釈迦の教え-GotamaBuddhism-

後編 第1章 「いま、ここ、私」( 1 / 1 )

後編 釈迦の教えのpractice

後編 第1章 「いま・ここ・私」

1.地水火風
仏 教学者は、地水火風が、万物を構成する四つの要素であるといいます。この説に従えば、私の身体は脳を含め、地水火風の四要素で構成されていることになりま す。そのように私が申せば、そんなことはない、私の身体は、細胞でできている、分子でできている、原子でできている、素粒子でできている、と中学生に笑わ れます。

私の身体は脳を含め、細胞、分子、原子、素粒子でできています。
私の身体は、極めて短時間に、生滅 (arise/cease) 変化しています。
それらは、自然科学の因果律、法 (dhamma/dharma) の通りに生滅変化しています。
僧は祈祷や読経で、法 (dhamma/dharma) を変更できると説きますが、それは不可能です。

2.生老病死
また、仏教学者は、生老病死が、万物の苦の根源であるといいます。私は、生老病死を、次のように考えます。

「生」: 私は過去のある日に誕生しました。私は私の生(誕生)を観察したいのですが、「いま・ここ」から、私は、私の生(誕生)を観察することはできません。記憶 もありませんから、私は、私の生(誕生)について、一語も語ることはできません。他の人はあのように生まれたと知っていますから、私もあのように生まれた と思っています。
「死」:私は私の死を観察したいのですが、「いま・ここ」から、私は、私の死を観察することはできません。記憶もあり得ませんから、私は、私の死について、一語も語ることはできません。他の人はあのように死んだと知っていますから、私もあのように死ぬと思っています。
私は、「いま・ここ」から、私の生、私の死を観察できません。私は、「いま・ここ」から、私の生、私の死について、
何も知ることは出来ません。それ故、私は生老病死から、生と死を削除しました。

「老」:老を成長と読みます。私という単細胞が発生した時から、細胞が増殖を止めるその時までが、私の一生です。私は一生の間、生滅(arise/cease) 変化しながら、生きています。
「病」:成長の過程で病気をします。「老」を観察するとき、「病」も観察できますから、「病」を特に観察しません。私は
生老病死から、「病」も削除しました。
観察するのは、「老」だけです。「老」を成長している私、生きている私と読みます。

物事を知るには、先ず、観察します。科学はそうです。私が私を知るには、私が私を自己観察する要があります。
こんなことを考えていました時、私は、素晴らしいことに気づきました。

3.〔いま・ここ・私〕〔私は、いま、ここに、生きている〕

私は、現在に生きています。私は、過去にも未来にも生きていません。私は、ここに生きています。私は、ここ以外のところに生きていません。私は、「いま・ここ」「いま・ここ」と、「いま・ここ、に生き続け」、ある日、ある時、ある所で、死にます。

数 日後、偶然に、私は、左右両手の五本の指先を合わせました。掌は合わせません。両手の親指、人指し指、中指、薬指、小指に、心拍、ドキン、ドキンを感じま した。私は生きています。私は生きています。私は驚きました。私は、生まれて始めて、『私は生きている。私は生きている』と実感しました。いまでも、その 時の経験は、新鮮です。ドキン、ドキン、ドキン、dokin, dokin, dokin と、心拍を感じます。

4.〔私は私を自己観察して、『私は私を発見しました』〕

私は、私を観ています。私は、私を識っています。

私 は、その後今日まで、心拍、ドキン、ドキンを聴き続けています。ドキン、ドキンを聴いていますと、私は静かになってきます。ゆったりしてきます。念 (sati) があると、automatically に、定 (samadhi) が生じます。私は、このpracticeを、念 (sati)→定 (samadhi) の practice と名づけました。私の独創です。

     

いよいよ、釈迦の教えの最高/貪瞋痴の滅 (cease) を経験し、釈迦の教えの究極/四つの真理を理解すべく、八正道の prac -tice を始めましょう。

後編 第2章 八正道の practice(修行)( 1 / 1 )

