Swamp

Boots( 1 / 1 )

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ブーツのかかとが地面を叩く。その軽快な音を楽しんでいたのは、ほんの数日前のことだ。「このブーツは歩くためのものだ。どこまでも歩いていくがいい」。靴職人はそう行ってポンと両手を叩いた。それがまるで号砲でもあるかのように、この二本の足は動きはじめた。舗石の上を、硬質な音が響いた。音は冷たい建物の間をこだました。

このブーツは歩くためのものだ。それは十分にわかっていたはずだ。けれど、歩くということがどういうことなのか、本当にしっかりわかっていたのだろうか。歩くことは、格好をつけて舗道を闊歩することではない。そうすることだけではない。そこから街を出て、石ころだらけの道を歩くことでもある。石ころだらけの道はやがて落ち葉の厚く積もった道になり、その道はやがて藪の中に消える。そこから先は、もう道はない。

ブーツが真価を発揮するのはここからだ。少なくともあの靴職人はそのことをよくわかっていた。藪の中の道なき道は、やがて荒涼とした巨岩の間を縫うようになる。その巨岩を避けるように歩けば、いつの間にか足がぬかるみにとられるようになる。少しでも歩きやすいところを選んで進んでいるうち、巨岩は跡形もなく消え、目の前には避けられない沼地がひろがる。

ブーツは歩くためのものだ。ここで引き返すためのものではない。泥を跳ね返し、かかとを奪われそうになりながら、それでも一歩、また一歩と進んでいく。

やがて身体は雑巾のように疲れ果てる。これはいったい現実なのだろうか。現実とはこうまでもつらいものなのだろうか。目を覚ませば、柔らかなベッドの中で、何事もなかったかのように見慣れた部屋を見回すのではないのだろうか。

けれど、感覚はそれを否定する。ここまで痺れきった四肢は、痛みはじめた爪先は、こわばっていうことをきかない筋肉は、想像の中で生み出されるものではありえない。ひとつひとつの痛覚が、これが現実であると主張する。

この現実から逃れるために必要なのは、目を覚ますことではない。ただひたすらに歩き続けることだ。このブーツは歩くためのものだ。だから、どこまでも歩いていく。

Fire( 1 / 1 )

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──年老いた女が炉端にうずくまっている。火掻き棒が囲炉裏の熾火をかきたてる。老婆のふるえる指先と、器用に埋み火を掻き起こす鉄の棒とが、まるで別々の生き物のように見える。若い男はそれを見ながら、濡れそぼった上衣をかきあわせる。やがて老婆が語りはじめる。──

そうさ、おまえさんが初めてじゃない。二度目でも三度目でもないさ。ここに来てから、七度も冬を越したが、その間に何人となく、おまえさんのようなのがやってきた。どこに行くんだか、なにの用があるんだか知らんが、みな、みじめな格好で来よったわい。

ここにはなんでもある。沼に行けば魚もいるし、仕掛けをつくっておけば鳥や獣を捕ることもできる。こんな婆さんでも苦もなく捕まえられるのよ。森に行けば漿果が摘み放題だし、秋にはきのこもどっさり採れる。林檎の木が裏にはあるし、香草だってどこにでも生えている。乳が欲しければヤギ小屋に行けばいい。ないものはないといってもいいだろうよ。

ああ、ここに来て七度の夏を超えたが、もうどこに行こうとも思わんね。ここにいると、あちらこちらと動き続けるはぐれ鳥のようなおまえさんたちが不思議に思えてくる。それが若いってことなのかね。わからんよ。

いや、おまえさんは笑うかもしれないが、この婆さんにだって若い頃、娘の頃ってのがあったのだよ。おまえさんは信じないかもしれないがね、その頃は、この婆さんだって祭に行って太鼓なんか叩いたものだよ。男どもが追いかけてきたが、鼻も引っ掛けなかった。あたしにはあたしのやりたいことがあるんだ、ってね。

