釈迦の教え-GotamaBuddhism-

前編 第2章 お経の essenceを墨消し法で求める(10経) ( 11 / 11 )

番外 <如来所説>

番外 <如来所説>
外 <如来所説> ー1 オリジナル
        南伝 相応部経典 56ー11

かようにわたしは聞いた。

ある時、世尊は、バーラーナシー(波羅捺)のイシパタナ・ミガダーヤ(仙人住処・鹿野苑)にましました。そこで、世尊は五人の比丘に告げて仰せられた。
「比丘たちよ、出家したる者は、二つの極端に親しみ近づいてはならない。その二つとは何であろうか。

愛 着に貪著することは、下劣にして卑しく、凡夫の所業である。聖にあらず、役に立たないことである。また、苦行を事とすることは、ただ苦しいだけであって、 聖にあらず、役に立たないことである。比丘たちよ、如来は、この二つを捨てて、中道を悟った。それは、眼を開き、智を生じ、寂静、証智、等覚、涅槃にいた らしめる。

比丘たちよ、では、如来が、眼を開き、智を生じ、寂静、証智、等覚、涅槃にいたらしめる中道を悟ったというのは、どのようなこ とであろうか。それは、聖なる八つの道のことである。すなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。比丘たちよ、これが如来が悟り えたところの中道であって、これが、眼を開き、智を生じ、寂静、証智、等覚、涅槃にいたらしめるのである。

さて、ところで、比丘たちよ、 苦の聖諦とはこれである。いわく、生は苦である。老は苦である。病は苦である。死は苦である。歎き、悲しみ、苦しみ、憂い、悩みは苦である。怨憎するもの に遇うは苦である。愛するものと別離するは苦である。求めて得ざるは苦である。総じていえば、この人間の存在を構成するもはすべて苦である。

さて、とこで、比丘たちよ、苦の生起の聖諦とはこうである。いわく、迷いの生涯を引き起こし、喜びと貪りを伴い、あれへこれへと絡まりつく渇愛がそれである。すなわち、欲の渇愛、有の渇愛、無有の渇愛がそれである。

さて、とこで、比丘たちよ、苦の滅尽の聖諦とはこうである。いわく、その渇愛を余すところなく離れ滅して、捨て切り、振りきり、解脱して、執着なきにいたるのである。

さて、とこで、比丘たちよ、苦の滅尽にいたる道の聖諦とはこうである。いわく、聖なる八支の道である。すなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。(以下省略)

*増谷文雄「阿含経典」(筑摩書房) 第3巻 255頁より抜粋

なる八つの道は八正道、聖諦は真理と書き替えます。

このお経のessenceを求めて、不要の文字を消去しましょう。

番外 「如来所説」 ー2                                        

■■■■■

ある時、世尊は、■■■■■五人の比丘に告げて仰せられた。■■■■■出家したる者は、二つの極端に親しみ近づいてはならない。その二つとは何■■■■か。

愛 着に貪著することは、下劣にして卑しく、凡夫の所業である。■■■■■役に立たない■■■■■。また、苦行を事とすることは、ただ苦しいだけで■■、 ■■■■■役に立たない■■■■■。■■■■■如来は、この二つを捨てて、中道を悟った。それは、■■■■■智を生じ、■■■■■涅槃にいたらしめる ■■■■。

■■■■■では、如来が、■■■■■智を生じ、■■■■■涅槃にいたら■■役に立たない■■■■■。■■■如来は、この二つを 捨てて、中道しめる中道を悟ったというのは、どのようなことであろうか。それは、■■八正■道のことである。すなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正 精進、正念、正定である。■■■■■これが如来が悟りえたところの中道であって、これが、■■■■■智を生じ、■■■■■涅槃にいたらしめる■■■■。

(四つの真理とは何か)

■■■■■ 苦の真理とは■■■■、■■■■生は苦である。老は苦である。病は苦である。死は苦である。歎き、悲しみ、苦しみ、憂い、悩みは苦である。怨憎するものに 遇うは苦である。愛するものと別離するは苦である。求めて得ざるは苦である。総じていえば、この人間の存在を構成するもはすべて苦である。

