アジア理解の経済学

第14章 ゲーム理論-中央と地方( 1 / 2 )

14.1 「上有政策下有対策」

 市場経済化をすすめる中国でも、市場では解決しにくい問題が発生してきていることをみてきた。安全でない食品が出回ったり、渋滞はひどい。農民工の生活は大変で、環境は破壊がすすむ。街にはコピー商品があふれ、本物だと思って購入したらニセモノだったということはザラだ。


 中国政府もこのような社会問題をいいと思っているわけではない。経済成長が持続可能となるためには、市場で発生するさまざまな問題を政府が解決しようとしている。1990年代に急速な市場経済化によって、社会、環境、経済などさまざまな分野で矛盾や課題が出てきている。


 2002年から2012年まで国家主席であった胡錦濤は、まさに矛盾と課題を「科学的発展観」のもとで「和諧(調和)社会」を建設すると主張した。中国の中央政府は強い決意で、多くの問題を解決しようと取り組んできたのである。


 しかし、その決意とは裏腹に実際には矛盾は解決していない。環境汚染はよくなるどころか悪くなっている感がするし、2013年1月には中国の9割の都市で大気汚染が悪化したという調査結果がある。ニセモノを取り締まっても、あいかわらずアップル社が新製品を出すたびに、即座にニセモノが深センで生産される。農民工の生活が改善したとはいえず、都市の内部でも、都市住民と農民の間でも格差が改善しているとはいえない。


 なぜ、解決しないのだろう。中央政府は力をいれて中国経済の課題に立ち向かっている。それはポーズではない。本当に解決したいと思っている。もし社会の矛盾や課題が拡大し、社会不満が鬱屈すれば人々の批判は中国共産党に向かう可能性があるからだ。党・政府は矛盾と課題解決に力をいれざるを得ないのである。


 例えば、食品安全問題で考えてみる。粉ミルクが大きな国内問題になっていることは先にみた通りだ。政府も力を入れて食品安全に取り組んでいる。日本でも食品安全問題が国内で話題になったあと、消費者庁ができ、消費者の安全を守ることをアピールしている。中国も全く同じで、最初の粉ミルク問題が起きたあと、全国人民代表大会での5年の審議を経て、2009年3月から中華人民共和国食品安全法が施行された。この法律によって、食品生産への監督権限を、国家食品薬品監督管理総局に一元化し、使用原材料の明示、添加物の使用規制、虚偽広告の取り締まりが強化されている。


 厳しい例をあげると、芸能人やスポーツ選手など有名人が出演した広告の食品に問題が発生した場合、その連帯責任を負わなければならない、と新しい法律は明記している。これについては一部の芸能関係者から「やりすぎだ」との批判もあがっている。食品安全問題に詳しい中国人弁護士も「世界基準から見ても厳しい」という意見もあるほどだ。


 しかし実際の問題は法律の制定ではなく、実施の問題という意見が多い。中国には1995年に成立した食品衛生法が存在しており、国家衛生部(現在の国家衛生和計画生育委員会)が中心となって食の安全に関する管理取り締まりが実行されていた。


 2008年9月に発覚した粉ミルク問題では、有害物質メラミンの大量混入が半ば公然と行われていたにも関わらず、問題企業は毎年のように生産過程を監督する政府機関から表彰を受けていた。「官業の癒着構造により、法律が機能していないことが、悲劇をもたらした原因だ」と、中国メディアも事件後に強く批判した。


 粉ミルク問題だけではない。ニセモノを生産する企業、基準を超える汚染水を垂れ流す企業など、多くの法律違反企業が存在するにもかかわらず、中央政府が大きな声をあげて、取り締まりをアピールするも、地元政府の足取りは重い。地元政府にとって、企業は地方財政を支えるとともに、雇用を守っている存在だ。

 

 中央政府が、知的財産権を侵害する企業は許さない、環境保護基準を順守しない企業の操業は認めない、と言っても、その取り締まりを実行する主体の地方政府は、地元の経済への影響をかんがみて、厳しい取り締まりができない。中央政府が命令しても、地方政府は形だけ聞くふりをしながらも、実際には自身の損になるような政策をまともに実行しない。


 地方政府は、違反企業の操業を一時的に停めたり、責任者を一時的に逮捕するなどしても、抜本的な取り締まりは実行していないのが現状なのだ。


 つまり、中央政府が政策を実施しても、下の地方政府には対策が存在するのである。


第14章 ゲーム理論-中央と地方( 2 / 2 )