あの男たちは、どこに行ったんだろう。わからない。みんなどこかに消えてしまった。なにが欲しかったのかねえ。欲しいものならみんな手を伸ばせばある。ここにしばらくでもいれば、それがわかる。蜜が欲しければ蜂を集めればいいし、パンが食べたければ小麦の種を蒔けばいい。ああ、なんでも手に入るよ。それはなにも、ここに限ったことじゃなかろう。

だが、男どもは出ていくな。なんでだろう。その謎を解くために、この婆さんはここにいるのかもしれん。そんな気がするときもある。気のせいかもしれん。年をとると、いろんなことを思うもんでな。おまえさんもそのうちわかるようになる。

そう、あの男どもは、年をとりに行ったのかもしれんなあ。

──老婆のつぶやきは、途切れることがなかった。疲れ切った若者は、いつしか眠りに落ちていた。──

Stars( 1 / 1 )

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巨大な漂石の上で、ぼくは待ち続けていた。だれを? ぼくは覚えているはずだった。ぼくを救ってくれるはずのあの人を。けれど、その人がいったいどんな人だったのか、まるで思い出せない。どんな声だったのかも、その笑顔も、柔らかな髪も、すべすべした肌も、もう思い出せない。年格好もわからなければ、いったい男だったのか女だったのかさえわからない。それでもぼくは待ち続ける。太陽の直射が昼間に温めた熱がわずかに残った岩の上に寝そべって、待ち続ける。

空の色が変わっていくのがわかるだろう。この時間、宇宙は本当の姿を見せる。日光にあふれた昼間には、空は宇宙を映さない。星の光では、宇宙の色はわからない。永遠に続いていくこの無限の空間の色を感じることができるのは、このわずかな時間帯でしかない。

そう、ぼくは星空がこわいのだ。果てしない星の動きを眺めていると、自分がどこにいるのかわからなくなる。もちろん、ぼくは自分の居場所を失ってずいぶんになる。いま自分がいる場所の緯度や経度、地理的な配置を正確に表現するすべを失っている。けれど、ふだんなら、それでも「自分はここにいる」と、そう信じることができる。「ここ」だけは、失うことがない。

星空の下では、その最後の頼みの綱の「ここ」さえ怪しくなる。「ここ」は「そこ」かもしれない。「あそこ」かもしれない。「どこ」でもないかもしれない。無数に散らばった星がそれぞれ自分の位置を主張して、そしてそれがひとつひとつ説得力をもっている。その前で、ぼくは自信を失う。

だから、ぼくは待ち続ける。あの人がいれば、ぼくは自分の場所を回復できる。脱ぎ捨てたブーツを枕にして、ぼくは宇宙の色に染まろうとする。指先がしびれている。歩き続けた果てにいちばん痛む場所が指先だなんてばかげている。たぶん、それ以外の場所は感覚を失ってしまった。ほとんど唯一生気の残った場所にだけ、痛みが宿っている。

そしてぼくは知っている。あの人は来ない。きっと遠くの街で、ぼくの存在など忘れてしまって、あの人の人生を生きている。それでもぼくは信じている。信じていたい。ぼくとあの人の運命がいつか交わって、そして、ぼくが待ち続けていたことの意味が明らかになるのを。

さあ、目を閉じよう。天空にひとつ、またひとつと星が増えていく。大地が冷え切ってしまう前に、少しでも眠ることにしよう。

Sickle and Sward( 1 / 1 )

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たしかにその刀を打ったのはおれだ。隠したってしかたない。このあたりでそれだけのものを打てる鍛冶屋はおれしかいない。それはだれだって知ってる。

そりゃおれだって、刀がご禁制品だということぐらいは知っている。だれだって刀を打ちますなんて看板は出しはしない。おれだってあの日は鎌を打とうとフイゴをグイグイ押して炉にガンガン火を起こしていた。いい鋼が手にはいったから、先から頼まれていた刈り入れ用の大鎌を打とうと思ってね。なにもあんな風来坊のためにわざわざ用意したんじゃないってことは、覚えておいてほしいな。

