釈迦の教え-GotamaBuddhism-

中編 第2章 貪瞋痴の生 (arise)( 1 / 1 )

中編 第2章 貪瞋痴の生 (arise)
     お経:2-3>

2-3> 受想行識は、知るべきものである。

受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょう)、識(しき)と読みます。

受想行識を図表化します。(釈迦の時代の脳のモデル)

                           
 識とは、目覚めているとき、識、意識、認識が
あります。

 受とは、感覚、感受。視覚、聴覚、臭覚、味覚、
触覚。

想とは、知覚。それぞれの感覚に対するイメージ、表象。

行とは、脳の中枢。イメージに対して対応し、記憶を呼び起こ
し、思考します。

図表-1と図表-2を、一表に纏めますと、縁起-1/図表-3
ができます。

外界のinformation は、私が目覚めて
識があるとき、私の眼、私の耳、私の
鼻、私の舌、私の身に入り電気パルス
に変わり、神経を伝わって脳に達し、
受を経て想に至り、外界のinforma-
tion に相応するイメージ(表象)を
生じます。

このイメージに対して、脳の中枢(行)が記憶を呼び起こし、思
考を行いますと、activities が生じます。貪瞋痴が生じます。

例えば、美しい花を見れば、欲しい、取りたいとの貪(欲)が生
じます。
綺麗なお嬢さんに出会えば、話をしたい、友達になりたいとの貪(欲)が生じます。
快い音楽を聞けば、また聞きたいとの貪(欲)が生じます。
おいしそうな香りを嗅ぐと、食べたいとの貪(欲)が生じます。

貪(貪欲):今日の科学によりますと、人の脳の視床下部の近く
に、食の中枢と性の中枢があり、食欲と性欲を司ります。生存欲や自己顕示欲もあり、固体保存と種族保存のために多種多様な貪(欲)が生じます。

瞋(瞋恚):人は、貪(貪欲)を満たそうとしますが、満たない
とき、腹を立てます。怒ります。瞋ります。悪口を言います。そ
ねみます。ねたみます。争います。喧嘩をします。傷つけます。
国と国で戦争をします。核戦争をしないとは限りません。

痴(愚痴):人は、愚かなことを考え、愚かなことを言い、愚か
なことをします。

縁起-2/図表-4をご覧ください。

     

自然が発信するinformation と他人が発信する貪瞋痴という
informationは 、色声香味触として受信され、五官にて電気パルスに変換され、神経を通って脳に入り、脳の働き(識受想行)を経て、私の貪瞋痴というinformationとなり、自然と他人に対し
て、色声香味触として発信されます。

貪瞋痴というinformationの循環を縁起といいます。
縁起とは、この世、dukkha(パーリ語)のことです。
貪瞋痴というinformationが、この世の中を循環しています。

dukkha (貪瞋痴)に対して、sacca(真理)という言葉が使わ
れます。

私は、『どのようなときに、貪瞋痴は生ずるか』を、理解でき
ました。                      
でも、これは知識です。常識です 未だ、智慧・真理ではあり
ません。

中編 第3章 釈迦の教えの究極(最高)/貪瞋痴の滅(cease)( 1 / 1 )

中編 第3章 釈迦の教えの最高/貪瞋痴の滅(cease)
     お経:3>4>6>

3> 貪欲、瞋恚、愚痴を滅尽することを、あまねく知るという。
4> 貪瞋痴の壊滅を涅槃という。
6> 貪瞋痴の調伏/壊滅を、涅槃とも不死ともいう。

貪欲、瞋恚、愚痴を略して、貪瞋痴といいます。
滅尽、壊滅、調伏は、滅と同義語です。
あまねく知る、涅槃、不死は、さとる、さとりと同義語です。

3>4>6> 貪瞋痴の滅を、さとりといいます。

◎貪瞋痴の滅について

私が生まれてから死ぬまで、私の貪瞋痴は、生じては滅し生じては滅しています。
生じ滅するのは、arise/destroy でしょうか。arise/cease でしょうか。原始仏教の本の殆どは、滅にdestroy の意味を持たせています。

