アジア理解の経済学

第8章 市場を創る-市場経済化( 1 / 2 )

8.1 市場経済への改革

 中国は計画経済体制であったために、市場が存在しなかった。1978年から中国は改革・開放を行い、1992年から中国は社会主義市場経済体制を改革の目標としている。社会主義という冠(カンムリ)をもちながらも、市場経済の導入とその深化(徹底)を目指すのが現在の中国である。


 簡単に市場経済改革の流れを紹介しておく。1978年より中国は改革開放を始めた。1980年代は、政府の計画を請け負って、計画以上にできたものは自分で自由に処分できるという「請負制」が導入された。1990年代に入ると誰が企業の持ち主なのか「所有」をはっきりさせる「所有制」改革に進んだ。2000年代は土地などの不動産に対する所有権、中国で言う物権の改革が行われてきた。


 1984年より請負制が正式に導入された。請負制の原型は安徽省鳳凰県にある小崗村での秘密の実験がきっかけであった。村は20戸程度の農家で成り立っており、主に小麦と米の栽培が主であった。1978年の夏に大干ばつが発生し、農作物は大打撃を受けた。その時に人民公社から配分された小麦は一戸あたり3.5kgしかなかった。農民たちは食うに困る状態になってしまった。


 そこで農民たちは相談して、生産大隊の隊長、副隊長を訪問した。隊長と相談したのは、人民公社に黙って土地を農民に分配し、計画以上を生産した場合には農民個人のものとできないか、というものであった。


 それまでの人民公社制度では集団農業という方法であった。農民たちは会社員のように農業を行い、そして平等に農作物の配分を受けるというものであった。この結果、全員が平等に農作物を受け取ることは可能であったが、個人の働きに応じたものではなく、怠けても同じものがもらえるというある種「悪平等」になっていた。つまり働く気がなくなったのである。


 大干ばつで食べるのに困った農民たちは働くシステムを換えないと行けないと考えた。農民と生産大隊の隊長と相談した結果、11月に18戸の農民は生産を請け負うことにしたのである。


 当時は、土地を農民に分配したり、生産を農民に請け負わせることは違法であった。この秘密を絶対に人に言わないという血判状を作成し、請負制の実施が始まったのである。


 企業でも同じような方法が採用された。それまで企業の生産現場では工場長がいたが、工場長も工員も与えられた計画にしたがって工業製品を生産していた。働こうが働かまいが、報酬に差があるわけでもないので、皆が怠ける状態であった。


 そこで企業にも請負制が導入された。政府から言われた計画以上を生産した場合、市場で販売してよいこととなった。工場長、工員たちは計画以上に生産し、設けた分は一時金として彼らの懐に入るようになった。それにより各工場に生産の活気が戻ったのである。


 1992年より企業の所有制改革が行われるようになる。請負制により工場長はヤル気を取り戻したが、所詮政府の役人であったので、数年で別のところに異動してしまう。また請負という契約も数年であるために長期的な経営が行われないという問題があった。そのために国が所有する国有企業ではなく、民が所有する民間企業へと変換する必要に迫られた。


 とくに経営が厳しい国有企業は積極的に民間企業へ転換していった。食品や衣類などの日用品を生産している企業を国がもつ意味はないので、すべて民営化された。競争の荒波に放り出された国有企業たちは民営企業として徐々に復活していったのである。


 不動産も取引が行われるようになった。中国は社会主義国なので公有制が建前である。土地は国家のものであり、不動産も国家のものであった。住宅は国有企業から分配されるものであったが、個人へ使用権が払い下げされるようになり、住宅の売買が行われる住宅市場が誕生した。富裕層向けの住宅も販売されるようになり、人々のあくなき住宅への欲求は2000年代の不動産バブルへと続いていく(第2章参照)。


 2007年3月16日の第10期全国人民代表大会(全人代)第5回会議で物権法が採択された。制定の目的は、市民、農民の私有財産権、公有財産を平等に保護することだ。マンションの区分所有権も70年と制定され、市場取引の前提である所有権が明確になってきたのである。


第8章 市場を創る-市場経済化( 2 / 2 )

8.2 市場成立の条件

 中国では1980年代、90年代を通じて市場経済の基礎が出来上がり、2000年代から今までで安定した市場が形成されたと言ってよい。計画経済という特殊な環境の中から市場経済を創り上げていった。


 市場経済導入の基本的な前提は、自由な意思決定と所有権の交換である。


 自由な意思決定とは、経済活動を行う経済主体(一般に、企業や家計)が経済行動を自分で決定するというものだ。モノを購入するのかどうか、モノを販売するのかどうか、意思決定を行うのは政府ではなく、企業や家計が自由に行えることが重要である。


