釈迦の教え-GotamaBuddhism-

前編 第1章 パーリ聖典のお経を学ぶ( 1 / 1 )


前編 第1章 パーリ聖典のお経を学ぶ

子供の頃、春秋のお彼岸と先祖の命日に、私は、両親に連れられて菩提寺に参りました。
先祖の墓参をすませ本堂に進みますと、和尚様は、お経を長々と読まれました。

正坐している膝が痺れるように痛く、お経の内容は全く理解できませんでした。

お経が終わると、お説教が長々と続きました。

私が中学校を卒業した年(1931)に、満州事変が始まりました。
私は、大学で経済学を学ぶ傍ら、余暇に、図書館で、「仏教」の本も読みました。

大学を卒業して間もなく、日本の陸海軍が真珠湾や東南アジアを奇襲攻撃して、太平洋戦争を始めました。「仏教」の本を読む暇はありませんでした。

1945年、戦争は無条件降伏に終り、戦後、私は産業復興のために一生懸命に働きました。「仏教」のことは、忘れていました。

1964年、51才のとき、私は、ほんとうのこと、確かなことを求めて、石油化学工業協会の初代事務局長を辞任し、「仏教」のお経の学習を始めました。 

(職を辞任した理由は、拙著「自分史-永野」をご参照ください)

先ず、私は、般若心経、法華経、浄土三部経、正法眼蔵など、当時、日本で流行していた「仏教」のお経をわかりたいと考えました。

朝から晩まで10年間、繰り返してこれらのお経を読みましたが、信ずることのできない私には、智慧もさとりも生じませんでした。

1974年、61才のとき、私は、南伝大蔵経が国立国会図書舘にあることを知り、10日間ほど、毎日、早朝から夜遅くまで、南伝大蔵経を通読して、若干のお経をコピーして持ち帰りました。

南伝大蔵経は、パーリ聖典の日本語訳で、文語文で、難解です。

1882年、英国のロンドンに、Pali Text Society が設立され、Pali Canon(パーリ聖典)の英語訳である Pali Text Society's Translation Series を、今日も、刊行し頒布し続けています。

パーリ聖典のお経は、下記のように編集されています。
1.長部経典     34経
2.中部経典    152経
3.相応部経典  7762経
4.増支部経典  9557経
5.小部経典     15経
    

合計 17520経


パーリ聖典のお経には、釈迦が説いた教え、釈迦が説いた教えを拡大した教え、釈迦でない人が説いた教えが含まれいます。
私は、釈迦が説いた教えだけを選び取りたいと考えました。

私は、次の5点に焦点を絞り、学習しました。

1.釈迦は、何を求めて、妻子を捨てて、家を出たか。
2.釈迦は、さとったといわれるが、何をさとったか。
3.釈迦は、どういう方法(道)で、さとったか。
4.釈迦は、さとった直後、何を、説いたか。
5.釈迦は、一生涯、何を、説き続けたか。

私は、これらの答えを求めて多くの参考文献を読みました。
(巻末ご参照)

これらの文献を読みますと、釈迦は八正道という方法(道)で、さとりを得たことは、ほぼ確実です。

しかし、当時、私は、うそをつかないの戒は実行できても、八正道の他のこと、特に、正念や正定については全く知識がありませんでしたから、八正道のpractice(修行)は実行不可能でした。

また、釈迦は八正道のpractice(修行)をして、苦の滅をさとったのか、貪瞋痴の滅をさとったのか、四つの真理を理解したのか、釈迦の教えの究極と最高について、私は、知るよしもありませんでした。

しかし、これらの文献を読む限り、釈迦は信仰を持ちなさいとか、仏、魂、前世/来世、輪廻転生を信じなさいとは、説いていません。

バラモン教や「仏教」は、人間の能力では経験のできない「神や仏、魂、前世/来世、輪廻転生」、形而上学/神秘主義/宗教を説きますが、釈迦は、これら、形而上学/神秘主義/宗教を説きませんでした。

釈迦の教えは、釈迦の脳の産物です。

脳の科学の知識で理解するのも一つの方法と考え、科学の本(新書版程度)を、私は、多数読みました。 (巻末ご参照)