存在するものはすべて、生滅変化しています。生滅変化しないものはありません、と現代の物理学はいいます。

現 代の脳の科学は、視床下部の近くにある食の中枢と性の中枢を外科切開しない限り、 貪瞋痴を滅 (destroy) することはできないといいます。外科切開したら生きていられません。貪瞋痴の滅は、滅 (cease) で、滅(destroy) ではないと、私は考えます。

3>4>6> 貪瞋痴の滅 (cease) を経験する。そのことを、さとりといいます。                  
3>4>6> 釈迦の教えの最高は、私が私の貪瞋痴の滅(cease) を経験することです。

ここで、私は、「釈迦の教えは苦についての教えではない、貪瞋痴についての教えです」と、教えられました。私は、素晴らしいことに気づきました。
釈迦の教えは、貪瞋痴についての教えです、と。

中編 第4章 釈迦の教えの修行法(八正道)( 1 / 1 )

中編 第4章 釈迦の教えの修行法/八正道
     お経:5-1>5-2>7-1>7-2>13>
        25-1>25-2>10>11>12>

5-1> 八正道は、涅槃を実現する道である。
7-1> 八正道は、涅槃/不死にいたる道である。
25-1> 八正道は、無明を捨て去る道である。
5-1>7-1>25-1> 八正道は、涅槃を実現する道、涅槃/不死にいたる道、無明を捨て去る道である。

3>4>6> 釈迦の教えの最高は、私が、私の貪瞋痴の滅 (cease)を経験することです。

5-1>7-1>25-1>3>4>6> 八正道は、涅槃を実現する道、涅槃/不死にいたる道、無明を捨て去る道、貪瞋痴 の滅 (cease)/ 釈迦の教えの最高を経験する道である。

5-2> 八正道は、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。
7-2> 八正道は、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。
13> 八正道とは、正命、正精進、正業、正語、正思、正念、正定、正見(四つの智慧)である。
25-2> 八正道は、正命、正精進、正業、正語、正思、正念、正定、正見(四つの智慧)である。
5-2>7-2>13>25-2> 八正道は、正命、正精進、正業、正語、正思、正念、正定、正見(四つの智慧)である。

10> いかなる苦行も、利をもたらすことなし。わたしは、 なんの利益もない苦行から離れてよかった。
    (苦行はしない。苦行は不要です、と)

11> 正念(sati)に住して、さとりを得ることができた。

12> わたしは、戒と定と慧とにより、悟りの道を修め、無上の清浄にいたった。

悟りの道とは、八正道のこと。無上の清浄にいたるとは、釈迦の教えの究極(最高)/涅槃にいたるです。

10>11>12> 苦行をせずに、八正道の戒と念 (sati) と定 (samadhi) と智慧とにより、わたしは、釈迦の教えの最高/貪瞋痴の滅 (cease) を経験し、釈迦の教えの究極/四つの真理を理解しました。

10>11>12>  苦行をせずに、八正道、すなわち、正命、正精進、正業、正語、正思、正念 (sati)、正定 (samadhi) 、正見(四つの智慧)により、特に、正念 (sati) に住して、わたしは、釈迦の教えの最高/貪瞋痴の滅 (cease)を経験し、釈迦の教えの究極/四つの真理を理解しました。

5ー2>7ー2>13>25ー2>、10>11>12> 
     釈迦の教えの修行法は、八正道、すなわち、正命、正精進、正業、正語、正思、正念(sati)、正定(samadhi)、 正見(四つの智慧で、苦行は不要です。正念 (sati) は、格別に大切で、正念(sati) に住して、わたしは、釈迦の教えの最高/貪瞋痴の滅(cease) を経験し、釈迦の教えの究極/四つの真理を理解しました。

以上にて、私に、釈迦の教えの修行法は、八正道とわかりました。 

中編 第5章 釈迦の教えの究極/四つの真理( 1 / 1 )

中編 第5章 釈迦の教えの究極/四つの真理

私は、既に、本書の中編 第2章、第3章、第4章にて、パーリ聖典が説く、四つの真理を、知識として学びました。


貪瞋痴の生 (arise) についての真理:(中編 第2章)
外界の information は、私が目覚め識があるとき、私の眼、私の耳、私の鼻、私の舌、私の身に入り、電気のパルスに変わり、神経を伝わって脳に達し、受を経て想に至り、外界の informationに相応するイメージ(表象)を生じます。

