釈迦の教え-GotamaBuddhism-

中編 第4章 釈迦の教えの修行法(八正道)( 1 / 1 )

中編 第4章 釈迦の教えの修行法/八正道
     お経:5-1>5-2>7-1>7-2>13>
        25-1>25-2>10>11>12>

5-1> 八正道は、涅槃を実現する道である。
7-1> 八正道は、涅槃/不死にいたる道である。
25-1> 八正道は、無明を捨て去る道である。
5-1>7-1>25-1> 八正道は、涅槃を実現する道、涅槃/不死にいたる道、無明を捨て去る道である。

3>4>6> 釈迦の教えの最高は、私が、私の貪瞋痴の滅 (cease)を経験することです。

5-1>7-1>25-1>3>4>6> 八正道は、涅槃を実現する道、涅槃/不死にいたる道、無明を捨て去る道、貪瞋痴 の滅 (cease)/ 釈迦の教えの最高を経験する道である。

5-2> 八正道は、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。
7-2> 八正道は、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。
13> 八正道とは、正命、正精進、正業、正語、正思、正念、正定、正見(四つの智慧)である。
25-2> 八正道は、正命、正精進、正業、正語、正思、正念、正定、正見(四つの智慧)である。
5-2>7-2>13>25-2> 八正道は、正命、正精進、正業、正語、正思、正念、正定、正見(四つの智慧)である。

10> いかなる苦行も、利をもたらすことなし。わたしは、 なんの利益もない苦行から離れてよかった。
    (苦行はしない。苦行は不要です、と)

11> 正念(sati)に住して、さとりを得ることができた。

12> わたしは、戒と定と慧とにより、悟りの道を修め、無上の清浄にいたった。

悟りの道とは、八正道のこと。無上の清浄にいたるとは、釈迦の教えの究極(最高)/涅槃にいたるです。

10>11>12> 苦行をせずに、八正道の戒と念 (sati) と定 (samadhi) と智慧とにより、わたしは、釈迦の教えの最高/貪瞋痴の滅 (cease) を経験し、釈迦の教えの究極/四つの真理を理解しました。

10>11>12>  苦行をせずに、八正道、すなわち、正命、正精進、正業、正語、正思、正念 (sati)、正定 (samadhi) 、正見(四つの智慧)により、特に、正念 (sati) に住して、わたしは、釈迦の教えの最高/貪瞋痴の滅 (cease)を経験し、釈迦の教えの究極/四つの真理を理解しました。

5ー2>7ー2>13>25ー2>、10>11>12> 
     釈迦の教えの修行法は、八正道、すなわち、正命、正精進、正業、正語、正思、正念(sati)、正定(samadhi)、 正見(四つの智慧で、苦行は不要です。正念 (sati) は、格別に大切で、正念(sati) に住して、わたしは、釈迦の教えの最高/貪瞋痴の滅(cease) を経験し、釈迦の教えの究極/四つの真理を理解しました。

以上にて、私に、釈迦の教えの修行法は、八正道とわかりました。 

中編 第5章 釈迦の教えの究極/四つの真理( 1 / 1 )

中編 第5章 釈迦の教えの究極/四つの真理

私は、既に、本書の中編 第2章、第3章、第4章にて、パーリ聖典が説く、四つの真理を、知識として学びました。


貪瞋痴の生 (arise) についての真理:(中編 第2章)
外界の information は、私が目覚め識があるとき、私の眼、私の耳、私の鼻、私の舌、私の身に入り、電気のパルスに変わり、神経を伝わって脳に達し、受を経て想に至り、外界の informationに相応するイメージ(表象)を生じます。

このイメージに対して、脳の中枢(行)が記憶を呼び起こし、思考を行いますと、貪瞋痴が生じます、と。


貪瞋痴の滅 (cease) についての真理:(中編 第3章)
釈迦の教えの最高は、私が、私の貪瞋痴の滅 (cease) を経験することです。貪瞋痴の滅 (cease) を経験する、そのことをさとりといいます、と。


