おバカな私と友人その他

捻挫( 1 / 1 )

 私はよく、捻挫をする。が、けしてドジではない、反論の声が聞こえるがドジではない。初めて捻挫したのは忘れもしない、小学校4年の時である。なぜ忘れないかと言うと長くなるのだが言う。
 小学校には陸上記録会なるものが存在する。5年と6年の部しかないのだが我が母校は人数が少ないため4年でも出るのだ。そして私はその時期になって初の捻挫を体験した。五年の部の走り高跳びに出る予定だった。ちなみにその年の五年の部の優勝記録は1m10cm、当時4年だった私の最高記録と同じである。陸上競技場の地面はよく跳ねる。学校の固い土と比べればトランポリンである。故に記録は必然的に学校で計測するよりも5cmは確実に延びるのだ。
「うぉー優勝できていたのに。」
 そこで、優勝していれば3年連続優勝とゆうありえない記録が樹立できていたのに残念である。さて、一体その時期のいつ捻挫したかと言うと・・・大会2週間程前の昼休みサッカーをやっていた私に起こった突然の悲劇である。
 転がって行くボールを走って追いかけ追いついて足で押さえた。私は走っていた勢いでボールの端のほうを踏んだ。
「あれっ。」
 こけた。私はドジではない。ボンちゃんが、
「大丈夫。」
 と言って近寄ってきた。
「大丈夫、大丈夫、ちょっと足ひねっただけ。」
「本当に大丈夫、結構凄かったよ。」
 一体どのように凄かったのだろう。
「まぁいい、立ち上がるか、あれ、立ち上がれない。」
 立ち上がろうとしたが、ひねった右足に力が、はいらない。まるでフニャフニャの軟体動物である。2~3回トライしたが、無理だ。
「ボンちゃん、ボンちゃん、ちょっと肩貸して。」
「ちょっと、どしたの。」
「いやなに、立ち上がれんのよ、アッハッハ。」
 そう聞くとボンちゃんの顔は青くなった。どっちがケガ人かわからない。ボンちゃんは非常に心配してくれ保健室まで連れて行ってくれた。いい奴である。保健の先生は、
「何処がいたい、あぁ、ここ。」
 足の外側の端である。
「ここは細かい骨が固まってるからねぇ、もしかしたら骨折してるかも。」
 すました顔してとんでもないことを言うひとである。
「骨折?、細かい骨が固まってる所。」
 私の頭の中では細かい骨の固まりが粉々になっている所が浮かんでいた。
「あぁ、私の骨は粉みじんだ、きっと粉薬のようになっているのだろう。」
 そう思うと一層足の痛みは増した。
「取り合えず、湿布しておくけど、病院にいこうね。」
 当然である。骨折の疑いのある足を湿布で済まそうなどと思っていない。
 病院に行く。レントゲンを撮ってもらうことになった。
 突然だが、私はレントゲンが嫌いである。なぜかと言えば、このレントゲンなるものは体内に放射線を通すのだ。しかも、この放射線は体内から出ないのである。体内でどうなるのか知らないが、私の頭の中には、体内で飛び回る放射線の図がある。一生、体の中で放射線がビュンビュン飛び回るのだ気持ち悪いじゃないか、だから私はレントゲンが嫌いなのだ。しかし、この場合はしかたがない、私はおとなしくレントゲンをとってもらった。レントゲンの結果、骨には異常はないとのことだった。私の骨は異常ない、正常なのである。
「ハッハッハ、なんだなんでも無いじゃないか、私の骨は丈夫なのだ、さぁ矢でも鉄砲でも持ってきやがれ。」
 私はやけに強気になって訳のわからないことを頭のなかで叫んでいた。頭の中で粉みじんの骨がみるみるもとの形にもどっていく。しかし、痛い、骨折ではなくとも痛いのである。病院の先生は、
「骨には異常は無いです、捻挫ですから安静にしておいてください。」
 安静にしておく、私の人生の中でその時初めて言われた言葉だった。
「安静にしておく?。」
 私の頭の中ではよくドラマなどで映し出されるシーンが映っていた。
「先生、娘は大丈夫なんででしょうか。」
「非常に危険です、なるべく安静にしておいてください。」
 こんなシーンである。
「私の怪我はそんなにひどいのか、足をひねって死んだ奴など聞いたことがない、きっと今はこんな感じでもしばらくすると鬼のように痛くなるにちがいない、捻挫とはそんなに恐ろしいものなのか。」
 と密かに捻挫の恐怖におののいていた。
 私に対しての処置は湿布を貼って強力ゴム入りの包帯で固定するというものだった。
「こんな簡単な処置でいいのか、私の命は変な包帯一本で守られるものなのだろうか。」
 密かに自分の命の軽さを嘆いていた私に医師はこう言った。
「松葉杖は邪魔になるからいらないね。」
 おいおい、安静にしろと言ったのはあんたじゃないか。しかし、そう言われると欲しいとは言えず。
「はい、結構です。」
 と言ってしまう自分がなさけない。
「松葉杖はもうほぼ死が確定した人がつかうのだろうか。」
 私はとんでもない疑問を残したまま病院を去って行った。
 家に帰ると家族が心配そうに待っていた。しかし私が骨折してないことを告げると、
「なんだ、ただの捻挫か。」
 ということになり、たいしたもてなしを受けなかった。
「捻挫とは本当に恐ろしい物なのだろうか。」
 その時、私の心に疑問がわいた。やはりその通りで鬼のように痛くなることはなく、 ”ただ右足を使うと痛い”といったレベルで私の痛みは止まった。
 しかし、不便であることにかわりはなく、松葉杖もない私はそれからしばらくカラ傘お化けのように一本足で暮らすことになるのだった。

