比丘たちよ、では、わたしは、何を説いたであろうか。比丘たちよ、<こは苦なり>とわたしは説いた。<こは苦の生起なり>とわたしは説いた。<こは苦の滅尽なり>とわたしは説いた。また、<こは苦の滅尽にいたる道なり>とわたしは説いた。
比丘たちよ、では、なにゆえに、わたしは、それらを説いたであろうか。比丘たちよ、それは役に立ち、梵行のはじめとなり、厭離、離貪、滅尽、寂静、証智、等覚、涅槃に資するからである。そのゆえに、わたしは説いたのである。
されば、比丘たちよ、<こは苦なり>と勉励するがよい。<こは苦の生起なり>と勉励するがよい。<こは苦の滅尽なり>と勉励するがよい。また、<こは苦の滅尽にいたる道なり>と勉励するがよいのである」
#5 <シンサパー> -2
■■■■■
■■■■■
ある時、世尊は、■■■■■その手にすこしばかりのシンサパーの葉をとって、比丘たちに告げて仰せられた。
■■■■■汝らはいかに思うか。わたしが手にとっている少しばかりのシンサパーの葉と、この上のシンサパー林にあるそれといずれが多いであろうか。■■■■■世尊がその手にとりたまえるシンサパーの葉は少なく、この上のシンサパー林にあるそれは多うございます。
■■■■■
それとおなじように、わたしが証知して、しかも、汝らに説かざるところは多くして、説けるところは少いのである。■■■■■では、なにゆえに、わたしは、
それらを説かなかったのであろうか。■■■■■それは役にも立たず、梵行のはじめともならず、厭離、離貪、滅尽、寂静、証智、等覚、涅槃にも資することが
ない。そのゆえに、わたしは説かないのである。
■■■■■では、わたしは、何を説いたであろうか。■■■■■<こは苦なり>とわたしは説いた。<こは苦の生起なり>とわたしは説いた。 <こは苦の滅尽なり>とわたしは説いた。■■■ <こは苦の滅尽にいたる道なり>とわたしは説いた。
■■■■■では、なにゆえに、わたしは、それらを説いたのであろうか。■■■■■それは役に立ち、梵行のはじめとなり、厭離、離貪、滅尽、寂静、証智、等覚、涅槃に資するからである。そのゆえに、わたしは説いたのである。
されば、■■■■■<こは苦なり>と勉励するがよい。 <こは苦の生起なり>と勉励するがよい。 <こは苦の滅尽なり>と勉励するがよい。■■■<こは苦の滅尽にいたる道なり>と勉励するがよいのである。
それとおなじように、わたしが証知して、しかも、汝らに説かざるところは多くして、説けるところは少いのである。
では、なにゆえに、わたしは、それらを説かなかったのであろうか。それは役にも立たず、梵行のはじめともならず、厭離、離貪、滅尽、寂静、証智、等覚、涅槃にも資することがない。そのゆえに、わたしは説かないのである。
では、わたしは、何を説いたであろうか。<こは苦なり>とわたしは説いた。 <こは苦の生起なり>とわたしは説いた。 <こは苦の滅尽なり>とわたしは説いた。<こは苦の滅尽にいたる道なり>とわたしは説いた。
では、なにゆえに、わたしは、それらを説いたでのあろうか。それは役に立ち、梵行のはじめとなり、厭離、離貪、滅尽、寂静、証智、等覚、涅槃に資るからである。そのゆえに、わたしは説いたのである。
されば、<こは苦なり>と勉励するがよい。 <こは苦の生起なり>と勉励するがよい。 <こは苦の滅尽なり>と勉励するがよい。<こは苦の滅尽にいたる道なり>と勉励するがよいのである。
わたしが証知して、汝らに説かざるところは多くして、説けるところは少い。
なにゆえに、わたしは、それらを説かなかったのであろうか。それは役にも立たず、梵行のはじめともならず、滅尽、涅槃にも資することがない。そのゆえに、わたしは説かない。
わたしは、何を説いたであろうか。わたしは[四つの真理]を説いた。
なにゆえに、わたしは、[四つの真理]を説いたであろうか。それは役に立ち、梵行のはじめとなり、滅尽、涅槃に資するからである。そのゆえに、わたしは説いた。
されば、[四つの真理]を精進するがよい。