貪瞋痴を滅 (cease) にする道についての真理:(中編 第4章)釈迦の教えの修行法は、八正道、すなわち、正命、正精進、正業、正語、正思、正念(sati)、正定 (samadhi)、正見(四つの智恵)で、苦行は不要です、と。

私は、四つの真理は、『釈迦の教えは貪瞋痴についての教え』です、と教えられました     




四つの真理は、パーリ(Pali) 語で、次のように書きます。
dukkham saccam
dukkhasamudayo saccam
dukkhanirodho saccam
dukkhanirodhagamini saccam. 

dukkha は、苦か貪瞋痴か。私は、dukkhaは、苦ではなく、貪瞋痴と理解しています。

日本の原始仏教学者は、<如来所説>(S.N.56-11)を引用して、四つの真理を、次のように説きます。

番外 <如来所説>の四つの真理:
dukkha に関する真理:(釈迦の教えは苦についての教えです)
苦の生起の真理:迷いの生涯を引き起こす渇愛がそれである。
苦の滅尽の真理:その渇愛を滅して、執着なきにいたる。
苦を滅尽する道についての真理:それは八正道である、と。

また、四つの真理は、次のように、翻訳する場合も見受けられます。
こは苦なり。
こは苦の生起なり。
こは苦の滅尽なり.
こは苦の滅尽にいたる道なり、と。

私は、パーリ語の四つの真理を、次のように翻訳して使います。

dukkha についての真理(釈迦の教えは貪瞋痴についての教えです)
貪瞋痴の生 (arise) についての真理
貪瞋痴の滅 (cease) についての真理
貪瞋痴を滅 (cease) にする道についての真理

以上のように、四つの真理の書き方は種々ありますが、今後は、下記に統一します。

釈迦の教えは貪瞋痴についての教えです。
貪瞋痴の生 (arise) についての真理
貪瞋痴の滅 (cease) についての真理
貪瞋痴を滅 (cease) にする道についての真理

私は、本書中編にて、パーリ聖典のお経の essence を整理編集して、
中編 第1章にて、釈迦の教えの出発点(立場)
中編 第2章にて、貪瞋痴の生 (arise)
中編 第3章にて、釈迦の教えの最高/貪瞋痴の滅(cease)
中編 第4章にて、釈迦の教えの修行法(八正道)
中編 第5章にて、釈迦の教えの究極/四つの真理
を知識として会得しました。

私が知識として会得した四つの真理は、釈迦が説いた Gotama Buddhismの全部です。総てです。具体的なシステム(体系)です。

四つの真理は、釈迦の教えは貪瞋痴についての教えです、と知った上で、いよいよ、 八正道の practice をして、貪瞋痴の滅 (cease) を経験する段になりました。

以下、私は、後編 第1章にて、私がこの私を観察(自己観察)して、「いま、ここ、私」を経験し、後編 第2章にて、
八 正道のpractice、特に、念 (sati) → 定 (samadhi) のpractice を励みましたところ、四つの智慧(正見)が生じて、八正道を完成し、さらに念 (sati) →定 (samadhi) のpractice を続けましたところ、四つの真理を理解しました。

どうか、皆様も、八正道、特に念 (sati)→定 (samadhi) の practice を励まれて、貪瞋痴の滅 (cease) /釈迦の教えの最高を経験し、四つの真理/釈迦の教えの究極を理解していただきたいと存じます。

後編 第1章 「いま、ここ、私」( 1 / 1 )

後編 釈迦の教えのpractice

後編 第1章 「いま・ここ・私」

1.地水火風
仏 教学者は、地水火風が、万物を構成する四つの要素であるといいます。この説に従えば、私の身体は脳を含め、地水火風の四要素で構成されていることになりま す。そのように私が申せば、そんなことはない、私の身体は、細胞でできている、分子でできている、原子でできている、素粒子でできている、と中学生に笑わ れます。

私の身体は脳を含め、細胞、分子、原子、素粒子でできています。
私の身体は、極めて短時間に、生滅 (arise/cease) 変化しています。
それらは、自然科学の因果律、法 (dhamma/dharma) の通りに生滅変化しています。
僧は祈祷や読経で、法 (dhamma/dharma) を変更できると説きますが、それは不可能です。

