、また御霊によって進もうではないか。 互にいどみ合い、互にねたみ合って、虚栄に生きてはならない。 」

※又、ローマ人への手紙8:1~8:13の中でも肉の働きについて詳しく書かれていますが、これも日々十字架で対処すべきものだと確信しています。

特にローマ人への手紙8:13には「なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。 」とありますので、これは霊的に十字架の働きの事を語っていると思います。

☆ローマ人への手紙8:1~8:13☆

「こういうわけで、今やキリスト・イエスにある者は罪に定められることがない。

なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。

律法が肉により無力になっているためになし得なかった事を、神はなし遂げて下さった。すなわち、御子を、罪の肉の様で罪のためにつかわし、肉において罪を罰せられたのである。

これは律法の要求が、肉によらず霊によって歩くわたしたちにおいて、満たされるためである。

なぜなら、肉に従う者は肉のことを思い、霊に従う者は霊のことを思うからである。

肉の思いは死であるが、霊の思いは、いのちと平安とである。

なぜなら、肉の思いは神に敵するからである。すなわち、それは神の律法に従わず、否、従い得ないのである。

また、肉にある者は、神を喜ばせることができない。

しかし、神の御霊があなたがたの内に宿っているなら、あなたがたは肉におるのではなく、霊におるのである。もし、キリストの霊を持たない人がいるなら、その人はキリストのものではない。

もし、キリストがあなたがたの内におられるなら、からだは罪のゆえに死んでいても、霊は義のゆえに生きているのである。

もし、イエスを死人の中からよみがえらせたかたの御霊が、あなたがたの内に宿っているなら、キリスト・イエスを死人の中からよみがえらせたかたは、あなたがたの内に宿っている御霊によって、あなたがたの死ぬべきからだをも、生かしてくださるであろう。

それゆえに、兄弟たちよ。わたしたちは、果すべき責任を負っている者であるが、肉に従って生きる責任を肉に対して負っているのではない。

なぜなら、もし、肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬ外はないからである。しかし、霊によってからだの働きを殺すなら、あなたがたは生きるであろう。 」

A.「霊的戦いについて」

☆ローマ人への手紙7:15~7:25☆

「わたしは自分のしていることが、わからない。なぜなら、わたしは自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。

もし、自分の欲しない事をしているとすれば、わたしは律法が良いものであることを承認していることになる。

そこで、この事をしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。

わたしの内に、すなわち、わたしの肉の内には、善なるものが宿っていないことを、わたしは知っている。なぜなら、善をしようとする意志は、自分にあるが、それをする力がないからである。

すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。

もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。

そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。

すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。

わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。

わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。 」

※ローマ人への手紙7:22には肉の思いと霊とが肢体の中で戦っていると言う事がハッキリと書かれています。

又、7:20には「それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。」と書かれていますが、これはローマ人への手紙6章に出てくる古い人の罪とは違います。

これは古い人の性質を言っているのであって、古い人そのものではありません。これは肉の思いの事を語っています。

そして聖書ではこの肉の思いが罪だと語っています。

ですから私たちはこの肉に戦いを挑むわけです。

これが十字架の霊的な力なのだと自分は認識しています。

まとめると、「古い人」の問題である、「原罪」はキリストの死によって完全に取り除かれて完了しました。

でも私たちは肉の弱さのゆえに罪を犯してしまいます。

そのような時は、イエスの血を適用して一切の罪を清める事が出来ると思います。

しかし、肉の思いに関しては、罪ではなくて罪の性質ですので、清める事も出来ず、その為にイエスの血も適用出来ません。

しかし、肉の働きを殺す方法が一つだけあります。

それが、御霊によって肉の働きを殺すと言う事です。

この働きを担っているのがキリストの十字架だと認識しています。

ですから、日々十字架を背負い、自分の肉に対して戦いを挑むのと言うのが、十字架を通しての霊的戦いだと信じています。

又、これがクリスチャンの信仰生活でもあり、霊と真の礼拝にも繫がると信じています。

☆ローマ人への手紙7:19 ~7:23☆

「すなわち、わたしの欲している善はしないで、欲していない悪は、これを行っている。

もし、欲しないことをしているとすれば、それをしているのは、もはやわたしではなく、わたしの内に宿っている罪である。

そこで、善をしようと欲しているわたしに、悪がはいり込んでいるという法則があるのを見る。

すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、 わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。」

Q.戦うのはあくまでも主ではなく私たちなのでしょうか?