仲良し( 1 / 1 )

 今日はクリスマスである。しかし今年のクリスマスは、もう過ぎてしまった。現在クリスマス経過30分たった。光速で地球を逆回転して30分さかのぼればクリスマスに戻れるのだが、どうせ仕事しているのでやめておこう。ちなみにこの技はスーパーマンがやっていた。私にはできないので期待しないように。

  私は寮暮らしになったのでコタツが無い。特にコタツが好きではないが、コタツに入って食べるアイスが好きなのだ。寒い冬に余裕でアイスを食べられるあの設備、考案した人にノーベル賞をあげよう。しかし、無理なので、 「あんたはホットで賞」byひらくん  で、我慢してもらう。

  そういえば、子供のころコタツで寝ているとよく怒られた。 

「あんた、そんな所で寝たら風邪ひくよ!」

  今まで数々の風邪に出会って来たが、コタツが原因で風邪になったことは無い。嘘つき。嘘といえば昔こんな嘘をついたことがあるそう、あれは小学校一年生のころである。

  私の親友にみんなにボンちゃんと呼ばれている少年がいた。彼は非常におっとりしていてまるでパンダの様だった。彼のために言っておくが、けして体がバカでかいわけではない。まぁ、パンダもおっとりしているわけではないがイメージの問題である。そんなボンちゃんに私はある日こんなことを言った。

 「僕の家にはタイムマシンがあるのだ。」

  今思えば妄想僻の危ない奴だが、こんな危ない奴の言うことをボンちゃんは本気で信じてしまったのだ。

 「本当、すげぇ~。」

  嘘に決まっている。きっといつかボンちゃんは誰かに騙されるだろう。すでに私が騙している。気をつけろボンちゃん。そういうわけでしばらく私はボンちゃんに冒険談を話し続けることになる。