14.2 囚人のジレンマ

 市場経済が成り立つためには,多数の市場参加者が存在しないとならないが,少数しかいない場合,自分の意思決定が他人の意思決定に影響を及ぼすことがある。相手の出方を考えてもっともよい結果になるように自分の意思決定を行うことが多い。中国の中央政府と地方政府はまさに自分の意思決定が相手の意思決定に影響を及ぼす事例だ。


 もし,中央政府が政策を実施することによって地方政府が対策を考えるケースは,まさにこのような意思決定の相互依存関係が表れる事例だ。意思決定の相互依存を分析する枠組みとして,ゲーム理論が存在する。


 ゲーム理論とは,複数の経済主体間での利害関係をゲームという形で記述しようとするものだ(川西2009)。一般に経済主体は政府,家計,企業として分析されるが,中国の場合,


政府→中央政府,地方政府,共産党など

家計→農民,都市住民

企業→国有企業,郷鎮企業,外資系企業など


に細分化することが可能だ。そしてそれらが互いの利害をめぐって駆け引き(ゲーム)を行っている。この駆け引き,ゲームを記述することによってどのようなやりとりがあって,どのような結果がもたらされるのか,そして今後どうなるのかといったことが想像できるようになる。


 中央政府が市場の課題(市場の失敗ともいう)である格差,環境,食品の安全性,ニセモノ問題を解決しようするにも関わらず地方政府がそれを骨抜きにしてしまうのは,まさにゲーム状態にあることを意味する。とくに地方政府が中央政府と協調しない意思決定を下すのは,ゲーム理論の中でも「囚人のジレンマ」として記述することが可能である。


 囚人のジレンマとは,二人の囚人がいて自白を迫られている時に,ともに黙秘をする方がよりよい結果になるにも関わらず,相手が裏切ったら自分が損をするために,二人とも自白してしまい,牢屋に入れられてしまうジレンマをいう。強盗の容疑で捕まった二人が別々の取調室に入れられ,取調官から,「君が黙秘せずに自白すれば,君を自由にしてあげよう」という司法取引を提案されたとしよう。二人の容疑者は黙秘する方が二人とも自由になる可能性があるにも関わらず,自分が黙秘してもう1人の容疑者が自白した場合,最悪の結果に陥ることになる。それを避けるために容疑者は自白をすることによって二人とも牢屋にぶち込まれてしまうのだ。


 中央政府と地方政府もこのような囚人のジレンマに似た状態にある。中央政府は政策を実施するしないという二つの戦略が存在し,地方政府はその中央政府の政策に従うと従わないという戦略がある。もちろん何も問題がないときは,中央政府は政策を実施せず,地方政府は何も対策を講じる必要はない。しかし中央政府は環境や食品安全などの取り締まりをしたい。もし地方政府がその取り締まりに協力した場合,地方は経済発展がなされず,税収は落ち込み,失業者が発生してしまう。これを避けるためには,地方政府は対策を講じるという戦略を採用せざるを得ない。


 これを図示したものが以下の図だ。


図2 中央政府と地方政府の囚人のジレンマ

図は「上に政策あれば,下に対策あり」のゲームを顔文字で示したのだ。顔文字の笑顔の度合いが利得の度合いであり,左の顔文字が地方政府の利得,右の顔文字が中央政府の利得を示す。笑顔が大きいほど,その経済主体の喜び(利得)が大きいことを示している。


 この二つの経済主体がゲームをしたとしよう。中央政府も地方政府もどちらもより笑顔になれる戦略を採用する。その結果,右下のところに落ち着く。しかし二つの政府が協調する左上がもっともよい結果であるにも関わらず,このゲームでは右下の取引で安定してしまう。


 これが中央政府と地方政府のジレンマだ。「上に政策あれば下に対策あり」が政府間でも発生している。地方政府にとって,地方の経済発展は地方の幹部の出世に影響する。となると,企業の負担を減らして金儲けをしてもらい,地元の経済発展に寄与してもらいたいと考える。中央政府が環境保護,食品安全,知的財産などの取り締まりを実施したとしても,地方政府はそれを遵守するのではなく,対策を講じる。つまり地元の経済発展のために地元の企業活動の多少の違反は目をつぶるということが発生してしまう。これが政府間のジレンマで,中央政府のガバナンスが政策実施現場では弱くなってしまうのである。

