Keystoneのアンビリバボー体験談集

No.17 40日断食( 1 / 1 )

これは、僕が初めて40日間の断食をした時のお話です。
しかし、まさか自分が断食するなんて思ってもみませんでした。

 

なぜなら僕はかなりの食いしんぼうだからです。
本来ならたった1日断食するのも無理です。

しかし、この時はそれだけのことをしなければいけないほどの状況でした。

 

僕は高校の頃にイエス様を信じて救われて、長い間ある教会に通っていました。

そちらの教会の牧師先生はほんとに素晴らしい先生で、僕は心から尊敬しています。
僕にとっては世界一の牧師先生です。

 

しかし、ある時、聖霊様が言いました。

「あなたの賜物を活用するために、そこの教会を出なさい。」

 

僕はこの言葉を聞いて数ヶ月悲しくてたまりませんでした。

なぜなら僕は、その教会のことも、牧師先生のことも、教会の方々のことも、心から愛していたからです。

僕にとっては大事な霊の家族です。

 

ですから、あまりに悲しくて、教会に行くたびに涙がとまりませんでしたが、誰にも相談することはありませんでした。

実はこの時、毎週土曜日でしたが、別の教会で奉仕をしていました。
聖霊様が言うには「そちらの教会に移籍して、更に奉仕をしなさい。そうすると、あなたの霊の賜物が活かされる」と言うことでした。

ちなみに、霊の賜物については、「No.15 聖霊のバプテスマ」をお聞き下さいね。

 

その教会についてなのですが、実はその数ヶ月前の僕の行動が元で起こされた教会だとも言えます。

僕が仕事中に、営業先の喫茶店に出向いたところ、たまたまこの夫妻が来ていました。

癒しの賜物を頂いているご夫婦で、その働きのために僕らの土地に遣わされたと言うことでした。

 

僕は、うわさだけは聞いていたので、直接話を伺いたいと思い、同じテーブルに座って交わりをしました。

すると5分も経たないうちに、おなかの底から喜びが溢れてきました。

 

僕はあまりに不思議だったので、思わず、「この内なる喜びは一体なんだろう?」と言いました。

すると、ご主人のほうが、「兄弟は聖霊様に敏感ですか?」と質問したので、
僕は、「めちゃくちゃ敏感です!」と答えました。

 

イエス様の母マリアが妊娠中に、バブテスマのヨハネの母で、同じく妊娠中のエリサベツと久しぶりに出合った時に、エリサベツの体内にいた胎児のヨハネが喜び踊っていたと言うことでしたが、この時の出会いはそれと全く同じ喜びでした。

 

しかし、更に聖霊様が語りました。

「この二人が1ヶ月前に約束した、あなたの賜物のために私が用意した人たちです。安心して彼らをサポートしなさい。」

 

実は、その1ヶ月ほど前に聖霊様から啓示を受けていました。
僕の霊の賜物の使い方を導いてくれる人を送ると言う約束でした。

ですから、その預言が目の前で成就してしまいました。

僕は、積極的にこのご夫妻をいろんな方に紹介しました。

 

そして、あるときに、ある方の自宅で、ご主人のほうに癒しの奉仕をしてもらうことになりました。

それを僕が企画したのですが、実は前の晩に聖霊様から啓示がありました。

「明日の癒しの集まりの時に、全員を救います。」

つまり、癒してくれるだけではなくて、なんと全員がイエス様を救い主として信じるという預言でした。

 

僕は、ご主人にすぐ電話をして言いました。

「聖霊様から明日、全員を救うからと約束を頂いたので、癒しだけではなくて福音を必ず語ってください!」

 

僕の言葉で、ご主人はかなり驚いていましたが、翌日、何とその通りに10名以上の方々が全員イエス様を救い主として信じ受け入れました。

更に病も全てその場で癒されました。

聖霊様はほんとに素晴らしいですね。

 

実は、それがきっかけで、新しい教会が誕生したのでした。

僕は、その教会へ席を置きなさいという聖霊様の言葉があまりにもつらくて、ほんとに数ヶ月悲しんでいる状態でした。

 

その頃、更に追い討ちをかけるように聖霊様が言いました。

「あなたは教会とあなたの妻の犯した罪の為に、40日間の断食をしなさい。そうすれば、40日目を過ぎた後の礼拝の日に、幻とみことばをあなたに授けます。それを牧師に告げて祝福してもらい、そこを去りなさい。」

 

僕はこの言葉を聞いて衝撃を受けました。

自分の妻のことは心当たりがあるので理解出来ましたが、教会の犯した罪とは一体何のことだろうと思いました。

それと、40日も断食するなんて、想像も出来ないほどのことなので不安でしたが、自分の妻や教会が犯している罪ならそれは命がけで祈る必要があると思いました。

 

僕はその頃、妻とは別居状態で長女と暮らしていて、次女は妻と一緒に暮らしていました。

そして僕は、40日も断食すると言うことを、小学2年生の娘に話しました。

 

娘は、僕が食事をしないので、いつも悲しそうでしたが、明日で40日目というときに娘が言いました。

「お父さん。私も最後の1日だけはお父さんと一緒に断食してお祈りしたいから一緒にしてもいい?」

 

僕は、娘の心からの願いに断ることが出来ませんでした。

「わかった。してもいいよ。じゃあ、お父さんと一緒に断食してイエス様にお母さんのことや教会のことをお祈りしようね。」

娘は3食を食べないで真剣に祈りました。

 

そして翌日、朝ごはんを食べましたが、
「もう2度と断食はしたくない。とてもつらかったよ。」と言いました。

こんな小さな子供が十字架を一緒に背負い、祈ってくれたことにとても感謝しました。

 

僕が、40日の断食を終えて、久しぶりにおかゆとお味噌汁を頂こうとしたときに、突然目の前にイエス様が現れました。

「私は、あなたがこの断食を終えたことを喜んでいます。
そして、実は私も一緒に荒野で断食をしながらあなたのことを待っていました。」

 

なんと、イエス様が荒野で断食をした時に僕のことを待っていたと言うことでした。

そして、突然食卓に大きな穴が開いたと思ったらそこに空間が出来ました。

また、その空間から人間の舌のようなものが出てきました。

 

更に、その口が開いて、その奥にすごい勢いで広い道がどこまでも広がっていきました。

僕が興味深く、それをみていると手前の道のそばに僕が知っているある兄弟が立っていました。

「なぜ彼がそこにいるのだろう?」と、僕が不思議に思っていると、イエス様が答えました。

 

「彼はあなたの同労者です。彼以外にもまだ出会っていない多くの人をあなたの同労者として私は用意しています。」

僕はそれを見て聞いて驚きました。

 

しかし、今から1週間前くらいにその彼にこの証をしました。

何と、この幻は10年も前の話です。

10年目にして彼と会い、それを証しすることが出来ました。

そしてもちろん、これからそう言う働きで一緒になることも信じています。

 

さて、食事も済んだので娘と礼拝に行くことになりました。

僕は、今日は一体どんな啓示がもらえるのだろうかと期待していました。

なぜなら40日も断食したのですから、物凄いご褒美を頂けるはずだとかなり期待していました。

 

礼拝が終わりに近づいて祭壇の前で祈る時が来ました。

僕はわくわくしながらご褒美を待ちました。

 

すると、突然上のほうに大きな腕が出てきました。

それは筋肉の盛り上がった兵士のうでのようでした。

そしてその手にムチが見えました。

 

僕は「これは一体なんだろう?」と見つめていましたが、突然、、ムチを持っているその手で、僕の背中を叩き始めました。

あまりのリアルな痛さに体がよじれました。

しかも、何十回も背中を叩き続け、僕の背中は血だらけになりました。

もちろん、これは幻なのですが、痛みはリアルに感じました。

 

僕はご褒美をもらえると思っていたので、思わずこう言いました。

「イエス様、僕は40日も断食をしたのに、更にムチ打つなんて、僕が何か罪を犯したから罰を受けているのですか?」

僕はあまりのショックでそう言いました。

 

すると、イエス様が言いました。

「私も、ムチで打たれました。しかしそれは、あなた方が癒されるためです。
あなたがムチで打たれるのは、妻や教会の罪が許され癒されるためです。」

 

僕はこの言葉を聞いて、涙を流して感謝をしました。
そしてイエス様を褒め称えました。

しかし、それだけではありませんでした。

 

「エゼキエル書34章を読みなさい。そしてそのみことばを牧師に見せて、その為の働きの為に教会を出るように言われたことを告げなさい。」

 

僕は、一体どんなことが書かれているのだろうと思いながらそこを開けて読んでみました。

 

そして、愕然としました。
あまりのショックに言葉が出ませんでした。

 

エゼキエル書第34章

 

主の言葉がわたしに臨んだ。

 