  恐竜のいる時代に行ったら燃料がきれそうになってヒヤヒヤしたとか、江戸時代に行って昔の先祖に会ったなどなど、最後には、

 「あるボタンを押すとすごく小さくなってね、人間の体にも入れるんだよ。この間ボンちゃんが寝てる間にチョット入らせてもらったから。」

 「えぇー!、いつのまに」

 「ボンちゃん右の奥歯に虫歯があるよ、早く治しなよ」

  と、2、3ヶ月前の歯科検診の内容までもちだす周到さだった。

  しかし、これくらいになれば嘘だとばれるだろうと私は思っていた。が、驚いたことにボンちゃんは全てを信じていたのである。あぁ、誰かが言っていた、

 「信じるものは救われる・・・」

  こんな話しを信じたところで救われはしない。ごめんよボンちゃん・・・。

  こんな日が何日つづいたろうか。私はボンちゃんに本当のことを打ち明けるこにした。 

「実は、今までの話しは全部嘘なんだ」 

 ボンちゃんのショックは大きかったらしく、しばらく口さえ聞いてもらえなかった。当然である。仮に私がボンちゃんならそうしたであろう。今までどんなに喧嘩をしても次の日には仲直りしていた。しかし、こんどばかりはちがったようだ。

  三日ほどたったろうか、そこには一緒に遊ぶ二人の男の子がいた。

水泳( 1 / 1 )

 私は水泳が好きである。どれくらい好きと言えば、コタツで食べるアイスぐらい好きだ。
 小学校の頃、体育の授業で、
「どれくらい泳げるか測るから一人づつ泳げ」
 と先生に言われ2000メートルまで泳いだところで止められた。悲しい・・・。ちなみにボンちゃんも2000メートル泳いだが、脱水症状で倒れた。まぁ、あれだけ動いて水を飲んでいないのだからしょうがない。水に浸かっていても汗はちゃんとでているのだ。その点から考えるとカエルも倒れそうだが、きっと泳ぎながら水を飲んでいるのだろう。しかし、今までに何匹かは倒れたにちがいない。私はそう願う。
 私には昔、泳ぎの才能があったらしい。小学校の頃の話しである。
 ほかの地域ではどうか知らないが、私たちの地域では毎年夏になると「水上記録会」なるものが市(県かもしれない)の小学校全体で行われた。地区ごとに開催し、全体のランキングを出すといった物だ。
 その大会のために放課後になると水泳の練習をしていた。
 私の通っていた小学校は人数が少ない、同級生なんか、5人しかいない。全校生徒は54人だった。ようするに私の住むところは田舎である。誰かが言っていたが、人間の数より狸のほうが多いらしい。
 まぁ、今のは嘘だがこんな言葉が真実味をおびてくる程、田舎なのだ。
 狸の少ない地区では選手になれない人もいる。しかし、私のいた小学校は全員選手である。全員と言っても選手は5年生と6年生だ。1~4年生は普通は出場できない。が、うちはちがった。4年生だった私達5人もかりだされたのだ。
 練習はきつい、あの運動量なら今の倍は稼げる。それほどきついのだ。練習を見ていたのは岡本先生だった。私にとっては3~6年生まで4年間お世話になった恩師である。
 練習は3時くらいからはじまる。約2時間程の練習だが、その間みんな半魚人である。ほとんど水からあがらないのだ。
 練習の内容は、
「25m×10」
「ビート板を股にはさんで腕の練習25m×5×3(クロール・平、背泳ぎ)」
「ビート板を手に持って足の練習25m×5×3」
 こうやって書くとどうってことないように聞こえるが実際はかなりの練習量である。この後にその日の各泳ぎの記録をとる。そして最後に3つあるコースをジグザグに泳ぐ75m×先生の気分。
「おいおい、これが小学生の練習なのか。計算すると(先生の気分=5)約1500mになるぞ、私の家まで往復してもまだおつりが来るじゃないか」
 と、今は思うがその頃の私は素直にシュイシュイ泳いでいた。それはなぜか? 答えは飴である。練習が終ると岡本先生が飴を1つくれる。自分の記録を更新すると飴がなんと2つも貰えるのだ! まさに飴と鞭である。まぁその飴がチュッ◯チャッ◯ス1つとかならまだゆるそう。だが私達がもらっていたのは1つの袋に20~30個入りの安物である。
 岡本先生はこう思っていたのだろう、
「小学生なんざこんな飴一つで十分、十分」
 そのとおりである。
 ここいらの小学生はどうか知らないが私達にはそれで十分だった。
 さて、水泳の練習が終り先生から飴をもらい、おいしくいただいた後はバスケットボールの練習がまっている。その練習が終るのがだいたい7時30分、家に帰りつくのが約8時という過密スケジュールである。しかもこれが毎日、
「おいおい、いつか死ぬんじゃないか」
 と、私は思っていたが、今日までスクスク育ってきた。人間そう簡単には死なないらしい。
 さて、水上記録会の結果だが岡本先生の指導のおかげか、はたまた私の才能か好成績をおさめることができた。
小学校4年(5年の部に出場)平泳ぎ 優勝
小学校5年 平泳ぎ 優勝、クロール 2位
小学校6年 平泳ぎ 優勝(地区新)、クロール 優勝
『バンザーイ!!』

