中国経済を動かす人々はさまざまだ。社会主義計画経済を採用することを推し進めた毛沢東,改革開放を決定した鄧小平,社会主義市場経済が中国の目指す改革像であるとした江沢民・朱鎔基政権。社会主義革命に踊った農民や都市住民は,人民公社に組織されるとともに,国有企業に編制された。政府や家計,企業など経済主体はさまざまな意思決定をするが,計画経済時代は中国政府が主な意思決定権をもっていた。
改革開放から30年が過ぎた現在,政府だけにとどまらず,家計や企業も自由な意思決定を行い経済活動を始めた。農民は請負制をはじめ,新たな改革の主体者となり,都市へ移動して農民工として中国を世界の工場たらしめた。企業改革とともに労働者の中から経営者が誕生し,中国企業を世界企業へと押し上げた。外資系企業も中国に殺到し,世界市場から原材料調達,技術や経営資源の移転を行い,高品質で廉価な商品を大量生産し,世界市場へ大量に輸出した。政府以外の経済主体が「儲け」をめぐって自分に有利な意思決定を行い,積極的な経済活動を展開している。
市場経済は「儲け」が中心である。政府を含めて人々は利得を最大にするように行動した。まさにエコノミックアニマルの様相を呈した。あくなき利潤追求は中国経済を年率10%以上の経済成長をもたらした。人々のお金やモノ・サービスへのあくなき欲求が,新たな製品の開発につながり,その生産のために雇用が生まれる。人々は,さまざまなモノ・サービスを手に入れることによって豊かさ,「効用」が増大する。人々は積極的に,もっといえば大変熱心に働いた。働く意欲は外資系企業にとっても生産現場としての中国が魅力的に映り,さらなる外資系企業を呼び込んだ。
利得や効用を最大化するんだ,という合理的な意思決定を行う人々は,インセンティブ,経済的誘因に反応する。中国の経済発展と豊かな社会は都市部で先に実現した。冷蔵庫,洗濯機,液晶テレビなどの家電,マイカー,マイホームが都市住民のあこがれのものから,普通に誰でもあるものに変化していった。しかし,農村部は発展から取り残され,耐久消費財の普及率は低いままであった。農民は都市部の工場で農民工として働く中,わずかな収入を自らの実家に送金した。農業以外の収入を手に入れることができるようになった農民たちも,都市部住民と同じような生活をしたいという欲望が限界にまで達していた。
人はインセンティブに反応する。とくに価格は私たちの経済活動で買うか買わないかという意思決定を行う際に重要なインセンティブとなる。合理的な意思決定は得をするなら購入するし,損をするなら購入はしないということを意味する。
2007年後半から実施された家電下郷,汽車下郷政策は,家電や自動車を購入すると補助金が出るというものだ。一種の国家が支援する家電の大バーゲンセールである。これが農民の耐久消費財への購入に火をつけた。最初は補助金の還付が煩雑,一部農民はこの政策を知らなかったりなどの問題で出足はよくなかった。しかし制度の改善,認知度の上昇により多くの農民が冷蔵庫,電子レンジ,テレビなどの家電を購入したのである。
経済発展の一方,中国経済はさまざまな課題をもつこととなった。それは,格差と環境である。とくに格差問題は深刻であり,社会主義国である中国が世界でもまれにみる格差国家になっているのは皮肉だ。社会主義の思想は社会構成員の平等であった。そのために資本や土地を公有化(国有企業と人民公社)してみなで生産物を分け合うシステムであった。中国共産党指導部,とくに当時の鄧小平は1978年に大きな決断を下す。それが改革開放政策であった。平等をすて,ある程度の格差を容認することによって,経済成長を目指すことになったのである。
国家指導者は計画経済か市場経済かという意思決定にあたって,大きなトレードオフに直面する。一つは効率でありもう一つは平等である。効率(経済成長)をとると,平等を捨てなければならない。平等を採用すると効率をあきらめなければならない。中国の現在の格差は,当時の改革開放という意思決定の結果なのだ。