A.パウロは先程のガラテヤ人への手紙の中でも、又ご覧のようにエペソ人への手紙の中でも、私たちに戦うようにと語っています。

☆エペソ人への手紙6:11~6:13☆

「悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。

わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。

それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。」

Q.キリストの花嫁が霊的な戦いを経て栄光化されるというのも聖書のどこかにありましたでしょうか。

A.今までの説明の中で、キリストのみからだである教会が霊的戦いをして行く必要があると言う事がお分かり頂けたのではないかと思います。

その過程を経て教会が栄光化する事に関しては、下記のみことば箇所です。

その為には肉に仕えるのではなく、霊に仕えると言う事を語っています

この肉を殺す霊の働きが十字架の適用と言う結論です。

これが十字架のみわざだと信じています。

主の十字架の力は、古い人の原罪を取り除き、肉の働きを殺します。

これが肢体の戦いであり、みからだの霊的戦いになると思います。

☆コリント人への第二の手紙3:17~3:18☆

「主は霊である。そして、主の霊のあるところには、自由がある。 わたしたちはみな、顔おおいなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと、主と同じ姿に変えられていく。これは霊なる主の働きによるのである。 」

☆コリント人への第二の手紙3:6☆

「神はわたしたちに力を与えて、新しい契約に仕える者とされたのである。それは、文字に仕える者ではなく、霊に仕える者である。文字は人を殺し、霊は人を生かす。 」

☆ローマ人への手紙 7:5~7:6☆

「というのは、わたしたちが肉にあった時には、律法による罪の欲情が、死のために実を結ばせようとして、わたしたちの肢体のうちに働いていた。 しかし今は、わたしたちをつないでいたものに対して死んだので、わたしたちは律法から解放され、その結果、古い文字によってではなく、新しい霊によって仕えているのである。」

Q.罪の支払う報酬は死ですね。罪にはSin(罪の性質)とSins(日々犯す罪)があり前者は栄光の体を与えられ解決しますが、後者は血潮の適用が要るわけですね。アーメン。

A.罪にはSin(罪の性質)とSins(日々犯す罪)があると言う事ですが、おそらくSin(罪の性質に関しては)は先にも説明したとおり、十字架の適用になります。

そしてご指摘のようにSins(日々犯す罪)に関してはこれも先に説明したとおり、主イエスの血を適用します。

Q.でも日々の罪は最終的には「死」をもたらすのですが、これははたして御霊の死ですか?内住の御霊は死んでしまうのでしょうか?

A.「罪の支払う報酬は死ですね。」と語っている通りだと思います。
内住の御霊の死に関してですが、主の御霊自体が命そのものですので、死にようがありません。ただし、その人の霊魂が死ぬ時にはそこにはいないはずです。なぜなら住む場所がなくなるのですから。天に帰ると思います。


Q.第一ヨハネ5章は難解です。
16節以降の死に至らない罪と至る罪の存在。やはりこの箇所の死とは、肉体の死でしょうか、それとも霊(御霊)の死なのでしょうか。

A.☆第一ヨハネ5:16~5:17☆

もしだれかが死に至ることのない罪を犯している兄弟を見たら、神に願い求めなさい。そうすれば神は、死に至ることのない罪を犯している人々には、いのちを賜わるであろう。死に至る罪がある。これについては、願い求めよ、とは言わない。 不義はすべて、罪である。しかし、死に至ることのない罪もある。

※ここでの「死と言う概念」はクリスチャンに対しての事ですので、やはり神の国へ至る道なのか、永遠の火の池に至る罪なのか(あるいは外の暗闇)と言う尺度で計ると思います。

そしてそれは肉体の死ではなく霊魂の死について語っています。
主の御霊の事ではありません。

☆マタイによる福音書10:28☆

「また、からだを殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、からだも魂も地獄で滅ぼす力のあるかたを恐れなさい。」


☆ガラテヤ人への手紙5:19~5:21☆

肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、 ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。