2.生老病死
また、仏教学者は、生老病死が、万物の苦の根源であるといいます。私は、生老病死を、次のように考えます。

「生」: 私は過去のある日に誕生しました。私は私の生(誕生)を観察したいのですが、「いま・ここ」から、私は、私の生(誕生)を観察することはできません。記憶 もありませんから、私は、私の生(誕生)について、一語も語ることはできません。他の人はあのように生まれたと知っていますから、私もあのように生まれた と思っています。
「死」:私は私の死を観察したいのですが、「いま・ここ」から、私は、私の死を観察することはできません。記憶もあり得ませんから、私は、私の死について、一語も語ることはできません。他の人はあのように死んだと知っていますから、私もあのように死ぬと思っています。
私は、「いま・ここ」から、私の生、私の死を観察できません。私は、「いま・ここ」から、私の生、私の死について、
何も知ることは出来ません。それ故、私は生老病死から、生と死を削除しました。

「老」:老を成長と読みます。私という単細胞が発生した時から、細胞が増殖を止めるその時までが、私の一生です。私は一生の間、生滅(arise/cease) 変化しながら、生きています。
「病」:成長の過程で病気をします。「老」を観察するとき、「病」も観察できますから、「病」を特に観察しません。私は
生老病死から、「病」も削除しました。
観察するのは、「老」だけです。「老」を成長している私、生きている私と読みます。

物事を知るには、先ず、観察します。科学はそうです。私が私を知るには、私が私を自己観察する要があります。
こんなことを考えていました時、私は、素晴らしいことに気づきました。

3.〔いま・ここ・私〕〔私は、いま、ここに、生きている〕

私は、現在に生きています。私は、過去にも未来にも生きていません。私は、ここに生きています。私は、ここ以外のところに生きていません。私は、「いま・ここ」「いま・ここ」と、「いま・ここ、に生き続け」、ある日、ある時、ある所で、死にます。

数 日後、偶然に、私は、左右両手の五本の指先を合わせました。掌は合わせません。両手の親指、人指し指、中指、薬指、小指に、心拍、ドキン、ドキンを感じま した。私は生きています。私は生きています。私は驚きました。私は、生まれて始めて、『私は生きている。私は生きている』と実感しました。いまでも、その 時の経験は、新鮮です。ドキン、ドキン、ドキン、dokin, dokin, dokin と、心拍を感じます。

4.〔私は私を自己観察して、『私は私を発見しました』〕

私は、私を観ています。私は、私を識っています。

私 は、その後今日まで、心拍、ドキン、ドキンを聴き続けています。ドキン、ドキンを聴いていますと、私は静かになってきます。ゆったりしてきます。念 (sati) があると、automatically に、定 (samadhi) が生じます。私は、このpracticeを、念 (sati)→定 (samadhi) の practice と名づけました。私の独創です。

     

いよいよ、釈迦の教えの最高/貪瞋痴の滅 (cease) を経験し、釈迦の教えの究極/四つの真理を理解すべく、八正道の prac -tice を始めましょう。

後編 第2章 八正道の practice(修行)( 1 / 1 )

後編 第2章 八正道の practice(修行)
    お経:13>14>15>16>17>18>19>
       10>11>
         20>21>22>23>24>25>27>

13> 八正道とは、正命、正精進、正業、正語、正思、正念、正定、正見(四つの智慧)です。

八正道は、涅槃を実現する道、涅槃/不死にいたる道、無明を捨て去る道、釈迦の教えの最高を経験する道、貪嗔痴の滅(cease)を経験する道と、既に知っています。

1.正命(正しい生活)
14> 邪しまな生活を捨て、正しい生活をする。

貪瞋痴が生じ滅するだけの生活を続け、貪瞋痴の滅 (cease) を求めない生活を、邪しまな生活といいます。
貪瞋痴が生じ滅するだけの生活の中に、貪瞋痴の滅 (cease) を求め、八正道のpracticeをする生活が正しい生活と考え、私は、2. 正精進15>のpractice から始めました。

