アジア理解の経済学

はじめに( 1 / 1 )

はしがき

本書は,中国も知りたいけど,経済学も知りたいという人のために書かれている。中国と経済学を同時に知りたいという人がどれくらいいるかはわからないが(苦笑),昔のコマーシャルではないが「一粒で二度美味しい」内容が書かれている。


 中国経済を専門に研究するようになって,ずっと思っていることがある。それは中国経済は経済学を学ぶにあたって,とってもいい材料を提供しているということだ。


 その理由として,まず1点目は中国人は経済学が仮定する合理的経済人がよくあてはまるということ。合理的というのは本文でも触れるが,簡単に言うと,自分が得になることを求める姿勢を持つ人間のことを言う。中国人は中国大陸のみならず世界中に広がって,華僑として生活している。彼らはビジネスに対するどん欲な態度でお金を儲けてきた。おそらく世界でもまれにみる経済的成功の多い民族だろうと思われる。


 それに自らビジネスを起こす人も少なくない。さすがに経済発展して安定した職を求める若者が増えているのは確かだが,それでも自ら社長になって小さなお店を起こしたいと思う人は多い。筆者も香港にいるときに,中国人が100人いればその80人の名刺には「経理(社長)」という役職が書かれている,と聞いたことがあるぐらいだ。多くの企業が発生し,市場で淘汰されて,中国経済のダイナミズムを構成している。


 2点目は,市場メカニズムと対称的な計画経済を体験しているために,市場メカニズムを理解するもっともいい材料を提供しているということだ。経済学を理解する上でもっとも重要なのは市場メカニズムの理解と市場の限界を知ることである。ところが経済学の教科書では市場が無味乾燥に語られているために,具体的に何がいいのかわかりにくいという側面がある。やはり具体的な事例があると経済学はわかりやすい。


 中国は,計画経済を採用した。国家が人々の必要なものを計画通りに配分するというメカニズムである。市場が価格でものが配分されるのとは対称的なシステムだ。計画メカニズムを理解すると,そうではない市場メカニズムが理解しやすい。また計画経済から市場経済へ移行している中国では,市場メカニズムの実験場でもある。中国経済は市場メカニズムを理解するのにいい材料となっている。


 以上が,「中国経済で経済学を語ろう」と思った理由である。


 もう一つ,この本では,「経済学で中国経済を語っている。」世の中には中国経済を語る本はたくさんある。簡単に言ってしまうと,大部分が中国経済の現状をとりあげ,悲観的楽観的にそれを論じるというものだ。中国経済は順調に進んでいる部分もあれば,うまくいっていない部分もある。それをとりあげて,あーだこーだというのは,冷静な中国経済論にならない。


 そこで,経済学で中国経済を語ってみたいと思った。


 経済学は,客観的な基準をもっている。


 一つ目の客観的基準は,人の経済活動について,人は費用(コスト)と便益(ベネフィット)を比較して,もっとも便益が大きい状態を選択するというものである。人がなぜそのような行動をとるのか,中国人がどのような意思決定を下しているか,費用と便益から考えることができる。社会の構造や制度は費用や便益を生む。その発生した費用と便益を見比べて得になるように行動している。


 もう一つの客観的な基準は,もっとも有名なものは一般均衡におけるパレート最適である。パレート最適とは,「誰かの効用を下げることなしには自分の効用を上げることが不可能な状態」である。社会を構成している人々がもっとも合理的に意思決定をして,取引などの相互依存した結果,みなが満足した状態になるというものである。皆が満足している状態なので,誰かがもうちょっと満足を増やしたいということをすると誰かの満足度を減らさないといけないことになる。これは満足を減らされる人にとっては苦痛だ。いろいろ不満はあるかもしれないが,とりあえず個人としては全員が満足の状態で,誰かが自分の満足をあげようとすると他人が損をする,そのような状態をパレート最適としてとらえている。

 当然,中国経済がパレート最適な状態にあるかというとそうではない。渋滞や環境や格差などさまざまな問題を抱えている。中国は市場経済を導入している最中なので,パレート最適からどれくらい離れているのか,それを理解することで中国経済を客観的に判断することが可能となる。