「人の子よ、イスラエルの牧者たちに向かって預言せよ。

預言して彼ら牧者に言え、主なる神はこう言われる、わざわいなるかな、自分自身を養うイスラエルの牧者。

牧者は群れを養うべき者ではないか。
ところが、あなたがたは脂肪を食べ、毛織物をまとい、肥えたものをほふるが、群れを養わない。

あなたがたは弱った者を強くせず、病んでいる者をいやさず、傷ついた者をつつまず、迷い出た者を引き返らせず、うせた者を尋ねず、彼らを手荒く、きびしく治めている。

彼らは牧者がないために散り、野のもろもろの獣のえじきになる。

わが羊は散らされている。彼らはもろもろの山と、もろもろの高き丘にさまよい、わが羊は地の全面に散らされているが、これを捜す者もなく、尋ねる者もない。

 

それゆえ、牧者よ、主の言葉を聞け。

主なる神は言われる、わたしは生きている。わが羊はかすめられ、わが羊は野のもろもろの獣のえじきとなっているが、その牧者はいない。

わが牧者はわが羊を尋ねない。牧者は自身を養うが、わが羊を養わない。

 

それゆえ牧者らよ、主の言葉を聞け。

主なる神はこう言われる、見よ、わたしは牧者らの敵となり、わたしの羊を彼らの手に求め、彼らにわたしの群れを養うことをやめさせ、再び牧者自身を養わせない。

またわが羊を彼らの口から救って、彼らの食物にさせない。

 

主なる神はこう言われる、見よ、わたしは、わたしみずからわが羊を尋ねて、これを捜し出す。

牧者がその羊の散り去った時、その羊の群れを捜し出すように、わたしはわが羊を捜し出し、雲と暗やみの日に散った、すべての所からこれを救う。

 

わたしは彼らをもろもろの民の中から導き出し、もろもろの国から集めて、彼らの国に携え入れ、イスラエルの山の上、泉のほとり、また国のうちの人の住むすべての所でこれを養う。

 

わたしは良き牧場で彼らを養う。その牧場はイスラエルの高い山にあり、その所で彼らは良い羊のおりに伏し、イスラエルの山々の上で肥えた牧場で草を食う。

わたしはみずからわが羊を飼い、これを伏させると主なる神は言われる。

 

わたしは、うせたものを尋ね、迷い出たものを引き返し、傷ついたものを包み、弱ったものを強くし、肥えたものと強いものとは、これを監督する。わたしは公平をもって彼らを養う。

 

主なる神はこう言われる、あなたがた、わが群れよ、見よ、わたしは羊と羊との間、雄羊と雄やぎとの間をさばく。

あなたがたは良き牧場で草を食い、その草の残りを足で踏み、また澄んだ水を飲み、その残りを足で濁すが、これは、あまりのことではないか。

 

わが羊はあなたがたが、足で踏んだものを食い、あなたがたの足で濁したものを、飲まなければならないのか。

それゆえ、主なる神はこう彼らに言われる、見よ、わたしは肥えた羊と、やせた羊との間をさばく。

あなたがたは、わきと肩とをもって押し、角をもって、すべて弱い者を突き、ついに彼らを外に追い散らした。

 

それゆえ、わたしはわが群れを助けて、再びかすめさせず、羊と羊との間をさばく。
わたしは彼らの上にひとりの牧者を立てる。

 

すなわちわがしもべダビデである。彼は彼らを養う。彼は彼らを養い、彼らの牧者となる。

主なるわたしは彼らの神となり、わがしもべダビデは彼らのうちにあって君となる。主なるわたしはこれを言う。

 

わたしは彼らと平和の契約を結び、国の内から野獣を追い払う。彼らは心を安んじて荒野に住み、森の中に眠る。

わたしは彼らおよびわが山の周囲の所々を祝福し、季節にしたがって雨を降らす。これは祝福の雨となる。

 

野の木は実を結び、地は産物を出す。彼らは心を安んじてその国におり、わたしが彼らのくびきの棒を砕き、彼らを奴隷とした者の手から救い出す時、彼らはわたしが主であることを悟る。

彼らは重ねて、もろもろの国民にかすめられることなく、地の獣も彼らを食うことはない。
彼らは心を安んじて住み、彼らを恐れさせる者はない。

 

わたしは彼らのために、良い栽培所を与える。彼らは重ねて、国のききんに滅びることなく重ねて諸国民のはずかしめを受けることはない。

彼らはその神、主なるわたしが彼らと共におり、彼らイスラエルの家が、わが民であることを悟ると、主なる神は言われる。

あなたがたはわが羊、わが牧場の羊である。わたしはあなたがたの神であると、主なる神は言われる」。

 

この聖書の箇所は、イスラエルの指導者達に対しての言葉なのですが、現代で言えば全教会の牧師に対する警告とも言えます。

 

僕は、この聖書箇所を誰よりも尊敬する牧師先生に、神様から頂いた言葉として読み聞かせ、更に祝福を求めて教会を去ることを言わなければならないのでした。

 

僕にとっては、40日の断食よりも、数十回ムチ打たれるよりも、まだそれを尊敬する牧師先生に告げることのほうが比べ物にならないほどの苦痛でした。

 

しかし僕は、イエス様の言葉に従い、礼拝を終えた後に、牧師先生に声をかけ、二人きりで個室に入り、断食を始めた経緯から、先ほど頂いた御言葉も含て、全てのことをそのまま隠さずに打ち明けました。

そして、最後に「僕を祝福してお祈りして下さい」とお願いしました。

 

すると、先生は文句ひとつ言わずに、僕に按手をして快く祝福してくれました。

それで、この愛する教会や牧師先生との別れとなりました。

 

僕は、翌週からはその教会を去りましたが、今までこの内容は誰にも明かした事がありませんでした。

でも、イエス様の約束通り、僕はそのあとから霊の賜物を活用して、癒しや奇跡を起こせるようになりました。

これは聖霊の力によるものです。

 

イエス様が私たちの身代わりにムチを打たれて、十字架刑を受けました。

それで私たちはこの約束によって、誰かを癒すことが出来ます。

私たちが癒されるのは、イエス様が身代わりに罰を受けたからです。

更に、私たちが日々十字架を背負うのなら誰かが癒しを受けます。

 

もし、皆さんが神様に従っているにも関わらず、まるで呪われているような、罰を受けているような状況にあるのなら、実は感謝するべきことかもしれません。

 

なぜなら、イエス様と同じように苦しみを受けると、必ず誰かが癒されるからです。
そして誰かが癒されると、自分は復活の命で満たされます。
つまり、自分が死ねば誰かに命が供給されます。

これは癒しや命の法則です。

 

それをイエス様が見せてくれました。
与えれば与えられます。

 

断食も40日する必要はありません。

 

なぜならそれもイエス様がすでに体験してくれたからです。

だから私たちは満たされることが出来ます。

 

僕は苦しみを通して癒しを体験し、更に聖霊の力によって癒しを提供出来るようにもなりました。

これも全てイエス様が私たちの身代わりになってムチ打たれ、十字架にかかって罰を受けて死んでくれたからです。

 

そして、イエス様は3日目に墓からよみがえりました。
これは更に、永遠の命を与えるためです。

 

こんなに素晴らしいイエス様の愛や癒しをぜひあなたもお受け下さいね。

受け取る方法は簡単です。

「イエス様、私の罪の身代わりに、十字架にかかって下さり、ありがとうございます。あなたを私の救い主として、信じ受け入れます。イエス様のお名前によりお祈りします。アーメン」

 

このお祈りをするだけで、あなたの罪は許され、永遠の命が与えられます。
更にイエス様の霊である、聖霊様が内側に住むので、あなたを直接慰め癒してくれます。

ただで受けられるのですから、ぜひこの素晴らしい愛と救いと癒しを受け取って下さいね。

 

Keystoneより

 
証し(youtube
(※イエスを信じる人に神は現れます。)

癒し・奇跡
(※あなたが神の子の特権を行使すると全く同じことが起こります。)
天国と地獄
(※死後の世界が確実にある事を知って下さい。)
 
キリストの再臨
(※大艱難時代が目前なので、今すぐ神の国を目指して下さい。)
 
■賛美
 
■オンライン教会

No.18 ヨハネ3章16節( 1 / 1 )

今日は、僕が高校の頃、イエス様を信じてから1年後に体験したことについて、お話したいと思います。

タイトルが、「ヨハネ3章16節」となっていますが、これは新約聖書のヨハネの福音書に書かれている、聖書で最も有名な聖句のことです。

その聖書箇所の内容を、先に紹介させて頂きますね。

 

「ヨハネによる福音書3章16節」

 

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。
それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 

・・・と言う事なのですが、この聖書箇所は、ほんとに有名で、「聖書の中の聖書」などとも言われているほどです。

簡単にそのことを解説させて頂くと、天の父なる神様は、私たち一人一人を愛しているので、誰一人として滅んで欲しくはありません。

 

しかし、だからと言って神様は清くて聖なるお方なので、人の罪を見逃すことも出来ません。

義の神様なので、神の義にしたがって正しく罪を裁かないといけないからです。

しかし、もし神様の介入なくして、義を貫いて裁きを行ってしまうと、私たち人類は誰一人許される者がいません。

それどころか裁判を受けることもなく、地獄へ真っ逆さまに落ちるしかないです。

 