2.正精進
15>(1) 
不善(貪瞋痴)が未だ生じ (arise し) ていないならば、不善(貪瞋痴)が生じ (arise し) ないように精進する。

貪瞋痴が未だ生じ (ariseし) ていないならば、貪瞋痴が生じ (arise し) ないように精進しなさい、と。どのように精進しますか。戒ですか。

15>(2) 
不善(貪瞋痴)が既に生じ (ariseし) たならば、不善(貪瞋痴)が滅 (cease) するように精進する。

貪瞋痴が既に生じ (ariseし) たならば、貪瞋痴が滅 (cease) するように精進しなさい、と。どのように精進しますか。戒
ですか。

15>(3) 
善(不貪不瞋不痴)が未だ生じ (arise) ていないならば、善(不貪不瞋不痴)が生ず (arise す) るように精進する。

不貪不瞋不痴 (araga, adosa, amoha) が未だ生じ (arise し) ていないならば、不貪不瞋不痴 (araga, adosa, amoha) が生ず (arise す) るように精進しなさい、と。どのように精進しますか。戒ですか。

15>(4) 
善(不貪不瞋不痴)が既に生じ (arise し) たならば、善(不貪不瞋不痴)が滅 (cease) しないように精進する。

不貪不瞋不痴 (araga, adosa, amoha) が既に生じ (arise し) たならば、不貪不瞋不痴 (araga, adosa, amoha) が滅
(cease) しないように精進しなさい、と。どのように精進しますか。戒ですか。念 (sati) に住し続けます。

3. 正業(正しい行為)
16>(1) 殺生よりの禁制とは、不殺生:生き物を殺さない。
16>(2) 不与取よりの禁制とは、不偸盗:与えられないものは取らない。盗まない。
16>(3) 邪淫よりの禁制とは、不邪淫: immoral なsex をしない。

生き物を殺さない、盗まない、 immoral なsex をしないという戒を守りなさい、と。

4. 正語(正しい言葉)
17>(1) 両舌よりの禁制とは、不両舌:二枚舌を使わない。
17>(2) 悪口よりの禁制とは、不悪口:悪口を言わない。
17>(3) 妄語よりの禁制とは、不妄語:うそを言わない。
17>(4) 綺語よりの禁制とは、不綺語:無駄話をしない。

二枚舌を使わない、悪口を言わない、うそを言わない、無駄話をしないという戒を守りなさい、と。

5. 正思(正しい考え)
18>(1) 不貪の思:貪が生じている時は考えない。貪が生じていないときに考える。
18>(2) 不瞋の思:瞋が生じている時は考えない。瞋が生じていないときに考える。
18>(3) 不痴の思:痴が生じている時は考えない。痴が生じていないときに考える。

貪瞋痴が生じている時は考えない。貪瞋痴が生じていない時に考えなさい、と。

正業の3戒、正語の4戒、正思の4戒、合計10戒を、守りなさい、と。

私は、次のような身近かな戒と健康によい戒を、10戒に加え、十余の戒を厳しく守りました。
(1) 他人に迷惑をかけない。
(2) 人と争わない。
(3) 煙草は吸わない。
(4) 白砂糖やソーダ類は口に入れない。
(5) 食事は腹八分目で止める。
(6) 夜更かし朝寝坊はしない。早寝早起きをする。

八正道の practice を始めた当初、私は、 6. 正念、 7. 正定はどのようにするのか知りませんし、正見(四つの智慧)は未だ生じていませんから、専ら、 3. 正業、 4. 正語、5. 正思の10戒とプラスαの十余の戒を、気が狂うのではないかと思うほど厳しく守りました。

どれほど厳しく戒を守っても、外界または記憶からの information に因って、戒は守りきれませんでした。その都
度、私は、しまった、なっちゃないと思いました。自己嫌悪に陥りました。私は、戒に代わる方法を探しました。