 とつらつら述べてきたが,まとめると本書の目的は二つになる。


(1)中国経済を経済学で語る

(2)経済学で中国経済を語る


である。中国経済を材料に経済学を理解してもらいたいし,経済学で中国経済を客観的に見てもらいたい,と思う。本書の目的が到達しているかどうかは読者の判断を仰ぐしかないが,「一兎を追うものは二兎を得ず」ということになっていないことを願いたい。読者が少なくとも経済学と中国経済に対して理解が進めば,本書の目的は到達したといえるだろう。


 さあ,本書のスタートだ。


2013年4月吉日

岡本信広


第1章 中国を経済学から考える( 1 / 3 )

1.1 意思決定と行動

 中国経済を動かす人々はさまざまだ。社会主義計画経済を採用することを推し進めた毛沢東,改革開放を決定した鄧小平,社会主義市場経済が中国の目指す改革像であるとした江沢民・朱鎔基政権。社会主義革命に踊った農民や都市住民は,人民公社に組織されるとともに,国有企業に編制された。政府や家計,企業など経済主体はさまざまな意思決定をするが,計画経済時代は中国政府が主な意思決定権をもっていた。


 改革開放から30年が過ぎた現在,政府だけにとどまらず,家計や企業も自由な意思決定を行い経済活動を始めた。農民は請負制をはじめ,新たな改革の主体者となり,都市へ移動して農民工として中国を世界の工場たらしめた。企業改革とともに労働者の中から経営者が誕生し,中国企業を世界企業へと押し上げた。外資系企業も中国に殺到し,世界市場から原材料調達,技術や経営資源の移転を行い,高品質で廉価な商品を大量生産し,世界市場へ大量に輸出した。政府以外の経済主体が「儲け」をめぐって自分に有利な意思決定を行い,積極的な経済活動を展開している。


 市場経済は「儲け」が中心である。政府を含めて人々は利得を最大にするように行動した。まさにエコノミックアニマルの様相を呈した。あくなき利潤追求は中国経済を年率10%以上の経済成長をもたらした。人々のお金やモノ・サービスへのあくなき欲求が,新たな製品の開発につながり,その生産のために雇用が生まれる。人々は,さまざまなモノ・サービスを手に入れることによって豊かさ,「効用」が増大する。人々は積極的に,もっといえば大変熱心に働いた。働く意欲は外資系企業にとっても生産現場としての中国が魅力的に映り,さらなる外資系企業を呼び込んだ。


 利得や効用を最大化するんだ,という合理的な意思決定を行う人々は,インセンティブ,経済的誘因に反応する。中国の経済発展と豊かな社会は都市部で先に実現した。冷蔵庫,洗濯機,液晶テレビなどの家電,マイカー,マイホームが都市住民のあこがれのものから,普通に誰でもあるものに変化していった。しかし,農村部は発展から取り残され,耐久消費財の普及率は低いままであった。農民は都市部の工場で農民工として働く中,わずかな収入を自らの実家に送金した。農業以外の収入を手に入れることができるようになった農民たちも,都市部住民と同じような生活をしたいという欲望が限界にまで達していた。


 人はインセンティブに反応する。とくに価格は私たちの経済活動で買うか買わないかという意思決定を行う際に重要なインセンティブとなる。合理的な意思決定は得をするなら購入するし,損をするなら購入はしないということを意味する。


 2007年後半から実施された家電下郷,汽車下郷政策は,家電や自動車を購入すると補助金が出るというものだ。一種の国家が支援する家電の大バーゲンセールである。これが農民の耐久消費財への購入に火をつけた。最初は補助金の還付が煩雑,一部農民はこの政策を知らなかったりなどの問題で出足はよくなかった。しかし制度の改善,認知度の上昇により多くの農民が冷蔵庫,電子レンジ,テレビなどの家電を購入したのである。


 経済発展の一方,中国経済はさまざまな課題をもつこととなった。それは,格差と環境である。とくに格差問題は深刻であり,社会主義国である中国が世界でもまれにみる格差国家になっているのは皮肉だ。社会主義の思想は社会構成員の平等であった。そのために資本や土地を公有化(国有企業と人民公社)してみなで生産物を分け合うシステムであった。中国共産党指導部,とくに当時の鄧小平は1978年に大きな決断を下す。それが改革開放政策であった。平等をすて,ある程度の格差を容認することによって,経済成長を目指すことになったのである。


