Swamp

The Voice( 1 / 1 )

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安穏を貪るその怠惰な心、おれが破壊したいと思ったのはそいつだ。聞こえるだろう、おれの声が。おれはたびたびおまえに警告してきたはずだ。

おまえはおれを異形の者と呼ぶ。だが、おれはおまえの一部だ。おまえ自身だといってもいい。そんなおれの言葉に抗って、おまえは言う。いつの間に自分の中に巣食ったのだ、どうして自分を自由にしてくれないのだと。おまえにはわかっていない。おれはおまえの中にはるか昔からいる。おまえが生まれたときからいる。つまり、おまえ自身だ。おれから自由になることは、おまえが自分の一部を失うことだ。おれはいつも、おまえといっしょにいる。

異形の者はおまえ自身なのだと、なぜ気づかない。おまえは平和な世界に落ちつこうとしている。小さな暮らしの中に、小さな役割を見つけようとしている。ばかなことはやめろ。そこにいるのはおまえ自身じゃない。おまえの影に過ぎない。

子どもたちはおまえを慕ってまつわりつく。その仮面の下に恐ろしい化け物がひそんでいると、だれも気づかない。美しい音楽を奏でるその手が実は人を殺めた手だと、だれも知らない。珍しい話を語って聞かせるその声が、恐ろしい咆哮を隠していることに思い至らない。やめろ。本性をあらわせ。自由になるとはそういうことだ。おまえをとらえているのはおまえの思いこみであって、おまえが異形の者と呼ぶこのおれではない。なぜならおれは、おまえ自身なのだから。

疲れた? それがなんの理由になるだろう。おまえはなんのために生きている? 歩き続けるためか。歩き続けて、ぼろ布のようになるのがおまえの運命なのか。それもよかろう。そうやって野垂れ死ぬのもひとつのあり方だ。だが、その怠惰な逃げはよせ。生きることからの逃亡はやめろ。それは野垂れ死ぬよりもわるい。それは悪臭をもたらす。不快だ。

剣を抜け。それがもうひとつのおまえの運命だ。おまえが選択したおまえの運命だ。そして闘え。だれが相手でもいい。闘うがいい。

ほう。そうかい。おれを闘いの相手に選ぶのかい。無理だ。よせ。ほら、おれは警告したぞ。これがどんな結果になっても、それはおまえの選択だと、そう心得ておくんだぞ。

Swamp( 1 / 1 )

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ぼくは、足もとにひろがる光景を眺めていた。泥だらけ、悪臭に満ちた沼地を抜ける途中、思いもかけず広がっていた澄んだ泉。そこに浮かんだ細い草の葉、その先にぼんやりと浮かび上がる建造物。見たことのない光景、けれどどこか懐かしい光景。いや、懐かしいというのともちがう。たしかに知っているけれど思い出したくない記憶。毎日親しく遊んでいた幼馴染が思春期になって突然そっぽを向いた、そのきまりの悪さを思い出したくないから見ないようにしていた古いイメージ。それを引き出しの奥から整理中に見つけてしまったときのばつのわるさ。懐かしさと言うよりは、顔を赤らめてしまうそんな気分にさせる光景だ。

いくつもの窓。それは、幾層にも重なった住居であるにちがいない。そのなかに、いくつもの暮らしがある。ぼくはそれを想像して気が遠くなる。

その幾百、幾千の有機体のうねりがぼくを圧倒する。生きようとしてもがき、のたうち回る人々の想念、それがつくりあげる祝祭と幻影、その背後にある絶望と諦め、それでもすがりつく執着と煩悩が、ぼくを黙らせる。

風が吹き、またいくつかの草の切れ端が飛ばされてきて水面に小さな波紋をつくる。よく見ると、その葉っぱにしがみついている小さな虫がいる。自分自身がどんな儚い乗り物に運命を託しているのかなんてまったく頓着せずに慌てず騒がず、虫はゆっくりと水上に浮かんだ葉の上を動いていく。その無心の姿の向こうに、色とりどりの旗がはためく。

どうしてまた、こんなところでつかまったしまったのだろう。ぼくはいまいましく舌打ちをする。そんな世界があることをもうしばらく忘れていたかった。けれど、どうやらこのトラップはぼくを逃しはしないようだ。

ぼくの身体をゆっくりと水が押し包んでいく。水の上に浮かんだ葉っぱは、やがて表面張力を失って沈んでいく。それと同じように、ぼくの身体も沈んでいく。隣に目をやると、あの小さな紅色の虫も、同じように沈んでいく。

仲間がいるのは、いつでも心強いものだ。

The City( 1 / 1 )

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いまが朝なのか夜なのか、男には既にわからない。わかろうとする意志を既に失っている。それでいいとさえ思っている。

これほどの人がひしめくこの街の片隅で、階上にも階下にも無数の人がひしめくこの建物の中で、男は誰とも顔をあわせない。この空間では肉体は意味をもたない。物理的な反射として目にうつる光景、たとえば薄汚れかけた壁、埃の積もったフロア、スチールの愛想のなさをむりやりに隠そうとして無様な塗装をされたドア、そこから外に続いていく無機質の冷たい廊下、その先に、ごく稀に響く嬌声や、怒鳴り声、まるでこッちが見えていないように走り抜ける子ども、敵意を含んだ視線を投げかけてくる母親たち、ようやくたどりついた店のカウンター越しに怪訝な表情を浮かべる店員などは、スクリーンの上に映し出される幻影ほどには美しくない。幻ほどには心を動かさない。そこになんの魅力も残っていないから、男は物理的な世界が存在することを忘れようとする。そして沈み込む。深く沈み込む。