一輪車( 1 / 1 )

 私は一輪車に乗れる。嘘ではない。本当に乗れるのだ。言っておくが、土を運んだりするときに使う一輪車ではない。サーカスで使っている、つついただけで倒れそうなあの一輪車である。でも今はもう乗れないかもしれない。私が一輪車に乗っていたのは小学校のころである。
 私の小学校ではたしかベルマークをあつめていた。私は卒業するまで知らなかった。きっと極秘に計画は進行していたのだろう。しかし、うちの姉二人は知っていたらしい。いつか私がマヨネーズの袋を捨てようとするとこう言われたことがあった。
「ちょっとそれ捨てないで、とっといたんだから」
 きっとベルマークを集めようとしていたのだろうが、当時の私は、
「うちの姉達はマヨネーズの袋を集めるのが趣味なのか。こんなゴミのどこがいいのだ。私ならバーモン◯カレーの箱にするのに、あっちのほうが断然きれいだ。」
 バカな私はこう思っていた。どちらもゴミである。しかし、当時の私は姉達に対抗し本気でカレーの箱を集めようとした。
「よし、明日から集めよう甘口から順番に中辛、辛口、それが終ったらこんどは印◯カレーだ。」
 冷蔵庫を開ける。まだ未開封のカレーの箱が輝いて見える。
「明日はカレーにしてもらおう」
 私のカレー箱ライフは次の日から本当に始まった。しかし、バーモン◯カレー甘口を手にした時、
「これを集めてどうする?なにか役にたつのか?もっとよく考えろ・・・これはただのゴミだ」
 私のカレー箱ライフは一日で終った。
 さて私がこんなことをしている間にもちゃくちゃくとベルマークは集められ、集めたベルマークで学校に一輪車がやってきた。
 最初は、
「すごいすごい、一輪車だ、一輪車だ」
 と、言ってはとりあいになっていたが、ある事実に気づいた。
「乗れない・・・」
 全然乗れない。1メートルも進めない。
「なんだこれは、バランスが悪そうな乗り物だと思ったが、本当にそのとうりじゃないか。」
 と改めて確認し、歩いたほうが速いと私は認識したのである。
 そして誰もが一輪車の存在を忘れかけていた時、あるイベントによって一輪車は一躍脚光をあびることになる。
 『運動会』、そうあの赤と白に分かれて戦うという危険なイベントである。
 岡本先生が言ったのだ。
「今年の運命競争には一輪車もいれるからな」
 みんな驚愕した。誰一人一輪車に乗れないからである。きっと、
「一輪車、このままじゃ無駄だよ、何かいい案はないかね」
「それでは今年の運動会で利用する手はどうでしょう。必死で練習しますよヒッヒッヒッ」
 と、職員会議で話していたにちがいない。
「なんてこった、一輪車なんてドベ確定じゃないか、でもカードを引かなければいいのだ、強運な私は大丈夫」
 と、根拠のない自信で気にしていなかった。
 あくる日からみんな一輪車の練習を始めたが、私とボンちゃんの二人はちがった。こけるみんなを見ては、
「あぁーあ、あんなにヒザをすりむいて、まったく、みっともない」
 と、第三者を気取っていた。
 しかし、そんなある日、大人ぶった生意気な私に天罰がくだる。
 運動会にはもれなく「練習」というおまけが付いてくる。私の小学校も例外ではなく体育の時間などを利用して練習が行われた。当全、運命競争の練習もそこには取り入れられている。
 私は一輪車のカードを引かなかった。練習は何度も何度も行われたが、私は一輪車のカードを引くことはなかったのである。
「おぉ、神様さすがわかっていらっしゃる。」
