釈迦の教え-GotamaBuddhism-

中編 第3章 釈迦の教えの究極(最高)/貪瞋痴の滅(cease)( 1 / 1 )

中編 第3章 釈迦の教えの最高/貪瞋痴の滅(cease)
     お経:3>4>6>

3> 貪欲、瞋恚、愚痴を滅尽することを、あまねく知るという。
4> 貪瞋痴の壊滅を涅槃という。
6> 貪瞋痴の調伏/壊滅を、涅槃とも不死ともいう。

貪欲、瞋恚、愚痴を略して、貪瞋痴といいます。
滅尽、壊滅、調伏は、滅と同義語です。
あまねく知る、涅槃、不死は、さとる、さとりと同義語です。

3>4>6> 貪瞋痴の滅を、さとりといいます。

◎貪瞋痴の滅について

私が生まれてから死ぬまで、私の貪瞋痴は、生じては滅し生じては滅しています。
生じ滅するのは、arise/destroy でしょうか。arise/cease でしょうか。原始仏教の本の殆どは、滅にdestroy の意味を持たせています。

存在するものはすべて、生滅変化しています。生滅変化しないものはありません、と現代の物理学はいいます。

現 代の脳の科学は、視床下部の近くにある食の中枢と性の中枢を外科切開しない限り、 貪瞋痴を滅 (destroy) することはできないといいます。外科切開したら生きていられません。貪瞋痴の滅は、滅 (cease) で、滅(destroy) ではないと、私は考えます。

3>4>6> 貪瞋痴の滅 (cease) を経験する。そのことを、さとりといいます。                  
3>4>6> 釈迦の教えの最高は、私が私の貪瞋痴の滅(cease) を経験することです。

ここで、私は、「釈迦の教えは苦についての教えではない、貪瞋痴についての教えです」と、教えられました。私は、素晴らしいことに気づきました。
釈迦の教えは、貪瞋痴についての教えです、と。

中編 第4章 釈迦の教えの修行法(八正道)( 1 / 1 )

中編 第4章 釈迦の教えの修行法/八正道
     お経:5-1>5-2>7-1>7-2>13>
        25-1>25-2>10>11>12>

5-1> 八正道は、涅槃を実現する道である。
7-1> 八正道は、涅槃/不死にいたる道である。
25-1> 八正道は、無明を捨て去る道である。
5-1>7-1>25-1> 八正道は、涅槃を実現する道、涅槃/不死にいたる道、無明を捨て去る道である。

3>4>6> 釈迦の教えの最高は、私が、私の貪瞋痴の滅 (cease)を経験することです。

5-1>7-1>25-1>3>4>6> 八正道は、涅槃を実現する道、涅槃/不死にいたる道、無明を捨て去る道、貪瞋痴 の滅 (cease)/ 釈迦の教えの最高を経験する道である。

5-2> 八正道は、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。
7-2> 八正道は、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。
13> 八正道とは、正命、正精進、正業、正語、正思、正念、正定、正見(四つの智慧)である。
25-2> 八正道は、正命、正精進、正業、正語、正思、正念、正定、正見(四つの智慧)である。
5-2>7-2>13>25-2> 八正道は、正命、正精進、正業、正語、正思、正念、正定、正見(四つの智慧)である。

10> いかなる苦行も、利をもたらすことなし。わたしは、 なんの利益もない苦行から離れてよかった。
    (苦行はしない。苦行は不要です、と)

11> 正念(sati)に住して、さとりを得ることができた。

12> わたしは、戒と定と慧とにより、悟りの道を修め、無上の清浄にいたった。

悟りの道とは、八正道のこと。無上の清浄にいたるとは、釈迦の教えの究極(最高)/涅槃にいたるです。

10>11>12> 苦行をせずに、八正道の戒と念 (sati) と定 (samadhi) と智慧とにより、わたしは、釈迦の教えの最高/貪瞋痴の滅 (cease) を経験し、釈迦の教えの究極/四つの真理を理解しました。

10>11>12>  苦行をせずに、八正道、すなわち、正命、正精進、正業、正語、正思、正念 (sati)、正定 (samadhi) 、正見(四つの智慧)により、特に、正念 (sati) に住して、わたしは、釈迦の教えの最高/貪瞋痴の滅 (cease)を経験し、釈迦の教えの究極/四つの真理を理解しました。

