苦滅道聖諦と八支聖道を八正道、正思:無欲の思、無恚の思、無害の思を不貪の思、不瞋の思、不痴の思と書き替えます。
このお経の essence を求めて、不要の文字を消去しましょう。
#8 <八正道> ー2
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■■■■■八正道■■とは何ぞや。八正■道、すなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念・正定これなり。
■■■■■正見とは何ぞや。■■■■■苦に関する知、苦の集に関する知、苦の滅に関する知、苦の滅に到る道に関する知、これ[四つの智慧]ぞ、■■■■■正見とは名づけらる。
■■■■■正思とは何ぞや。不貪の思、不瞋の思、不痴の思、これぞ、■■■■■正思とは名づけらる。
■■■■■正語とは何ぞや。両舌よりの禁制、悪口よりの禁制、妄語よりの禁制、綺語よりの禁制、これぞ、■■正語とは名づけらる。
■■■■■正業とは何ぞや。殺生よりの禁制、不与取よりの禁制、邪淫よりの禁制、これぞ、■■■■■正業とは名づけらる。
■■■■■正命とは何ぞや。■■■■■聖弟子は邪命を捨て、正命に依りて命(生活)を営む。これぞ、■■■■■正命とは名づけらる。
■■■■■正精進とは何ぞや。■■■■■未生の悪、不善の法を生ぜざらしめむとの決意を起すに努力し、精進を為し、心を緊張せしむるに勤む。巳生の悪、不善の法を遠離せむとの決意を起すに努力し、精進を為し、心を緊張せしむるに勤む。未生の善法を生ぜしめむとの決意を起すに努力し、精進を為し、心を緊張せしむるに勤む。巳生の善法を住せしめ、惑乱せしめず、増長し、充満し、成立し、成就せしむる決意を起すに努力し、精進を為し、心を緊張せしむるに勤む。これぞ、■■■■正精進とは名づけらる。
■■■■■正念とは何ぞや。■■■■■身に就きて身を観じて住し、精励し、正念正智にして世の欲と悩とを捨し、受に就きて乃至心に就きて乃至法に就きて法を観じて住し、精励し、正念正智にして、世の欲と悩とを捨す。これぞ、■■■■■正念とは名づけらる。
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正定とは何ぞや。■■■■■欲を去り、不善法を離れて有尋有伺にして、離より生ぜる喜と楽とのある初禅に達して住す。尋伺を滅して、内心静安となり、心専
一となり、無尋無伺にして、定より生ぜる喜と楽とのある第二禅に達して住す。更に喜を離れ捨となりて住し、正念正智にして、身を以て楽を感受し、唯、諸聖
者が、「これ捨にして正念楽住なり」と説ける第三禅に達して住す。次に楽を捨て、苦を離れ、前に感じたる悦と憂とを共に滅したるが故に不苦不楽にして、捨
念清浄となれる第四禅に達して住す。
これぞ、■■■■■正定とは名づけらる。
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欲と悩は貪瞋痴と、書き替えます。
このお経の essence を求めて、不要の■■を消去しましょう。
#8 <八正道> ー3
八正道とは何ぞや。八正道、すなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念・正定これなり。
(1) 正見とは何ぞや。苦に関する知、苦の集に関する知、苦の滅に関する知、苦の滅に到る道に関する知、これ[四つの智慧]ぞ、正見とは名づけらる。
(2) 正思とは何ぞや。不貪の思、不瞋の思、不痴の思、これぞ、正思とは名づけらる。
(3) 正語とは何ぞや。両舌よりの禁制、悪口よりの禁制、妄語よりの禁制、綺語よりの禁制、これぞ、正語とは名づけらる。
(4) 正業とは何ぞや。
殺生よりの禁制、不与取よりの禁制、邪淫よりの禁制、
これぞ、正業とは名づけらる。
(5) 正命とは何ぞや。聖弟子は邪命を捨て、正命に依りて命(生活)を営む。これぞ、正命とは名づけらる。
(6)正精進とは何ぞや。
未生の悪、不善の法を生ぜざらしめむとの決意を起すに努力し、精進を為し、心を緊張せしむるに勤む。
巳生の悪、不善の法を遠離せむとの決意を起すに努力し、精進を為し、心を緊張せしむるに勤む。
未生の善法を生ぜしめむとの決意を起すに努力し、精進を為し、心を緊張せしむるに勤む。
巳生の善法を住せしめ、惑乱せしめず、増長し、充満し、成立し、成就せしむる決意を起すに努力し、精進を為し、心を緊張せしむるに勤む。
これぞ、正精進とは名づけらる。
(7)正念とは何ぞや。
身に就きて身を観じて住し、精励し、正念正智にし貪瞋痴をし、受に就きて乃至心に就きて乃至法に就きて法を観じて住し、精励し、正念正智にして、貪瞋痴を捨す。これぞ、正念とは名づけらる。
(8)
次に、正定とは何ぞや。欲を去り、不善法を離れて有尋有伺にして、離より生ぜる喜と楽とのある初禅に達して住す。尋伺を滅して、内心静安となり、心専一と