 などと思いながら一輪車に乗り、こけながら必死でゴールを目指す者を見てはあざ笑っていた。さて、この練習であるが、練習にも本番がある。私達の間では「小運動会」と呼ばれていた。練習の集大成であり本番の完全なリハーサルである。実際に競技をし、得点もカウントして勝敗を決めるので、私はこの小運動会をやるたびに、
「本番をやる必要があるのか?」
 と本番の存在を疑問視していた。しかし、この私の心の声を聞いたのか運命の女神は私に試練を与える。
「まったくただのガキのくせに小運動会にいちゃもんつけるんじゃない!」
 と考えたのだろう。ついに私は小運動会で恐怖のカードを引き当ててしまった。
「一輪車にのって三角ポストを回ってゴール!!」
 若い先生が書いたのであろう。黒のマジックで躍動感溢れる一品に仕上がっている。その時の私は、
「なんてことだ、このカードは一輪車に乗れと言っているのか?フッ」
 と意味も無く鼻で笑っていた。
 ふと見ると無造作に置かれた一輪車がある。普段は遊び道具でしかない一輪車が拷問台に見えた。
 人間いやなことをしている時間は長い物で、ほんの数分の出来事が何時間にも感じられる。きっと人間には「体感時間制御装置」なるものがついているにちがいない。この装置のダイヤルを無意識に、「速い」「遅い」のどちらかに回しているのだろう。当然この時の私のダイヤルは「遅い」のほうに振り切れんばかりの勢いで変化していった。
「あぁ、これから三角ポストをまわって長い直線を進むのか、一輪車に乗って全部進めるかなぁ、きっと無理だろうなぁ、何度もこけるんだろうなぁ・・・」
 様々なことを考えているがこの間おそらく3秒とかかってはいまい。
「このくらいの思考速度で算数のテストを受けられたらなぁ・・・」
 一輪車に足をかけながらそんなことを考えた。たしかにわずかの時間にこれだけのことを考えられるなら算数のテストも「一休さん」みたいに「あせらない、あせらない」などと、たわごとを言いながらできそうだ。
「算数のテストは私にとっていやなことである。だからダイヤルは"遅い"になっているはずだが、なぜ"速い"になっているのだろう? それはなぜか?。きっとそれは"終了"の違いなんだろうなぁ。算数のテストの終了する時間は時間に乗ってやってくるけど、一輪車のゴールする時間は時間に乗って逃げていくからだ。きっとそうにちがいない」
 と、私が意味の無い悟りをひらいているとは誰も気づいてはいないだろう。なんてったって私はさっきからこけまくっている。全然進めない。ずっこけては進み、進んではこけ。「起き上がりこぼし」さながらのガッツを見せている。普通に乗っていると全然進めないので、こける時にさりげなく一輪車を前に飛ばすことを考案したが誰の目から見てもバレバレである。しかし今の追い込まれた私には選択の余地はない。恥をしのんで一輪車を豪快に前にとばす。「一輪車ぶっとばしレース」なら全国ベスト8には入りそうな勢いだ。
 ふと周りを見ると他の選手達も様々なことをしていた。マイクで歌声を披露するものもいれば、仮装をして髪を振り乱し走る人もいる。遥か前方には竹馬に乗って走る姿があった。それら全員が私の目には、いだてん野郎に見えた。
「なんで竹馬があんなに速いんだ。」
 前方の竹馬を見て恐愕する私のわきを二人三脚が風のように走りさった。
 次々と他の選手はゴールしていくが、私のゴールは遥か地平線の向こうである。とうとう最後の一人になってしまった。これがマラソンならアナウンスで、
「最後の選手が帰ってきました。みなさん暖かい拍手でむかえてください」
 などの放送が入り、他の人からも、