なぜなら、人間は誰でも、「生まれながらの罪」と、「罪の性質」とを持っているからです。

その罪に関する事は、旧約聖書の創世記と言う箇所を読むと、よく理解出来ます。

あるいは、keystoneのブログに紹介されている「ゴッド・ストーリー(創造から永遠へ)」と言う、youtube動画をぜひご覧下さい。

 

★ゴッド・ストーリー(創造から永遠へ)
https://youtu.be/l7z_TGJETy0

 

みなさんは、創世記の「エデンの園の物語」をご存知でしょうか?
そこには人類の祖先である、アダムとエバが出てきます。

 

神様は、彼らに自由意志を与えて、そこに「永遠の命の木」や「善悪を知る木」などを置きました。

神様との約束事として、「善悪を知る木」の実だけは絶対に食べてはいけないと言うものでした。

しかし、エバが一人でいる時に蛇に騙されて、その木の実を食べてしまい、それをアダムも食べてしまいました。

その瞬間、彼らは善悪を知るものとなり、罪が発生して死が入り込んでしまいました。

 

こう言う訳で、全人類に罪が入り込んだと言うわけです。

ですから、聖書の他の箇所では、「人間は一度死ぬことと、死んだ後裁きを受けると言うことが定められてる」。と書かれています。

この罪の問題からは誰も逃れることが出来ません。

これを放置すると永遠の滅びと言う結果しか残されていないからです。

 

天の父なる神様は、愛の神様なので愛を全うしますが、同時に義の神様でもありますので、正しい裁きも行わなければなりません。

それを、同時に解決するためには、全く罪も汚れもない人が身代わりになって、全人類のために罰を受けなければなりません。

 

実はそれを行うために、神の独り子イエス・キリストが処女マリアから生まれ、成人になって宣教活動をし、十字架にかかり、全人類の罪を背負って死にました。

更に、3日目に墓の中から生き返り、信じるものに義に対する罪の許しだけではなく、その愛のゆえに永遠の命さえも与えてくれました。

 

それで、私たちは、自分が罪人であると言う事を素直に認めて、更に「イエス様が自分の身代わりになって罰を受けてくれた自分の救い主なんだ」と言うことを、心で信じて告白するだけで、その罪は許されて、更に永遠の命も持つことが出来ます。

この十字架のおかげで、神様の「愛と義」が完全に全うされたわけですね。

 

実は十字架の形自体が神様の「愛と義」を象徴しています。

この「愛と義」が同時に行われたのが十字架です。
つまり、「愛と義」が交差したのが十字架の形になるわけです。

ですから、十字架を見るたびに神様の愛と義を感じて下さいね。

 

それと皆さんはご存知でしょうか?

人間の細胞と細胞をつなげる接着分子のことを・・・
そのタンパク質分子のことを「ラミニン」と言いますが、その分子構造を調べて、ぜひその目で確認して下さい。

 

★細胞接着分子「ラミニン」
http://www.sc.fukuoka-u.ac.jp/~bc1/Biochem/adhmol.htm

 

なんと、その分子構造を電子顕微鏡で見てみると鮮やかな十字架の形をしています。
ほんとに感動的ですね。

 

実は、聖書によると私たちは一人一人がイエス・キリストのからだの機能器官だと言っています。

つまり、イエス様の細胞一つ一つが信じた私たち個人個人だと言っています。
それを一つにつなげているのが十字架なのです。
ほんとに凄いですね。

 

この十字架でしか、神の愛と義を全うすることが出来ません。

私たちがキリストのからだとしてつながる方法は十字架しかないのです。
更に、からだの働きを司るのが脳の働きです。

 

ですから、聖書ではイエス・キリストは「かしら」だと、言っています。

からだの働きはかしらの指令によって守られ導かれ管理されています。
更に、その細胞一つ一つをつなげるものが十字架になるわけです。

 

更に言うと、その脳の指令を伝える神経の働きをしているのが聖霊様です。
神経の働きを通して、各細胞に脳から指令が出て、その指令に基づき体は機能しています。

 

ですから、十字架を通して細胞同士がつながっていれば,絶対にからだの機能器官の働きは損なわれません。

つまり、病気になるわけがありません。

 

更に言うと、細胞に栄養を送る役目が血液です。
つまり「血」ですね。

この血が各細胞に栄養を与えて細胞は生きることが出来ます。
つまり、血は命そのものを供給していると言うわけです。

これも聖書に書かれている真理です。

 

つまり、聖書には「血は命である」とはっきり書かれています。

ですから、血を通してでしか細胞は命を得ることが出来ません。
それと同じく、私たちはイエス様の血を受けなければほんとの意味で生きることが出来ません。なぜなら、イエス様の血は命そのものだからです。

 

体のことを調べれば調べるほど、聖書の正しさが理解出来ます。
医学を志す方や、病気や健康に関わりたい人がいるのなら、ぜひ聖書の真理を学んで下さいね。

 

これらは科学的事実でもあるし、聖書の真理そのものです。

更に、よろしければ、keystoneの管理するブログ、「ラジオ健康相談室」の中の「三位一体の癒し:肉体・心・霊の癒しについて」と言う番組をお聞き下さいね。

 

そうすれば、人間の体に隠されている三位一体の神の隠された真理が理解出来ます。

ですから、人類にとって、そして教会の働きにとって、十字架はとても重要な役割があると言うわけです。

 

この十字架は、もしイエス様が死からよみがえってこなければ、今でも単なる処刑の道具で呪いの象徴になるだけのものでした。

しかし、イエス様は死んだだけではなく、墓の中から、黄泉の世界からよみがえって勝利したお方です。

その結果、天でも地上でも全ての権威を持って、この世を統べ治めています。

 

その証拠として、イエス様の名前で命じるとあらゆることが起きます。
それは、アンビリバボー体験を最初から見たり聞いたりしたら分りますよね?

あるいは、聖書を読んで誰でもその通りを行えばわかることです。

 

イエス様が死んでよみがえり、その40日目に雲に乗って天に昇り、神の右の座に座したのですが、その10日あとに、弟子たちに聖霊が下りました。

これがイエス様が弟子たちに告げていた約束の聖霊のことで、復活のイエス・キリストの霊です。

 

この聖霊の力により、私たちは力と権威を行使することが出来、キリストの弟子として働くことが出来ます。

イエス様が弟子たちに権威を授けて働きに行かせました。


そのときの言葉はこうです。

 

マタイによる福音書10:5~10:8

 

「イエスはこの十二人をつかわすに当り、彼らに命じて言われた、「異邦人の道に行くな。またサマリヤ人の町にはいるな。
むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。
行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。
病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。」

 

ですからkeystoneも、このみ言葉通りを少しも疑わないでそのまま信じて、実践して、使徒たちと同じように、病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出しているわけです。

これが聖書の真理です。

 

それを証明してくれるのが人間の働きではなくて、聖霊様の働きです。
僕は人間的にはおそらくごみのように見られている存在かもしれません。

 

しかし、働きは全て聖霊様によるものです。
だから、素晴らしいのです。
人間の評価や、賞賛は全く必要ありません。
そんなものなんかいりません。
それ自体が聖霊様の働きを邪魔するだけです。
だから、僕は隠れてそれをするわけです。

 

なぜなら、ただただ、聖霊様の現れにより、神様の御心にしたがって奇跡が起こり、イエス様だけが栄光を受けるにふさわしいからです。

 

その結果として、キリストのからだが復活して個人も教会も生きると言う訳です。
ほんとに素晴らしい真理ですね。

 

もし、私たちのつながりに十字架が欠けていれば、どうなるか分りますよね?
細胞と細胞、機能器官が十字架でつながらなければ、その関係性は分裂・破壊・崩壊・病い、呪いとなる訳です。

 

ほんとに、聖書は素晴らしい真理ですね。

こう言う、超科学的事実を通してでも、聖書は私たちに十字架の力を見せ付けています。

ですから、皆さんこの事実を素直に受け入れて欲しいですね。

 

では、どうしてそういう神様の奇跡や不思議が今でも起こり、私たちの内側にも外側にも圧倒的なイエス・キリストの命が現れるのでしょうか?

 

それはなぜかと言うと、実は

「私たち信じる者全員もイエス様と同時に天の座に着いた事になる」

からです。

これは、ほんとに物凄い真理です。

使途パウロが、キリストのとその弟子達の権威について力説していますので、その聖書箇所を紹介します。

 

エペソ人への手紙1章17節~23節

 

「どうか、わたしたちの主イエス・キリストの神、栄光の父が、知恵と啓示との霊をあなたがたに賜わって神を認めさせ、
あなたがたの心の目を明らかにして下さるように、そして、あなたがたが神に召されていだいている望みがどんなものであるか、聖徒たちがつぐべき神の国がいかに栄光に富んだものであるか、
また、神の力強い活動によって働く力が、わたしたち信じる者にとっていかに絶大なものであるかを、あなたがたが知るに至るように、と祈っている。

 

神はその力をキリストのうちに働かせて、彼を死人の中からよみがえらせ、天上においてご自分の右に座せしめ、
彼を、すべての支配、権威、権力、権勢の上におき、また、この世ばかりでなくきたるべき世においても唱えられる、あらゆる名の上におかれたのである。

 

そして、万物をキリストの足の下に従わせ、彼を万物の上にかしらとして教会に与えられた。

この教会はキリストのからだであって、すべてのものを、すべてのもののうちに満たしているかたが、満ちみちているものに、ほかならない。」

 

更に使徒パウロが力強く語ります。

 

エペソ人への手紙2章4節~6節

 

「しかるに、あわれみに富む神は、わたしたちを愛して下さったその大きな愛をもって、
罪過によって死んでいたわたしたちを、キリストと共に生かし――あなたがたの救われたのは、恵みによるのである――
キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。 」

 

なんと、キリストの愛のゆえに恵みのゆえに私たちについても

「キリスト・イエスにあって、共によみがえらせ、共に天上で座につかせて下さったのである。」

と言っています。

 

皆さんは、この凄さがお分かりでしょうか?