☆マタイによる福音書25:31~25:46☆

人の子が栄光の中にすべての御使たちを従えて来るとき、彼はその栄光の座につくであろう。

そして、すべての国民をその前に集めて、羊飼が羊とやぎとを分けるように、彼らをより分け、羊を右に、やぎを左におくであろう。

そのとき、王は右にいる人々に言うであろう、『わたしの父に祝福された人たちよ、さあ、世の初めからあなたがたのために用意されている御国を受けつぎなさい。

あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせ、かわいていたときに飲ませ、旅人であったときに宿を貸し、裸であったときに着せ、病気のときに見舞い、獄にいたときに尋ねてくれたからである』。

そのとき、正しい者たちは答えて言うであろう、『主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食物をめぐみ、かわいているのを見て飲ませましたか。

いつあなたが旅人であるのを見て宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。

また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたの所に参りましたか』。

すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである』。

それから、左にいる人々にも言うであろう、『のろわれた者どもよ、わたしを離れて、悪魔とその使たちとのために用意されている永遠の火にはいってしまえ。

あなたがたは、わたしが空腹のときに食べさせず、かわいていたときに飲ませず、旅人であったときに宿を貸さず、裸であったときに着せず、また病気のときや、獄にいたときに、わたしを尋ねてくれなかったからである』。

そのとき、彼らもまた答えて言うであろう、『主よ、いつ、あなたが空腹であり、かわいておられ、旅人であり、裸であり、病気であり、獄におられたのを見て、わたしたちはお世話をしませんでしたか』。

そのとき、彼は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。これらの最も小さい者のひとりにしなかったのは、すなわち、わたしにしなかったのである』。 そして彼らは永遠の刑罰を受け、正しい者は永遠の生命に入るであろう」。


Q.18節以降、神から生まれた者はイエス様のことですね。そして主は悪しき者が手が触れぬよう彼を守るとありますが、この彼は私たちのことでしょうか。確かに世は悪魔の支配の中にあるが、イエスから出た私たち聖徒は神よって守られていると解釈できませんでしょうか?

A.☆ヨハネの第一の手紙5:18~5:21☆

「すべて神から生れた者は罪を犯さないことを、わたしたちは知っている。

神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。

また、わたしたちは神から出た者であり、全世界は悪しき者の配下にあることを、知っている。

さらに、神の子がきて、真実なかたを知る知力をわたしたちに授けて下さったことも、知っている。

そして、わたしたちは、真実なかたにおり、御子イエス・キリストにおるのである。

このかたは真実な神であり、永遠のいのちである。

子たちよ。気をつけて、偶像を避けなさい。 」

※「すべて神から生れた者」とはクリスチャンの事ですね。

「神から生れたかたが」とはイエス・キリストの事ですね。

「彼」とは「すべて神から生れた者」の事ですからクリスチャンの事ですね。

「神から生れたかたが彼を守っていて下さるので、悪しき者が手を触れるようなことはない。」

これは内住の聖霊様の事ですね。ですから悪しき者が聖霊の宮を破壊する事は出来ない。つまり聖霊様を追い出してその人を乗っ取る事は出来ないと言う意味だと思います。ですが、サタンは肉の思いに働きかけ、人を罪に陥れようとするので、どうしても霊的に戦う必要があります。

☆黙示録3:10☆

「忍耐についてのわたしの言葉をあなたが守ったから、わたしも、地上に住む者たちをためすために、全世界に臨もうとしている試錬の時に、あなたを防ぎ守ろう。」

黙示録の時代には特別な助けがあるみたいですね。

これはテサロニケ人への第一の手紙4:16~4:18に書かれている出来事かと思われます。

☆テサロニケ人への第一の手紙4:16~4:18☆

「すなわち、主ご自身が天使のかしらの声と神のラッパの鳴り響くうちに、合図の声で、天から下ってこられる。その時、キリストにあって死んだ人々が、まず最初によみがえり、それから生き残っているわたしたちが、彼らと共に雲に包まれて引き上げられ、空中で主に会い、こうして、いつも主と共にいるであろう。 だから、あなたがたは、これらの言葉をもって互に慰め合いなさい。」


Q.要は、自殺した牧師さんはこの死に至る罪を犯し続けたからあのような結末となってしまったのかという素朴な疑問です。

A.「自殺した牧師先生」については、自らを殺害したと言う事実と、その背後には間違いなく悪霊の影響があった事でしょう。

「死に至る罪を犯し続けたからけたからあのような結末となってしまった」と言うのは誰にも分からない事です。

でももし、その牧師先生が「姦淫の罪」を犯していたのなら、それは「死に至る罪」に該当すると思います。

それと、「自殺と言う行為」も殺人と取れます。

☆黙示録21:8☆

「しかし、おくびょうな者、信じない者、忌むべき者、人殺し、姦淫を行う者、まじないをする者、偶像を拝む者、すべて偽りを言う者には、火と硫黄の燃えている池が、彼らの受くべき報いである。これが第二の死である」。


