Swamp

In a Village( 1 / 1 )

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むらは大騒ぎになっていた。こんな災厄は十年前に蝗の大群が襲ってきたとき以来だ、いや、その前の戦のとき以来だと言うものがある。あのときでもこれほどひどくはなかったというものもあれば、いや、それは一口にはくくれない、あのときは少なくとも家だけは残ったよ言うものもある。家は残ったかもしれないが、戦では若いものは皆死んだ。それに比べれば今回は死んだものはいないではないかと理屈をこねるものもいる。なにはともあれ、ふだんの平穏なむらにはこんな騒ぎは似合わない。それだけは異口同音に唱えるのだった。

それというのもあんな灰色の風来坊など引き込んだのがいけないと、ある者は言う。確かにあの男が前兆だったと、うなずくものがいる。さすがにそれは関係なかろうと冷静な意見を言うものもいるが、その声は小さかった。

その灰色の放浪者は、夏が終わろうとする頃、草原の向こうから現れた。上衣のあちこちにこびりついた黒いかたまりは、この男がそう遠くない以前に傷を受けていたことをあらわしていた。その傷が荒れ野を旅するときには避けられない切り傷の類であるのか、闇夜に紛れて襲ってくる獣による手負い傷であるのか、あるいはもっと禍々しいものであるのかは、だれにもわからなかった。

最初に男に出会ったのは、羊飼いの少年だった。羊の番をしているときに男にいきなり声をかけられて、少年はひとかたならず驚いた。男がすぐそば、特に声を高くしなくても話がわかるような近くに来るまで自分が気がつかなかったのが信じられないのだ。理由はわからないが、男が隠れるようにして近づいてきたのはまちがいないと少年は主張した。実際、男の顔には隠し事を発見されたようなバツのわるさがあった。自分から声をかけておいてこれは奇妙なことかもしれないが、そういうバツのわるさを少年自身、まだ小さかった頃に経験した記憶があった。

男はこの近くにむらがあるのかどうかを尋ねた。少年は慎重だった。古老の話をよく覚えていて、見知らぬ異形の者にはあらぬ方角を教えた。むらに災厄をもたらしてはならないのである。

それでもこの流浪者はやってきた。少年を責めるべきではなかろう。どの方角を教えたにせよ、牧羊たちの存在はそれだけで人里の近いことをあらわしている。そしてその里への道をたどるのは、羊たちの足跡をつけるまでもなくたやすいことであるのだから。

むらにやってきた灰色の放浪者は、けれど、けっして人に危害を加えるようなことはしなかった。食べものを乞い求めはしたが、その代わりに異国の不思議な話を語って聞かせた。一夜の宿には、このくにでは通用しない風変わりなコインを出してみせたりさえした。そして、子どもたちを集めては聞いたことのない音楽を奇妙な笛で奏でて聞かせた。これには、野良で忙しい親たちもずいぶんと感謝したのであった。

けれど、この灰色の者が立ち去る様子を見せないのに、一部のむらびとは苛立ちをおぼえるようになった。異国の風変わりの話も、二度、三度と聞けばもう風変わりでもなんでもない。男が腰に佩いている剣も、いまとなっては物騒だ。流れ者は、流れてきたときと同じように早々に立ち去ってほしいものだ。そんなことを聞えよがしにつぶやく者まで現れた。

その声が聞こえたのか、それともそれがこの男にとっての時期であったのか、初霜がおりたある朝、この男はふっと姿をかき消すようにいなくなった。そしてその日が昏れる前、あの大災厄が襲ってきた。

あんな化け物は見たことがないと、むらびとは口々に語り合った。炎と煙と、そして旋風に誰もが身を低くし、目をかたくつぶっていたそのわずかのあいだに、むらは灰燼に帰していた。

やはり無用の放浪者などむらに入れるべきではない。災厄との関係がわからないままに、むらの人々の意見は一致した。だが、殻をかぶったように閉じこもるわけにいかないことも、多くのむらびとが知っていた。

言いようのない不安が、いつまでも消えなかった。

The Voice( 1 / 1 )

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安穏を貪るその怠惰な心、おれが破壊したいと思ったのはそいつだ。聞こえるだろう、おれの声が。おれはたびたびおまえに警告してきたはずだ。

おまえはおれを異形の者と呼ぶ。だが、おれはおまえの一部だ。おまえ自身だといってもいい。そんなおれの言葉に抗って、おまえは言う。いつの間に自分の中に巣食ったのだ、どうして自分を自由にしてくれないのだと。おまえにはわかっていない。おれはおまえの中にはるか昔からいる。おまえが生まれたときからいる。つまり、おまえ自身だ。おれから自由になることは、おまえが自分の一部を失うことだ。おれはいつも、おまえといっしょにいる。

異形の者はおまえ自身なのだと、なぜ気づかない。おまえは平和な世界に落ちつこうとしている。小さな暮らしの中に、小さな役割を見つけようとしている。ばかなことはやめろ。そこにいるのはおまえ自身じゃない。おまえの影に過ぎない。