中国は計画経済から市場経済に移行している国だ。ロシアや東欧も移行経済国であったが,ショック療法と呼ばれる方法で市場経済を導入したために混乱した。中国は漸進主義と呼ばれる方法で徐々に市場経済化をすすめた。市場経済をゆっくり導入したために,市場経済ができあがる過程を観察することができる。そのため市場経済とは何か,市場経済はどのようなメリットがあるのかを理解するのに,中国は最適な材料を提供している。
平等は人々に同じモノを同じだけ配分することで実現できる。平等を実現するには政府に強いモノの配分権力がなければならない。中国はそれを計画経済という形で実現してきた。
人々は隣近所と同じモノを食べ,同じ衣服を着ることによって平等が完成する。しかし人々には欲求があるし,好みがある。パンを好きな人もいれば,ご飯をすきな人もいる。食パン1枚で満足する人もいれば,ご飯3杯食べてもお腹いっぱいにならない人もいる。となると同じモノを配給されても人々の満足は高くなくなる。
中国は,糧票という食糧切符をつかった配給システムによって食糧を人々に配分していた。ここには市場経済の大きな前提である「交換」が存在しない社会であった。配給システムは人々の平等という感覚を満足はさせるが,人々の自分個人の欲求の満足にはいたらない。
市場経済化にともない,食糧切符は他のものと交換できるようになった。北京に出張に行った人が食糧切符を衣服切符に交換することによって必要な洋服を得ることができるようになる。お金よりも配給切符が重要であったために切符を交換することによって人々は自分の欲求を満たすことができた。
市場では欲しいモノと販売するモノが過不足なく交換されていることが多い。つまり需要と供給が一致するのが一般的だ。ところが上の配給システムは常にモノ不足という問題を抱えていた。毎年政府が決めた計画によってTシャツを生産する。そのTシャツは衣料切符によって人々に配給する。過不足ないようにモノが配分されるように思えるが実際には違った。
何を生産するにも何を購入するにも自分の中の予算の縛りがない(ソフトな予算制約という)状況では,人々は余分に持とうとしてしまう。国家の計画に従うだけなので企業はもうける必要はない。そうすると多めに原材料を購入して,計画だけ生産すれば終わりになってしまう。多めに原材料を買うのはいつでも命令に備えるためである。家計も自分の収入とは関係なくお米を持とうとする。次の配給切符がもらえるまでに家でため込んでおき,不測の事態に備えたいと思うからだ。
モノを多く持とうとする状況は需要超過を招く。その結果,供給が足らないという状況になり,計画経済では常に行列が存在することになる。
市場経済化は供給の不足という状況を解決した。市場で儲かる(価格が高くなっている)ということがわかれば企業は多くを生産するようになった。逆に多く生産されすぎている製品は価格が下落してしまい,多くが販売できることなった。人々は高ければ買わないし,安ければ買うという行動を通じて,モノが過不足なくみなに行き渡るようになった。各家庭に必要な家電が行き渡って中国の生活は豊かになったのである。
中国の市場経済化を観察してくると市場を創るための条件とは何かがわかってくる。それは自由な意思決定と所有権の交換だ。
規範的な市場になるには,多数の取引主体が参加すること,取引コストがかからないこと,情報が行き渡っていることが重要である。ところが中国は国有企業の独占があったり(一部企業で競争がない),物流システムが改善中であるが現在とは取引コストがかかり,正確な情報が消費者に伝わらないなど,問題もある。そのため,政府は市場を改善するとともに,積極的にできることはやるという姿勢をみせている。
市場は人々の生活水準を向上させる魔力を持っている。このために市場経済は素晴らしいという人も多いが,実は市場経済にも解決しないといけない問題は数多く出てくる。例えば、食品安全(情報の非対称)、渋滞(外部経済)、農民工問題(公共財)、環境問題、知的財産権(独占)などの課題は多い。市場だけでは解決できないさまざまな問題のことを市場の失敗と呼ぶ。