6. 正念 (sati)
19>(1) 身 (body) につきて身 (body) を観じて住し、正念正智、貪瞋痴を捨す。
19>(2) 受につきて受を観じて住し、正念正智、貪瞋痴を捨す。
19>(3) 心につきて心を観じて住し、正念正智、貪瞋痴を捨す。
19>(4) 法につきて法を観じて住し、正念正智、貪瞋痴を捨す。

6. 正念 (sati) 19>(1)身、19>(2)受、19>(3)心、19>
(4)法につきて、身、受、心、法を観じて住すると、正念正智が生じ、貪瞋痴を捨します、と。

しかし、このような書き方ですと、正念 (sati) の practice はどのようにするのか、私には具体的にわかりません。

後編 第1章 「いま・ここ・私」 4.『私は私を発見しました』にて申し述べました念(sati) と念 (sati)→定 (samadhi) 
の practice を思い出してください。

今から、念 (sati) と念 (sati)→定 (samadhi) の practice を、詳細にご紹介いたします。

11> 正念 (sati) に住して、さとりをうることができた。

八正道の第6番目が、6.正念 (sati) です。正念 (sati) に住するとは、正念 (sati) があるというほどの意味です。

私が目覚めていて、私に識がある時に、左右両手の指先に感じるドキン、ドキンという心拍の information は、両手両腕の神経を通って脳に入り、受を経て想に到り、心拍を生じている私の内部現象を表象している、と私は考えます。

私の脳は、私の内部現象を process して、その結果を、次々に、私の脳のメモリーに送り込みます。私の脳のメモリーに、私の内部現象は貯えられ、ますます、私は私が観えるようになりました。観えます。私に、vipassana という能力がついてきました。

左右両手の指先で、ドキン、ドキンを聴いてください。全身が静かになってきました。 念 (sati) があるところに、
automatically に、必ず、定(samadhi) が生じます。

◎念 (sati)→定 (samadhi) の practice

両手の指先を合わせて、心臓のドキン、ドキンを、20分ほど、聴きましょう。

心拍、ドキン、ドキンが聴こえます。「いま・ここ・私」が観えます。「いま、ここに生きている私」が観えます。

私は、「いま・ここ」にいます。私は私を観ています。私は私を自己観察しています。

両手の指先を合わせないで、指先を手首、首筋、心臓に当て、あるいは、指先を手首、首筋、心臓に当てないで、20分ほど、ドキン、ドキンを聴いてもよいです。

数を数えるのが目的ではありません。数を数えるのが途絶えたら、また、1から数えましょう。

ドキン、ドキンに念 (sati) をおいていますと、私は、静かになります。数を数えなくなって、眠ってしまう人がいます。私だって眠ってしまいます。

念 (sati) があると、脳内にある種の物質が生じ滅し変化するのでしょう。快感物質が発生しているようです。念 (sati) は、生理現象です。

脳波がβ(ベータ)波からα(アルファ)波へ、α波からθ(シータ)波へ、θ波からδ(デルタ)波へと変化します。脳波がα波になると、私は全身が静かになったと感じ、θ波になると、さらに深い静けさを感じ、δ波になると眠ります。

ドキン、ドキンに念 (sati) をおきますと、脳波はα波、θ波になり、automatically に、定 (samadhi) が生じます。

念 (sati) があると、automatically に、定 (samadhi) が生じます。念 (sati) があると、定 (samadhi) があります。念 (sati) があり、定 (samadhi) があるときは、貪瞋痴は生じ(arise し) ません。

念 (sati) を他に移すか、念 (sati) が他に移りますと、定 (samadhi) は滅(cease) し、ドキン、ドキンは聴こえません。
貪瞋痴は、生じ得ます。

念 (sati) があり、定 (samadhi) があるとき、私は私を観ています。私を識っています。

◎念 (sati)→定 (samadhi) の practice をするときの姿勢など

〔姿勢〕:行住坐臥、いずれでもよろしい。
行とは歩くです。住とは立っているです。坐とは坐っているです。臥とは横になっているです。今日では、椅子に掛けます。行住坐臥椅、いずれでもよろしい。