信じる私たちにも全く同じようにキリストの権威・地位が与えられています。

 

ですから、すでに信じる私たちの権威、地位はイエス・キリストと同じです。

 

信じられないかもしれませんが大きな事実です!そして真理です!
だからこそ、病気も悪霊も罪も悩みも逃げ去るわけです!
この素晴らしさが、みなさん分りますか?

 

ぜひ、皆さんにも、この真理を知って頂きたいです。
イエス様を自分の救い主として信じ受け入れ、救いを受け取って下さいね。
そうすればあなたは、神の子となり、イエス・キリストと同じ権威・地位を行使できます。

 

そのことを使徒ヨハネも力強く語っています。

 

ヨハネの第一の手紙5章4節~5節

 

「なぜなら、すべて神から生れた者は、世に勝つからである。そして、わたしたちの信仰こそ、世に勝たしめた勝利の力である。
世に勝つ者はだれか。イエスを神の子と信じる者ではないか。」

 

私たちはイエス様を信じることによって救われ、永遠の命を得ることが出来ます。
しかし、それだけでは物足りません。

イエス様の愛に応答するには、この世でイエス様の権威と地位を行使して世に打ち勝たなければなりません。

 

ですから、弟子たちは日々十字架を負って聖霊様の声に従ったわけです。
これは人間の業によるものではないので、自分自身は十字架を負わなければなりません。

そうすると、キリストのかしらから命が流れ、からだ同士がつながり再生され癒され生かされるというわけです。

そして、命が供給されます。
そしてこの世に勝利できると言うわけです。

 

・・・と言うわけで、前置きの解説が長くなりましたが、最後に僕の体験したことをお話したいと思います。

 

僕が救われて1年ほどたった時の事です。
イエス様の受難週の時機のことでした。

 

祈祷会でイエス様の十字架を思い、祈っていると、突然イエス様の十字架のシーンが目の前に現れました。

まるで大きな映画館で映像を観ているようでした。

 

そこには、イエス様と二人の強盗もいました。
3人が十字架にかかっていて、弟子たちは遠くでそれを見ていました。

群集もその様子を見ていました。

僕はイエス様が十字架にかかっているのをはっきり見ました。

 

そしてローマ兵がイエス様の死を確認するためにわき腹に槍を突き刺しました。

僕もヨハネたちのそばで、それを眺めていたのですが、あまりの残酷さに思わず、遠くからローマ兵に向かって走って行きました。

 

僕はイエス様を愛していたので、そのことが我慢出来ませんでした。

衝動的に、イエス様のわき腹に槍を突き刺したローマ兵目掛けて走って行き、そのローマ兵の肩に手をかけて顔を殴りつけようとしました。

 

なぜなら僕は死んでもいいと思っていたからです。

しかし、そのローマ兵の顔を殴ろうとした瞬間、恐ろしい事実を見てしまいました。

こんな衝撃は生まれて初めてです。

 

何と、そのローマ兵の顔を殴ろうとして、彼が振り向いた瞬間、実はその人が僕自身だったのです。

殴ろうとした顔が僕の顔でした。

そのわき腹を刺し通した張本人は何を隠そう僕自身でした。

 

そのときの衝撃は、表現不可能です。

「あああ・・・イエス様を殺してわき腹まで残酷に刺し通したのは僕自身だったんだ・・・」

 

僕は自分が大きな勘違いをしていたことを知らされました。

 

聖書にはこう書かれています。

 

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。
それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 

僕はこの有名な聖書箇所を読んで感動しましたが、それは意味の無いものでした。

そこに僕自身がいなかったのですから・・

つまりこう言えば分ります。

 

「神はそのひとり子を賜わったほどに、Keystoneを愛して下さった。
それは御子を信じるKeystoneが滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 

僕はクリスチャンになって1年も経って初めてこのことを知りました。

この聖書箇所は人類全体のことを語っていますが、それだけでは何の意味もありません。

 

このイエス様の死は、誰の為でもなく、自分自身の為であり、イエス様を殺したのは自分の罪の身代わりの為で、実は自分自身がイエス様を殺してしまったのだと言う事実を知ることが重要です。

 

僕はこのことを思い知らされ、涙を流して深い悔い改めをしました。

 

「イエス様ごめんなさい。僕はイエス様の為なら自分は死ぬのも怖くないと思って、イエス様を助けに走りましたが、イエス様の十字架の意味を全然分っていませんでした。
実は僕がローマ兵だったんですね。こんなショックは今まで受けたことがありません。
どうかお許し下さい。その頃のユダヤ人やローマ人と全く同じく、僕自身があなたを殺したことを認めます。そして、それを許してくれたことも感謝します。
イエス様の名前によりお祈りします。アーメン」

 

僕は、ペテロと同じ事をしてしまいましたが、ほんとに衝撃が大きすぎて立つことも出来ないほどでした。

でも、そのことを教えてくれた聖霊様に心から感謝します。

みなさんもどうか、この素晴らしい聖書箇所を自分自身のものとして受け入れて下さいね。

 

最後にもう一度だけ、このみ言葉を紹介してこのお話を終わります。

 

「ヨハネによる福音書3章16節」

 

「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。
それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである。」

 

これはあなたのために書かれた真理です。
ぜひ受け取って下さいね。

 

イエス様だけに全ての栄光がありますように・・アーメン

 

Keystoneより

 

 
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No.19 霊の2倍の賜物( 1 / 1 )

僕が、元の教会を出て次の教会で教えを受けているときの事でした。
先生が突然こう言いました。

 

「今日は、みなさんに御霊の賜物が与えられるので、自由にそれを求めて下さい。」

御霊の賜物とは、イエス様を信じたクリスチャンに与えられる霊的な能力のことです。

 

聖書のみことばから御霊の賜物についてまとめると、

 

1.知恵のことばの賜物
2.知識のことばの賜物
3.信仰の賜物
4.癒しの賜物
5.力あるわざの賜物
6.預言の賜物
7.霊を見わける力の賜物
8.種々の異言の賜物
9.異言を解く力の賜物

 

以上、9つの御霊の賜物があります。

 

この賜物を自由に求めなさいと、聖霊様を通して先生が語ったのでした。

そこで僕は、聖霊様に語り掛けました。

 

「聖霊様、僕は全ての賜物が与えられていると思うのですが、どうしたらいいですか?
もし、よろしければ、先生の2倍の霊の賜物を与えて下さい。」

 

僕は、何とも贅沢なお願いをしてみました。
つまり、先生の力の2倍も求めてしまったのですから・・・

 

しかし、聖霊様がすぐに答えてくれました。

「もちろん、あなたにはそれも与えられます。しかし、あなたはそんなことよりもただ、父の愛だけを求めなさい。そうすればそれらのものは与えられます。」

 

僕は、なるほどと思い、

「分りました。僕は単純に父の愛だけを求めて行きます。」

 

そして感謝を捧げました。

 

その学びのセミナーが終わって、次の奇跡の集会のときが来ました。

僕はいつも、先生と奉仕をしていたので、僕自身が呼ばれて按手を受けたり祈ってもらうことはないのですが、その日はいつもと違いました。

 

「兄弟、どうぞ前に出てきて下さい。」

僕は、先生に呼ばれて前に出ました。

そして、先生が言いました。

 

「今日、あなたは私の2倍の霊を受けます。
そのしるしとして幻を見ます。
その幻をみるとあなたは私の霊の2倍を受けることが出来ます。」

 

僕は驚きましたが、聖霊様が約束してくれていたので感謝しました。
そして、一体何が起きるのだろうかと期待していました。

先生が按手をして祈ると、物凄いものを見てしまいました。

 

突然、宇宙のような大きな空間が視野に広がりました。

 

そして「光あれ!」と声がしました。
その瞬間、暗闇のかなたからまぶしいほどの閃光がきらめき、更に光の粒子が僕をめがけて一斉に飛んできました。
更にその光の粒の一つが僕の胸の辺りに入り込んで行きました。
僕は、イエス様の言葉と光の粒子を同時に体の中に受けました。
そして例えようのない感動と平安に包まれました。

 

実は、これはこの世が作られたときの瞬間映像でした。
何と僕は、しるしとしてその瞬間を見せられてしまったのでした。

 

興奮したまま、その日はそれで終わったのですが、次の集会の前の日に聖霊様が語りました。

 