Q.牧師に御子のいのちがあれば(新生していれば)肉体は滅びても永遠の滅びには至らないと思いたいのです。

残念ながら聖書にはそのような記述はないと思います。

ただし、「外の暗闇」と、「白い御座の裁き」は別物であるかも知れません。

主のしもべ達は罪を犯したままでしたら、「外の暗闇」と言う所に放り投げられてしまいます。

しかし、「白い御座の裁き」の時には生き返り、裁きを受けますが、キリストの弁護によって結果的に永遠の命に入ると思います。

主の救いは完全です。原罪の処理を行なった人は皆、永遠の命に入る事が出来ます。

ところが、肉の行いに満たされ敗北したクリスチャンが死ぬと、十字架で肉が対処されていなかった為に「外の暗闇」へと放り込まれてしまうはずです。

Q.ですから私は彼は平安の中主イエスのもとにおられると考えたいのです。

嫌、そう願いたい所ですが、聖書では「外の暗闇へ放り出せ!」と語られています。しかし、「白い御座の裁き」のあとは天国で主と共にいると思います。

>「わたしはあなたがたに、へびやさそりを踏みつけ、敵のあらゆる力に打ち勝つ権威を授けた。」

イエスのみ名には絶対的な権威があるのですね。確かにアーメンです。

>つまり、打ち勝つ権威を与えたと言う事は、その権威を用いてサタンと戦いなさいと言う意味です。

Q.イエスは、弟子たちに害を加えるものがないようにとみ名の権威の行使をお許しのなったのだと解釈します。み名の権威が与えられたからといってサタンと戦いなさいとはおっしゃってはいないのではないでしょうか。