「比
丘たちよ、過去世においても、善男子の、まさしく家を出でて出家せるものは、すべて、この四つの聖諦を、あるがままに、はっきりと理解せんがためであっ
た。比丘たちよ、未来世においても、善男子の、まさしく家を出でて出家せるものは、すべて、この四つの聖諦を、あるがままにはっきりと理解せんがためであ
ろう。また、比丘たちよ、現在においても、善男子の、まさしく家を出でて出家するものは、すべて、この四つの聖諦を、あるがままに、はっきりと理解せんが
ためである。
では、その四つの聖諦とは何であろうか。それは、苦の聖諦、苦の生起の聖諦、苦の滅尽の聖諦、苦の滅尽にいたる道の聖諦である。
比
丘たちよ、過去世において、まさしく家を出でて出家せる善男子も、すべてこの四つの聖諦を、あるがままに、はっきりと理解せんがためであった。また、未来
世において、まさしく家を出でて出家する善男子も、..また、現在において、まさしく家を出でて出家する善男子も、すべて、この四つの聖諦を、あるがまま
に、はっきりと理解せんがためである。
これによりて、比丘たちよ、<こは苦なり>と勉励するがよい。<こは苦の生起なり>と勉励するがよい。<こは苦の滅尽なり>と勉励するがよい。<こは苦の滅尽に到る道なり>と勉励するがよいのである」
#6 <善男子> -2
■■■■■
ある時、世尊は、■■■■■■仰せられた。
■■■■■
過去世においても、善男子の、まさしく家を出でて出家せるものは、すべて、この「四つの真理」を、あるがままに、はっきりと理解せんがためであった。
■■■■■未来世においても、善男子の、まさしく家を出でて出家せるものは、すべて、この「四つの真理」を、あるがままに、はっきりと理解せんがためであ
ろう。■■■■■現在においても、善男子の、まさしく家を出でて出家するものは、すべて、この「四つの真理」を、あるがままに、はっきりと理解せんがため
である。
■■■■■
■■■■■過去世において、まさしく家を出でて出家せる善男子も、すべてこの「四つの真理」を、ある
がままに、はっきりと理解せんがためであった。■■■未来世において、まさしく家を出でて出家する善も、..■■■現在において、まさしく家を出でて出家
する善男子も、すべて、この「四つの真理」を、あるがままに、はっきりと理解せんがためである。
これによりて、■■■■■「四つの真理」を勉励するがよい■■■■。
勉励は精進と書き替えます。
このお経の essence を求めて、さらに、不要の■■を消去しましょう。
#6 <善男子> -3
ある時、世尊は、仰せられた。
過
去世においても、善男子の、まさしく家を出でて出家せるものは、すべて、この「四つの真理」を、あるがままに、はっきりと理解せんがためであった。未来世
においても、善男子の、まさしく家を出でて出家せるものは、すべて、この「四つの真理」を、あるがままに、はっきりと理解せんがためであろう。現在におい
ても、善男子の、まさしく家を出でて出家するものは、すべて、この「四つの真理」を、あるがままに、はっきりと理解せんがためである。
過
去世において、まさしく家を出でて出家せる善男子も、すべてこの「四つの真理」を、あるがままに、はっきりと理解せんがためであった。未来世において、ま
さしく家を出でて出家する善男子も、..現在において、まさしく家を出でて出家する善男子も、すべて、この「四つの真理」を、あるがままに、はっきりと理
解せんがためである。
これによりて、「四つの真理」を精進するがよい。
その時、悪しきものマーラ(魔羅)は、世尊の心に思うところを知って、世尊のいますところに到った。到って偈をもって、世尊に語りかけていった。
「苦行を離れざればこそ、若き人は清めらるるなり。汝、浄めの道をさまよい離れて、清からずして清しと思えり」
その時、世尊は、これはあしきものマーラであると知って、偈をもってあしきもの魔羅に答えて仰せられた。