後編 第2章 八正道の practice(修行)
    お経:13>14>15>16>17>18>19>
       10>11>
         20>21>22>23>24>25>27>

13> 八正道とは、正命、正精進、正業、正語、正思、正念、正定、正見(四つの智慧)です。

八正道は、涅槃を実現する道、涅槃/不死にいたる道、無明を捨て去る道、釈迦の教えの最高を経験する道、貪嗔痴の滅(cease)を経験する道と、既に知っています。

1.正命(正しい生活)
14> 邪しまな生活を捨て、正しい生活をする。

貪瞋痴が生じ滅するだけの生活を続け、貪瞋痴の滅 (cease) を求めない生活を、邪しまな生活といいます。
貪瞋痴が生じ滅するだけの生活の中に、貪瞋痴の滅 (cease) を求め、八正道のpracticeをする生活が正しい生活と考え、私は、2. 正精進15>のpractice から始めました。

2.正精進
15>(1) 
不善(貪瞋痴)が未だ生じ (arise し) ていないならば、不善(貪瞋痴)が生じ (arise し) ないように精進する。

貪瞋痴が未だ生じ (ariseし) ていないならば、貪瞋痴が生じ (arise し) ないように精進しなさい、と。どのように精進しますか。戒ですか。

15>(2) 
不善(貪瞋痴)が既に生じ (ariseし) たならば、不善(貪瞋痴)が滅 (cease) するように精進する。

貪瞋痴が既に生じ (ariseし) たならば、貪瞋痴が滅 (cease) するように精進しなさい、と。どのように精進しますか。戒
ですか。

15>(3) 
善(不貪不瞋不痴)が未だ生じ (arise) ていないならば、善(不貪不瞋不痴)が生ず (arise す) るように精進する。

不貪不瞋不痴 (araga, adosa, amoha) が未だ生じ (arise し) ていないならば、不貪不瞋不痴 (araga, adosa, amoha) が生ず (arise す) るように精進しなさい、と。どのように精進しますか。戒ですか。

15>(4) 
善(不貪不瞋不痴)が既に生じ (arise し) たならば、善(不貪不瞋不痴)が滅 (cease) しないように精進する。

不貪不瞋不痴 (araga, adosa, amoha) が既に生じ (arise し) たならば、不貪不瞋不痴 (araga, adosa, amoha) が滅
(cease) しないように精進しなさい、と。どのように精進しますか。戒ですか。念 (sati) に住し続けます。

3. 正業(正しい行為)
16>(1) 殺生よりの禁制とは、不殺生:生き物を殺さない。
16>(2) 不与取よりの禁制とは、不偸盗:与えられないものは取らない。盗まない。
16>(3) 邪淫よりの禁制とは、不邪淫: immoral なsex をしない。

生き物を殺さない、盗まない、 immoral なsex をしないという戒を守りなさい、と。

4. 正語(正しい言葉)
17>(1) 両舌よりの禁制とは、不両舌:二枚舌を使わない。
17>(2) 悪口よりの禁制とは、不悪口:悪口を言わない。
17>(3) 妄語よりの禁制とは、不妄語:うそを言わない。
17>(4) 綺語よりの禁制とは、不綺語:無駄話をしない。

二枚舌を使わない、悪口を言わない、うそを言わない、無駄話をしないという戒を守りなさい、と。

5. 正思(正しい考え)
18>(1) 不貪の思:貪が生じている時は考えない。貪が生じていないときに考える。
18>(2) 不瞋の思:瞋が生じている時は考えない。瞋が生じていないときに考える。
18>(3) 不痴の思:痴が生じている時は考えない。痴が生じていないときに考える。

貪瞋痴が生じている時は考えない。貪瞋痴が生じていない時に考えなさい、と。

正業の3戒、正語の4戒、正思の4戒、合計10戒を、守りなさい、と。

私は、次のような身近かな戒と健康によい戒を、10戒に加え、十余の戒を厳しく守りました。
(1) 他人に迷惑をかけない。
(2) 人と争わない。
(3) 煙草は吸わない。
(4) 白砂糖やソーダ類は口に入れない。
(5) 食事は腹八分目で止める。
(6) 夜更かし朝寝坊はしない。早寝早起きをする。