中国では粉ミルク問題をきっかけとして食品の安全性に注目が集まっている。家電など家の中にあふれ、自動車を購入する人々が増えて、生活は豊かになったにもかかわらず、食品で生活が脅かされるのは皮肉な状態である。これを書いている時にも「下水油」(油の再利用や動物の皮や贓物からつくる油)が雲南省で摘発された。
食品が安全かどうかは、生産者側に情報があって、購入者側に情報がないという「情報の非対称性」が問題である。もっというと中国では生産者同士でも情報が非対称性になっている。工場は、誰がどのような肥料を使って農作物を生産しているのか、知らないし、別の工場は添加物が安全かどうかわかっていなくて使用していたりする。製品に関する情報が手にはいらないという状況では、人々が安心した取引ができない。
経済活動が経済以外の状況に影響を与えることを外部経済という。近年の中国都市部における渋滞はその典型である。豊かになった人々は自動車を購入し生活を便利に過ごそうとしている。しかしその結果は渋滞で不便になるというものである。自動車購入という経済活動が、渋滞という社会問題を引き起こしている。これを外部不経済という。外部不経済では市場経済がうまくいっていないので、何かしらの解決方法が政府から提案される。注目されるのは上海の入札制だ。シンガポールでも導入されているが、自動車に必要なナンバープレートを入札で決定する人である。必要な人が入札に参加し、道路の供給にそった自動車台数が市場に出回ることになる。
格差問題や環境問題も市場経済ではうまく解決できない問題だ。農民工が都市部に出稼ぎに来ている。農民戸籍というだけで、環境の悪い工場で人が嫌がる仕事を長時間働かせるなどの劣悪な労働環境に追い込んでいる。政府が農民工に対する何かしらの解決方法を提案することが求められている。政府が提供し、皆が使うことのできるモノやサービスを公共財という。農民工への支援をどうするか。中国でも注目される動きが出てきている。それは政府ではなく非政府組織、NGOやNPOが発生し、農民工への支援を始めているのだ。農民工の子弟に対する教育の提供、農民工が仕事現場で事故にあった場合は、法律相談を受け付けたりなどである。政府ができない部分を民間ができるようになってきている。
環境問題も深刻だ。日本でも報道されるように、中国の大気汚染、水汚染、砂漠化は年々その深刻度を増している。環境の問題は「共有地の悲劇」として説明される。内モンゴル地域で進む砂漠化はその典型であり、草原に自らの牛や馬を放牧し家畜を育てていく。皆が自分の家畜の成長のことばかり考えて放牧すると、草原という共有地には草がなくなり、土地は砂漠化してしまう。このため環境資源という「共有地」の使用に何かしらの制限をしないといけない。市場では、所有権を設定して売買する方法や環境税ということで共有地のコストを内部化する工夫がされてきている。
中国では日本のアニメのニセモノが話題になったり、iPadでももめたように商標権の乱用も大きく注目される。中国は知的財産権を守らない、とんでもない国だと思ってしまうが、知的財産権はアイデアという情報(文書、絵画、名前など)に独占的使用権を与えるというシステムであるため、独占の弊害も発生する。独占の弊害とは、その企業に独占的利潤を発生させるということ(そのために新製品を開発するインセンティブになる)、価格が高止まりするために本当に必要な人が買えないという問題が発生する。また新製品の開発には模倣も必要であり、過度な独占は技術の衰退をももたらす(ソニーのベータ技術、パナソニックにプラズマ技術)。だからといってニセモノを放置するのもオリジナル企業のブランドが毀損されることもあるので問題である。