 国家指導者は計画経済か市場経済かという意思決定にあたって,大きなトレードオフに直面する。一つは効率でありもう一つは平等である。効率(経済成長)をとると,平等を捨てなければならない。平等を採用すると効率をあきらめなければならない。中国の現在の格差は,当時の改革開放という意思決定の結果なのだ。


第1章 中国を経済学から考える( 2 / 3 )

1.2 相互依存と取引

中国は計画経済から市場経済に移行している国だ。ロシアや東欧も移行経済国であったが,ショック療法と呼ばれる方法で市場経済を導入したために混乱した。中国は漸進主義と呼ばれる方法で徐々に市場経済化をすすめた。市場経済をゆっくり導入したために,市場経済ができあがる過程を観察することができる。そのため市場経済とは何か,市場経済はどのようなメリットがあるのかを理解するのに,中国は最適な材料を提供している。


 平等は人々に同じモノを同じだけ配分することで実現できる。平等を実現するには政府に強いモノの配分権力がなければならない。中国はそれを計画経済という形で実現してきた。


 人々は隣近所と同じモノを食べ,同じ衣服を着ることによって平等が完成する。しかし人々には欲求があるし,好みがある。パンを好きな人もいれば,ご飯をすきな人もいる。食パン1枚で満足する人もいれば,ご飯3杯食べてもお腹いっぱいにならない人もいる。となると同じモノを配給されても人々の満足は高くなくなる。


 中国は,糧票という食糧切符をつかった配給システムによって食糧を人々に配分していた。ここには市場経済の大きな前提である「交換」が存在しない社会であった。配給システムは人々の平等という感覚を満足はさせるが,人々の自分個人の欲求の満足にはいたらない。


 市場経済化にともない,食糧切符は他のものと交換できるようになった。北京に出張に行った人が食糧切符を衣服切符に交換することによって必要な洋服を得ることができるようになる。お金よりも配給切符が重要であったために切符を交換することによって人々は自分の欲求を満たすことができた。


 市場では欲しいモノと販売するモノが過不足なく交換されていることが多い。つまり需要と供給が一致するのが一般的だ。ところが上の配給システムは常にモノ不足という問題を抱えていた。毎年政府が決めた計画によってTシャツを生産する。そのTシャツは衣料切符によって人々に配給する。過不足ないようにモノが配分されるように思えるが実際には違った。


 何を生産するにも何を購入するにも自分の中の予算の縛りがない(ソフトな予算制約という)状況では,人々は余分に持とうとしてしまう。国家の計画に従うだけなので企業はもうける必要はない。そうすると多めに原材料を購入して,計画だけ生産すれば終わりになってしまう。多めに原材料を買うのはいつでも命令に備えるためである。家計も自分の収入とは関係なくお米を持とうとする。次の配給切符がもらえるまでに家でため込んでおき,不測の事態に備えたいと思うからだ。


 モノを多く持とうとする状況は需要超過を招く。その結果,供給が足らないという状況になり,計画経済では常に行列が存在することになる。


 市場経済化は供給の不足という状況を解決した。市場で儲かる(価格が高くなっている)ということがわかれば企業は多くを生産するようになった。逆に多く生産されすぎている製品は価格が下落してしまい,多くが販売できることなった。人々は高ければ買わないし,安ければ買うという行動を通じて,モノが過不足なくみなに行き渡るようになった。各家庭に必要な家電が行き渡って中国の生活は豊かになったのである。

 

 中国の市場経済化を観察してくると市場を創るための条件とは何かがわかってくる。それは自由な意思決定と所有権の交換だ。





 規範的な市場になるには,多数の取引主体が参加すること,取引コストがかからないこと,情報が行き渡っていることが重要である。ところが中国は国有企業の独占があったり(一部企業で競争がない),物流システムが改善中であるが現在とは取引コストがかかり,正確な情報が消費者に伝わらないなど,問題もある。そのため,政府は市場を改善するとともに,積極的にできることはやるという姿勢をみせている。


第1章 中国を経済学から考える( 3 / 3 )

1.3 政府と市場

 市場は人々の生活水準を向上させる魔力を持っている。このために市場経済は素晴らしいという人も多いが,実は市場経済にも解決しないといけない問題は数多く出てくる。例えば、食品安全(情報の非対称)、渋滞(外部経済)、農民工問題(公共財)、環境問題、知的財産権(独占)などの課題は多い。市場だけでは解決できないさまざまな問題のことを市場の失敗と呼ぶ。