八正道の practice を始めた当初、私は、 6. 正念、 7. 正定はどのようにするのか知りませんし、正見(四つの智慧)は未だ生じていませんから、専ら、 3. 正業、 4. 正語、5. 正思の10戒とプラスαの十余の戒を、気が狂うのではないかと思うほど厳しく守りました。

どれほど厳しく戒を守っても、外界または記憶からの information に因って、戒は守りきれませんでした。その都
度、私は、しまった、なっちゃないと思いました。自己嫌悪に陥りました。私は、戒に代わる方法を探しました。

6. 正念 (sati)
19>(1) 身 (body) につきて身 (body) を観じて住し、正念正智、貪瞋痴を捨す。
19>(2) 受につきて受を観じて住し、正念正智、貪瞋痴を捨す。
19>(3) 心につきて心を観じて住し、正念正智、貪瞋痴を捨す。
19>(4) 法につきて法を観じて住し、正念正智、貪瞋痴を捨す。

6. 正念 (sati) 19>(1)身、19>(2)受、19>(3)心、19>
(4)法につきて、身、受、心、法を観じて住すると、正念正智が生じ、貪瞋痴を捨します、と。

しかし、このような書き方ですと、正念 (sati) の practice はどのようにするのか、私には具体的にわかりません。

後編 第1章 「いま・ここ・私」 4.『私は私を発見しました』にて申し述べました念(sati) と念 (sati)→定 (samadhi) 
の practice を思い出してください。

今から、念 (sati) と念 (sati)→定 (samadhi) の practice を、詳細にご紹介いたします。

11> 正念 (sati) に住して、さとりをうることができた。

八正道の第6番目が、6.正念 (sati) です。正念 (sati) に住するとは、正念 (sati) があるというほどの意味です。

私が目覚めていて、私に識がある時に、左右両手の指先に感じるドキン、ドキンという心拍の information は、両手両腕の神経を通って脳に入り、受を経て想に到り、心拍を生じている私の内部現象を表象している、と私は考えます。

私の脳は、私の内部現象を process して、その結果を、次々に、私の脳のメモリーに送り込みます。私の脳のメモリーに、私の内部現象は貯えられ、ますます、私は私が観えるようになりました。観えます。私に、vipassana という能力がついてきました。

左右両手の指先で、ドキン、ドキンを聴いてください。全身が静かになってきました。 念 (sati) があるところに、
automatically に、必ず、定(samadhi) が生じます。

◎念 (sati)→定 (samadhi) の practice

両手の指先を合わせて、心臓のドキン、ドキンを、20分ほど、聴きましょう。

心拍、ドキン、ドキンが聴こえます。「いま・ここ・私」が観えます。「いま、ここに生きている私」が観えます。

私は、「いま・ここ」にいます。私は私を観ています。私は私を自己観察しています。

両手の指先を合わせないで、指先を手首、首筋、心臓に当て、あるいは、指先を手首、首筋、心臓に当てないで、20分ほど、ドキン、ドキンを聴いてもよいです。

数を数えるのが目的ではありません。数を数えるのが途絶えたら、また、1から数えましょう。

ドキン、ドキンに念 (sati) をおいていますと、私は、静かになります。数を数えなくなって、眠ってしまう人がいます。私だって眠ってしまいます。

念 (sati) があると、脳内にある種の物質が生じ滅し変化するのでしょう。快感物質が発生しているようです。念 (sati) は、生理現象です。

脳波がβ(ベータ)波からα(アルファ)波へ、α波からθ(シータ)波へ、θ波からδ(デルタ)波へと変化します。脳波がα波になると、私は全身が静かになったと感じ、θ波になると、さらに深い静けさを感じ、δ波になると眠ります。