なぜ、このような問題が解決しないのだろう。中国政府は何もしていないのであろうか。実際には中国の中央政府はさまざまな法律の制定、政府・国務院による行政指導がなされている。それにもかかわらず実際の行政の現場である地方政府は実効的な対策がなされていない。それは、地方にとってニセモノ、安全でない食品を生産する企業、あるいは環境を破壊したり農民工を酷使する企業は金のなる木であり、金を生み出す打出の小槌である。地方政府のトップにとって地方の経済発展と雇用の増大は自身の出世にも響く。そのため、中央が正しい政策を実行したとしても、地方政府はそれに従わないということがよくある。中央の利益と地方の利益が一致せずに政策実行のジレンマが生じているのである。
1978年からの改革開放から,中国経済は大きく変化した。中国の大きな変化は耐久消費財が急速に普及し,各家庭で誰もが家電を持つようになった。
私が最初に北京に行ったのは1988年であった。改革開放が始まってちょうど10年経っていた。一緒に旅行した友人の父が人民日報に取り上げられたことがあるということから,その新聞の切り抜きをもって人民日報本社に訪問したことがある。最初は守衛のような人からも取り合ってもらえず,どうしようかと考えあぐねたところに,一人の記者が退社してきた。彼は私たちの話を聞き,その担当の記者は出張中だから,「日本からわざわざ来てくれてありがとう」ということで急遽自宅に招いてくれたのだ。
この人民日報の記者へのお宅訪問が私にとって最初の中国人の一般生活を覗く機会となった。(しかし今考えてもその記者のお名前を覚えていないのは悔やまれる。)5階建ての北京にどこにでもある計画経済的マンションであった。突然の訪問にもかかわらず奥さんが手料理をしてくれることとなり,夕ごはんをごちそうになった。
彼の家での家電は,当時の日本人からすると白黒の型落ちブラウン管テレビ,ごはんをたく電気釜(もちろん保温機能はない)ぐらいで,冷蔵庫はなかった。私達がごはんを全部食べてしまい(少し残すのが礼儀というのはあとで知った,バツが悪くなった彼は奥さんにマントウ(蒸しパン)を出すよう促すが,それもなかった。マントウの配給切符はあるが,夜になっていたので交換できないということを奥さんが答えていたことを思い出す。よくわからない中国語で記者の方が日本と中国は大事な友人だと語っていたことを思い出す。
丸川(1999)によれば,白黒テレビの生産は89年にピークを迎え,1994年にカラーテレビの生産台数が白黒テレビを逆転するようになった。1990年代はテレビの生産が一挙に増加し,価格が低下するようになる。
その後,何度か中国で友人のお宅に行く事が増えた。1990年代半ばには,大型テレビへの需要が爆発的に増大していたころである。日本では17~21インチサイズのテレビが普通であったが,中国では大型であればあるほど人気が高く,29インチが主流であった。中国では,他の家庭よりも大きなテレビを持ちたいという欲求が一般的であった。
1990年代後半に入ると都市部では冷蔵庫とエアコンが急速に普及する。当時,ハイアール(海尔集团)のエアコン,冷蔵庫,洗濯機が注目され,多くの人が購入に走った。
ハイアールは家電を販売するだけでなく,アフターサービスに力を入れた。全国各地に代理店を設置し,修理が必要であれば24時間以内に駆けつける体制を築き上げた。エアコンの設置においても,ハイアールのサービスは他社を抜いていた。エアコンの配達をしたハイアールの従業員は,購買者の家に上がるときに靴にビニール袋を巻きつけ,購買者のお宅を汚さないようにした。このようなサービスが功を奏し,ハイアールは白物家電の雄として中国の家電普及に貢献したのである。
このエアコンの普及におもしろい話がある。当時急速に家計の購買意欲が高まったために,エアコンの設置が急激に増大した。1990年代後半には北京ではあちこちでハイアールの従業員が忙しそうに家庭を周り,エアコンの設置工事を行なっているのがよく見られた。
北京でエアコンが急速に普及したために,都市部の電力需給が逼迫した。暑い夏に各家庭が一斉にエアコンをつけると電力需要が跳ね上がり,一部地域で停電になったりしたのである。都市部の急速な家電普及にインフラが間に合わなかった事例である。それほど家電の普及は早かったのである。