「明日、集会の前の祈りのときに、私が示した一人の姉妹を講壇の前に立たせて、天に向かってハレルヤと神を褒め称えながら両手をあげさせなさい。」

僕は、「はい。わかりました。明日姉妹にその通りにしてもらいます。」

 

僕は翌日集会の前にその姉妹に事情を説明して、その通りにしてもらいました。
二人で、講壇のおいてあった場所に立ちました。

ここはいつも先生が、メッセージを語ったり神様の力により奇跡や不思議や癒しをおなう場所です。

つまり、教会の中で最も清くて聖なる場所です。
なぜなら、そこに天からの油注ぎが集中的にあるのですから・・・

 

油注ぎとは、聖霊の圧倒的な力のことです。
これを受けると、癒しや奇跡が起こります。

その真上の天が開かれるのでそう言うことが起きます。

 

さて、僕は彼女をそこに立たせて両手をあげさせて「ハレルヤ!」と言ってもらいました。

そして、心の中で聖霊様に言いました。

 

「聖霊様、あなたの言うとおりにしました。でも、一体これから何が起きるのですか?」

僕がそう尋ねると、すぐに信じられないことが起きました。

 

何と、姉妹が立っている場所の天が開かれ、何かが洪水のように落ちてくるのを感じました。

僕は彼女の両手首を支えていたのですが、更に天の幻をみていると、竜巻のようなものが発生して、僕らはその竜巻に振り回されて、体は宙に浮き、お互いが2メートルも吹き飛ばされてしまいました。

 

そして僕は吹き飛ばされて床に倒されました。
目を開けると天が開いていて、そこから大勢の人が僕らを眺めていました。

何と、天の住民と目が合ってしまいました。

 

そして体中に今まで一度も体験したことのない圧倒的な油注ぎを受けました。
受けましたと言うよりも、ナイアガラの滝を受けているように油注ぎをうけ続けていてそれが全然止まりません。

姉妹も、全く同じ状況で満たされすぎて叫んでいました。

 

この油注ぎの中に入れば誰でも癒され、悪霊は出て行き、死人は生き返り、更にイエス様のことを話さなくても、一瞬で誰でも神様を認めることが分りました。

それほどの強烈な油注ぎでした。

 

僕も姉妹も、その臨在の余韻に浸りながら神様に感謝して礼拝しました。

この体験はその時1度きりのものでしたが、神様は必要に応じてその油注ぎを使わせてくれると信じています。

 

あれから、7年になりますが、実は最近その封印が解かれました。

ですから、僕はこの証を先生にも初めて証をして、このように公開しています。

 

ちなみに、旧約聖書に出てくる偉大な預言者エリヤとエリシャの間でもそのことが起きました。

それを紹介します。

 

第2列王紀2章9節~12節

 

彼らが渡ったとき、エリヤはエリシャに言った、「わたしが取られて、あなたを離れる前に、あなたのしてほしい事を求めなさい」。
エリシャは言った、「どうぞ、あなたの霊の二つの分をわたしに継がせてください」。
エリヤは言った、「あなたはむずかしい事を求める。あなたがもし、わたしが取られて、あなたを離れるのを見るならば、そのようになるであろう。しかし見ないならば、そのようにはならない」。
彼らが進みながら語っていた時、火の車と火の馬があらわれて、ふたりを隔てた。そしてエリヤはつむじ風に乗って天にのぼった。
エリシャはこれを見て「わが父よ、わが父よ、イスラエルの戦車よ、その騎兵よ」と叫んだが、再び彼を見なかった。

 

以上ですが、どうでしょう?
なんだか僕が体験したことと似ていますね。

 

預言者エリヤが、生きたまま天にあげられる前に起きた出来事なのですが、その弟子のエリシャはエリヤが「わたしが取られて、あなたを離れる前に、あなたのしてほしい事を求めなさい」。と言われてエリシャはすかさず、「どうぞ、あなたの霊の二つの分をわたしに継がせてください」。と、僕と同じ言葉を発しました。

 

そしてエリヤが言いました。
「あなたはむずかしい事を求める。あなたがもし、わたしが取られて、あなたを離れるのを見るならば、そのようになるであろう。しかし見ないならば、そのようにはならない」。

 

すると、エリシャは幻を見ました。
「火の車と火の馬があらわれて、ふたりを隔てた。そしてエリヤはつむじ風に乗って天にのぼった。」と書いてある通りです。

 

凄いですね。
竜巻まで同じです。

 

そして、エリシャはそのすぐあと、エリヤの2倍の霊を受けたことが証明されました。

続きを読むと分ります。

 

第2列王紀2章12節~15節

 

そこでエリシャは自分の着物をつかんで、それを二つに裂き、 またエリヤの身から落ちた外套を取り上げ、帰ってきてヨルダンの岸に立った。
そしてエリヤの身から落ちたその外套を取って水を打ち、「エリヤの神、主はどこにおられますか」と言い、彼が水を打つと、水は左右に分れたので、エリシャは渡った。
エリコにいる預言者のともがらは彼の近づいて来るのを見て、「エリヤの霊がエリシャの上にとどまっている」と言った。

 

神様はエリシャの願いどおりにエリヤの倍の霊を頂くことが出来ました。

Keystoneもそれを頂いたのですが、7年間も封印されていました。

 

しかし、つい最近仕事をしていると、聖霊様から声がかかりました。

「Keystone・・・」

僕は驚きました。
なぜなら、僕の本名ではなく、「keystone」と呼んだからです。

 

僕はすぐにその意味が理解できました。

つまり、「今から主の為に動きなさい!主の為に働きなさい!」と言うメッセージだと分ったからです。

 

ちなみに、このKeystoneと言うネーミングに関してなのですが、実は今から5年以上前にインターネットで仕事をするようになったときに、聖霊様が言いました。

 

「あなたは自分の名前を名乗らないで、ニックネームをKeystoneと言うことにしなさい。」

 

「Keystone」と言うのは、直訳すると「要石」と言う意味です。
更に、沖縄の別名でもこの名前が使われています。

 

僕は、どういう意味があるのだろうかと考えてみましたが、その時に幻が見えました。

それは、ペテロがイエス様に対して信仰告白をするシーンでした。

 

マタイによる福音書16章13節~20節

 

イエスがピリポ・カイザリヤの地方に行かれたとき、弟子たちに尋ねて言われた、「人々は人の子をだれと言っているか」。

 

彼らは言った、「ある人々はバプテスマのヨハネだと言っています。しかし、ほかの人たちは、エリヤだと言い、また、エレミヤあるいは預言者のひとりだ、と言っている者もあります」。
そこでイエスは彼らに言われた、「それでは、あなたがたはわたしをだれと言うか」。
シモン・ペテロが答えて言った、「あなたこそ、生ける神の子キリストです」。

 

すると、イエスは彼にむかって言われた、「バルヨナ・シモン、あなたはさいわいである。あなたにこの事をあらわしたのは、血肉ではなく、天にいますわたしの父である。

そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。

 

わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」。

そのとき、イエスは、自分がキリストであることをだれにも言ってはいけないと、弟子たちを戒められた。

 

以上ですが、僕のKeystoneと言う名前と、このペテロの信仰告白のシーンと一体、何の関係があるのかを考えて、僕はこの聖書箇所を何度も読み返しましたが、凄いことに気がつきました。

 

ここで大事なことは、ペテロが自分の考えなどではなく、天の父の啓示により、信仰告白をしたところです。

更に、重要なのは、その言葉に対してイエス様が言っている事です。

 

「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。そして、わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てよう。黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。

わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」

 

イエス様は物凄いことを語っていますね?

ペテロが啓示により信仰告白をすると、それに応答してみことばを語りました。

 

「そこで、わたしもあなたに言う。あなたはペテロである。」


「ペテロ」の本名は「シモン」でした、直訳すると、「葦(あし)」と言う意味です。
「葦(あし)」とは、背の高いイネ科の草の一種のことで、ペテロの性格をよく表しています。

 

つまり、風に吹かれると、あっちに傾いたりこっちに傾いたりでいつも、環境に振り回されて不信仰な状態をイメージさせています。

そのことが、実際に起きてしまいました。

 

マタイによる福音書14章25節~33節

 

イエスは夜明けの四時ごろ、海の上を歩いて彼らの方へ行かれた。
弟子たちは、イエスが海の上を歩いておられるのを見て、幽霊だと言っておじ惑い、恐怖のあまり叫び声をあげた。


しかし、イエスはすぐに彼らに声をかけて、「しっかりするのだ、わたしである。恐れることはない」と言われた。
するとペテロが答えて言った、「主よ、あなたでしたか。では、わたしに命じて、水の上を渡ってみもとに行かせてください」。


イエスは、「おいでなさい」と言われたので、ペテロは舟からおり、水の上を歩いてイエスのところへ行った。
しかし、風を見て恐ろしくなり、そしておぼれかけたので、彼は叫んで、「主よ、お助けください」と言った。


イエスはすぐに手を伸ばし、彼をつかまえて言われた、「信仰の薄い者よ、なぜ疑ったのか」。
ふたりが舟に乗り込むと、風はやんでしまった。
舟の中にいた者たちはイエスを拝して、「ほんとうに、あなたは神の子です」と言った。

 

これがペテロの本来の性質でした。
しかし、天の父の啓示により信仰告白をした瞬間、何かが変わりました。

 

これまでのシモン、つまり風に吹かれて揺らぐあしのようではなく、イエス様が彼のことを「あなたはペテロである。」と言いました。
ペテロの意味は、「岩」です。

 

イエス様は、信仰告白をした「ペテロ」、つまり「岩」の上に教会を建てると宣言しました。
そしてその教会は、「黄泉の力もそれに打ち勝つことはない。」ほどの力を持っています。

 

更にペテロに対して言いました。


「わたしは、あなたに天国のかぎを授けよう。」


つまり、ペテロだけではなく教会に対しての宣言です。

 

教会には天国の扉を開く鍵が与えられているということですね。

 

更に、イエス様はこう言いました。

 

「そして、あなたが地上でつなぐことは、天でもつながれ、あなたが地上で解くことは天でも解かれるであろう」

 

これは凄い言葉ですね。
なんと、教会が地上でつなぐことは天でもつながれ、地上で解くことは天でも解かれる。
と言っています。

 

これはどういう意味でしょう?