 

 中央政府と地方政府が協調するのがこの社会の中でもっともいい状態だ(左上)。これがパレート最適の概念だ。しかし,現実にはどちらも協調しない結果になっている。これをナッシュ均衡という。ナッシュ均衡とは,お互いに相手の出方によってもっとも得している(最良の)戦略を採用している状態だ。逆にいえば,別の戦略をとると自らが得をしないということになる。


 「上に政策あれば,下に対策あり」という状況は中国経済にとって最適な状況とはいえない。中央政府も地方政府も合理的な(自分が得をする)行動を選択してはいるが,社会としては(中央政府,地方政府という両方の経済主体にとっては)あまり好ましい状況ではないということを示しているのである。



<練習問題>


  1. なぜ中央政府の政策が地方で実施されないのか。

  2. 囚人のジレンマを説明せよ。


参考文献( 1 / 1 )

  • ウォルター・ブロック(橘玲)(2011)『不道徳な経済学──擁護できないものを擁護する (講談社プラスアルファ文庫)』講談社+α文庫


  • 遠藤誉(2010)『拝金社会主義 中国』ちくま新書

  • 王名、李妍焱、岡室美恵子(2002)『中国のNPO-いま、社会改革の扉が開く』第一書林

  • 川西諭(2010)『ゲーム理論の思考法』中経出版

  • 古賀章一(2010)『中国都市社会と草の根NGO』御茶の水書房

  • 小島寛之(2012)『ゼロからわかる経済学の思考法』講談社現代新書

  • 小室直樹(1996)『小室直樹の中国原論』徳間書店

  • ノルベルト・へーリング、オラフ・シュトルベック(熊谷淳子)(2012)『人はお金だけでは動かない-経済学で学ぶビジネスと人生』NTT出版

  • 久力文夫(2007)『中国農業と環境問題—北部・西部地域の草地資源と牧畜に関する予備的考察—』京都産業大学 ORC Discussion Paper シリーズNo.CHINA-18(2007年03月)

http://www.cc.kyoto-su.ac.jp/project/orc/econ-public/china/DPkuriki200703.htm


  • 丸川知雄(1999)『市場発生のダイナミクス:移行期の中国経済』アジア経済研究所

  • ミケーレ・ボルドリン、デヴィッド・K・レヴァイン(山形浩生守岡桜)(2010)『〈反〉知的独占-特許と著作権の経済学』NTT出版

  • 李妍焱編著(2008)『台頭する中国の草の根NGO-市民社会への道を探る』恒星社厚生閣

  • 李妍焱(2012)『中国の市民社会 : 動き出す草の根NGO』岩波新書

  • 梁過(2011)『現代中国「解体」新書』講談社現代新書

  • ロジャー・ミラー,ダニエル・ベンジャミン,ダグラス・ノース(赤羽隆夫)(2010)『経済学で現代社会を読む 改訂新版』日経新聞社

  • N.グレゴリー・マンキュー(足立英之他訳)(2005)『マンキュー経済学I  ミクロ編(第2版)』東洋経済新報社

  • 若田部昌澄(2012)『もうダマされないための経済学講義』光文社新書

  • 渡邉真理子(2008)「メラミン混入粉ミルク事件の背景ー産業組織から見た分析」

http://www.ide.go.jp/Japanese/Publish/Download/Overseas_report/pdf/0810_mwatanabe.pdf、2013年3月17日アクセス)



<インターネット>


  • 「流氓燕」『百度百科』

(http://baike.baidu.com/view/264984.htm,2012年12月13日アクセス)


  • 「葉海燕らによるセックスワーク合法化の街頭宣伝と葉の拘束、第2回セックスワーカーデー中止をめぐって」『中国女性・ジェンダーニュース+』

http://genchi.blog52.fc2.com/blog-entry-325.html,2012年12月13日アクセス)


  • 「北京 自動車ナンバー別の走行規制を継続へ」『人民網(日本語版)』(http://j.people.com.cn/94475/7779534.html、2012年12月25日)

  • 「中国4都市の自動車購入制限策を比較」『朝日新聞』(http://www.asahi.com/business/news/xinhuajapan/AUT201207040144.html、2012年12月25日)


岡本信広
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