2000年を過ぎると,中国の人々の購買意欲はマイカー,マイホームへ移動した。日本企業が中国市場への参入を控える中で,中国の自動車産業に参入してきたのは,ドイツのフォルクスワーゲンであり,フランスのシトロエンであり,アメリカのクライスラーであった。日本企業は天津汽車に技術協力したダイハツ,長安汽車に協力したスズキなどの小型車メーカーであった。中進国以上の国民所得がないと大型車は売れないという判断が日本企業にあった。
ホンダがフランス・プジョーが撤退した広州汽車と提携したのは1998年であった。北米仕様のアコードを投入し,2000年以降多くの富裕層が購入した。それまでセダンタイプの乗用車は第一汽車の「紅旗」しかなく,大きな車に乗りたいという中国消費者の心をつかんだのである。
マイホーム購入も大きく進んだ。計画経済時代の住宅は国有企業から分配されるものであり,自分のものではなかった。住宅改革が進められ,分配されていた住宅は低価格で住人に買うように勧められ,一方で新たに誕生した住宅市場では「商品房」(我々のいう普通の分譲住宅)が大量に供給されるようになった。
私が北京にいた1997年から2000年頃から多くの人が競って「商品房」を購入するようになった。当時北京の二環路以内は1㎡あたり2000元,三環路以内では1000元台というのが一般的であったが,爆発した住宅需要は,その価格をつり上げるようになった。現在(2012年)で北京の分譲住宅の平均的価格は1㎡あたり2万元を超えるまでになっている。
表1 都市部、農村部の家電普及率
都市住民100戸あたりの耐久消費財の普及率
1985 | 1990 | 1995 | 2000 | 2005 | 2010 | |
洗濯機 | 48.3 | 78.4 | 89.0 | 90.5 | 95.5 | 97.0 |
冷蔵庫 | 6.59 | 42.3 | 66.2 | 80.1 | 90.7 | 96.6 |
カラーテレビ | 17.2 | 59.0 | 89.8 | 116.6 | 134.8 | 137.3 |
エアコン | N.A | 0.3 | 8.1 | 30.8 | 80.7 | 112.1 |
農村住民100戸あたりの耐久消費量の普及率
1985 | 1990 | 1995 | 2000 | 2005 | 2010 | |
洗濯機 | 1.9 | 9.1 | 16.9 | 28.6 | 40.2 | 57.3 |
冷蔵庫 | 0.1 | 1.2 | 5.2 | 12.3 | 20.1 | 45.2 |
カラーテレビ | 0.8 | 4.7 | 16.9 | 48.7 | 84.1 | 111.8 |
エアコン | N.A | N.A | 0.2 | 1.3 | 6.4 | 16 |
(出所)『中国統計年鑑(各年版)』より
このような急速な物欲による耐久消費財の普及、その購買力を支えるために多くの人たちがお金を求め、金稼ぎに没頭した。遠藤(2010)はこの様子を「拝金社会主義」と読んだ。そして中国国内でも耐久消費財を手に入れるために、ガムシャラに金儲けに集中する様子を革命家の歌の歌詞を変えて「向銭看」と呼んだのである。
「向銭看」とは,中国人民解放軍の行進曲「向前看」をもじったものである。計画経済時代,多くの映画館で革命歌が流され,多くの国民が「前へ,前へ」と勇ましく歌った。改革開放以降の鄧小平による「先に豊かになるものはなってよい」という「先富論」は国民をしてモノへの欲求を爆発させた。計画経済の趣旨である「みな平等」ではなく,人と違うものを持って良い,豊かな人はもっと多くをもってよい,というシグナルは多くの人を金儲けと購買意欲の爆発につながったのである。
モノの購買のためにはお金が必要である。多くの人たちが金儲けに走った。その金儲けに踊る姿を革命歌の「向前看(シャンチエンカン)」になぞらえて「向銭看(シャンチエンカン:発音同じ)」と皮肉ったのである。その姿は,周りのことを考えずひたすら自分の得になることしかしないという利己的なものであった。