「不死をねがうに、いかなる苦行も、利をもたらすことなしと知った。陸にあげられた舟の艪舵のごとく、すべて利をもたらすことはない。わたしは、戒と定と慧とにより、この悟りの道を修めきたって、ついに無上の清浄にいたった」 (以下省略)
その時、悪しきものマーラは、世尊に語りかけた。
「苦行を離れざればこそ、若き人は清めらるるなり。汝、浄めの道をさまよい離れて、清からずして清しと思えり」
その時、世尊は、仰せられた。
「不死をねがうに、いかなる苦行も、利をもたらすことなしと知った。わたしは、戒と定と慧とにより、この悟りの道を修めて、ついに無上の清浄にいたった」
■■■■■
わたしは、なんの利益もない苦行から離れてよかった。
正念 (sati) に住して、さとりをうることができ■■■■■た。
■■■■■いかなる苦行も、利をもたらすことなし■■■■。わたしは、戒と定と慧とにより、■■悟りの道を修め■、■■■無上の清浄にいたった。
#7 <苦行のこと> -essence
10> いかなる苦行も、利をもたらすことなし。
わたしは、なんの利益もない苦行から離れてよかった。
11> 正念 (sati) に住して、さとりをうることができた。
12> わたしは、戒と定と慧とにより、悟りの道を修め、無上の清浄にいたった。
苦滅道聖諦と八支聖道を八正道、正思:無欲の思、無恚の思、無害の思を不貪の思、不瞋の思、不痴の思と書き替えます。
このお経の essence を求めて、不要の文字を消去しましょう。
#8 <八正道> ー2
■■■■■
■■■■■八正道■■とは何ぞや。八正■道、すなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念・正定これなり。
■■■■■正見とは何ぞや。■■■■■苦に関する知、苦の集に関する知、苦の滅に関する知、苦の滅に到る道に関する知、これ[四つの智慧]ぞ、■■■■■正見とは名づけらる。
■■■■■正思とは何ぞや。不貪の思、不瞋の思、不痴の思、これぞ、■■■■■正思とは名づけらる。
■■■■■正語とは何ぞや。両舌よりの禁制、悪口よりの禁制、妄語よりの禁制、綺語よりの禁制、これぞ、■■正語とは名づけらる。
■■■■■正業とは何ぞや。殺生よりの禁制、不与取よりの禁制、邪淫よりの禁制、これぞ、■■■■■正業とは名づけらる。
■■■■■正命とは何ぞや。■■■■■聖弟子は邪命を捨て、正命に依りて命(生活)を営む。これぞ、■■■■■正命とは名づけらる。
■■■■■正精進とは何ぞや。■■■■■未生の悪、不善の法を生ぜざらしめむとの決意を起すに努力し、精進を為し、心を緊張せしむるに勤む。巳生の悪、不善の法を遠離せむとの決意を起すに努力し、精進を為し、心を緊張せしむるに勤む。未生の善法を生ぜしめむとの決意を起すに努力し、精進を為し、心を緊張せしむるに勤む。巳生の善法を住せしめ、惑乱せしめず、増長し、充満し、成立し、成就せしむる決意を起すに努力し、精進を為し、心を緊張せしむるに勤む。これぞ、■■■■正精進とは名づけらる。
■■■■■正念とは何ぞや。■■■■■身に就きて身を観じて住し、精励し、正念正智にして世の欲と悩とを捨し、受に就きて乃至心に就きて乃至法に就きて法を観じて住し、精励し、正念正智にして、世の欲と悩とを捨す。これぞ、■■■■■正念とは名づけらる。
■■■■■
正定とは何ぞや。■■■■■欲を去り、不善法を離れて有尋有伺にして、離より生ぜる喜と楽とのある初禅に達して住す。尋伺を滅して、内心静安となり、心専
一となり、無尋無伺にして、定より生ぜる喜と楽とのある第二禅に達して住す。更に喜を離れ捨となりて住し、正念正智にして、身を以て楽を感受し、唯、諸聖
者が、「これ捨にして正念楽住なり」と説ける第三禅に達して住す。次に楽を捨て、苦を離れ、前に感じたる悦と憂とを共に滅したるが故に不苦不楽にして、捨
念清浄となれる第四禅に達して住す。
これぞ、■■■■■正定とは名づけらる。
■■■■■
欲と悩は貪瞋痴と、書き替えます。
このお経の essence を求めて、不要の■■を消去しましょう。