A.☆マタイによる福音書6:33☆

「まず神の国と神の義とを求めなさい。」

これは主の命じられた事です。

☆マタイ 12:28☆

「 しかし、わたしが神の霊によって悪霊を追い出しているのなら、神の国はすでにあなたがたのところにきたのである。」

このように悪霊を追い出す事が神の国を求めると言う事と、密接に関わっている事が分かります。

☆マルコによる福音書16:17~16:18☆

「信じる者には、このようなしるしが伴う。すなわち、彼らはわたしの名で悪霊を追い出し、新しい言葉を語り、 へびをつかむであろう。」

信じるものへのしるしとして、主の御名で悪霊を追い出すとありますし、サタンの象徴である蛇をつかむと言われています。

ですから、「悪霊を追い出すと言う行為」これは積極的に主が求めている事だと言えます。

Q.この時点では十字架以前、しかも弟子たちは聖霊をまだ受けていませんからみ名の権威に依らなければならなかったと思います。

A.イエスの御名の権威には全ての悪霊が従います。

Q.確かに今でもサタンは暗躍していますが、だからといってわざわざサタンに戦いを挑みにいく必要がキリストにある私たちにあるのでしょうか。

A.ではイエス様の姿勢をみてみましょう。

☆ルカによる福音書13:10~13:17☆

安息日に、ある会堂で教えておられると、 そこに十八年間も病気の霊につかれ、かがんだままで、からだを伸ばすことの全くできない女がいた。

イエスはこの女を見て、呼びよせ、「女よ、あなたの病気はなおった」と言って、手をその上に置かれた。

すると立ちどころに、そのからだがまっすぐになり、そして神をたたえはじめた。

ところが会堂司は、イエスが安息日に病気をいやされたことを憤り、群衆にむかって言った、「働くべき日は六日ある。

その間に、なおしてもらいにきなさい。

安息日にはいけない」。

主はこれに答えて言われた、「偽善者たちよ、あなたがたはだれでも、安息日であっても、自分の牛やろばを家畜小屋から解いて、水を飲ませに引き出してやるではないか。

それなら、十八年間もサタンに縛られていた、アブラハムの娘であるこの女を、安息日であっても、その束縛から解いてやるべきではなかったか」。

こう言われたので、イエスに反対していた人たちはみな恥じ入った。そして群衆はこぞって、イエスがなされたすべてのすばらしいみわざを見て喜んだ。
 
 
Q.「罪にあった古い人は十字架に付けられ死んでいますが、同時に十字架によって私たちは御霊から生まれた霊なる者となったと解釈できないでしょうか?」

A.そうですね。結果的にはそう言うことだと思います。まず、聖書には古い人は既に死んだと記されています。

そして古い人と言うのは私たちの祖先であるアダムそのものを指します。ですから私たち人類は一人残らず、生まれながらアダムの犯した罪を持っています。

なぜなら私たちはアダムの血を引いていますし、その事によりアダムの性質を持っているからです。

このアダムの犯した罪の事を原罪と言いますが、この原罪を持ったままではアダムの犯した罪のゆえに死んだ後、永遠の滅びである地獄へ行くことになります。

でも主イエス・キリストを自分の救い主と信じて告白する者は、このアダムそのものである、古い人が霊的に十字架にかけられ殺されてしまいます。

その結果、生まれながらの原罪が許され、死と呪いが効力を失うと言うわけです。

それは聖書の律法では、その人が死ねば全ての罪から解放され完全に許されるとあるからです。

※ローマ人への手紙6:7「それは、すでに死んだ者は、罪から解放されているからである。」

それでは、私たちがイエスを信じることによって、死から命に移ったと言う事がどのようにして分かる事が出来るのでしょうか?

それはイエス・キリストが死んで3日目に甦ったという復活の事実にほかなりません。

イエス・キリストの十字架の死によって、私たちの罪が許された事を知る事が出来ます。

そしてイエス・キリストの復活によって私たちに命が与えられたと言う事を知る事が出来ます。

ですから結果的に命そのものである、神の霊が私たちの霊を生かしたと言う事になります。

十字架と復活は切り離す事は出来ません。
同じように古い人の死と御霊の命とは切り離すことは出来ません。

ですから信仰告白を通して十字架のみわざが私たちの内側に働き、それによって私たちは御霊の命が与えられますので、確かに十字架を通して御霊が与えられ、それによって新しく生れたと言う事になると思います。

ヨハネによる福音書3:3~3:6

イエスは答えて言われた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも新しく生れなければ、神の国を見ることはできない」。 ニコデモは言った、「人は年をとってから生れることが、どうしてできますか。もう一度、母の胎にはいって生れることができましょうか」。 イエスは答えられた、「よくよくあなたに言っておく。だれでも、水と霊とから生れなければ、神の国にはいることはできない。肉から生れる者は肉であり、霊から生れる者は霊である。
 
Q.私たちに影響を与える肉とは一体何でしょうか?

A.「肉」を理解する為にはローマ人への手紙5章~8章などに書かれている事を理解すればいいと思います。

でも読んでその深い意味が分かるならこんな楽な事はないですよね。

聖書の深い意味は啓示と体験とによってしか知る事は出来ないと思います。

まず最初に救いの事について触れたいと思います。

私たちが救われる為にイエスは十字架にかかり身代わりとなって死んでくれました。

そしてそれだけではなく、信じるもの全てに永遠の命も与えてくれています。

イエスが死んだのは、アダムが罪を犯した結果入り込んだ、全人類の死と呪いの罰を身代わりになって背負う為です。

イエスが墓の中から生き返ったのは、私たちに永遠の命を与えて天国に迎え入れる為です。

そして復活をする事によって、死とサタンに対する勝利を世に証明する事が出来ました。

救いを受ける方法がここに書かれています。

★ローマ人への手紙10:9~10:10★

「すなわち、自分の口で、イエスは主であると告白し、自分の心で、神が死人の中からイエスをよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われる。 なぜなら、人は心に信じて義とされ、口で告白して救われるからである。」

さて、ここのみことばにあるように信仰告白によって私たちは救いを受ける事が出来たのですが、ここでは肉についての事は隠されていますので、別の聖句をみてみます。

★ローマ人への手紙6:6★

「わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。」

ここで古き人と言う言葉が出てきます。

これは私たちの先祖であるアダムそのもの、或いはアダムの性質の事を意味しています。

このみことばみよれば、「わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。」と書かれてあります。

ですから、アダムが犯した罪の呪いから解放されたのは分かりますよね?