私は、多数の原始仏教関係書と科学文献を読むと同時に、八正道のうちで、実行可能な、うそをつかない、盗まないの戒を励み続けました。

釈迦は何を説いたのか。その核心を明らかにしたいと望みながら、私は多くの本を読むとともに八正道の戒を励み続けました。

脳の発達の程度から考えれば、釈迦がさとったというなら、私だってさとれる。

幸い、釈迦が残したパーリ聖典を学習すればさとれるとは考えましたが、パーリ聖典を学習しても、さとりを得ていない人の論(論文)を読んでいたら、私は、永久に、釈迦のさとりに到達できないのではないかと気付いた時、私は、愕然としました。

どうしたらよいか。

私は、国立国会図書館から持ち帰った南伝大蔵経のお経のコピーを思い出しました。

1979年、増谷文雄博士は、口語文の「阿含経典」(筑摩書房)を出版されました。

私は、文語文の南伝大蔵経のお経のコピーと、口語文のお経のコピーを、一経づつ組にして、机上に並べました。
同じ題の文語文と口語文のお経が、9経9組と、文語文が1経1組、揃いました。

9経9組のお経の文語文は難解ですから、これは本棚に納め、口語文のお経9経と、文語文のお経1経を、私はじっくり読みました。

口語文9経と文語文1経は、下記の通り、10経です。

#1 <一切>      相応部経典 35ー23 口語文
#2 <知るべきもの>  相応部経典 23ー4  口語文
#3 <涅槃>      相応部経典 38ー1  口語文
#4 <一比丘>     相応部経典 45ー7  口語文
#5 <シンサパー>   相応部経典 56ー31 口語文
#6 <善男子>     相応部経典 56ー3  口語文
#7 <苦行のこと>   相応部経典  4ー1  口語文
#8 <八正道>     長部経典  22    文語文
#9 <無明>      相応部経典 56ー17 口語文
#10<夜明け(日喩)> 相応部経典 56ー37 口語文

合計10経
番外 <如来所説>    相応部経典 56ー11 口語文

私は、『釈迦の教えーGotama Buddhism』の修行法である<八正道>は長部経典から、 『釈迦の教えーGotama Buddhism』の究極(最高)を理解するに必要なお経は、すべて、相応部経典から選びました。

「読書百回、意、自ずから通ず」 

一つのお経を数十回も読んでいますと、お経の中に不要な文字があるのに気付きます。不要な文字を消去する手間はかかりますが、そうすれば、それぞれのお経のessenceが姿を現わします。それを読み合わせようと考えました。

[この方法を墨消し法といいます ]

こうしたからとて、釈迦のさとりが得られるという保証はありません。

徒労に帰するかもしれませんが、とにかく、作業を仕上げてみようと決心し実行しました。
私は、10経のessenceを求めて、不要の文字を消去する「墨消し作業」を始めました。

前編 第2章 お経の essenceを墨消し法で求める(10経) ( 1 / 11 )

#1<一切>

前編 第2章 墨消し法によりお経の essence を求める
                     (10経)

「読書百回、意、自ずから通ず」
墨消し法をいたしますと、お経に慣れ、用語に慣れます。
私は、今日まで、日本語の仏教辞典を持っていません。

墨消し法により、パーリ聖典10経のお経のessenceを求めましょう。


1 <一切>

1 <一切> -1 オリジナル
             南伝 相応部経典 35-23

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッテイー(舎衛城)のジェータ(祇陀)林なるアナータピンデイカ(給孤独)の園にましました。

その時、世尊は、「比丘たちよ」と呼ばせたまい、彼ら比丘たちは、「大徳よ」と答えた。そこで、世尊は、つぎのように説いて仰せられた。

「比丘たちよ、なにおか一切となすであろうか。それは、眼と色(物体)とである。耳と声とである。鼻と香とである。舌と味とである。身と触(感触)とである。意と法(観念)とである」


「比丘たちよ、これらを名づけて一切というのである。比丘たちよ、もし人ありて、<わたしは、この一切を捨てて他
の一切を説こう>と、そのように言うものがあったならば、それは、ただ言葉があるのみであって、他の人の問いに遇えば、よく説明できないばかりか、さらに困難に陥るであろう。何故であろうか。比丘たちよ、それは、ありもしないものを語っているからである」


*増谷文雄「阿含経典」(筑摩書房) 第3卷 31頁より抜


のお経の essence を求めて、不要の文字を消去しましょう。

#1 <一切> -2
              ■■■■■

■■■■■

ある時、世尊は、■■■■■つぎのように■■■仰せられた。■■■■■なにおか一切となすであろうか。それは、眼と色(物体)■■■■、耳と声、■■■、鼻と香■■■■、舌と味■■■■、身と触(感触)■■■■■意と法(観念)とである。■■■■■これらを名づけて一切という■■■■。