 計画経済時代は自由な意思決定ができなかった。配給切符制度では、何をどれだけ購入するかというのは家計は決めることができない。企業は何をどれだけ生産するかということさえも計画という縛りがあるので決めることができない。家計と企業は経済活動の意思決定を持つことはできなかった。経済活動のもっとも基本的な行動、売買を誰が決めるか、それは政府だったのである。


 改革開放の最初は、意思決定を企業と家計に戻すことであった。農民は人民公社から何を作付し、どれだけ農作業に従事するか決められていた。請負制を導入することにより、少なくとも、どれだけ生産するか、について、自由な意思決定を取り戻すことができた。計画以上のモノを生産すれば豊かになれる、この思いはたくさん生産しようという意思決定をもたらしたのである。


 企業も請負制により、意思決定を持つことが可能になった。計画経済時代は政府から決められた計画を実施するだけの「工場」であった。経営者は存在せず、計画を管理実施するだけの管理者、「工場長」が存在するだけであった。請負制の導入は「工場長」から経営者への転換をもたらした。何をどれだけ生産するか、少なくとも自分の工場が儲かるように売れるものを生産しようという意思決定を行うようになった。売れる商品であればたくさん生産しようという意思決定も行われた。売れないのであれば、生産を中止するという意思決定を行うことも可能であった。


 自由な意思決定が市場経済の重要な前提の一つだったのである。


 次に重要な前提は、所有権である。市場で取り引きが成り立つためには、所有権が存在しないといけない。とくに労働、資本(企業)、土地という生産要素(モノの生産に直接携わるもの)が自由に取り引きできることが必要だ。


 計画経済時代は、どこの職場で働くかは政府によって決められた。大学を卒業すると「分配」というシステムによって就職先が政府によって斡旋された。自分の労働力をどこで使うか、決めることはできなかった。


 農村でも状況は同じであった。生まれた育った農村にある人民公社に所属し、決められた時間労働をしなければならない。自分の労働を自由に売買する権利がなかったのである。


 改革開放以降、農民は都市に出稼ぎにでるようになった。自分の労働を地元の人民公社ではなく、都市の企業に売りたいという現象が発生したのである。また農村に下放されていた青年たちが都市に戻り始め、彼らは「分配」というシステムの恩恵を受けることがなかった。彼らを救ったのが、個人企業であった。自らが職を求め、小さな個人企業を労働者を探し、マッチングする労働市場が発生した。


 資本(企業)も国のものという曖昧な制度から民間の所有に転換していった。人は自分の資本(企業)であれば一生懸命働く。人のものであれば一生懸命さはない。企業が民間に売却され、民営化され、企業が取り引きされるようになった。同じく土地も売買可能なものとして取り引きされるようになったのである。


 市場経済が成立した中国とはいえ、これをよりよいものとするためにはまだまだ改革が必要である。人々が満足する市場経済、経済学が想定するような規範的な市場はなかなか存在しないのが現状である。規範的な市場とは、全員が納得しているような状態を実現する市場である(正確にはパレート最適が成立している市場)。


 例えば、近所のコンビニで売られているものが需要と供給で決まっているとはいえないし、コーラが安いからといって、車で20分の安売りスーパーに行くよりも近所のコンビニで定価で購入したりする。それにコンビニでものが売られているからたぶん安心なんだろうけど、新製品などは期待が裏切られたりすることは当たり前だ。となると経済学で想定するような市場にはなかなかお目にかかれないということになる。


 規範的な市場が成立するには3つの条件が必要である。市場には多数が参加すること、取引コストがかからないこと、そして情報が行き渡っていることである。


 まず、多数参加するということは市場取引の大きなポイントだ。売る側も買う側も多数存在すると、自分が買う量を増やしたり、売る量を減らしたりしても、価格に影響を与えることができない。こちらから価格に影響を与えることができないということは、逆に私たちは価格から影響を受けることになる。多数参加し、価格に影響を与えないということが、価格を参考に私たちは意思決定することとなる。


 ところが私たちの社会では、とくに売る側が少数というのはよくある。コーラを販売するのはペプシとコカ・コーラしかないし、コンビニでもセブン・イレブン、ローソン、ファミリーマートなど少数だ。販売する側が少数である場合、販売側が価格を決定できる。実際、私たちの社会では、「メーカー希望小売価格」という名前で、大部分が供給者によって決められている。


 二番目の取引コストがかからない、というのも市場取引がスムースにいく条件である。ところが、私たちが買い物に行くときには交通費やガソリン代などがかかるので、東京のスーパーと北海道のスーパーで価格を比べて安いところに買いに行こうとはならない。