■■■■■苦の生起の真理とは■■■■■迷いの生涯を引き起こし、喜びと貪りを伴い、あれへこれへと絡まりつく渇愛がそれである。■■■■■

■■■■■苦の滅尽の真理とは■■■■■その渇愛を余すところなく離れ滅して、■■■■■解脱して、執着なきにいたるのである。

■■■■■苦の滅尽にいたる道の真理とは■■■■■八正■道である。すなわち、正見、正思、正語、正業、正命、正精進、正念、正定である。




八正道の順序を書き替えます。

このお経のessenceを求めて、不要の■■を消去しましょう。

番外 「如来所説」 ー3

ある時、世尊は、五人の比丘に告げて仰せられた。出家したる者は、二つの極端に親しみ近づいてはならない。そ
の二つとは何か。

愛着に貪著することは、下劣にして卑しく、凡夫の所業である。役に立たない。また、苦行を事とすることは、ただ苦しいだけで、役に立たない。如来は、この二つを捨てて、中道を悟った。それは、智を生じ、涅槃にいたらしめる。

で は、如来が、智を生じ、涅槃にいたらしめる中道を悟ったというのは、どのようなことであろうか。それは、八正道のことである。すなわち、正命、正精進、正 業、正語、正思、正念、正定、正見(四つの智慧)である。これが如来が悟りえたところの中道であって、これが、智を生じ、涅槃にいたらしめる。

(四つの真理)

苦の真理とは、生は苦である。老は苦である。病は苦である。死は苦である。歎き、悲しみ、苦しみ、憂い、悩みは苦
である。怨憎するものに遇うは苦である。愛するものと別離するは苦である。求めて得ざるは苦である。総じていえば、この人間の存在を構成するもはすべて苦である。(四苦八苦)

苦の生起の真理とは迷いの生涯を引き起こし、喜びと貪りを伴い、あれへこれへと絡まりつく渇愛がそれである。

苦の滅尽の真理とは、その渇愛を余すところなく離れ滅して、解脱して、執着なきにいたるのである。

苦の滅尽にいたる道の真理とは、八正道である。すなわち、正命、正精進、正業、正語、正思、正念、正定、正見(四つの智慧)である。

のお経のessenceを求めて、さらに、不要の文字を消去しま
しょう。

番外 「如来所説」 ー4

■■■■■

愛着に貪著することも、■■■■■苦行を事とすることも、■■■■■役に立たない。
如来は、■■愛欲と苦行の二つを捨てて、中道を悟った。■■■■■

■■■如来が、■■■■■悟った中道■と■■■は、■■■■■八正道■■■■■■■、すなわち、正命、正精進、正業、正語、正思、正念、正定、正見(四つの智慧)である。これ(八正道)が■■■■■■■■■■■■、■■涅槃にいたらしめる■■■■。

(四つの真理)

苦 の真理とは、生■■■■■、老■■■■■、病■■■■■、死は苦である。(四苦)歎き、悲しみ、苦しみ、憂い、悩みは苦■■■、怨憎するものに遇うは苦 ■■■、愛するものと別離するは苦■■■、求めて得ざるは苦である。(四苦八苦)総じていえば、この人間の存在を構成するもはすべて苦である。

苦の生起の真理とは、迷いの生涯を引き起こす、■■■■■渇愛がそれである。

苦の滅尽の真理とは、その渇愛を■■■■■滅して、■■■■■執着なきにいたるのである。

苦の滅尽にいたる道の真理とは、八正道■■■、すなわち、正命、正精進、正業、正語、正思、正念、正定、正見(四つの智慧)である。


このお経のessenceを求めて、さらに、不要の■■を消去しま
しょう。

番外 「如来所説」 ー5

愛着に貪著することも、苦行を事とすることも、役に立たない。如来は、愛欲と苦行の二つを捨てて、中道を悟った。

如来が、悟った中道とは、八正道、すなわち、正命、正精進、正業、正語、正思、正念、正定、正見(四つの智慧)である。これ(八正道)が涅槃にいたらしめる。

<如来所説>の(四つの真理)

苦の真理とは、四苦八苦である。
苦の生起の真理とは、迷いの生涯を引き起こす、渇愛がそれである。
苦の滅尽の真理とは、その渇愛を滅して、執着なきにいたるのである。
苦の滅尽にいたる道の真理とは、八正道、すなわち、正命、正精進、正業、正語、正思、正念、正定、正見(四つの智慧)である。