ドキン、ドキンに念 (sati) をおきますと、脳波はα波、θ波になり、automatically に、定 (samadhi) が生じます。

念 (sati) があると、automatically に、定 (samadhi) が生じます。念 (sati) があると、定 (samadhi) があります。念 (sati) があり、定 (samadhi) があるときは、貪瞋痴は生じ(arise し) ません。

念 (sati) を他に移すか、念 (sati) が他に移りますと、定 (samadhi) は滅(cease) し、ドキン、ドキンは聴こえません。
貪瞋痴は、生じ得ます。

念 (sati) があり、定 (samadhi) があるとき、私は私を観ています。私を識っています。

◎念 (sati)→定 (samadhi) の practice をするときの姿勢など

〔姿勢〕:行住坐臥、いずれでもよろしい。
行とは歩くです。住とは立っているです。坐とは坐っているです。臥とは横になっているです。今日では、椅子に掛けます。行住坐臥椅、いずれでもよろしい。

坐には、結伽扶坐、半伽扶坐、日本流の正坐、あぐらなどの坐り方があります。

結伽扶坐、半伽扶坐などは、膝が痛くて、念 (sati)→定 (samadhi) のpractice には、不向きです。

10> いかなる苦行も、利をもたらすことなし。わたしは、なんの利益もない苦行から離れてよかった。

結伽扶坐、半伽扶坐などは、膝が痛い。痛さを感じる坐り方は、苦行です。なんの利益もない苦行です。痛さを感じない坐り方なら、どんな坐り方でもよい。但し、背骨は、真っ直ぐに立てている。

〔呼吸〕:通常の呼吸をする。特に出す息、吸う息に気を取られますと、ドキン、ドキンが聴きにくくなります。ドキン、ドキンから念 (sati) を離さないで、ドキン、ドキンを聴きましょう。

〔眼〕:立っているときの、坐っているときの、椅子に腰掛けているときの、ちょうど、その眼の高さがよい。眼は開けている、閉じている。半眼でいる。私は開けています。

〔手〕:左右両手の五本の指先を、軽く合わせて、ドキン、ドキンを聴きます。私は、左手の親指と人差し指先を、右手
の親指と人差し指先を、軽く合わせて、ドキン、ドキンを聴きます。
頭に、文字も言葉もない静かな状態が生じました。定 (samadhi) が生じました。


7. 正定 (samadhi)
20>(1) 第一定 有尋有伺 貪瞋痴の離より生ずる喜と楽を経験する。
20>(2) 第二定 無尋無伺 定 (samadhi) より生ずる喜と楽を経験する。
20>(3) 第三定 喜を離れ、正念 (sati) 正智 (buddhi)、身(body) を以て楽を経験する。upekkha 生ず。vipassana 生
ず。
20>(4) 第四定 楽を離れ、正念 (sati) 正智 (buddhi)、不貪不瞋不痴(araga, adosa, amoha) を経験する。

20>(1) 第一定 有尋有伺 貪瞋痴の離より生ずる喜と楽を経験する。

頭の中に、もやもや(雑念)が生じますが、貪瞋痴は生じません。第一定 (samadhi) の喜と楽を経験します。

さらに、念 (sati)→定 (samadhi) の practice を励んでいますと、
20>(2) 第二定 無尋無伺 定 (samadhi) より生ずる喜と楽を経験する。

頭の中に、もやもや(雑念)は生じません。全身は静かです。定(samadhi) が生じたと感じます。第二定 (samadhi) の喜と楽を経験します。

さらに、念 (sati)→定 (samadhi) の practiceを励んでいますと、
20>(3) 第三定 喜を離れ、正念 (sati) 正智 (buddhi)、身
(body)を以て楽を経験する。 upekkha 生ず。vipassana 生
ず。

全 身は静かです。楽は感じますが、喜は感じません。念 (sati) があります。vipassana が生じたと思います。よく観えます。観がよくなりました。善悪判断が鋭くなりました。正しい智慧 (buddhi) が生じたと思います。このような第三定 (samadhi) を、特に、upekkha といいます。