■■■■■もし人ありて、「わたしは、この一切を捨てて他の一切を説こう」と、そのように言うものがあったならば、そ
れは、ただ言葉があるのみであって、他の人の問いに遇えば、よく説明できないばかりか、さらに困難に陥るであろう。
何故であろうか。■■■■■それは、ありもしないものを語っているからである。


体を眼の対象、感触を touch、観念を dhammaと 書き替えます。

このお経の essence を求めて、不要の■■を消去しましょう。

#1 <一切> -3

ある時、世尊は、つぎのように仰せられた。


なにおか一切となすであろうか。それは、眼と色(眼の対象)、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触(touch)、意と法
(dhamma) とである。これらを名づけて一切という。


もし人ありて、「わたしは、この一切を捨てて他の一切を説こう」と、そのように言うものがあったならば、それは、ただ言葉があるのみであって、他の人の問いに遇えば、よく説明できないばかりか、さらに困難に陥るであろう。何故であろうか。それは、ありもしないものを語っているからである。


のお経の essence を求めて、さらに、不要の文字を消去しましょう。

#1 <一切> -4

■■■■■

なにおか一切となすであろうか。それは、眼と色(眼の対象)、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触(touch)、意と法
(dhamma) とである。これらを名づけて一切という。

■■■■■
■■■■■


のお経の essence を求めて、さらに、不要の■■を消去しましょう。

#1 <一切> -5

なにおか一切となすであろうか。それは、眼と色(眼の対象)、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触(touch)、意と法(dhamma) とである。これらを名づけて一切という。


のお経の essence を求めて、さらに、不要の文字を消去しましょう。

#1 <一切> -6

■■■■■眼と色■■■■■、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触■■■■、意と法■■■■

■■■を名づけて一切という。


のお経の essence は、次のようになります。清書します。

#1 <一切> ーessence

1> 眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触、意と法を名づけて一切という。


前編 第2章 お経の essenceを墨消し法で求める(10経) ( 2 / 11 )

#2 <知るべきもの>

#2 <知るべきもの>

2 <知るべきもの> -オリジナル
              南伝 相応部経典 23-4
かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、サーヴァッテイー(舎衛城)のジェータ(祇陀)林なるアナータピンデイカ(給孤独)の園にましました。
その時、長老ラーダ(羅陀)は、世尊のましますところに至り、世尊を拝して、その傍らに坐した。

傍らに坐したラーダにむかって、世尊は仰せられた。
「ラーダよ、いま、知らるべきものと、あまねく知ることと、および、あまねく知れる人について、説こうと思う。よく聞い
ておくがよい」

そして、世尊は説きたもうた。
「ラーダよ、知らねばならぬものとは、なんであろうか。ラーダよ、色(肉体)は知らねばならぬものである。受(感覚)は
知らねばならぬものである。想(表象)は知らねばならぬものである。行(意思)は知らねばならぬものである。また、識(意識)は知らねばならぬものである。ラーダよ、こういうものを、知らるべきものであるというのである。

ラーダよ、では、あまねく知るとは、どういうことであろうか。ラーダよ、貪欲を滅しつくすことと、瞋恚を滅しつくすことと、愚痴を滅しつくすことである。ラーダよ、そういうことを、あまねく知るというのである。

では、あまねく知れる人とは、どういう人であろうか。それは、阿羅漢を指していう言葉である。その名をこれこれといい、その姓をこれこれという長老がそれなのである。ラーダよ、そのような人を呼んで、あまねく知れる人とはいうのである」

増谷文雄「阿含経典」(筑摩書房)第2巻 223頁より抜粋


のお経の essence を求めて、不要の文字を消去しましょう。

#2 <知るべきもの> -2
                ■■■■■
■■■■■

ある時、世尊は、■■■■■仰せられた。
■■■■■知■るべきものと、あまねく知ること■■■■■について説こうと思う。

■■■■■

■■■■世尊は説きたもうた。■■■■■知らねばならぬものとは、なんであろうか。
■■■■■色(肉体)は知らねばならぬものである。受(感覚)は知らねばならぬものである。想(表象)は知らねばならぬものである。行(意思)は知らねばならぬものである。また、識(意識)は知らねばならぬものである。■■■■■こういうものを、知■るべきものであるという■■■■。