5ー2>7ー2>13>25ー2>、10>11>12> 
     釈迦の教えの修行法は、八正道、すなわち、正命、正精進、正業、正語、正思、正念(sati)、正定(samadhi)、 正見(四つの智慧で、苦行は不要です。正念 (sati) は、格別に大切で、正念(sati) に住して、わたしは、釈迦の教えの最高/貪瞋痴の滅(cease) を経験し、釈迦の教えの究極/四つの真理を理解しました。

以上にて、私に、釈迦の教えの修行法は、八正道とわかりました。 

中編 第5章 釈迦の教えの究極/四つの真理( 1 / 1 )

中編 第5章 釈迦の教えの究極/四つの真理

私は、既に、本書の中編 第2章、第3章、第4章にて、パーリ聖典が説く、四つの真理を、知識として学びました。


貪瞋痴の生 (arise) についての真理:(中編 第2章)
外界の information は、私が目覚め識があるとき、私の眼、私の耳、私の鼻、私の舌、私の身に入り、電気のパルスに変わり、神経を伝わって脳に達し、受を経て想に至り、外界の informationに相応するイメージ(表象)を生じます。

このイメージに対して、脳の中枢(行)が記憶を呼び起こし、思考を行いますと、貪瞋痴が生じます、と。


貪瞋痴の滅 (cease) についての真理:(中編 第3章)
釈迦の教えの最高は、私が、私の貪瞋痴の滅 (cease) を経験することです。貪瞋痴の滅 (cease) を経験する、そのことをさとりといいます、と。


貪瞋痴を滅 (cease) にする道についての真理:(中編 第4章)釈迦の教えの修行法は、八正道、すなわち、正命、正精進、正業、正語、正思、正念(sati)、正定 (samadhi)、正見(四つの智恵)で、苦行は不要です、と。

私は、四つの真理は、『釈迦の教えは貪瞋痴についての教え』です、と教えられました     




四つの真理は、パーリ(Pali) 語で、次のように書きます。
dukkham saccam
dukkhasamudayo saccam
dukkhanirodho saccam
dukkhanirodhagamini saccam. 

dukkha は、苦か貪瞋痴か。私は、dukkhaは、苦ではなく、貪瞋痴と理解しています。

日本の原始仏教学者は、<如来所説>(S.N.56-11)を引用して、四つの真理を、次のように説きます。

番外 <如来所説>の四つの真理:
dukkha に関する真理:(釈迦の教えは苦についての教えです)
苦の生起の真理:迷いの生涯を引き起こす渇愛がそれである。
苦の滅尽の真理:その渇愛を滅して、執着なきにいたる。
苦を滅尽する道についての真理:それは八正道である、と。

また、四つの真理は、次のように、翻訳する場合も見受けられます。
こは苦なり。
こは苦の生起なり。
こは苦の滅尽なり.
こは苦の滅尽にいたる道なり、と。

私は、パーリ語の四つの真理を、次のように翻訳して使います。

dukkha についての真理(釈迦の教えは貪瞋痴についての教えです)
貪瞋痴の生 (arise) についての真理
貪瞋痴の滅 (cease) についての真理
貪瞋痴を滅 (cease) にする道についての真理

以上のように、四つの真理の書き方は種々ありますが、今後は、下記に統一します。

釈迦の教えは貪瞋痴についての教えです。
貪瞋痴の生 (arise) についての真理
貪瞋痴の滅 (cease) についての真理
貪瞋痴を滅 (cease) にする道についての真理

私は、本書中編にて、パーリ聖典のお経の essence を整理編集して、
中編 第1章にて、釈迦の教えの出発点(立場)
中編 第2章にて、貪瞋痴の生 (arise)
中編 第3章にて、釈迦の教えの最高/貪瞋痴の滅(cease)
中編 第4章にて、釈迦の教えの修行法(八正道)
中編 第5章にて、釈迦の教えの究極/四つの真理
を知識として会得しました。

私が知識として会得した四つの真理は、釈迦が説いた Gotama Buddhismの全部です。総てです。具体的なシステム(体系)です。

四つの真理は、釈迦の教えは貪瞋痴についての教えです、と知った上で、いよいよ、 八正道の practice をして、貪瞋痴の滅 (cease) を経験する段になりました。

以下、私は、後編 第1章にて、私がこの私を観察(自己観察)して、「いま、ここ、私」を経験し、後編 第2章にて、
八 正道のpractice、特に、念 (sati) → 定 (samadhi) のpractice を励みましたところ、四つの智慧(正見)が生じて、八正道を完成し、さらに念 (sati) →定 (samadhi) のpractice を続けましたところ、四つの真理を理解しました。