さらに、念 (sati)→定 (samadhi) の practiceを励んでいますと、
20>(4) 第四定 楽を離れ、正念 (sati) 正智 (buddhi)、
不貪不瞋不痴(araga, adosa, amoha) を経験する。

もはや、喜も楽も感じません。全身は静かです。念 (sati) があります。正智 (buddhi) が生じました。もはや、貪瞋痴は
滅 (cease) して生じ (ariseし) ません。不貪不瞋不痴 (araga, adosa, amoha) を経験しました

すなわち、私は、予期した通り、中編 第3章にて、貪瞋痴 (raga,dosa,moha)の滅 (cease)を経験しました。
貪瞋痴 (raga,dosa,moha)は滅 (cease) して、生じ (arise し)ません。
不貪不瞋不痴 (araga,adosa,amoha) が生じました。
不貪不瞋不痴 (araga,adosa,amoha) を経験しました。

既に、私は、
(2)『どのようなときに、貪瞋痴は生ずるか』を知っています。(中編 第2章)
(3) 貪瞋痴の滅 (cease) を経験する。そのことをさとりといいます。(中編 第3章)
(4) 釈迦の教えの修行法は、八正道とわかりました。
(中編 第4章)

以上、中編 第2章、第3章、第4章にて記した通り、『釈迦の教えは、貪瞋痴についての教えです』と理解しました。

私は、不貪不瞋不痴 (araga, adosa, amoha) を経験して、八正道を完成して、私に、
8. 正見(四つの智慧):
21>(1) 釈迦の教えは、貪瞋痴についての教えである 
21>(2) 貪瞋痴の生 (arise) についての智慧
21>(3) 貪瞋痴の滅 (cease) についての智慧
21>(4) 貪瞋痴を滅 (cease) にする道についての智慧

生じました。


私は、正しい生活(正命)を始め、八正道の戒と念 (sati)→定 (samadhi)の practice を続けましたところ、正智 (bud-
dhi) が生じ、八正道のpractice は完成し、正見(四つの慧)が生じました。

皆様、正見(四つの智慧)を、語ってください。

21>正見(四つの智慧)(1)  釈迦の教えは、苦についての教えではなく、貪瞋痴についての教えです。

21>正見(四つの智慧)(2)  貪瞋痴の生(arise) についての智慧。どういうときに、貪瞋痴は生じ (arise し) ますか。
縁起-2/図表-4(中編 第2章)を見ながら、説明してください。

自然と他人が発した外界の information が、私の眼、耳、鼻、舌、身の五官に到達して、電気パルスに変換され、神経を通って、識があるとき、感覚を経て、知覚にイメージを生じます。

こ のイメージに対して、脳の中枢(行)が記憶を呼び起こし思考して対応しますと、貪瞋痴が生じます。私に生じた貪瞋痴という information は、自然と他人に発信され、informa- tion は、自然と他人と私や他人の間を循環します。この循環を縁起といいます。常識です。
[cf. 中編 第2章 貪瞋痴の生 (arise)]

21> 正見(四つの智慧)(3) 貪瞋痴の滅 (cease) についての智慧。
釈迦の教えの最高は、八正道の practiceをして、貪瞋痴の滅 (cease) を経験することです。

私 は、八正道の戒を守り念 (sati)→定 (samadhi) の practiceをしましたところ、第四定にて、貪瞋痴は滅 (cease) して、貪瞋痴が生じ (arise し) ない私を経験しました。不貪不瞋不痴 (araga, adosa, amoha) を経験しました。
[cf. 中編 第3章 釈迦の教えの最高]

21>  正見(四つの智慧)(4) 貪瞋痴を滅 (cease) にする道についての智慧。
貪瞋痴を滅 (cease) にする道は八正道です。

八正道、すなわち、正命、正精進、正業、正語、正思、正念(sati)、正定(samadhi) のpracticeをしましたところ、正見
(四つの智慧)が生じ、八正道は完成しました。
[cf. 中編  第4章 釈迦の教えの修行法(八正道)]