でもここからが肝心なのですが、アダムの罪の元凶となったのはどんな事だったのかを知る事です。

それは創世記に書かれています。

☆創世記2:16~2:17☆

主なる神はその人に命じて言われた、「あなたは園のどの木からでも心のままに取って食べてよろしい。しかし善悪を知る木からは取って食べてはならない。それを取って食べると、きっと死ぬであろう」。

ここで分かるように、アダムは「善悪を知る木」の実を食べてしまいました。

その行為が神に対しての背信行為となり罪とみなされました。

その結果夫婦ともエデンの園から永久追放されてしまいました。

さてこの「善悪を知る木の実」とはどんなものなのでょう?

蛇とエバの会話をみてみましょう。

☆創世記3:5~3:6☆

「それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」。女がその木を見ると、それは食べるに良く、目には美しく、賢くなるには好ましいと思われたから、その実を取って食べ、また共にいた夫にも与えたので、彼も食べた。

ここで分かるように「善悪を知る木の実」の栄養効果は何かというと、

「神のように善悪を知る者になる」

と言う事です。

この栄養効果は、実はサタンの最も罪深い特質である神に対しての高ぶりや、反抗、敵対心などをからだに与える物です。

私たちは、イエスが十字架で死んだ事により、それを信じる私たちの内の古き人も共に死にました。

そして原罪が完全に許されました。

ところが、この神への高ぶりや、反抗、敵対心などはまだ私たちの内側に存在しています。

これが「肉の性質」です。

「肉」は私たちの魂そのものだと思ってもいいと思います。

この肉がわたしたちのからだの内側で霊に戦いを挑む訳です。

これが実は人類の霊的戦いの始まりでありました。

私たちはアダムが罪を犯したときから肉の支配の中にありました。

ところがイエス様が十字架の上でこの肉を対処出来るようにしてくださいました。

イエス様自身が肉を持って生れてきて、尚且つ公生涯で肉に打ち勝つ姿を見せて下さいました。

彼は自分の思いではなく、(つまり肉)ただ主のみこころがなりますようにとゲッセマネで祈りました。

ゲッセマネで肉とサタンに勝利したので、主は十字架を実行に移しました。

ですから私たちも日々十字架によってこの肉を対処する事が出来ます。

これが霊的戦いの基本であり、肉に勝利する唯一の方法です。

 
以上
 

長くなりましたが、読んでいただいて心から感謝致します。

では主の祝福がありますようにとイエス様の名によってお祈り致します。
アーメン!
 
Keystoneより

※あなたが、イエスの愛と救いを受ける為にもぜひ以下の記事をお読み下さい。

★No.2 どうしても知って欲しい大切な情報

 
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(※死後の世界が確実にある事を知って下さい。)
 
キリストの再臨
(※大艱難時代が目前なので、今すぐ神の国を目指して下さい。)
 
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No.45 みからだの建てあげ( 1 / 1 )

※mixiの日記に、以前書いた内容です。
アンビリバボーを書くきっかけになったので、紹介しています。
 
 
マイミクの方の以下の意見に対しお答えしたいと思います。

「そもそも牧師、伝道師は必要なのですか?
私たちとイエス様の間に、余計なもの、教役者が介在すること自体問題があると思います。少々強引ですが、私は直接イエス様と日々お交わりすることが何より大事でそれだけで信仰生活は完結すると思うようになっています。ただし方々の尊い真の宣教活動は否定しません。ただ偉大な器と呼ばれる先生や油注ぎのある先生との個人的、組織的な関わりは全く無意味だと知りました。(人の評判ほど肉的なものは無いと知りました。)」

教会での様々な事件や、問題などを見たときにはそのように考えるのも無理は無いのかもしれません。
こういう時は聖書を読めば理解しやすいと思います。

☆エペソ人への手紙4:7~4:16☆

しかし、キリストから賜わる賜物のはかりに従って、わたしたちひとりびとりに、恵みが与えられている。

そこで、こう言われている、「彼は高いところに上った時、とりこを捕えて引き行き、人々に賜物を分け与えた」。
さて「上った」と言う以上、また地下の低い底にも降りてこられたわけではないか。

降りてこられた者自身は、同時に、あらゆるものに満ちるために、もろもろの天の上にまで上られたかたなのである。

そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。

それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。

こうして、わたしたちはもはや子供ではないので、だまし惑わす策略により、人々の悪巧みによって起る様々な教の風に吹きまわされたり、もてあそばれたりすることがなく、 愛にあって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストに達するのである。