このお経のessenceを求めて、さらに、不要の文字を消去しま
しょう。

番外 「如来所説」 ー6

■■■■■
■■■■■

<如来所説>の(四つの真理)


苦の真理とは、四苦八苦である。(如来の教えは、苦についての教えです)
苦の生起の真理とは、迷いの生涯を引き起こす、渇愛がそれである。
苦の滅尽の真理とは、その渇愛を滅して、執着なきにいたる。
苦の滅尽にいたる道の真理とは、八正道、すなわち、正命、正精進、正業、正語、正思、正念、正定、正見(四つの智慧)である。


このお経のessencは、次のようになります。清書します。

番外> <如来所説> ーessence

番外> <如来所説>の(四つの真理)

番外> 如来の教えは、苦についての教えです。
番外> 苦の生起の真理とは、迷いの生涯を引き起こす、渇愛がそれである。
番外> 苦の滅尽の真理とは、その渇愛を滅して執着なきにいたる。
番外> 苦の滅尽にいたる道の真理とは、八正道、すなわち、正命、正精進、正業、正語、正思、正念、正定、正見
(四つの智慧)である。


以上にて、私は、パーリ聖典10経の墨消し作業を終え、27essenceを得ましたので、これらを集めて、一覧表を作成いたしました。ご覧ください。

ご覧いただくだけでなく、是非、皆様も、10経のessenceを求めて、繰り返し、墨消し作業をなさってください。

私は、これら27のessenceを整理編集して、本書、『釈迦の教えーGotama Buddhism』を書き進めます。

なお、番外<如来所説>は、異種の四つの真理を説きます。ご参考までに、ご覧ください。

前編 第3章 お経の essence一覧表(10経)( 1 / 1 )

前編 第3章 お経の essence一覧表(10経)

パーリ聖典10経27essenceを集めて一覧表を作成いたしました。

     パーリ聖典 10経の essence 一覧表



#1 <一切> -essence

1> 眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触、意と法を名づけて一切という。


#2 <知るべきもの> -essence

2>   色、受、想、行、識は、知るべきものである。

2-1> 色、受想行識は、知るべきものである。
2-2> 色は、知るべきものである。
2-3> 受想行識は、知るべきものである。

3>   貪欲、瞋恚、愚痴を滅尽することを、あまねく知るという。


#3 <涅槃> -essence

4> 貪瞋痴の壊滅を涅槃という。

5ー1> 八正道は、涅槃を実現する道である。
5ー2> 八正道は、正見、正思、正語、正業、正命、正精 進、正念、正定である。


#4 <一比丘> -essence

6>   貪瞋痴の調伏/壊滅を、涅槃とも不死ともいう。

7ー1> 八正道は、涅槃を実現する道である。
7ー2> 八正道は、正見、正思、正語、正業、正命、正精 進、正念、正定である。


#5 <シンサパー> -essence 

8ー1> わたしは、四つの真理を説いた。
8ー2> わたしは、四つの真理は、滅尽、涅槃に資するから説いた。


#6 <善男子> -essence

9> 釈迦の弟子は、四つの真理を理解せんために精進す る。


#7 <苦行のこと> -essence

10> いかなる苦行も、利をもたらすことなし。わたしは、なんの利益もない苦行から離れてよかった。

11> 正念 (sati) に住して、さとりをうることができた。

12> わたしは、戒と定と慧とにより、悟りの道を修め、無上の清浄にいたった。


#8 <八正道> -essence

13> 八正道は、正命、正精進、正業、正語、正思、正念、正定、正見です。

1. 正命(正しい生活)
14 > 邪しまな生活を捨て、正しい生活をする。

2. 正精進
15>(1) 不善(貪瞋痴)が未だ生じ (arise し)ていないならば、不善(貪瞋痴)が生じ (arise し)ないように精進する。
15>(2) 不善(貪瞋痴)が既に生じ (arise し)たならば、不善(貪瞋痴)が滅 (cease) するように精進する。
15>(3)  善(不貪不瞋不痴)が未だ生じ (arise し)ていない ならば、 善(不貪不瞋不痴)が生ず(ariseす)るように精進する。
15>(4)  善(不貪不瞋不痴)が既に生じ (arise し)たならば、善(不貪不瞋不痴)が滅 (cease) しないように精進する。