ここまでのまとめとして、次の図表、縁起一3/図表-6が描けました。

   

八正道が完成し、正見(四つの智慧)が生じましたので、釈迦の教えの究極に到達したのではないか、と錯覚される
方がおられます。究極はまだです。究極は、四つの真理を理解することです。

23> 無智とは、正見(四つの智慧)が生じていないこと。

私は、いま、八正道が完成し、正見(四つの智慧)が生じました。

22> 無智と無明は異なります。

24> 無明とは、四つの真理を理解していないこと。

25-1> 八正道は、無明を捨て去る道です。
25-2> 八正道は、正命、正精進、正業、正語、正思、正念 (sati) 、 正定 (samadhi) 、正見(四つの智慧)である。

27> 正見(四つの智慧)が生じた比丘は、四つの真理を理解するであろう。期して俟つことができる。

私は、さらに、八正道、特に、正念 (sati)→ 正定 (samadhi)のpractice を励んで、期して俟ちました。

後編 第3章 釈迦の教えの究極/四つの真理を理解する( 1 / 1 )

後編 第3章 釈迦の教えの究極/四つの真理を理解する
     お経:8ー1>9>26>27>

8ー1>四つの真理は、滅尽、涅槃に資するから、わたしは説いた。
9>  釈迦の弟子は、四つの真理を理解せんために、精進する。
26> 四つの真理を理解するときは、その前に、正見(四つの智慧)が生ずる。
27> 正見(四つの智慧)が生じた比丘は、四つの真理を理解するであろう。期して俟つことができる。

8ー1>わたしは、四つの真理は、滅尽、涅槃に資するから説いた。
滅尽、涅槃に資するので、釈迦は、四つの真理を説きました。四つの真理が究極です、と。
9>釈迦の弟子は、四つの真理を理解せんために精進する。
釈迦の弟子は、四つの真理を理解せんために精進します、と。
8ー1>9>滅尽、涅槃(究極)に資するので、釈迦は四つの真理を説き、釈迦の弟子は四つの真理を理解せんために精進しました、と。

26>四つの真理を理解するときは、その前に、正見(四つの智慧)が生ずる。
四つの真理を理解する前に、正見(四つの智慧)が生じます、と。
27>正見(四つの智慧)が生じた比丘は、四つの真理を理解するであろう。期して俟つことができる。
正見(四つの智慧)が生ずると、その後に、四つの真理を理解するでしょうから、期して俟ちなさい、と。
8ー1>9>26>27> 確実に究極を得ますので、釈迦は四つの真理を説き、釈迦の弟子は四つの真理を理解しよ
うと精進しました。
八正道の practice を完成して、正見(四つの智慧)が生ずると、その後に、四つの真理を理解するでしょうから、期して俟ちなさい、と。

八 正道の practice を完成し、私に、正見(四つの智慧)が生じた後、私は、念(sati)→定 (samadhi) の practice を続け、期して俟ちました。やがて、私は、Gotama Buddhism の究極(最高)、すなわち、貪瞋痴の滅 (cease) を含む四つの真理を理解しました。

私は、12> 四つの真理、釈迦の教えは、貪瞋痴についての教えです。
貪瞋痴の生 (arise) についての真理
貪瞋痴の滅 (cease) についての真理
貪瞋痴を滅 (cease) にする道についての真理
を、次のように、理解しました。



釈迦の教えは、貪瞋痴についての教えです。釈迦の教えは、苦についての教えではありません。

貪瞋痴の生 (arise) についての真理
念 (sati)がないとき、貪瞋痴 (raga, dosa, moha)は、生(arise) 滅(cease) を繰り返し、不貪不瞋不痴 (araga, adosa, amoha) になることはありません。