なり、無尋無伺にて、定より生ぜる喜と楽とのある第二禅に達して住す。更に喜を離れ捨となりて住し、正念正智にして、身を以て楽を感受し、唯、諸聖者が、
「これ捨にして正念楽住なり」と説ける第三禅に達して住す。次に楽を捨て、苦を離れ、前に感じたる悦と憂とを共に滅したるが故に不苦不楽にして、捨念清浄
となれる第四禅に達して住す。これぞ、正定とは名づけらる。
註
パーリ聖典のお経を讀んでいますと、八正道は、上記にように、いつでも、正見(四つの智慧)、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の順序で書いてあります。
私は、八正道のpractice(修行)を開始するに当り、書いてある通り、正見(四つの智慧)、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定の順序で、practice(修行)を開始しようと試みました。
この場合は、正見(四つの智慧)の内容を他人から学ばないことには、次の戒(正思、正語、正業)、正しい生活(正命)、正精進、正念、正定のpracticeを行うことができません。
私は、熟考し、次のように、讀み替えました。正しい生活(正命)を開始して、正精進し、戒(正思、正語、正業)を守り、正念、正定のpracticeをすれば、その結果として、正見(四つの智慧)が生ずる、と。
すなわち、私は、八正道を、正命(正しい生活)、正精進、正業、正語、正思、正念、正定、正見(四つの智慧)と書き替え、正命(正しい生活)を開始しました。
私は、正しい生活(正命)の中で、正精進し、戒(正思、正語、正業)を守り、正念、正定のpracticeを励みました。その結果、私に、正見(四つの智慧)が生じました。
私は、今後、八正道は、正命、正精進、正業、正語、正思、正念・正定、正見(四つの智慧)と書きます。
パーリ聖典の八正道のように、正見(四つの智慧)から始める場合は、正見(四つの智慧)の内容を他人から学ばざるを得ません。他人から学ばず、自力で正見(四つの智慧)が生ずるように励みましょう。
「では、友よ、それらの無明を捨て去ってしまう道とはなにか。そこにいたる方法とはなんであろうか」
「友よ、かの聖なる八支の道こそは、それらの無明を捨て去ってしまう道である。それは、すなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。友よ、これが、それらの無明を捨て去ってしまう道であり、そこにいたる方法なのである」
「友よ、この無明を捨て去ってしまう道は、まことに善い。そこにいたる方法は、まことに素晴らしい。友サーリプッタよ、それはまた勤めはげむに足る」
■■■■■無明、無明といわれるが、■■■■■無明とはなんであろうか。
■■■■■苦についての無智、苦の生起についての無智、苦の滅尽についての無智、■■■■苦の滅尽にいたる道についての無智、■■■これ[四つの智慧が生じていないこと]を■■■無明という■■■■。
■では、■■■それらの無明を捨て去ってしまう道があるだろうか。そこにいたる方法があるであろうか。
■■■■それらの無明を捨て去ってしまうには道がある。そこにいたる方法がある■■■■。
■では、■■■それらの無明を捨て去ってしまう道とはなにか。
■■■■かの■■■八支の道こそは、それらの無明を捨て去ってしまう道である。それは、すなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。■■■これが、■■■■無明を捨て去ってしまう道であり、そこにいたる方法なのである。
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#9 <無明> -3
ある時、ジャンプカーダカなる遊行者が、長老サーリプッタに言った。
無明、無明といわれるが、無明とはなんであろうか。
苦についての無智、苦の生起についての無智、苦の滅尽についての無智、および、苦の滅尽にいたる道についての無智、(四つの智慧が生じていないこと)を無明というのである。
では、それら無明を捨て去ってしまう道があるだろうか。そこにいたる方法があるであろうか。
それらの無明を捨て去ってしまう道がある。そこにいたる方法がある。
それらの無明を捨て去ってしまう道とはなにか。そこにいたる方法とはなんであろうか。
かの八支の道こそは、それらの無明を捨て去ってしまう道である。それは、すなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。これが、無明を捨て去ってしまう道であり、そこにいたる方法なのである。
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八正道は、無明を捨て去る■■■■道、すなわち、正見、