顔を上げれば、そこには現実がある。物理的な反射や空気の振動を超えた豊穣な世界がある。その世界が男を支える。この現実があるからこそ、男は悪夢のような都会で生きていける。

窓の外を見てごらん、そこにはこの灰色の建物と同じようなビルがそびえているだろう。はめごろしの分厚い二重窓では、見上げることも見下ろすこともできない。もしも見下ろすことができたなら、そこには生気のない物体の往来が見えるだろう。もしも見上げることができたら、そこには沼の底のように淀んだ空が見えるだろう。

男には、こんな悪夢はほしくない。男が望むのは、生命にあふれた現実だ。その現実を求めて、男は今日も目を瞑るだろう。

それが生きるということではないのだろうか。

Jazz Drummer( 1 / 1 )

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退屈をさみしさで紛らせる。それが日常だった。ひとりでいれば、けっしてさみしくはない。ひとりの暮らしにはすっかり慣れてしまっている。やるべきことを繰り返していれば、自然に時間は流れていく。なんの感情も必要はない。

けれど、そんな時間にはすぐに飽きてくる。これだけやっていれば十分なのに、十分すぎるなにかをもてあましてしまう。それが退屈だ。退屈こそが、ひとりの毎日の大敵だ。

だから、ふらふらと半時間も歩いて街まで出ることになる。電車に乗ればもうちょっとだけは早く着けるのだけれど、早く着いたってしかたない。退屈をどうにかしたいだけなのだから、時間を節約する意味はない。歩くことに飽きるまで、なんだったら遠回りをして一時間ほどかけてでも、歩いていく値打ちはある。

蔵を改造した薄暗い店は、だいたいが入り口さえ人を拒絶する。来なくていいよ、入らなくていいよと、店ののれんは客を押し返すだろう。その柔らかい抵抗を押し戻すように中に入ると、闇の中からなにかがこっちを睨みつける。薄暗がりに目が慣れると、それは厨房の脇のミキシングルームでセッティングをしているマスターの目だとわかる。あの髭面男がマスターなのだろうか。何度通ってもそれはわからない。

誰も席に案内しないし、だれも挨拶ひとつよこさない。といってそこに立ち続けるわけにいかないから、なるべくだれのじゃまにもなりそうにない席を選んですわる。すっかりそらで覚えてしまったメニューをそれでも三度は読み返す頃になって、ようやく高校生アルバイトにしか見えないウェイターが注文をとりにくる。いちいち聞かなくてもわかるだろう。どうせいちばん安いおつまみセットとビールしか頼まないのだから。

ステージからは、最後のリハを終えたバンドが退場していくところだ。このバンドを見たくてきたわけではない。ただ、こういう小さなライブハウスでは、出演バンドの順番は行ってみなければわからない。たいていのリハは逆順で進行するから、このバンドが最初に出るはずだ。面白くもない。そして、さみしさがはじまる。

ひとりの部屋なら、どうでもいい音楽、どうでもいい動画、どうでもいい本やどうでもいい書き込みなんかはみんな退屈に翻訳される。退屈だ。相手になんてなっていられない。目をそむけて、退屈を嘆けばそれでいい。

この小屋では、そうはいかない。やがて音楽がはじまる。その音楽は、否応なしに気持ちをシーンに引き込んでいく。そこでは退屈は許されない。けれど、そこに溶け込んでしまうことは自分の中のなにかが許さない。その緊張の間にできるなにもない空間の中に、さみしさが忍びこんでくる。床の上にひろがるこぼれた水のように、それを止めることはできない。

退屈とさみしさと、どっちがましなのだろうか。どっちも歓迎したくはない。けれど、退屈から逃げ出そうとここにやってきたのは自分自身だ。このさみしさから逃げ出しても、退屈に戻るだけだ。そこでぼくはdaffyにかける。次の次か、その次に登場するバンドのドラマーだ。daffyきなり。それが彼女の名前だ。彼女のパフォーマンスを見るまでは帰るまいと、心に誓う。それまでは、毎分〇・五個の割でかきのたねを口に運ぶしぐさを続けながら、とにかくここにとどまる。

彼女のファンなのだと、ぼくは自分に言いきかせる。追っかけなのだ。これで彼女のライブは三度目だ。だが、それがどうしたというのだ。たぶん彼女は百回以上のステージをこなしている。そのうちの数パーセントなんか、なんの意味もない。

それでもそこにすがるしかないのは、このさみしさとたたかうためだ。daffyきなり。ぼくは彼女の名前をまるで魔法の呪文のように唱える。それにすがりつく。

ほら、ステージがざわついている。セットの交換だ。もうじき彼女が登場する。ぼくはきっと、彼女のバチさばきを恍惚として眺め、そしてもっともっとさみしくなるだろう。

わかっていても、そうしなければならない日だってある。

Jun
作家:Jun_nuJ
Swamp
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