「くじけずによく頑張った、完走することに意味があるんだ」
 と、感動の嵐が吹き荒れるところだが実際はちがった。
「パーンッ!」
 暖かい拍手どころか銃声である。驚いて後ろを見ると次の組が一斉にスタートしているではないか。
「おいおい、ちょっと待ってくれ、やっと最後の直線なのに」
 と、あせる私に、ある先生の声が聞こえた。
「平岩っ、手で押せ」
 それなら最初から言え。そうすれば全校生徒の前でこけまくることもなく。ただ、
「平岩君は一輪車に乗れない」
 ということで終っていたのに、今の公的認識は、
「平岩君は一輪車に乗れなくて全校生徒の目の前でこけまくったあげく、手で一輪車を押してゴールした」
 になってしまうではないか。うぉー!
 さて、普通の根性のある若者なら意地でも一輪車に乗ってゴールするのだろうが、あいにく私はそんな根性を持っていない。背後には次組の軍団がせまっている。既に全校生徒の注目も次のレースの行方に向けられいるようで、私のことを気にかけている生徒は一人もいないようである。私はこれ幸いとばかりに一輪車に手をそえると疾風のようにゴールし、ドベの列にそそくさとならんだのである。
 次の日、私はある決心をした。
「一輪車に乗ろう」
 この時、全校における「一輪車にのれない生物」の生息率は20%をきっていた。運命競争の圧力で死に絶えようとしていたのだ。私の小学校で20%と言えば10人程だ。その中の一人が決心したのだ。また一歩、種の絶滅に近付いたといえる。さらに一人で練習するのが嫌だった私は同じく一輪車に乗れないボンちゃんも引き連れ練習を開始することにした。
 休み時間、職員達の思惑どおり一輪車は空前の大ブームとなり、誰もが我先にと一輪車を追い求めていた。マスコミに踊らされる原因はここにあったかと思いつつ一輪車を奪おうとしたが無理だった。もはや一輪車に乗れない奴に貸す一輪車は存在しないのである。弱った私は先生を抱き込み、
「先生、一輪車に乗れない人に一輪車優先制度を適用してくれ」
と頼んだ。世の中なんでも利用しなければ生きていけないのだ。この作戦は見事に効果を発揮し、次の日から私とボンちゃんには専用の一輪車が用意された。先生の一声は小学生には強大なのだ。 さっそく私とボンちゃんは練習を始めた。ジャングルジムにつかまりながら一輪車に乗りペダルを踏む。
「バタッ」
 1mも進まぬうちに倒れてしまった。
「ほんとに人間はこれに乗れるのか」
 私の頭に一抹の不安がよぎった。だいたい物体を一つの点だけで支えることに無理がある。この世で一本足が許されるのは、「から傘お化け」か、「やじろべぇ」ぐらいだろう。私は神からそんな許しを受けてはいない。現に私の足は二本ある。だいたいだれがこんな物を考えだしたんだ。けしからん、これがあるがゆえに私はしなくていい苦労をしているのだ。この先、一輪車に乗れるからといって人生に役立つことがあろうか? おそらくないであろう。さらに、どこかの学校では一輪車に乗れないことが原因でイジメがおこったりしているにちがいない。
「一輪車を作った人よ、あんたぁ罪人だよ」
 などと言いながら私はまたこけていた。これからしばらく毎日これを繰り返さねばならない。私はボンちゃんを見た。どうやら同じ気持らしい。
「乗れるかなぁ・・」
 さて一週間後のある日、そんな私に突然バランスの神が乗り移った。
「あれっ」
 さっきまで、
「ヅテンッ、バタンッ、ゴテッ」
 といっていた一輪車が、
「スイー、スイー、フフンー♪」
 といっているではないか。
「おぉ!なんだこれは?全然倒れないじゃないか、すごいすごい、ブラボー!」