つまり、イエス様の権威を用いて教会が地上でみこころを執行すると言う意味です。
ほんとに凄いことですね。

 

僕はこの聖書箇所を読みながら感動していましたが、僕のKeystoneと言う名前と何の関係があるのかな?と考えてみました。

 

そしてもう一度、聖書箇所をよく読んでみると、何と、僕の名前が隠されていました。

 

まず、「キーストン」を英語に直すと「Keystone」と言うことになりますが、「key」と言う意味に関連する言葉を捜してみました。

そうすると、「天国の鍵」の「鍵」が英語で訳すと「key」であることに気がつきました。

 

次は、Keystoneの「stone」の部分を探してみました。
「stone」とは直訳すると「石」と言う意味です。

僕は「石」に関係する言葉を捜しました。そして発見しました。

 


ペテロの名前は「岩」と言う意味があります。
「岩」を英語に訳すと、「Rock」になりますが、「岩」をイメージしてみるとそれが石であることが浮かびました。

ですから、「stone」とは「石」のことで、その塊が「岩」と言うことになります。

つまりそれは、ペテロの名前のことを意味しています。

 

更に言うと、教会の事を指しています。

教会は信仰告白の上になりたっていて、それには「黄泉の力」つまり、「死」でさえも打ち勝つことは出来ないと言う意味です。

 

更に、天国の鍵を授けて、天と地上を結ぶ権威も与えられています。

「Keystone」の名前にはこんな深い意味があったのですね。

僕自身が驚いてしまいました。

 

ですから、聖霊様に「Keystone」と声をかけられたときに、その意味がよく理解できました。

僕は、それから1ヶ月後に更に啓示とみことばをもらいました。

 

実はそれを頂いてまだ、1週間にもなりません。

僕が、この働きについて答えを求めていると、幻が見えました。

それは有名な絵です。

 

イエス様が子羊を両肩に乗せている画像です。

そして、みことばが与えられました。

 

「あなたは失われた1匹の羊の為に命を捨てなさい」

 

僕は、「アーメン。分りました。」と、迷わずその言葉を受け入れました。

更にその聖書箇所を読んでみると啓示が与えられました。

 

マタイによる福音書10章5節~14節

 

イエスはこの十二人をつかわすに当り、彼らに命じて言われた、「異邦人の道に行くな。
またサマリヤ人の町にはいるな。

むしろ、イスラエルの家の失われた羊のところに行け。

行って、『天国が近づいた』と宣べ伝えよ。

病人をいやし、死人をよみがえらせ、らい病人をきよめ、悪霊を追い出せ。ただで受けたのだから、ただで与えるがよい。

財布の中に金、銀または銭を入れて行くな。

旅行のための袋も、二枚の下着も、くつも、つえも持って行くな。働き人がその食物を得るのは当然である。

どの町、どの村にはいっても、その中でだれがふさわしい人か、たずね出して、立ち去るまではその人のところにとどまっておれ。

その家にはいったなら、平安を祈ってあげなさい。

もし平安を受けるにふさわしい家であれば、あなたがたの祈る平安はその家に来るであろう。もしふさわしくなければ、その平安はあなたがたに帰って来るであろう。

もしあなたがたを迎えもせず、またあなたがたの言葉を聞きもしない人があれば、その家や町を立ち去る時に、足のちりを払い落しなさい。

 

以上ですが、僕はそのままこのみことばを受け入れました。

僕が1匹の羊の為に命を捨てると、このことが起こると言う啓示です。
なので、僕は聖霊様の言葉に従いそれを行う決心をしました。

 

・・・と言っても、今までしてきたことと同じことを使命感を持って行うだけの話です。
そのためには、僕のことを祈りで支えてくれる人が必要です。

 

今は、その人たちを捜し求めている状態ですが、準備が整えばその働きを喜んでしたいと思いますので、祈りの必要を感じてくれた方がいらっしゃいましたらぜひ、この働きの為にお祈り下さいね。

 

その方々にも主の豊かな恵みがありますように・・
イエス・キリストの名前によりお祈りします。
アーメン。

 

このようにして、僕は7年目にしてこの賜物が開放されたわけです。

 

どうか、あの油注ぎが豊かに注がれて多くの方々を癒してイエス・キリストに出会わせて下さいますように・・・
主イエスの名前によりお祈りします。
アーメン

 

Keystoneより

 

 
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No.20 血の清めと油の聖め( 1 / 1 )

今日は、「癒し」や「礼拝」や「務め」に関して奥義を語りたいと思います。
これは、聖霊様の啓示と実体験から学んだことです。
そして、それを証明するものが、「聖書のみ言葉」と「聖霊様の現われ」との一致です。

 

「癒し」については、一般の方でも理解出来ると思います。
「癒し」とは、体や心や霊的な部分の病的問題が解決することを言います。

 

人間の体は、三位一体です。
「体」、「心」、「霊」が一つになったのが人間です。
そして、人間は神様の形に似せて作られています。
神様も父・子・聖霊の三位一体です。

ですから、癒しを考える場合には、体と心と霊の癒しも考えなければなりません。

 

例えば、こういう話があります。

自殺願望のある少女がいました。

ある日、彼女はアパートから飛び降り自殺をしましたが、車の屋根に落ちて一命を取り留めました。

医者は彼女のために一生懸命治療をしました。
そして体が良くなり、歩けるようになると、その病院の屋上から飛び降り自殺をしました。

心が病んでいるときには、体だけをどんなに癒しても、心が癒されていないのなら、健全な状態ではありません。

それと、彼女の場合には自殺願望を起こす悪霊の影響もありました。
この場合には霊的な癒しも必要です。

 

また、こう言う事もありました、

ある若い青年がいました。
この青年は肝臓の病で、日本では治せないと言うことで、海外で臓器移植をするために家族が数千万の募金活動もしている状態でした。

しかし、僕の仕事仲間が食事療法の指導で関わることになりました。

 

最初は、指示通りに食事療法を実践してて、肝臓が治っていきました。
それで、僕の仕事仲間は、彼に言いました。

「調子が良くなっても、お酒は絶対に飲まないように、それと夜遊びもしないように、食事療法もいいと言うまで絶対に止めないように」

 

しかし、その青年は彼の言いつけを守りませんでした。

調子が良くなり、お酒を毎日飲み、友達と夜遊びもして食事も好きなものばかり食べていました。

そしてある日、肝臓が機能停止して死んでしまいました。

これも、体だけ治しても、心の状態が癒されていなかったので、自制心が無くて死んでしまった例です。

 

医療機関で治せないものを、改善・完治して生きていく可能性があったのに、自制力がないために死んでしまいました。

僕は、仕事仲間に言いました。

「人間は、三位一体の存在なので、体も心も霊も癒す必要がありますね。これからはそう言うこともテーマにして一緒に活動しましょう。」

と言うことで、「三位一体の法則をテーマに癒しの指導もしてきました。」

 

詳しくは、Keystoneの管理している「ラジオ健康相談室」と言う、ブログをご覧下さい。
そこに、三位一体の法則や癒しについて詳しく解説してあります。

★ラジオ健康相談室
http://ultimateclub.cocolog-nifty.com/

 

イエス様の名前により命じると、癒しが起きるのは、イエス様が鞭を打たれて十字架で死んでくれたからです。

聖書にちゃんと書かれています。

 

イザヤ書53章4節~5節

 

「まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、
彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたのだと。


しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。


彼はみずから懲しめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。」

 

イエス様の名前で、癒しが起きるのは、イエス様が罰を受けてくれたからです。

 

では、続いて「礼拝」について考えてみましょう。

一般的に、礼拝と言うのは、日曜日に教会に行くことを言っていると思います。
しかし、実は神様を礼拝すると言うのはそれだけではありません。

 

例えば、イエス様はこう言いました。

 

ルカによる福音書9章23節~24節

 

「それから、みんなの者に言われた、「だれでもわたしについてきたいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負うて、わたしに従ってきなさい。
自分の命を救おうと思う者はそれを失い、わたしのために自分の命を失う者は、それを救うであろう。」