3. 正業(正しい行為)
16>(1) 殺生よりの禁制とは、不殺生:生物を殺さない。
16>(2) 不与取よりの禁制とは、不偸盗:与えられないもの を取らない。盗まない。
16>(3) 邪淫よりの禁制とは、不邪淫:immoral な sex をしない。

4. 正語
17>(1) 両舌よりの禁制とは、不両舌:二枚舌を使わない。
17>(2) 悪口よりの禁制とは、不悪口:悪口を言わない。
17>(3) 妄語よりの禁制とは、不妄語:うそを言わない。
17>(4) 綺語よりの禁制とは、不綺語:無駄話をしない。

5. 正思(正しい考え)
18>(1) 不貪の思:貪が生じているときは考えない。貪が生じていないときに考える。
18>(2) 不瞋の思:瞋が生じているときは考えない。瞋が生じていないときに考える。
18>(3) 不痴の思:痴が生じているときは考えない。痴が生じていないときに考える。

6. 正念 (sati)
19>(1) 身 (body) につきて身 (body) を観じて住し、正念正智、貪瞋痴を捨す。
19>(2) 受につきて受を観じて住し、正念正智、貪瞋痴を捨す。
19>(3) 心につきて心を観じて住し、正念正智、貪瞋痴を捨す。
19>(4) 法につきて法を観じて住し、正念正智、貪瞋痴を捨す。

7. 正定 (samadhi)
20>(1) 第一定 有尋有伺、貪瞋痴の離より生ずる喜と楽を経験する。
20>(2) 第二定 無尋無伺、定 (samadhi) より生ずる喜と楽を経験する。
20>(3) 第三定 喜を離れ、正念 (sati) 正智 (buddhi)、身 (body) を以て楽を経験する。uppekkha生ず。vipassana 生ず。
20>(4) 第四定 楽を離れ、正念 (sati) 正智 (buddhi)、不貪不瞋不痴(araga, adosa, amoha) を経験する。

8. 正見(四つの智慧)
21>(1) 釈迦の教えは貪瞋痴についての教えです。
21>(2) 貪瞋痴の生 (arise) についての智慧、
21>(3) 貪瞋痴の滅 (cease) についての智慧、
21>(4) 貪瞋痴を滅 (cease) にする道についての智慧が生ずる。



#9 <無明> -essence 

22> 無智と無明は異なります。

23> 無智とは、正見(四つの智慧)が、生じていないこと。

24> 無明とは、四つの真理を、理解していないこと。

25ー1> 八正道は、無明を捨て去る道です。
25ー2> 八正道は、正命、正精進、正業、正語、正思、正念、正定、正見(四つの智慧)である。



#10 <夜明け(日喩)> -essence

26> 四つの真理を理解するときには、その前に、正見(四つの智慧)が生ずる。

27> 正見(四つの智慧)が生じた比丘は、四つの真理を理解するであろう。期して俟つことができる。


番外> <如来所説>の四つの真理:

番外>(1) 如来の教えは、苦についての教えです。
番外>(2) 苦の生起の真理とは、迷いの生涯を引き起こす渇愛がそれである。
番外>(3) 苦の滅尽の真理とは、その渇愛を滅して、執着なきにいたるのである。
番外>(4) 苦を滅尽する道の真理とは、八正道である。



パーリ聖典の10経27essence 一覧表をご覧いただきました。

27essenceの中には、重複もありますが、全く素晴らしいことが書かれています。これらを整理編集した体系が、淡
く想像でき、強い希望が、私に生じました。

私は、27essence を整理編集して、本書の中編[釈迦の教え]と後編[ 釈迦の教えのpractice]を書き進みました。

中編 第1章 釈迦の教えの立場(出発点)( 1 / 1 )

中編 釈迦の教え

中編 第1章 釈迦の教えの立場(出発点)
     お経:1>2-1>

1> 眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触、意と法を名づけて一切という。

眼、耳、鼻、舌、身、意を六官、眼、耳、鼻、舌、身を五官といいます。
色、声、香、味、触、法は、外界の information で、六官の対象です。
色、声、香、味、触、法などの外界の information は、五官に到達して、電気パルスに変わります。

釈迦出生の頃、インドでは、「神、魂、前世/来世、輪廻転生」を説くバラモン教が流行していました。

人間の能力では、「神、魂、前世/来世、輪廻転生」の存在は、経験できませんから、釈迦は、バラモン教の形而上学を批判否定して、「眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触、意と法を名づけて一切という」と宣言し、経験主義の立場に立ちました。