貪瞋痴の滅 (cease) についての真理

念 (sati) があるとき、貪瞋痴 (raga, dosa, moha) は滅 (cease) して生ず(arise す) ることなく、不貪不瞋不痴 (araga, adosa, amoha) が生じ(arise し)、貪瞋痴の滅 (cease) /最高を経験しました。私は、私を観ながら、日常生活をしています。

貪瞋痴を滅 (cease) にする道についての真理
究極 (最高)、すなわち、貪瞋痴の滅 (cease) を含む四つの真理の理解を目指して、八正道の practice をしましたところ、貪瞋痴の滅(cease) を含む四つの真理/究極(最高)を理解しました。それ故、貪瞋痴の滅(cease)を含む四つの真理を理解する道についての真理は、八正道である、と実証 されました。

私は四つの真理を理解しました。

後編 第4章 その後の私( 1 / 1 )

後編 第4章 その後の私

八正道の practice を完成し、私に、正見(四つの智慧)が生じた後、私は、念 (sati) に住し、念 (sati)→定 (samadhi) のpractice を続けていましたら、四つの真理を理解し、私に、不貪不瞋不痴 (araga, adosa,amoha) (sacca、善)の生活が始まりました。

その後、私は、どのような生活をしているか、触れておきましょう。
1. 念 (sati) があると、脳波はβ波からα波になり、浅い定 (samadhi) が生じ、貪瞋痴は滅 (cease) して、貪瞋痴は生じ(arise し)ません。さらに、念 (sati) がありますと、脳波はα波を越えてθ波になり深い定(samadhi) が生じ、やがて、δ波になり眠ってしまいます。

深い定 (samadhi) では日常生活はできませんが、浅い定 (samadhi) では日常生活はできます。私は、浅い定 (samadhi) に住して、日常生活をします。念 (sati) があると定 (samadhi) が生ずるという現象は、生理現象であって、念 (sati) という動機は、祈り、祈祷、呪ではありません。信ずる、信仰でもありません。念 (sati) があって浅い定 (samadhi) にいるとき、外界から強いinforma-tion が五官に到達すれば、貪瞋痴は生じますが、よほど強くない限り貪瞋痴は生じません。

念 (sati) と定 (samadhi) は滅 (cease) する時があります。定 (samadhi) を中止しようと思いますと、念 (sati) と定 (samadhi) は滅(cease) して貪瞋痴が生じ (arise し) 得る状態に戻り、貪瞋痴は生じ(arise し) ては滅 (cease) し、生じ (arise し) ては滅 (cease) します。私は、常時、浅い定 (samadhi) に住して、考え、語り、行うようにしています。私は、常時、私を観ながら、日常生活をしています。


2.私が生活している場は、貪瞋痴という information が循環している縁起の場、家庭、社会、国家、国際世界、地球です。

私 は、八正道の中で、生き物を殺すなとか、うそをつくなとか、二枚舌を使わないとか、十余の戒を守りましたが、守り切れないで、なっちゃいないと落胆し、戒 を守ることを中止して、専ら、念 (sati)→定 (samadhi) のpracticeをしましたが、社会生活をするには、戒(モラル)は必要です。

私は、社会生活をするために、人格を向上する必要があります。戒は守りきれないものと承知の上で、現在、私は十余の戒を守っています。善悪判断がますます鋭くなりました。よく観えます。善(不貪不瞋不痴)を積む。毎日の生活は楽しいです。

3.念 (sati) があって、浅い定 (samadhi) にいて、人格の向上に務めながら日常生活を営んでいますと、それは、私の脳の発達と脳のプログラム形成に、また、遺伝子DNAに、よい影響を与えている、と言えないでしょうか。

4. 私は、釈迦の教え-Gotama Buddhism を、パーリ聖典から学び得たことを誇りに思い、終生、念 (sati) に住して戒を守り、人格の向上に努めながら、その日、その日を送りますと申し上げて、ひとまず、『釈迦の教え- Gotama Buddhism』のお話を終えます。                      完
nagano takeshi
作家:永野武
釈迦の教え-GotamaBuddhism-
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