このイメージに対して、脳の中枢(行)が記憶を呼び起こし、思考を行いますと、貪瞋痴が生じます、と。


貪瞋痴の滅 (cease) についての真理:(中編 第3章)
釈迦の教えの最高は、私が、私の貪瞋痴の滅 (cease) を経験することです。貪瞋痴の滅 (cease) を経験する、そのことをさとりといいます、と。


貪瞋痴を滅 (cease) にする道についての真理:(中編 第4章)釈迦の教えの修行法は、八正道、すなわち、正命、正精進、正業、正語、正思、正念(sati)、正定 (samadhi)、正見(四つの智恵)で、苦行は不要です、と。

私は、四つの真理は、『釈迦の教えは貪瞋痴についての教え』です、と教えられました     




四つの真理は、パーリ(Pali) 語で、次のように書きます。
dukkham saccam
dukkhasamudayo saccam
dukkhanirodho saccam
dukkhanirodhagamini saccam. 

dukkha は、苦か貪瞋痴か。私は、dukkhaは、苦ではなく、貪瞋痴と理解しています。

日本の原始仏教学者は、<如来所説>(S.N.56-11)を引用して、四つの真理を、次のように説きます。

番外 <如来所説>の四つの真理:
dukkha に関する真理:(釈迦の教えは苦についての教えです)
苦の生起の真理:迷いの生涯を引き起こす渇愛がそれである。
苦の滅尽の真理:その渇愛を滅して、執着なきにいたる。
苦を滅尽する道についての真理:それは八正道である、と。

また、四つの真理は、次のように、翻訳する場合も見受けられます。
こは苦なり。
こは苦の生起なり。
こは苦の滅尽なり.
こは苦の滅尽にいたる道なり、と。

私は、パーリ語の四つの真理を、次のように翻訳して使います。

dukkha についての真理(釈迦の教えは貪瞋痴についての教えです)
貪瞋痴の生 (arise) についての真理
貪瞋痴の滅 (cease) についての真理
貪瞋痴を滅 (cease) にする道についての真理

以上のように、四つの真理の書き方は種々ありますが、今後は、下記に統一します。

釈迦の教えは貪瞋痴についての教えです。
貪瞋痴の生 (arise) についての真理
貪瞋痴の滅 (cease) についての真理
貪瞋痴を滅 (cease) にする道についての真理

私は、本書中編にて、パーリ聖典のお経の essence を整理編集して、
中編 第1章にて、釈迦の教えの出発点(立場)
中編 第2章にて、貪瞋痴の生 (arise)
中編 第3章にて、釈迦の教えの最高/貪瞋痴の滅(cease)
中編 第4章にて、釈迦の教えの修行法(八正道)
中編 第5章にて、釈迦の教えの究極/四つの真理
を知識として会得しました。

私が知識として会得した四つの真理は、釈迦が説いた Gotama Buddhismの全部です。総てです。具体的なシステム(体系)です。

四つの真理は、釈迦の教えは貪瞋痴についての教えです、と知った上で、いよいよ、 八正道の practice をして、貪瞋痴の滅 (cease) を経験する段になりました。

以下、私は、後編 第1章にて、私がこの私を観察(自己観察)して、「いま、ここ、私」を経験し、後編 第2章にて、
八 正道のpractice、特に、念 (sati) → 定 (samadhi) のpractice を励みましたところ、四つの智慧(正見)が生じて、八正道を完成し、さらに念 (sati) →定 (samadhi) のpractice を続けましたところ、四つの真理を理解しました。

どうか、皆様も、八正道、特に念 (sati)→定 (samadhi) の practice を励まれて、貪瞋痴の滅 (cease) /釈迦の教えの最高を経験し、四つの真理/釈迦の教えの究極を理解していただきたいと存じます。

nagano takeshi
作家:永野武
釈迦の教え-GotamaBuddhism-
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