 私は狂気した。自転車に乗れる人はわかると思うがまさに、あの感動よもう一度である。本当に突然である。どうせこけると思いながら乗ったら、あれあれあれっ、である。とうとう私にも神のお許しがでたようだ。から傘お化けの親戚にでもしてくれたのだろう。そんな私を見て負けず嫌いのボンちゃんもすぐさま乗れるようになった。
 これで運命競争はもらったも同然だ。
 大会当日、天気は上々、競技は順調に進んでいった。そして運命競争の番である。
「運命競争の選手は入場門に集まってください」
 係りのアナンスが聞こえるなか、気合いを入れて入場門に向かい、グラウンドを見た。既に前の競技は終り、入場である。私は、
「ついにこの時がきたか、たくさん苦労したなぁ。それもこれで終るのだ。今まで応援ありがとう」
 と、意味もなく誰かに感謝していた。
 10分後、競技も終盤にさしかかりついに私の出番である。ちなみに人数が少ないので、あっという間に出番がくるのだ。
 私はスタートラインについた。
「一輪車めこの間の借りを返してやる」
 悪いのは自分である。一輪車に罪はないが一輪車に乗れるようになった私にとって今の一輪車は奴隷と同じだ。私の思いどうりに動くしもべなのである。だから悪いのは一輪車なのだ。
「パーン!」
 スタートを切った私は一番にカードを引いた。
《一輪車に大人をのせてゴール》
「一輪車に大人をのせてゴール? はて一体何だろう」
 悩んでいる私のよこを一輪車に乗った選手が走っていった。
「おいおい、一輪車を持っていくなよそれは私が・・・」
 その時、私の目にある物が映った。一輪車である。一輪車といってもサーカスで使っている、つついただけで倒れそうな一輪車ではない。土を運んだりするときに使うあの一輪車である。私は絶句した。
「一週間、死に物狂いで練習したのに私はなんと運が悪いのであろう。強運なころが懐かしい。」
 強運な頃も一輪車のカードを引いてはいない。
「しょうがない誰かさがそう」
 私は父を捜した。
「お父さんこっちこっち」
 私の父は痩せている。痩せているといってもガリガリではない。ガッチリというかムキムキというかとにかく筋肉質で一見痩せて見えるのだ。当時見た目で父の体重を判断していた私はそんなに重たくないだろうとたかをくくり父を一輪車に乗せた。
「お、重い・・・」
 それはそうであろう。筋肉質で身長もこの歳では結構高めの168cm。しかもただの筋肉質ではない。
 私の父は電気工事士である。昔、電柱は木で出来ていた。それをコンクリート性の電柱に交換する時、一人で古い電柱を
「ほいさ、ほいさ」
 と、運んでいたというではないか。いくら木といっても今の電柱と同じ位の高さと太さである。ふつう「ほいさ」などと運べる代物ではないはずだ。
「くっ、重い」
私はふらふらしながら父を載せた一輪車を押した。
「ほれほれ、急げ」
 父は楽しそうだ。私の苦しみを少しわけてやりたいが、よく考えたら彼も大変恥ずかしかろう。ジャージを着て一輪車の上に載っているのだ。
 私はゴールを目指し必死で運んだ。うまく歩けないので一歩の幅は30cm程だ。小走りくらいの速さで足を動かしているから、だいたい普通に歩いているのと同じ位の速さである。そのとき少し後方のポールを回った一輪車が私のわきを通りすぎていった。
「歩くより一輪車の方が速い」
私は再認識するとまた一輪車を手で押してゴールしたのであった。
ひらくん
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