 

ヨハネによる福音書4章24節

 

「神は霊であるから、礼拝をする者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」。

 

イエス様が言っているように、「礼拝者は霊とまこと」とをもって礼拝すべきだということです。

 

それと、礼拝と言う儀式だけじゃなくて大事なのはいつでも自分を捨てて、日々十字架を負ってみ言葉に従い、聖霊様に従うと言うことです。

その犠牲を、礼拝のときに携えて毎週捧げればいいというわけです。

よく、「礼拝を受ける」と言いますが、「礼拝とは捧げる」ものです。

 

僕が、礼拝の姿勢について参考になると思うのは、アブラハムです。
彼こそまことの礼拝者です。

 

創世記第22章1節~14節

 

「これらの事の後、神はアブラハムを試みて彼に言われた、「アブラハムよ」。彼は言った、「ここにおります」。

神は言われた、「あなたの子、あなたの愛するひとり子イサクを連れてモリヤの地に行き、わたしが示す山で彼を燔祭としてささげなさい」。

 

アブラハムは朝はやく起きて、ろばにくらを置き、ふたりの若者と、その子イサクとを連れ、また燔祭のたきぎを割り、立って神が示された所に出かけた。

三日目に、アブラハムは目をあげて、はるかにその場所を見た。

 

そこでアブラハムは若者たちに言った、「あなたがたは、ろばと一緒にここにいなさい。わたしとわらべは向こうへ行って礼拝し、そののち、あなたがたの所に帰ってきます」。

 

アブラハムは燔祭のたきぎを取って、その子イサクに負わせ、手に火と刃物とを執って、ふたり一緒に行った。

 

やがてイサクは父アブラハムに言った、「父よ」。彼は答えた、「子よ、わたしはここにいます」。イサクは言った、「火とたきぎとはありますが、燔祭の小羊はどこにありますか」。

アブラハムは言った、「子よ、神みずから燔祭の小羊を備えてくださるであろう」。こうしてふたりは一緒に行った。

 

彼らが神の示された場所にきたとき、アブラハムはそこに祭壇を築き、たきぎを並べ、その子イサクを縛って祭壇のたきぎの上に載せた。

 

そしてアブラハムが手を差し伸べ、刃物を執ってその子を殺そうとした時、
主の使が天から彼を呼んで言った、「アブラハムよ、アブラハムよ」。彼は答えた、「はい、ここにおります」。

み使が言った、「わらべを手にかけてはならない。また何も彼にしてはならない。あなたの子、あなたのひとり子をさえ、わたしのために惜しまないので、あなたが神を恐れる者であることをわたしは今知った」。

 

この時アブラハムが目をあげて見ると、うしろに、角をやぶに掛けている一頭の雄羊がいた。アブラハムは行ってその雄羊を捕え、それをその子のかわりに燔祭としてささげた。

 

それでアブラハムはその所の名をアドナイ・エレと呼んだ。これにより、人々は今日もなお「主の山に備えあり」と言う。」

 


これが、アブラハムの礼拝に対する姿勢です。
彼は神の御心にしたがって自分の十字架を背負い、自分の命よりも大事なものを礼拝として捧げました。

 

その姿勢を神様は喜ばれ、アブラハムを信仰の父と認めました。

これが礼拝の姿勢だと思います。

 

次に、「務め」についてです。

務めとはパウロが言う「奉仕のわざ」のことです。
キリスト教では、このことを「ミニストリー」などと呼び、集会などで癒しや奇跡を起こしたりします。

 

しかし、それは一部分であり、パウロが言う本当の意味での務め・奉仕のわざ・ミニストリーとは「キリストのみからだを建て上げる」と言う事です。

 


エペソ人への手紙4章11節~13

 

「そして彼は、ある人を使徒とし、ある人を預言者とし、ある人を伝道者とし、ある人を牧師、教師として、お立てになった。
それは、聖徒たちをととのえて奉仕のわざをさせ、キリストのからだを建てさせ、
わたしたちすべての者が、神の子を信じる信仰の一致と彼を知る知識の一致とに到達し、全き人となり、ついに、キリストの満ちみちた徳の高さにまで至るためである。」

 

ここで、語っていることは重要です。
キリストは使徒・預言者・伝道者・教師・牧師を教会に立てました。
これは5役者とも呼ばれています。

 

5役者を立てた理由は、キリストのからだを建てあげる為です。

つまりそれが奉仕のわざであり、務めと言う事になります。

 

私たちが、務め、奉仕のわざ、ミニストリーをするというときには、「キリストのみからだを建てあげる」と言うことをしていることになります。

さて、このミニストリーについてなのですが、実は教会でのミニストリーのときに賛美をしていると、聖霊様が僕に語りました。

 

「今日、あなたにミニストリーについての秘訣を教えます。あなたはこれを知ることでいつでもその準備が整います。つまり、あなたはいつでもそのときが来ると、ミニストリーができる様になります。」

 

更に聖霊様は言いました。

 

「そのために、必要なのが血の清めと、油の聖めです。これについてはすでにあなたに教えました。」

 

僕は、そう言われて、そのことを思い出しました。

 

それは、 「No.14 創造の奇跡」 の中で紹介されている、創造の奇跡についてのことでした。

もう一度、そのことを証します。

 

ある日曜日の朝に、教会へ行きました。
そして、教会に入るなりある姉妹が僕に「息子のためにどうか祈ってほしい」と言うことでした。

僕は「いったいどうしたのだろう?」と思いながらも、案内されるまま、まだ生まれて半年くらいの赤ちゃんのところに行きました。

名前はリキ君と言います。

 

お母さんは、僕に「これを見て下さい。」と言って、その赤ちゃんの上着をまくって腰の辺りを見せました。

僕はリキ君の腰椎部分をを見て衝撃を受けました。
何と、腰椎の一部分がゴルフボールを半分に切ったような形で飛び出ていて、更にその骨を中心に背骨が大きく湾曲していました。

どう見ても現代の医学では治療困難な状態でした。

 

僕は、心の中で思わず聖霊様に「聖霊様!僕には無理です!」と叫んでしまいました。

そして、いつものように「聖霊様。僕はいったい何をすればいいのですか?」と聞きました。

 

すると、聖霊様はすぐに答えてくれました。

 

「あなたの指で触れてイエスの血で清めなさい。」

 

僕は聖霊様に言われるまま、その異常な骨に指先で触れて、「イエスの血で清めます。」と言いました。

そして、又聖霊様に、「次はどうすればいいですか?」と聞きました。

 

すると今度は、「息を吹きかけて聖霊の油で聖めなさい」と言いました。

 

僕は聖霊様に言われるまま、その異常な骨に息を吹きかけて、「聖霊の油で聖めます。」と言いました。

そして又、聖霊様に、「次はどうすればいいですか?」と聞きました。

 

すると今度は、「母親が信仰を持って祈り続ければ、今度教会に来るときには完全に癒されるからと言いなさい。」と言われました。

 

僕はお母さんにその事を伝えました。

するとお母さんは、「わかりました。神様の癒しを信じて毎日感謝して祈ります。」と言ってくれました。

 

それから、ちょうど次の週の朝になりました。

いつものように、教会のドアを開けると突然、あの姉妹が僕に泣きながら抱きついてきました。

僕は、ビックリして「何?何?いったいどうしたの?」と姉妹に聞きました。

 

そうすると、「とにかくこっちに来てみて下さい。」と言われたので、僕は案内されるまま先週と同じ子供部屋に連れて行かれました。

 

そして、母親とその子供たちが興奮して言いました。

「リキ君の腰が、癒された!骨が治っているよ!」

そう言って僕は、リキ君の腰の骨を見せてもらいました。
するとどうでしょう!

 

何と、あの飛び出ていた骨が普通の状態に戻っていて、尚且つあんなに湾曲していた背骨が綺麗にまっすぐ整列していました。

 

僕はあまりにも感動して思わず「聖霊様は凄い!」と 叫んでしまいました。

 

お母さんに更に詳しく状況を聞いてみると、教会に着いたばかりの時にはまだ以前の状態だったそうです。

しかし、ちょうど僕が教会に着く直前に、何となく骨に触れてみたら何とあの出っ張りがなくなっていたので、「もしかして」と思い、背中を開けてみたら、何と、完全に癒されていたという事でした。

 

あまりにも凄すぎて、みんなで叫んでいたそうです。

どう考えても、世界一の外科医の手術でも治せないような状態でしたが、聖霊様はほんの一瞬で治してしまいました。

治したと言うよりは、全く新しい骨に造り替えてしまったのでした。

 

以上ですが、この体験のことを聖霊様が僕に思い出させてくれました。

聖霊様がリキ君を癒す為に指示したことは2つでした。

 

まず、「あなたの指で触れてイエスの血で清めなさい。」

 

そして、「息を吹きかけて聖霊の油で聖めなさい」と言うことです。

 

この、イエス様の血の清めと、聖霊の油での聖めが癒しの基本であり、ミニストリーの基本であり、礼拝の基本でもあります。

 

僕は、聖霊様に

 