#8 <八正道> ー3
八正道とは何ぞや。八正道、すなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念・正定これなり。
(1) 正見とは何ぞや。苦に関する知、苦の集に関する知、苦の滅に関する知、苦の滅に到る道に関する知、これ[四つの智慧]ぞ、正見とは名づけらる。
(2) 正思とは何ぞや。不貪の思、不瞋の思、不痴の思、これぞ、正思とは名づけらる。
(3) 正語とは何ぞや。両舌よりの禁制、悪口よりの禁制、妄語よりの禁制、綺語よりの禁制、これぞ、正語とは名づけらる。
(4) 正業とは何ぞや。
殺生よりの禁制、不与取よりの禁制、邪淫よりの禁制、
これぞ、正業とは名づけらる。
(5) 正命とは何ぞや。聖弟子は邪命を捨て、正命に依りて命(生活)を営む。これぞ、正命とは名づけらる。
(6)正精進とは何ぞや。
未生の悪、不善の法を生ぜざらしめむとの決意を起すに努力し、精進を為し、心を緊張せしむるに勤む。
巳生の悪、不善の法を遠離せむとの決意を起すに努力し、精進を為し、心を緊張せしむるに勤む。
未生の善法を生ぜしめむとの決意を起すに努力し、精進を為し、心を緊張せしむるに勤む。
巳生の善法を住せしめ、惑乱せしめず、増長し、充満し、成立し、成就せしむる決意を起すに努力し、精進を為し、心を緊張せしむるに勤む。
これぞ、正精進とは名づけらる。
(7)正念とは何ぞや。
身に就きて身を観じて住し、精励し、正念正智にし貪瞋痴をし、受に就きて乃至心に就きて乃至法に就きて法を観じて住し、精励し、正念正智にして、貪瞋痴を捨す。これぞ、正念とは名づけらる。
(8)
次に、正定とは何ぞや。欲を去り、不善法を離れて有尋有伺にして、離より生ぜる喜と楽とのある初禅に達して住す。尋伺を滅して、内心静安となり、心専一と
なり、無尋無伺にて、定より生ぜる喜と楽とのある第二禅に達して住す。更に喜を離れ捨となりて住し、正念正智にして、身を以て楽を感受し、唯、諸聖者が、
「これ捨にして正念楽住なり」と説ける第三禅に達して住す。次に楽を捨て、苦を離れ、前に感じたる悦と憂とを共に滅したるが故に不苦不楽にして、捨念清浄
となれる第四禅に達して住す。これぞ、正定とは名づけらる。
註
パーリ聖典のお経を讀んでいますと、八正道は、上記にように、いつでも、正見(四つの智慧)、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の順序で書いてあります。
私は、八正道のpractice(修行)を開始するに当り、書いてある通り、正見(四つの智慧)、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の順序で、practice(修行)を開始しようと試みました。
この場合は、正見(四つの智慧)の内容を他人から学ばないことには、次の戒(正思、正語、正業)、正しい生活(正命)、正精進、正念、正定のpracticeを行うことができません。
私は、熟考し、次のように、讀み替えました。正しい生活(正命)を開始して、正精進し、戒(正思、正語、正業)を守り、正念、正定のpracticeをすれば、その結果として、正見(四つの智慧)が生ずる、と。
すなわち、私は、八正道を、正命(正しい生活)、正精進、正業、正語、正思、正念、正定、正見(四つの智慧)と書き替え、正命(正しい生活)を開始しました。
私は、正しい生活(正命)の中で、正精進し、戒(正思、正語、正業)を守り、正念、正定のpracticeを励みました。その結果、私に、正見(四つの智慧)が生じました。
私は、今後、八正道は、正命、正精進、正業、正語、正思、正念・正定、正見(四つの智慧)と書きます。
パーリ聖典の八正道のように、正見(四つの智慧)から始める場合は、正見(四つの智慧)の内容を他人から学ばざるを得ません。他人から学ばず、自力で正見(四つの智慧)が生ずるように励みましょう。