また、キリストを基として、全身はすべての節々の助けにより、しっかりと組み合わされ結び合わされ、それぞれの部分は分に応じて働き、からだを成長させ、愛のうちに育てられていくのである。

以上

ここに書いてある通り、キリストご自身が五役者をお立てになったとあります。

そしてその理由としては

「聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。」

つまりキリストが教会を立て上げる為に五役者を立てたと言う事ですが、それはキリストのみからだを建て上げる為にほかなりません。

私たち一人一人はキリストのみからだなる教会の機能器官です。

もし一人一人が、かしらなるキリストに繫がっているなら、かしらからの指令はいつでもからだに対して有益な情報であり、いつでも一致して調和があるはずです。

しかし、もし我々が十字架の力で肉の働きを日々対処していなければ、かしらからの情報が途絶え、体の働きが損なわれてしまうと言うわけです。

ですから一人で個人的な主との交わりを重んじるべきですが、キリストの教会に対する啓示はしみもしわもない栄光の教会をご自分の前に立たせ、迎える事です。

☆エペソ人への手紙5:26 ~5:27☆
「キリストがそうなさったのは、水で洗うことにより、言葉によって、教会をきよめて聖なるものとするためであり、また、しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会を、ご自分に迎えるためである。」

ですから、教会では聖徒の交わりが大切です。交わりを通してしかキリストの愛も表すことが出来ません。

そして賜物も互いに仕えるようにと主は与えてくれました。
ですから主のみこころは健全なみからだを建て上げる事であり、栄光の教会である花嫁を育てて婚姻の時を持つ事です。

☆ヨハネの黙示録19:7~19:9☆
わたしたちは喜び楽しみ、神をあがめまつろう。小羊の婚姻の時がきて、花嫁はその用意をしたからである。

彼女は、光り輝く、汚れのない麻布の衣を着ることを許された。この麻布の衣は、聖徒たちの正しい行いである」。それから、御使はわたしに言った、「書きしるせ。小羊の婚宴に招かれた者は、さいわいである」。またわたしに言った、「これらは、神の真実の言葉である」。

ひとりひとりが主からの一つ思いの啓示を頂く為にはどうしても肉を日々十字架にかけなくてはなりません。

これが十字架のみわざです。

イエスの血では対処出来ない領域です。

イエスの血の代価によって古き人は死にました。

ところが、私たちの内には肉の思いがあります。

これを日々十字架を適用して、殺す時に霊が内側から法則として働き、主の思いやみこころを知り、実践する事が可能になります。

☆ローマ人への手紙8:2☆
「なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の法則は、罪と死との法則からあなたを解放したからである。」

コメントにもあるように、癒しの集会からの油注ぎだけではどうにもなりません。

私たちは十字架を肉に適用する事によって内側に御霊の実と言うのが実ります。

これが善悪を知る木の実の効力を殺します。

☆ガラテヤ人への手紙5:19~5:23☆
「肉の働きは明白である。すなわち、不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、まじない、敵意、争い、そねみ、怒り、党派心、分裂、分派、ねたみ、泥酔、宴楽、および、そのたぐいである。

わたしは以前も言ったように、今も前もって言っておく。このようなことを行う者は、神の国をつぐことがない。

しかし、御霊の実は、愛、喜び、平和、寛容、慈愛、善意、忠実、 柔和、自制であって、これらを否定する律法はない。 」

ですから、兄弟姉妹との交わりを通して、互いに仕え重荷を負って十字架を適用し、それによって教会の徳を高めキリストの愛を表現します。

これがみからだの建てあげと言う事になります。
 
Keystoneより

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No.46 リバイバルとは何?( 1 / 1 )

「そもそもリバイバルとは何でしょうか?」

と言う問いに答えてみたいと思います。

リバイバルとはリ・バイブルと言う事で教会、あるいはこの世がみことばに立ち返ると言う事ではないでしょうか?