おれが真っ赤に焼けた鉄の棒を鉄床の上に載せて最初の鎚をくれようとしたときだった。あのみすぼらしい男が立っているのに気がついた。まるで幽霊みたいによ、そこの戸口のとこに立ってたんだ。ぎょっとしたぜ。よしてくれよと思ったよ。そしてすぐに気がついた。これは流れ者にちがいないって。そして、なおさらまっぴらだと思った。かかりあいになんぞ、ならないほうがいい。

ところがあの男、おれが気がついたのをいいことに、一歩こっちに近づくと、なにか言うんだ。こっちはフイゴの音でなにも聞こえないし、仕事の邪魔はしないでくれって言ったって向こうには通じない。しかたないから手を休めて、外に出た。

男は最初、はっきりとなにが欲しいのか言わなかったな。遠くの街から来たとか、この先の道がどうなっているのかとか、こっちにとっちゃどうでもいいようなことばっかり言う。そして最後に、「だから刀を打ってくれないか」と、そう言うんだ。

勘違いしてもらっちゃ困る。こっちだって信用というものがかかっている。やっちゃいけないことを「やってくれませんか」と言われて安請け合いにハイハイと答えるわけにはいかない。ちゃんと説明した。このくにでは刀はつくってはいけない。売ってもいけないし、持っていてもいけない。だいいち、仮におれがここで刀を打ったとしても、それだけではなんの役にも立たない。刀を刀にするのは、鍛冶屋だけではない。研師も鞘師もなければ刀になんかなりはしない。おれもお人好しだね。なにも聞かずに追い出せばよかったんだよ。

なんで刀が必要なのか、そんなことはおれにとってはどうでもよかった。あの男にとってはそうではなかったんだな。くどくどと、いろんな理由を並べ立てた。おれはいい加減に苛立ってきた。そうだろう。炉には火が燃えている。炭だって無駄にはできない。いい加減に振りきろうと思ったとき、あのボロを身にまとった男は言ったのだ。

「あなたは、刀を持ちたいと思ったことはないのか」

ない、と、おれは即座に答えた。それはウソではない。おれは背を向けた。

「刀に限らない。あなたは、なにかにすがりたいと思ったことはないのか。あなたはそれほど強いのか」

なにかがおれの中ではじけたのは、男が追いすがるようにそう言ったときだ。不意を突かれておれは考えこんだよ。おれだって必要以上になにかを求めてるんじゃないかってね。

たとえば、おれの鉄床だ。これほど頑丈で、これほど狂いのない鉄床は、そうそうめったにあるもんじゃない。おれはこれを若い頃に修行させてもらった親方が死ぬときに譲り受けた。おれはそれが誇らしく、そしてちょっと重かった。その重みがおれを支えてくれる気がした。それまで使っていた鉄床でなにか不自由があるわけではなかった。むしろ、以前のもののほうがおれの身体には合っていたかもしれない。けれど、親方の鉄床を背負い込むことで、おれはこのくにいちばんの鍛冶屋として自分を立てることができた。

たとえばおれに大鎌を頼んできたあの昔なじみだ。あいつの畑がいくら広いといったって、ほんとうのとこ、あいつが望むほどに立派な鎌が必要なわけはない。そこまで鋭利に研ぎ澄ました刃も、そこまで粘りのある芯金も必要はないはずだ。けれど、あいつがそれをおれに頼んでくる気持ちはわかる。大百姓として身を立てるためには、なにかすがりつくものが必要なのだ。

言っておくが、おれは金に目が眩んだのではない。実際のところ、一銭だって受け取らなかった。くにのおきてを破ったわけではない。たしかにおれは、刀になるべき鋼を鍛え上げた。だが、それをあの男に売り渡しはしなかった。もちろん刀もつくっていない。さっきも言ったように、研師の手、鞘師の手が入らなければ、刀なんてただの鉄の塊だ。おれは刀のもとになるものだけを鍛え上げた。もちろんそこから大鎌をつくるためだ。それをあの片隅に置いた。そして、昼飯を食いに出ていった。あのみすぼらしい流れ者をそこに残してね。

盗んでいくがいい。おれはそんなことは言わなかった。それを選んだのはおれではなく、あの男だ。そして、あの鉄の塊から刀をつくりあげたのもな。

Jun
作家:Jun_nuJ
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