どうか、皆様も、八正道、特に念 (sati)→定 (samadhi) の practice を励まれて、貪瞋痴の滅 (cease) /釈迦の教えの最高を経験し、四つの真理/釈迦の教えの究極を理解していただきたいと存じます。

後編 第1章 「いま、ここ、私」( 1 / 1 )

後編 釈迦の教えのpractice

後編 第1章 「いま・ここ・私」

1.地水火風
仏 教学者は、地水火風が、万物を構成する四つの要素であるといいます。この説に従えば、私の身体は脳を含め、地水火風の四要素で構成されていることになりま す。そのように私が申せば、そんなことはない、私の身体は、細胞でできている、分子でできている、原子でできている、素粒子でできている、と中学生に笑わ れます。

私の身体は脳を含め、細胞、分子、原子、素粒子でできています。
私の身体は、極めて短時間に、生滅 (arise/cease) 変化しています。
それらは、自然科学の因果律、法 (dhamma/dharma) の通りに生滅変化しています。
僧は祈祷や読経で、法 (dhamma/dharma) を変更できると説きますが、それは不可能です。

2.生老病死
また、仏教学者は、生老病死が、万物の苦の根源であるといいます。私は、生老病死を、次のように考えます。

「生」: 私は過去のある日に誕生しました。私は私の生(誕生)を観察したいのですが、「いま・ここ」から、私は、私の生(誕生)を観察することはできません。記憶 もありませんから、私は、私の生(誕生)について、一語も語ることはできません。他の人はあのように生まれたと知っていますから、私もあのように生まれた と思っています。
「死」:私は私の死を観察したいのですが、「いま・ここ」から、私は、私の死を観察することはできません。記憶もあり得ませんから、私は、私の死について、一語も語ることはできません。他の人はあのように死んだと知っていますから、私もあのように死ぬと思っています。
私は、「いま・ここ」から、私の生、私の死を観察できません。私は、「いま・ここ」から、私の生、私の死について、
何も知ることは出来ません。それ故、私は生老病死から、生と死を削除しました。

「老」:老を成長と読みます。私という単細胞が発生した時から、細胞が増殖を止めるその時までが、私の一生です。私は一生の間、生滅(arise/cease) 変化しながら、生きています。
「病」:成長の過程で病気をします。「老」を観察するとき、「病」も観察できますから、「病」を特に観察しません。私は
生老病死から、「病」も削除しました。
観察するのは、「老」だけです。「老」を成長している私、生きている私と読みます。

物事を知るには、先ず、観察します。科学はそうです。私が私を知るには、私が私を自己観察する要があります。
こんなことを考えていました時、私は、素晴らしいことに気づきました。

3.〔いま・ここ・私〕〔私は、いま、ここに、生きている〕

私は、現在に生きています。私は、過去にも未来にも生きていません。私は、ここに生きています。私は、ここ以外のところに生きていません。私は、「いま・ここ」「いま・ここ」と、「いま・ここ、に生き続け」、ある日、ある時、ある所で、死にます。

数 日後、偶然に、私は、左右両手の五本の指先を合わせました。掌は合わせません。両手の親指、人指し指、中指、薬指、小指に、心拍、ドキン、ドキンを感じま した。私は生きています。私は生きています。私は驚きました。私は、生まれて始めて、『私は生きている。私は生きている』と実感しました。いまでも、その 時の経験は、新鮮です。ドキン、ドキン、ドキン、dokin, dokin, dokin と、心拍を感じます。

4.〔私は私を自己観察して、『私は私を発見しました』〕

私は、私を観ています。私は、私を識っています。

私 は、その後今日まで、心拍、ドキン、ドキンを聴き続けています。ドキン、ドキンを聴いていますと、私は静かになってきます。ゆったりしてきます。念 (sati) があると、automatically に、定 (samadhi) が生じます。私は、このpracticeを、念 (sati)→定 (samadhi) の practice と名づけました。私の独創です。

     

いよいよ、釈迦の教えの最高/貪瞋痴の滅 (cease) を経験し、釈迦の教えの究極/四つの真理を理解すべく、八正道の prac -tice を始めましょう。
nagano takeshi
作家:永野武
釈迦の教え-GotamaBuddhism-
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