坐には、結伽扶坐、半伽扶坐、日本流の正坐、あぐらなどの坐り方があります。

結伽扶坐、半伽扶坐などは、膝が痛くて、念 (sati)→定 (samadhi) のpractice には、不向きです。

10> いかなる苦行も、利をもたらすことなし。わたしは、なんの利益もない苦行から離れてよかった。

結伽扶坐、半伽扶坐などは、膝が痛い。痛さを感じる坐り方は、苦行です。なんの利益もない苦行です。痛さを感じない坐り方なら、どんな坐り方でもよい。但し、背骨は、真っ直ぐに立てている。

〔呼吸〕:通常の呼吸をする。特に出す息、吸う息に気を取られますと、ドキン、ドキンが聴きにくくなります。ドキン、ドキンから念 (sati) を離さないで、ドキン、ドキンを聴きましょう。

〔眼〕:立っているときの、坐っているときの、椅子に腰掛けているときの、ちょうど、その眼の高さがよい。眼は開けている、閉じている。半眼でいる。私は開けています。

〔手〕:左右両手の五本の指先を、軽く合わせて、ドキン、ドキンを聴きます。私は、左手の親指と人差し指先を、右手
の親指と人差し指先を、軽く合わせて、ドキン、ドキンを聴きます。
頭に、文字も言葉もない静かな状態が生じました。定 (samadhi) が生じました。


7. 正定 (samadhi)
20>(1) 第一定 有尋有伺 貪瞋痴の離より生ずる喜と楽を経験する。
20>(2) 第二定 無尋無伺 定 (samadhi) より生ずる喜と楽を経験する。
20>(3) 第三定 喜を離れ、正念 (sati) 正智 (buddhi)、身(body) を以て楽を経験する。upekkha 生ず。vipassana 生
ず。
20>(4) 第四定 楽を離れ、正念 (sati) 正智 (buddhi)、不貪不瞋不痴(araga, adosa, amoha) を経験する。

20>(1) 第一定 有尋有伺 貪瞋痴の離より生ずる喜と楽を経験する。

頭の中に、もやもや(雑念)が生じますが、貪瞋痴は生じません。第一定 (samadhi) の喜と楽を経験します。

さらに、念 (sati)→定 (samadhi) の practice を励んでいますと、
20>(2) 第二定 無尋無伺 定 (samadhi) より生ずる喜と楽を経験する。

頭の中に、もやもや(雑念)は生じません。全身は静かです。定(samadhi) が生じたと感じます。第二定 (samadhi) の喜と楽を経験します。

さらに、念 (sati)→定 (samadhi) の practiceを励んでいますと、
20>(3) 第三定 喜を離れ、正念 (sati) 正智 (buddhi)、身
(body)を以て楽を経験する。 upekkha 生ず。vipassana 生
ず。

全 身は静かです。楽は感じますが、喜は感じません。念 (sati) があります。vipassana が生じたと思います。よく観えます。観がよくなりました。善悪判断が鋭くなりました。正しい智慧 (buddhi) が生じたと思います。このような第三定 (samadhi) を、特に、upekkha といいます。

さらに、念 (sati)→定 (samadhi) の practiceを励んでいますと、
20>(4) 第四定 楽を離れ、正念 (sati) 正智 (buddhi)、
不貪不瞋不痴(araga, adosa, amoha) を経験する。

もはや、喜も楽も感じません。全身は静かです。念 (sati) があります。正智 (buddhi) が生じました。もはや、貪瞋痴は
滅 (cease) して生じ (ariseし) ません。不貪不瞋不痴 (araga, adosa, amoha) を経験しました

すなわち、私は、予期した通り、中編 第3章にて、貪瞋痴 (raga,dosa,moha)の滅 (cease)を経験しました。
貪瞋痴 (raga,dosa,moha)は滅 (cease) して、生じ (arise し)ません。
不貪不瞋不痴 (araga,adosa,amoha) が生じました。
不貪不瞋不痴 (araga,adosa,amoha) を経験しました。