 大気汚染は取引コストを考えていない結果である。工場が生産するときに汚れた煙を大気に排出するのは環境を汚すという取引コストが考えられていない。取引コストをきちんと考慮した市場がいい市場の条件なのである。


 最後に、情報が行き渡っているのは重要だ。情報がないと騙される結果になることが多い。北京空港について、タクシーに乗ったとして、ホテル(目的地)まで行くのにいくらかかるかわからない。そんな時、運転手は外国人に対して騙してしまうというインセンティブがわく。この意味で、取り引きをする人の間で情報がまんべんなく行き渡っていることが重要なのである。


<練習問題>


  1. 中国で市場を導入するポイントは何であったか。

  2. 市場が成立する3条件とは何か。

第9章 情報の非対称-食品は安全か( 1 / 2 )

9.1 「環境激素」

 2008年9月,中国国内で有害物質メラミンが混入した粉ミルクを飲んだ赤ちゃんが腎臓結石で亡くなるという事件が起きた。有害物質メラミンが混入していた粉ミルクメーカーは「三鹿」という乳製品生産の大手であった。同様の健康被害にあった乳幼児は5万人(別の説では30万人)を超え、死亡者は5人に上ったという。

 

 中国政府は、保健所で対象乳幼児を抱える家庭に連絡を取り、無料の超音波検査を行うとともに、北京では有名な児童病院で行列ができたという。また、政府はすぐさま他の大手メーカーの粉ミルクについても調査を行った。安全だと主張していた、蒙牛、伊利、光明といった大手メーカーの液体牛乳からもメラミンが微量ではあるが検出され、中国国内では国内メーカーの乳製品がスーパーの棚から消えた(渡邉2008)。


 メラミンとは、メラミン樹脂として食器などの色付けに使われるものであり、そもそもの毒性は低いという。しかし樹脂(プラスチック)を乳児が取り込むことによってどのような影響がでるか、詳細はわかっていないのが現状だ。それでもやはり樹脂成分のものを乳児が体内に取り込むのは問題であろう。


 メラニン混入粉ミルクの事件以降、中国国内では食の安全について、人々の意識が高くなってきた。粉ミルクがや牛乳などの乳製品がスーパーから消えて以降、人々は国内産ではなく外国産の粉ミルクを求めるようになった。幼い子をもつお母さんにとっては非常に重要な問題である。


 粉ミルクの安全性について、多くの中国人は未だに信用していないようだ。国内で外国産粉ミルクの調達が困難になってくると、人々は香港やマカオ、そして海外の親戚を通じて大量に購入するようになった。日本産の粉ミルクも同じアジアということで非常に人気であったが、2011年の福島原発事故以降は放射能疑惑(実際にヨウ素が検出された)のために、人気がなくなった。そのため、欧米産の粉ミルクに需要が集中するようになった。


 香港では、粉ミルクが入荷されるたびに、即座に売り切れるという現象が続いた。香港では粉ミルクの品不足、価格の高騰が普通の状態になり、香港の妊婦にとっても粉ミルクの購入は切実な問題となった。


 香港から深センへ抜けるイミグレーション(国境)では、混乱も見られた。いわゆる「運び屋」が香港に粉ミルクを買い出しに出かけ大陸に持ち込む姿が日常となった。その量の多さのために、通関手続きに支障がでるようになった。


 2013年3月1日から香港では粉ミルクの持ち出しに制限をかけることとなった。本来、自由貿易港である香港が貿易に制限をかけるのは非常に例外的だ。香港人の中国大陸に対する不満が香港政庁を動かしたかっこうだ。


 実は,制限がかけられたのは香港だけではない。各種報道によると,2012年6月には,アメリカのウォルマートなどのスーパーで粉ミルクの購入が5缶や12缶に制限されたし,同年9月ニュージーランドのスーパーでも「粉ミルクは1人2缶まで」という中国語の張り紙がなされたという。2013年1月のドイツのスーパーでは粉ミルクを1人4缶までと中国人消費者向けに制限したという。これらは,すべて中国国内の親戚や友人のために粉ミルクを大量購入する華人の行動を制限するためである。


 中国国内では,中国政府が安全宣言を出しても,国内産粉ミルクに対する見方は厳しい。


 それ以外にも,中国国内では食の安全に敏感になっている。大学の学生がネットでニュースになった食品の名前,メーカー,場所をデータベースにして公開した。「窓の外から投げ捨てろ!(http://www.zccw.info/,掷出窗外(中国語),Throw it out the window (英語))」と題された食品不安データベースは,中国食品の安全性に疑問を投げかけている。


第9章 情報の非対称-食品は安全か( 2 / 2 )