■■■■■では、あまねく知るとは、どういうことであろうか。
■■■■■貪欲を滅しつくすことと、瞋恚を滅しつくすことと、愚痴を滅しつくすことである。■■■■■そういうことを、あまねく知るというのである。


■■■■■
■■■■■


体をbody、表象を知覚、意思を脳の中枢、意識を意識/認識と書き替えます。

このお経の essence を求めて、不要の■■を消去しましょう。

#2 <知るべきもの> -3

ある時、世尊は、仰せられた。

知るべきものと、あまねく知ることについて説こうと思う。

世尊は説きたもうた。
知らねばならぬものとは、なんであろうか。
(1) 色 (body) は知らねばならぬものである。
(2) 受(感覚)は知らねばならぬものである。
(3) 想(知覚)は知らねばならぬものである。
(4) 行(脳の中枢)は知らねばならぬものである。
(5) 識(意識/認識)は知らねばならぬものである。
こういうものを、知るべきものであるという。

では、あまねく知るとは、どういうことであろうか。
(1) 貪欲を滅しつくすことと、
(2) 瞋恚を滅しつくすことと、
(3) 愚痴を滅しつくすことである。
そういうことを、あまねく知るというのである。


しつくすを滅尽と書き直します。

このお経の essence を求めて、さらに、不要の文字を消去しましょう。

#2 <知るべきもの> -4

ある時、世尊は、■■■■■知るべきものと、
あまねく知ることについて■■■■■説きたもうた。

知らねばならぬものとは、なんであろうか。
(1) 色 (body) ■■■■■
(2) 受(感覚)■■■■■、
(3) 想(知覚)■■■■■、
(4) 行(脳の中枢)■■■■■、
(5) 識(意識/認識)は知らねばならぬものである。
こういうものを、知るべきものであるという。

■■■あまねく知るとは、どういうことであろうか。
(1) 貪欲■■■■■、
(2) 瞋恚■■■■■、
(3) 愚痴を滅尽■■することである。
そういうことを、あまねく知るというのである。

のお経の essence を求めて、さらに、不要の■■を消去しま
しょう。

#2 <知るべきもの> -5

ある時、世尊は、知るべきものと、あまねく知ることについて
説きたもうた。

知らねばならぬものとは、なんであろうか。
(1) 色(body)、(2) 受(感覚)、(3) 想(知覚)、(4) 行(脳の中枢)、(5) 識(dhamma) は知らねばならぬものである。こういうものを、知るべきものであるという。

あまねく知るとは、どういうことであろうか。
(1) 貪欲、(2) 瞋恚、(3) 愚痴を滅尽することである。
そういうことを、あまねく知るというのである。


のお経の essence を求めて、さらに、不要の文字を消去しましょう。

#2 <知るべきもの> -6

■■■■■

■■■■■
■色■■■、■受■■■、■想■■■、■行■■■、
■識■■■は■■■、知るべきものである■■■。

■■■■■
■貪欲、■瞋恚、■愚痴を滅尽する■■■■■ことを、あまねく知るという■■■■。


このお経の essence は次のようになります。清書します

#2 <知るべきもの> -essence

2>   色、受、想、行、識は、知るべきものである。

2-1> 色、受想行識は、知るべきものである。
2-2> 色は、知るべきものである。
2-3> 受想行識は、知るべきものである。

3>   貪欲、瞋恚、愚痴を滅尽することを、あまねく知るという。

前編 第2章 お経の essenceを墨消し法で求める(10経) ( 3 / 11 )

#3 <涅槃>

#3 <涅槃>

3 <涅槃>ー1 オリジナル
                  南伝 相応部経典 38ー1

かようにわたしは聞いた。 

ある時、長老サーリプッタ(舎利弗)は、マガダ(摩掲陀)の国のナーラカ(那羅迦)という村に住していた。その時、ジャンプカーダカ(閻浮車)なる遊行者が、長老サーリプッタを訪れてきて、たがいに会釈をかわし、親愛にして慇
懇なる談話を交えて、やがて傍らに坐した。

「友サ-リプッタよ、涅槃、涅槃といわれるが、いったい、涅槃とはなんであろうか」
「友よ、およそ貪欲の壊滅、瞋恚の壊滅、愚痴の壊滅、これを称して涅槃というのである」