既に、私は、
(2)『どのようなときに、貪瞋痴は生ずるか』を知っています。(中編 第2章)
(3) 貪瞋痴の滅 (cease) を経験する。そのことをさとりといいます。(中編 第3章)
(4) 釈迦の教えの修行法は、八正道とわかりました。
(中編 第4章)

以上、中編 第2章、第3章、第4章にて記した通り、『釈迦の教えは、貪瞋痴についての教えです』と理解しました。

私は、不貪不瞋不痴 (araga, adosa, amoha) を経験して、八正道を完成して、私に、
8. 正見(四つの智慧):
21>(1) 釈迦の教えは、貪瞋痴についての教えである 
21>(2) 貪瞋痴の生 (arise) についての智慧
21>(3) 貪瞋痴の滅 (cease) についての智慧
21>(4) 貪瞋痴を滅 (cease) にする道についての智慧

生じました。


私は、正しい生活(正命)を始め、八正道の戒と念 (sati)→定 (samadhi)の practice を続けましたところ、正智 (bud-
dhi) が生じ、八正道のpractice は完成し、正見(四つの慧)が生じました。

皆様、正見(四つの智慧)を、語ってください。

21>正見(四つの智慧)(1)  釈迦の教えは、苦についての教えではなく、貪瞋痴についての教えです。

21>正見(四つの智慧)(2)  貪瞋痴の生(arise) についての智慧。どういうときに、貪瞋痴は生じ (arise し) ますか。
縁起-2/図表-4(中編 第2章)を見ながら、説明してください。

自然と他人が発した外界の information が、私の眼、耳、鼻、舌、身の五官に到達して、電気パルスに変換され、神経を通って、識があるとき、感覚を経て、知覚にイメージを生じます。

こ のイメージに対して、脳の中枢(行)が記憶を呼び起こし思考して対応しますと、貪瞋痴が生じます。私に生じた貪瞋痴という information は、自然と他人に発信され、informa- tion は、自然と他人と私や他人の間を循環します。この循環を縁起といいます。常識です。
[cf. 中編 第2章 貪瞋痴の生 (arise)]

21> 正見(四つの智慧)(3) 貪瞋痴の滅 (cease) についての智慧。
釈迦の教えの最高は、八正道の practiceをして、貪瞋痴の滅 (cease) を経験することです。

私 は、八正道の戒を守り念 (sati)→定 (samadhi) の practiceをしましたところ、第四定にて、貪瞋痴は滅 (cease) して、貪瞋痴が生じ (arise し) ない私を経験しました。不貪不瞋不痴 (araga, adosa, amoha) を経験しました。
[cf. 中編 第3章 釈迦の教えの最高]

21>  正見(四つの智慧)(4) 貪瞋痴を滅 (cease) にする道についての智慧。
貪瞋痴を滅 (cease) にする道は八正道です。

八正道、すなわち、正命、正精進、正業、正語、正思、正念(sati)、正定(samadhi) のpracticeをしましたところ、正見
(四つの智慧)が生じ、八正道は完成しました。
[cf. 中編  第4章 釈迦の教えの修行法(八正道)]

ここまでのまとめとして、次の図表、縁起一3/図表-6が描けました。

   

八正道が完成し、正見(四つの智慧)が生じましたので、釈迦の教えの究極に到達したのではないか、と錯覚される
方がおられます。究極はまだです。究極は、四つの真理を理解することです。

23> 無智とは、正見(四つの智慧)が生じていないこと。

私は、いま、八正道が完成し、正見(四つの智慧)が生じました。

22> 無智と無明は異なります。

24> 無明とは、四つの真理を理解していないこと。

25-1> 八正道は、無明を捨て去る道です。
25-2> 八正道は、正命、正精進、正業、正語、正思、正念 (sati) 、 正定 (samadhi) 、正見(四つの智慧)である。

27> 正見(四つの智慧)が生じた比丘は、四つの真理を理解するであろう。期して俟つことができる。

私は、さらに、八正道、特に、正念 (sati)→ 正定 (samadhi)のpractice を励んで、期して俟ちました。

nagano takeshi
作家:永野武
釈迦の教え-GotamaBuddhism-
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