9.2 情報の非対称

 日本でも雪印乳業(今のメグミルク),三重県の名産・赤福,汚染米の混入など食の安全問題が話題になる。中国だけではなく,食の安全問題は日本を含めて世界的な関心事だ。


 食品の安全問題は,食品の供給業者と需要者(家計)との間で情報が非対称であるというところに問題がある。生産する側はどのように食品が作られているか知っているけども,購入する側はどのようにして作られているか,食品添加物は安全なのかどうかといった情報を持っていない。


 中国の粉ミルク事件をみてみると,構造的な問題がかいま見える。個別酪農家が生乳を搾乳ステーションにもっていく。搾乳ステーションで生乳を買付ける仲買人は,生乳の成分を調べるとともに,ある程度の基準がみたされないとメーカーにもっていくことができない。とくに生乳に含まれるタンパク質成分は重要な基準であったため,メラミンを混ぜることによって,タンパク質の基準を満たすようにしたのである。


 構造的に情報の非対称性が連鎖するところに食品の安全問題がある。


 ノーベル経済学賞受賞者,アカロフは,情報の非対称を中古車市場で説明し、情報が非対称であると、市場にはレモン(欠陥品)が出回ることを説明した。これをレモンの原理という。


 レモンの原理を中古車市場の例でみてみよう。


 中古車販売のディーラーは売る中古車がどのような状態か,わかっている。事故車であるとか,走行距離をごまかしているとかしていても売り手は自分が優位に立とうとするためにそのような情報を隠す。一方買い手も負けていない。中古車を買おうと思っている人は,売り手がレモンのような欠陥車を売りつける可能性について考えている。実際売り手にあれこれ質問することによってレモンであるかどうかを見極めようとしている。買い手は中古車の価格を低く見積もっているので,売り手が呈示した価格についてもまけてもらおうとする。つまり買い手は,中古車がレモンであった場合のことを考えて,売っている中古車を低めに評価しているのである。

 

 売り手は,中にはいい中古車もあるとしても,買い手が低く評価し値引きを要求していることがわかっている。売り手が思っている以上に買い手が値引きを要求した場合,売り手にとっていい中古車を販売することは利益が出ない可能性がある。そこで売り手は買い手の行動を考えるといい中古車は扱わないということが起きるのである。

これは買い手,売り手にとってどちらにも得がない。どちらも「相手を騙しているだろう」的な疑心暗鬼に陥っている場合には,市場にはいい物が出回らないということになる。良い中古車の取引は双方にとって有益であるにも関わらず,中古車市場ではいい中古車が出回らない,また取引自体が成立しないことになる。


 これは「悪貨が良貨を駆逐する」のと同じ状態で,市場には粗悪品しか出回らないことになってしまう。これを経済学では逆淘汰という。つまり売り手は買い手よりも売るモノの情報を持っている。したがって売り手はモノの質は最低なものを売って儲けようとする。いい製品が市場から逆に淘汰されてしまうということになってしまう。(淘汰は悪いモノがなくなることを意味するので,ここでは逆淘汰という。)


 中国では多くの人が自国の食品を不安視している。スーバーや百貨店では国産の粉ミルクの売れ行きが悪くなる。企業が努力していい製品にしようと思っても、消費者がそれを信用しないとなると、企業の品質改善のインセンティブが下がってしまう。となると中国市場では質の悪い製品だけが残ってしまうことになる。


 このレモンの原理を避けるために、一般には政府が以下のことを行う。


 一つは情報提供である。品質基準をもうけて、品質通りであるというラベルをはることだ。日本でもJASマークやJISマークが貼られるとともに、食品については賞味(消費)期限や原材料表示を示さなければならなくなっている。中国でも製品に対する品質表示が義務付けられるようになっている。


 もう一つは、検査体制である。ラベルが貼られたとしてもその表示が本当かどうかはわからない。やはり消費者にとって情報が非対称であるというのが問題だ。そこで、その表示が正しいかどうか、政府が抜き打ちで検査をする、そして表示が正しいかどうかをチェックすることが必要である。


 最後に、競争原理が働くようにすることである。つまりもし消費者にウソをついた企業は倒産するなど、市場で淘汰されなければならない。中国でよく問題になるのが、地元政府と企業の癒着である。企業は地元政府にとって雇用を生み出しているので、倒産させると社会不安を引き起こしかねない。そうなると何かしらの理由をつけて、質の悪い製品をつくる企業を期残らせてしまうことがある。市場で消費者から信頼を失うと大きな痛手を負うというペナルティがないと企業行動を律することはできない。



<練習問題>


  1. 中国の粉ミルク事件とは何か。

  2. レモンの原理とこの問題を解決する方法を述べよ。


岡本信広
アジア理解の経済学
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