眼と色、耳と声、鼻と香、舌と味、身と触、意と法を名づけて、一切といいます。
私は、色と眼、声と耳、香と鼻、味と舌、触と身、法と意を名づけて、一切といいます。

色声香味触法と眼耳鼻舌身意を名づけて、一切といいます。
外界の information と六官を名づけて、一切といいます。
釈迦は、外界の information と六官が、全宇宙の一切だといいます。






少々, オーバーな表現だと思いますが、釈迦は、Gotama Buddh-ismの立場(出発点)は、経験主義であると強調しました。

釈迦は、経験主義に立って、
2-1> 「色、受想行識は知るべきものである」と説きました。
色とは、物質、人間の身体 (body)、私の身体 (body)。
受想行識とは、人間の脳の精神現象。私の脳の精神現象。
色・受想行識とは、身体と脳、すなわち、人間、私です。

釈迦は、「私(自己)は、経験的に、知るべきものである」と説きました。私を識るには、科学の方法と同じように、私は、私を観察することから始めました。(自己観察)

中編 第2章 貪瞋痴の生 (arise)( 1 / 1 )

中編 第2章 貪瞋痴の生 (arise)
     お経:2-3>

2-3> 受想行識は、知るべきものである。

受(じゅ)、想(そう)、行(ぎょう)、識(しき)と読みます。

受想行識を図表化します。(釈迦の時代の脳のモデル)

                           
 識とは、目覚めているとき、識、意識、認識が
あります。

 受とは、感覚、感受。視覚、聴覚、臭覚、味覚、
触覚。

想とは、知覚。それぞれの感覚に対するイメージ、表象。

行とは、脳の中枢。イメージに対して対応し、記憶を呼び起こ
し、思考します。

図表-1と図表-2を、一表に纏めますと、縁起-1/図表-3
ができます。

外界のinformation は、私が目覚めて
識があるとき、私の眼、私の耳、私の
鼻、私の舌、私の身に入り電気パルス
に変わり、神経を伝わって脳に達し、
受を経て想に至り、外界のinforma-
tion に相応するイメージ(表象)を
生じます。

このイメージに対して、脳の中枢(行)が記憶を呼び起こし、思
考を行いますと、activities が生じます。貪瞋痴が生じます。

例えば、美しい花を見れば、欲しい、取りたいとの貪(欲)が生
じます。
綺麗なお嬢さんに出会えば、話をしたい、友達になりたいとの貪(欲)が生じます。
快い音楽を聞けば、また聞きたいとの貪(欲)が生じます。
おいしそうな香りを嗅ぐと、食べたいとの貪(欲)が生じます。

貪(貪欲):今日の科学によりますと、人の脳の視床下部の近く
に、食の中枢と性の中枢があり、食欲と性欲を司ります。生存欲や自己顕示欲もあり、固体保存と種族保存のために多種多様な貪(欲)が生じます。

瞋(瞋恚):人は、貪(貪欲)を満たそうとしますが、満たない
とき、腹を立てます。怒ります。瞋ります。悪口を言います。そ
ねみます。ねたみます。争います。喧嘩をします。傷つけます。
国と国で戦争をします。核戦争をしないとは限りません。

痴(愚痴):人は、愚かなことを考え、愚かなことを言い、愚か
なことをします。

縁起-2/図表-4をご覧ください。

     

自然が発信するinformation と他人が発信する貪瞋痴という
informationは 、色声香味触として受信され、五官にて電気パルスに変換され、神経を通って脳に入り、脳の働き(識受想行)を経て、私の貪瞋痴というinformationとなり、自然と他人に対し
て、色声香味触として発信されます。

貪瞋痴というinformationの循環を縁起といいます。
縁起とは、この世、dukkha(パーリ語)のことです。
貪瞋痴というinformationが、この世の中を循環しています。

dukkha (貪瞋痴)に対して、sacca(真理)という言葉が使わ
れます。

私は、『どのようなときに、貪瞋痴は生ずるか』を、理解でき
ました。                      
でも、これは知識です。常識です 未だ、智慧・真理ではあり
ません。

nagano takeshi
作家:永野武
釈迦の教え-GotamaBuddhism-
0
  • 0円
  • ダウンロード