正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。
#9 <無明> -essenceには、重大な誤りがあります。(永野)
無智と無明は異なります。四つの智慧が生じていないことは無明ではありません。無智です。無智は、未だ、正見(四つの智慧)が生じていないことです。無明は、未だ、四つの真理を理解していないことです。四つの真理を理解していないことを、無明といいます。
八正道は、無明を捨て去る道、すなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。
#9 <無明> -essence (永野)
22> 無智と無明は異なります。
23> 無智とは、正見(四つの智慧)が生じていないこと。
24> 無明とは、四つの真理を理解していないこと。
25> 八正道は、無明を捨て去る道、すなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。
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正見を有する比丘■■■■は、彼が、<こは苦なり>とあるがままに理解し、<こは苦の生起なり>とあるがままに理解し、<こは苦の滅尽なり>とあるがまま
に理解し、また、<こは苦の滅尽にいたる道なり>とあるがままに理解するであろうことを、期して俟つことができる■■■■。
正見(四つの智慧)が生じた比丘は、四つの真理を理解するであろう。期して俟つことができる。
このお経の essence を求めて、さらに、不要の文字を消去しま
しょう。
#10 <夜明け(日喩)> -6
■■■■■四つの真理を理解するときには、その■■■前に■■■、正見(四つの智慧)が生ずる。
正見(四つの智慧)が生じた比丘は、四つの真理を理解するであろう。期して俟つことができる。
■■■■■
ある時、世尊は、■■■■■五人の比丘に告げて仰せられた。■■■■■出家したる者は、二つの極端に親しみ近づいてはならない。その二つとは何■■■■か。
愛
着に貪著することは、下劣にして卑しく、凡夫の所業である。■■■■■役に立たない■■■■■。また、苦行を事とすることは、ただ苦しいだけで■■、
■■■■■役に立たない■■■■■。■■■■■如来は、この二つを捨てて、中道を悟った。それは、■■■■■智を生じ、■■■■■涅槃にいたらしめる
■■■■。
■■■■■では、如来が、■■■■■智を生じ、■■■■■涅槃にいたら■■役に立たない■■■■■。■■■如来は、この二つを
捨てて、中道しめる中道を悟ったというのは、どのようなことであろうか。それは、■■八正■道のことである。すなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正
精進、正念、正定である。■■■■■これが如来が悟りえたところの中道であって、これが、■■■■■智を生じ、■■■■■涅槃にいたらしめる■■■■。
(四つの真理とは何か)
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苦の真理とは■■■■、■■■■生は苦である。老は苦である。病は苦である。死は苦である。歎き、悲しみ、苦しみ、憂い、悩みは苦である。怨憎するものに
遇うは苦である。愛するものと別離するは苦である。求めて得ざるは苦である。総じていえば、この人間の存在を構成するもはすべて苦である。
■■■■■苦の生起の真理とは■■■■■迷いの生涯を引き起こし、喜びと貪りを伴い、あれへこれへと絡まりつく渇愛がそれである。■■■■■
■■■■■苦の滅尽の真理とは■■■■■その渇愛を余すところなく離れ滅して、■■■■■解脱して、執着なきにいたるのである。
■■■■■苦の滅尽にいたる道の真理とは■■■■■八正■道である。すなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。
<如来所説>の(四つの真理)
苦の真理とは、四苦八苦である。(如来の教えは、苦についての教えです)
苦の生起の真理とは、迷いの生涯を引き起こす、渇愛がそれである。
苦の滅尽の真理とは、その渇愛を滅して、執着なきにいたる。
苦の滅尽にいたる道の真理とは、八正道、すなわち、正命、正精進、正業、正語、正思、正念、正定、正見(四つの智慧)である。
以上にて、私は、パーリ聖典10経の墨消し作業を終え、27essenceを得ましたので、これらを集めて、一覧表を作成いたしました。ご覧ください。
ご覧いただくだけでなく、是非、皆様も、10経のessenceを求めて、繰り返し、墨消し作業をなさってください。
私は、これら27のessenceを整理編集して、本書、『釈迦の教えーGotama Buddhism』を書き進めます。
なお、番外<如来所説>は、異種の四つの真理を説きます。ご参考までに、ご覧ください。