「では、友よ、その涅槃を実現するに道があるであろうか。そこにいたる方法があるであろうか」
「友よ、その涅槃を実現するには道がある。そこにいたる方法がある」

「では、友よ、その涅槃を実現する道とはなにか。そこにいたる方法とはなんであろうか」
「友よ、聖なる八支の道こそは、その涅槃を実現する道である。それは、すなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。これが、その涅槃を実現する道であり、そこにいたる方法なのである」

「友よ、この涅槃を実現する道は、まことに善い。そこにいたる方法は、まことに素晴らしい。「友サ-リプッタよ、それはまた勤め励むに足る」



         *増谷文雄「阿含経典(筑摩書房)第3巻87頁より抜粋 

のお経のessenceを求めて、不要の文字を消去しましょう。

#3 <涅槃> ー2

■■■■■

ある時、■■■■■ジャンプカーダカ■■■■が、長老サーリプッタを訪れてき■■■■■た。

「■■■■■涅槃、涅槃といわれるが、■■■■■涅槃とはなんであろうか」
「■■■■■貪欲の壊滅、瞋恚の壊滅、愚痴の壊滅、これを称して涅槃というのである」

「■■■■■涅槃を実現するに道があるであろうか。そこにいたる方法があるであろうか」
「■■■■■涅槃を実現する■■道がある。
そこにいたる方法がある■■■■。

「■■■■■涅槃を実現する道■はなにか。
そこにいたる方法■はなんであろうか」
「■■■■聖なる八支の道こそは、その涅槃を実現する道である。それは、すなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。これが、その涅槃を実現する道であり、そこにいたる方法■■である」

「■■■■■涅槃を実現する道は、まことに善い。そこにいたる方法は、まことに素晴らしい。■■■■■それは■■勤め励むに足る」



貪欲、瞋恚、愚痴を称して、貪瞋痴と書きます。
貪欲の壊滅、瞋恚の壊滅、愚痴の壊滅を略して、貪瞋痴の壊滅と書きます。聖なる八支の道を八正道と書き替えます。

このお経のessenceを求めて、不要の■■を消去しましょう。

#3 <涅槃> ー3

ある時、ジャンプカーダカが、長老サーリプッタを訪れてきた。

涅槃、涅槃といわれるが、涅槃とはなんであろうか。
貪欲の壊滅、瞋恚の壊滅、愚痴の壊滅、これを称して涅槃というのである。

涅槃を実現するに道があるであろうか。そこにいたる方法があるであろうか。
涅槃を実現する道がある。そこにいたる方法がある。

涅槃を実現する道はなにか。そこにいたる方法はなんであろうか。
八正道こそは、その涅槃を実現する道である。それは、すなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。これが、その涅槃を実現する道であり、そこにいたる方法である。

涅槃を実現する道は、まことに善い。そこにいたる方法は、まことに素晴らしい。それは勤め励むに足る。

のお経のessenceを求めて、さらに、不要の文字を消去しましょう。

#3 <涅槃> ー4

■■■■■

■■■■■涅槃とはなんであろうか。
貪瞋痴の壊滅■■■を称して涅槃という■■■■。

涅槃を実現するに道■■■■■、■■■■■方法があるであろうか。
涅槃を実現する道■■■、■■■■■方法がある。

涅槃を実現する道、■■■■■方法はなんであろうか。
八正道こそは、その涅槃を実現する道■■■、■■■■すなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。

■■■■■
■■■■■


のお経のessenceを求めて、さらに、不要の■■を消去しま
しょう。

#3 <涅槃> ー5

涅槃とはなんであろうか。
貪瞋痴の壊滅を称して涅槃という。

涅槃を実現するに道、方法があるであろうか。
涅槃を実現する道、方法がある。

涅槃を実現する道、方法はなんであろうか。
八正道こそは、その涅槃を実現する道、すなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。


のお経のessenceを求めて、さらに、不要のを消去しましょう。

#3 <涅槃> ー6

■■■■■
貪瞋痴の壊滅を■■■涅槃という。

■■■■■
■■■■■

■■■■■
八正道■■は、■■涅槃を実現する道、すなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。



このお経のessenceは、次のようになります。清書します。

# <涅槃> ーessence

4>   貪瞋痴の壊滅を涅槃という。

5ー1> 八正道は、涅槃を実現する道である。 
5ー2> 八正道は、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。
nagano takeshi
作家:永野武
釈迦の教え-GotamaBuddhism-
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