ネヘミヤ書を読んでみると、イスラエルの神殿の城壁を工事する為にネヘミヤとイスラエルの民が敵と戦っている事が書かれています。

主の助けがあったのでその工事は奇跡的に大成功しました。

そのことによって敵は大いに面目を失い、主の栄光が顕れました。

城壁が完成したあとネヘミヤは民の前で律法(聖書)を解き明かしました。

するとこれを聞いていた全ての民に解き証しが与えられみことばを悟る事が出来ました。

その日からイスラエルは変わってしまいました。

ヨシュアの時代からその時までイスラエルは廃墟であり、信仰のかけらも無い呪われた状態でした。

しかしみことばの立ち返りによって主との関係が回復されました。

これが旧約聖書に書かれているリバイバルの型なのではないかと思います。

城壁が完成するまでの敵とのやりとりはまさに教会とサタンとの戦いを表しています。

そして神殿は教会であり、城壁は、霊的には機能器官としての一人一人の兄弟姉妹に例える事が出来ます。

その城壁から敵を見張っている見張り人が教会での預言者と言う方々になります。

ですから教会が五役者を否定し、預言者を受け入れず、牧師が全てを背負うならたちまち敵であるサタンに教会を乗っ取られてしまいます。

多くの場合その事に気付かないのかもしれません。

☆ネヘミヤ書8:17~8:18☆
捕囚から帰って来た会衆は皆仮庵を造って、仮庵に住んだ。ヌンの子ヨシュアの日からこの日まで、イスラエルの人々はこのように行ったことがなかった。それでその喜びは非常に大きかった。エズラは初めの日から終りの日まで、毎日神の律法の書を読んだ。人々は七日の間、祭を行い、八日目になって、おきてにしたがって聖会を開いた。

ところで、個人的な霊的戦いとは自分の内側の肉と霊との戦いです。

☆ローマ人への手紙7:22~7:25☆
「すなわち、わたしは、内なる人としては神の律法を喜んでいるが、わたしの肢体には別の律法があって、わたしの心の法則に対して戦いをいどみ、そして、肢体に存在する罪の法則の中に、わたしをとりこにしているのを見る。わたしは、なんというみじめな人間なのだろう。だれが、この死のからだから、わたしを救ってくれるだろうか。わたしたちの主イエス・キリストによって、神は感謝すべきかな。このようにして、わたし自身は、心では神の律法に仕えているが、肉では罪の律法に仕えているのである。」

でも私たちがサタンと戦う時は、決して単独で戦うべきではありません。

戦うなら教会としてサタンと戦わねばなりません。

私たちの賜物は教会の得を高める為に使うのが主な目的です。

ですから、キリストのみからだである機能器官として一致してサタンに戦いを挑むべきだと思います。

もし単独で悪霊と格闘するならば、みからだの働きが損なわれ危険です。

☆エペソ人への手紙6:10~6:18☆
最後に言う。主にあって、その偉大な力によって、強くなりなさい。

悪魔の策略に対抗して立ちうるために、神の武具で身を固めなさい。

わたしたちの戦いは、血肉に対するものではなく、もろもろの支配と、権威と、やみの世の主権者、また天上にいる悪の霊に対する戦いである。

それだから、悪しき日にあたって、よく抵抗し、完全に勝ち抜いて、堅く立ちうるために、神の武具を身につけなさい。

すなわち、立って真理の帯を腰にしめ、正義の胸当を胸につけ、平和の福音の備えを足にはき、その上に、信仰のたてを手に取りなさい。それをもって、悪しき者の放つ火の矢を消すことができるであろう。

また、救のかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち、神の言を取りなさい。絶えず祈と願いをし、どんな時でも御霊によって祈り、そのために目をさましてうむことがなく、すべての聖徒のために祈りつづけなさい。

イエスの願い

☆ヨハネによる福音書17:20~17:23☆

わたしは彼らのためばかりではなく、彼らの言葉を聞いてわたしを信じている人々のためにも、お願いいたします。

父よ、それは、あなたがわたしのうちにおられ、わたしがあなたのうちにいるように、みんなの者が一つとなるためであります。

すなわち、彼らをもわたしたちのうちにおらせるためであり、それによって、あなたがわたしをおつかわしになったことを、世が信じるようになるためであります。

わたしは、あなたからいただいた栄光を彼らにも与えました。それは、わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。

わたしが彼らにおり、あなたがわたしにいますのは、彼らが完全に一つとなるためであり、また、あなたがわたしをつかわし、わたしを愛されたように、彼らをお愛しになったことを、世が知るためであります。

 

Keystoneより


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