 中国では粉ミルク問題をきっかけとして食品の安全性に注目が集まっている。家電など家の中にあふれ、自動車を購入する人々が増えて、生活は豊かになったにもかかわらず、食品で生活が脅かされるのは皮肉な状態である。これを書いている時にも「下水油」(油の再利用や動物の皮や贓物からつくる油)が雲南省で摘発された。


 食品が安全かどうかは、生産者側に情報があって、購入者側に情報がないという「情報の非対称性」が問題である。もっというと中国では生産者同士でも情報が非対称性になっている。工場は、誰がどのような肥料を使って農作物を生産しているのか、知らないし、別の工場は添加物が安全かどうかわかっていなくて使用していたりする。製品に関する情報が手にはいらないという状況では、人々が安心した取引ができない。


 経済活動が経済以外の状況に影響を与えることを外部経済という。近年の中国都市部における渋滞はその典型である。豊かになった人々は自動車を購入し生活を便利に過ごそうとしている。しかしその結果は渋滞で不便になるというものである。自動車購入という経済活動が、渋滞という社会問題を引き起こしている。これを外部不経済という。外部不経済では市場経済がうまくいっていないので、何かしらの解決方法が政府から提案される。注目されるのは上海の入札制だ。シンガポールでも導入されているが、自動車に必要なナンバープレートを入札で決定する人である。必要な人が入札に参加し、道路の供給にそった自動車台数が市場に出回ることになる。


 格差問題や環境問題も市場経済ではうまく解決できない問題だ。農民工が都市部に出稼ぎに来ている。農民戸籍というだけで、環境の悪い工場で人が嫌がる仕事を長時間働かせるなどの劣悪な労働環境に追い込んでいる。政府が農民工に対する何かしらの解決方法を提案することが求められている。政府が提供し、皆が使うことのできるモノやサービスを公共財という。農民工への支援をどうするか。中国でも注目される動きが出てきている。それは政府ではなく非政府組織、NGOやNPOが発生し、農民工への支援を始めているのだ。農民工の子弟に対する教育の提供、農民工が仕事現場で事故にあった場合は、法律相談を受け付けたりなどである。政府ができない部分を民間ができるようになってきている。


 環境問題も深刻だ。日本でも報道されるように、中国の大気汚染、水汚染、砂漠化は年々その深刻度を増している。環境の問題は「共有地の悲劇」として説明される。内モンゴル地域で進む砂漠化はその典型であり、草原に自らの牛や馬を放牧し家畜を育てていく。皆が自分の家畜の成長のことばかり考えて放牧すると、草原という共有地には草がなくなり、土地は砂漠化してしまう。このため環境資源という「共有地」の使用に何かしらの制限をしないといけない。市場では、所有権を設定して売買する方法や環境税ということで共有地のコストを内部化する工夫がされてきている。


 中国では日本のアニメのニセモノが話題になったり、iPadでももめたように商標権の乱用も大きく注目される。中国は知的財産権を守らない、とんでもない国だと思ってしまうが、知的財産権はアイデアという情報(文書、絵画、名前など)に独占的使用権を与えるというシステムであるため、独占の弊害も発生する。独占の弊害とは、その企業に独占的利潤を発生させるということ(そのために新製品を開発するインセンティブになる)、価格が高止まりするために本当に必要な人が買えないという問題が発生する。また新製品の開発には模倣も必要であり、過度な独占は技術の衰退をももたらす(ソニーのベータ技術、パナソニックにプラズマ技術)。だからといってニセモノを放置するのもオリジナル企業のブランドが毀損されることもあるので問題である。


 なぜ、このような問題が解決しないのだろう。中国政府は何もしていないのであろうか。実際には中国の中央政府はさまざまな法律の制定、政府・国務院による行政指導がなされている。それにもかかわらず実際の行政の現場である地方政府は実効的な対策がなされていない。それは、地方にとってニセモノ、安全でない食品を生産する企業、あるいは環境を破壊したり農民工を酷使する企業は金のなる木であり、金を生み出す打出の小槌である。地方政府のトップにとって地方の経済発展と雇用の増大は自身の出世にも響く。そのため、中央が正しい政策を実行したとしても、地方政府はそれに従わないということがよくある。中央の利益と地方の利益が一致せずに政策実行のジレンマが生じているのである。


岡本信広
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