子どもたちはおまえを慕ってまつわりつく。その仮面の下に恐ろしい化け物がひそんでいると、だれも気づかない。美しい音楽を奏でるその手が実は人を殺めた手だと、だれも知らない。珍しい話を語って聞かせるその声が、恐ろしい咆哮を隠していることに思い至らない。やめろ。本性をあらわせ。自由になるとはそういうことだ。おまえをとらえているのはおまえの思いこみであって、おまえが異形の者と呼ぶこのおれではない。なぜならおれは、おまえ自身なのだから。

疲れた? それがなんの理由になるだろう。おまえはなんのために生きている? 歩き続けるためか。歩き続けて、ぼろ布のようになるのがおまえの運命なのか。それもよかろう。そうやって野垂れ死ぬのもひとつのあり方だ。だが、その怠惰な逃げはよせ。生きることからの逃亡はやめろ。それは野垂れ死ぬよりもわるい。それは悪臭をもたらす。不快だ。

剣を抜け。それがもうひとつのおまえの運命だ。おまえが選択したおまえの運命だ。そして闘え。だれが相手でもいい。闘うがいい。

ほう。そうかい。おれを闘いの相手に選ぶのかい。無理だ。よせ。ほら、おれは警告したぞ。これがどんな結果になっても、それはおまえの選択だと、そう心得ておくんだぞ。

Swamp( 1 / 1 )

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ぼくは、足もとにひろがる光景を眺めていた。泥だらけ、悪臭に満ちた沼地を抜ける途中、思いもかけず広がっていた澄んだ泉。そこに浮かんだ細い草の葉、その先にぼんやりと浮かび上がる建造物。見たことのない光景、けれどどこか懐かしい光景。いや、懐かしいというのともちがう。たしかに知っているけれど思い出したくない記憶。毎日親しく遊んでいた幼馴染が思春期になって突然そっぽを向いた、そのきまりの悪さを思い出したくないから見ないようにしていた古いイメージ。それを引き出しの奥から整理中に見つけてしまったときのばつのわるさ。懐かしさと言うよりは、顔を赤らめてしまうそんな気分にさせる光景だ。

いくつもの窓。それは、幾層にも重なった住居であるにちがいない。そのなかに、いくつもの暮らしがある。ぼくはそれを想像して気が遠くなる。

その幾百、幾千の有機体のうねりがぼくを圧倒する。生きようとしてもがき、のたうち回る人々の想念、それがつくりあげる祝祭と幻影、その背後にある絶望と諦め、それでもすがりつく執着と煩悩が、ぼくを黙らせる。

風が吹き、またいくつかの草の切れ端が飛ばされてきて水面に小さな波紋をつくる。よく見ると、その葉っぱにしがみついている小さな虫がいる。自分自身がどんな儚い乗り物に運命を託しているのかなんてまったく頓着せずに慌てず騒がず、虫はゆっくりと水上に浮かんだ葉の上を動いていく。その無心の姿の向こうに、色とりどりの旗がはためく。

どうしてまた、こんなところでつかまったしまったのだろう。ぼくはいまいましく舌打ちをする。そんな世界があることをもうしばらく忘れていたかった。けれど、どうやらこのトラップはぼくを逃しはしないようだ。

ぼくの身体をゆっくりと水が押し包んでいく。水の上に浮かんだ葉っぱは、やがて表面張力を失って沈んでいく。それと同じように、ぼくの身体も沈んでいく。隣に目をやると、あの小さな紅色の虫も、同じように沈んでいく。

仲間がいるのは、いつでも心強いものだ。

The City( 1 / 1 )

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いまが朝なのか夜なのか、男には既にわからない。わかろうとする意志を既に失っている。それでいいとさえ思っている。

これほどの人がひしめくこの街の片隅で、階上にも階下にも無数の人がひしめくこの建物の中で、男は誰とも顔をあわせない。この空間では肉体は意味をもたない。物理的な反射として目にうつる光景、たとえば薄汚れかけた壁、埃の積もったフロア、スチールの愛想のなさをむりやりに隠そうとして無様な塗装をされたドア、そこから外に続いていく無機質の冷たい廊下、その先に、ごく稀に響く嬌声や、怒鳴り声、まるでこッちが見えていないように走り抜ける子ども、敵意を含んだ視線を投げかけてくる母親たち、ようやくたどりついた店のカウンター越しに怪訝な表情を浮かべる店員などは、スクリーンの上に映し出される幻影ほどには美しくない。幻ほどには心を動かさない。そこになんの魅力も残っていないから、男は物理的な世界が存在することを忘れようとする。そして沈み込む。深く沈み込む。

顔を上げれば、そこには現実がある。物理的な反射や空気の振動を超えた豊穣な世界がある。その世界が男を支える。この現実があるからこそ、男は悪夢のような都会で生きていける。

窓の外を見てごらん、そこにはこの灰色の建物と同じようなビルがそびえているだろう。はめごろしの分厚い二重窓では、見上げることも見下ろすこともできない。もしも見下ろすことができたなら、そこには生気のない物体の往来が見えるだろう。もしも見上げることができたら、そこには沼の底のように淀んだ空が見えるだろう。

男には、こんな悪夢はほしくない。男が望むのは、生命にあふれた現実だ。その現実を求めて、男は今日も目を瞑るだろう。

それが生きるということではないのだろうか。

Jun
作家:Jun_nuJ
Swamp
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