「今日、あなたにミニストリーについての秘訣を教えます。あなたはこれを知ることで、いつでもその準備が整います。つまり、あなたはいつでもそのときが来ると、ミニストリーができる様になります。そのために、必要なのが血の清めと、油の聖めです。これについてはすでにあなたに教えました。」

 

と言われましたが、そのあと、癒しのミニストリーが始まりました。

 

そして先生が突然こう言いました。

 

「兄弟、前に出てきて下さい。今日、あなたに油注ぎがあるので、ここでミニストリーをして下さい。」

 

僕は、驚きましたが、聖霊様から予告されていたので、躊躇をしないで前に出て行き多くの人たちに油注ぎをして癒していきました。

 

先生はそばでそれを眺めていました。

僕がしたことは単純なことです。

それは、まずは手をかざしてイエス様の血でその人の罪を清めて、更に息を吹きかけて聖霊の油で聖めて、イエス様の為に聖別するという作業です。

 

それを行うと、聖霊様が働きみんな癒されていきました。

実は、このことが聖書にも書かれています。
らい病人の清めについての儀式が、まさにそのことでした。

 

レビ記第14章1節~18節

 

主はまたモーセに言われた、 「らい病人が清い者とされる時のおきては次のとおりである。

 

すなわち、その人を祭司のもとに連れて行き、 祭司は宿営の外に出て行って、その人を見、もしらい病の患部がいえているならば、
祭司は命じてその清められる者のために、生きている清い小鳥二羽と、香柏の木と、緋の糸と、ヒソプとを取ってこさせ、祭司はまた命じて、その小鳥の一羽を、流れ水を盛った土の器の上で殺させ、
そして生きている小鳥を、香柏の木と、緋の糸と、ヒソプと共に取って、これをかの流れ水を盛った土の器の上で殺した小鳥の血に、その生きている小鳥と共に浸し、
これをらい病から清められる者に七たび注いで、その人を清い者とし、その生きている小鳥は野に放たなければならない。

 

清められる者はその衣服を洗い、毛をことごとくそり落し、水に身をすすいで清くなり、その後、宿営にはいることができる。

ただし七日の間はその天幕の外にいなければならない。

そして七日目に毛をことごとくそらなければならい。

頭の毛も、ひげも、まゆも、ことごとくそらなければならない。

彼はその衣服を洗い、水に身をすすいで清くなるであろう。

八日目にその人は雄の小羊の全きもの二頭と、一歳の雌の小羊の全きもの一頭とを取り、また麦粉十分の三エパに油を混ぜた素祭と、油一ログとを取らなければならない。

 

清めをなす祭司は、清められる人とこれらの物とを、会見の幕屋の入口で主の前に置き、
祭司は、かの雄の小羊一頭を取って、これを一ログの油と共に愆祭としてささげ、またこれを主の前に揺り動かして揺祭としなければならない。

 

この雄の小羊は罪祭および燔祭をほふる場所、すなわち聖なる所で、これをほふらなければならない。

愆祭は罪祭と同じく、祭司に帰するものであって、いと聖なる物である。

 

そして祭司はその愆祭の血を取り、これを清められる者の右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指とにつけなければならない。

祭司はまた一ログの油を取って、これを自分の左の手のひらに注ぎ、
そして祭司は右の指を左の手のひらにある油に浸し、その指をもって、その油を七たび主の前に注がなければならない。

 

祭司は手のひらにある油の残りを、清められる者の右の耳たぶと、右の手の親指と、右の足の親指とに、さきにつけた愆祭の血の上につけなければならない。

 

そして祭司は手のひらになお残っている油を、清められる者の頭につけ、主の前で、その人のためにあがないをしなければならない。

 

以上ですが、

聖霊様が啓示してくれることは必ず、「み言葉の一致」があるし、それと同時に「聖霊の現われ」が伴います。

 

つまり、み言葉の一致とは、聖霊様が啓示したことは必ず聖書のみ言葉と一致します。

そして「聖霊の現われ」とは、聖霊様によって行われる癒しや奇跡のことです。

 

啓示と、み言葉の一致と聖霊の現われは一致しています。

矛盾がありません。

 

これを、いつも確認すれば安心です。

他のアンビリバボー体験のバックナンバーを確認してみるとそれが一目瞭然です。

聖霊様の啓示があり、聖霊の現われや、み言葉の一致が必ずあります。

これも、三位一体ですね。

 

癒しも、礼拝も、務めも、血の清めと、油の聖めが基本になります。

これは聖霊様から直接学んだことでした。

 

つまりこれは、旧約聖書で言う、祭司の務めになりますね。

実は新約の時代では誰でも祭司になれます。

万民祭司とも言います。

 

それについての聖書箇所を紹介します。

 

ペテロの第一の手紙2章9節

 

「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、祭司の国、聖なる国民、神につける民である。
それによって、暗やみから驚くべきみ光に招き入れて下さったかたのみわざを、あなたがたが語り伝えるためである。」

 

祭司の仕事は、祭司職と言い、主に礼拝に関わることをします。

らい病人を清めるのも祭司の役目ですね。

イエス様が10人のらい病人を清めてあげたときに、「その体を祭司に見せなさい」と言いました。

らい病人は病気ですが、普通の病気とは分けられています。

なぜなら、罪と関わりがあるからです。

 

イエス様が、12使徒を遣わすときに言った言葉で分ります。

 

「病人を癒し、死人を生き返らせ、らい病人を清め、悪霊を追い出せ!」

「らい病人を癒せ」ではなくて、「らい病人を清め」とありますね。

 

ですから、12使徒の働き自体が祭司の仕事であったというわけです。

イエス様が教会の中に5役者を立てましたが、それらの人にはそれぞれ御霊の賜物が与えられています。

これは、その奉仕者や、癒しや恵みを受けた方や、一つの教会が癒され、祝福されるためのものではありません。

賜物が各自に与えられているのは、キリストのみからだの建て上げるためです。

 

コリント人への第一の手紙12章4節~11節

 

「霊の賜物は種々あるが、御霊は同じである。 務は種々あるが、主は同じである。

働きは種々あるが、すべてのものの中に働いてすべてのことをなさる神は、同じである。
各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。

すなわち、ある人には御霊によって知恵の言葉が与えられ、ほかの人には、同じ御霊によって知識の言、またほかの人には、同じ御霊によって信仰、またほかの人には、一つの御霊によっていやしの賜物、またほかの人には力あるわざ、またほかの人には預言、またほかの人には霊を見わける力、またほかの人には種々の異言、またほかの人には異言を解く力が、与えられている。

すべてこれらのものは、一つの同じ御霊の働きであって、御霊は思いのままに、それらを各自に分け与えられるのである。」

 

ここで、「各自が御霊の現れを賜わっているのは、全体の益になるためである。」と書かれています。

全体の益の為とは、キリストのからだの建て上げのためと言う意味です。

 


更にこう書かれています。

 

コリント人への第一の手紙12:27~12:28

 

「あなたがたはキリストのからだであり、ひとりびとりはその肢体である。
そして、神は教会の中で、人々を立てて、第一に使徒、第二に預言者、第三に教師とし、次に力あるわざを行う者、次にいやしの賜物を持つ者、また補助者、管理者、種々の異言を語る者をおかれた。」

 

イエス様を信じた私たちが全体がキリストのからだであり、一人一人はその肢体、つまり機能器官だと言うわけです。

ですから、御霊の賜物を活用するのは全て個人的なことでもないし、一つの教会のためでもありません。

これは教会全体、キリストのみからだの建て上げの為です。

 

聖書に、「清くなければ神を見ることはできません。」と書かれています。

ですから、私たち個人はイエス様の血で毎日清め、聖霊の油で聖めなければなりません。
これが、日々の霊的な礼拝となります。

なぜなら自分のからだを日々神様に捧げているのですからね。

 

私たち自身が祭司です。
ですから、自分も他人も清めてあげましょう。

そうすることにより、キリストのからだが建て上げられて、成長して、キリストのかしらに達していきます。

 

からだが健康なら、かしらの指示が分るようになり、からだは健全に機能します。
つまり、からだの中に調和が生まれます。

教会と教会、信者と信者の間に和合と調和が見られます。

 

キリストのみからだが建て上げられると、人間的な思いや宗教的な要素は消えていきます。

からだの分裂や分派や病いや悩みも自然に消え去ります。

その基本になるのが、イエス様の血の清めと、聖霊様の油による聖めです。

 

どうか、イエス様を信じた皆さんは、日々の礼拝としてそれを毎日行って下さいね。

そうすることにより、キリストのみからだが建て上げられていきます。

イエス様をまだ信じ受け入れていない方は、ぜひイエス様を救い主としてお受け下さいね。

祈り方は、簡単です。

 

「イエス様、私の罪のために十字架にかかってくれてありがとうございます。私が罪人である事を認め、罪を告白します。そしてあなたを救い主として信じ受け入れます。イエス様の名前によりお祈りいたします。アーメン。」

 

バックナンバー「どうしても知って欲しい大切な情報」に更に、救いについて解説していますので、ぜひ確認してみて下さいね。

 

Keystoneより

 

 
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