Swamp

Lens( 1 / 1 )

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ほかのだれも、その男に気がついた様子はなかった。だれもが車道との境目にある車止めや歩道の脇に置かれたゴミ箱、伸びすぎた街路樹を避けるような足どりで、ほとんど無意識にその男を避けて通り過ぎていく。ぼくだって、車道をはさんで向かい側の歩道を歩いていたのでなければ同じように気づかずに通り過ぎていたかもしれない。黒い髪が長く伸び、垢じみた季節外れのボロ服を着れるだけ着込んで、片手に大きくふくらんだかばんを下げている。どこにでもいる家を失った男だ。公園と繁華街に挟まれたこの界隈には珍しい光景ではない。

ぼくが気づいたのは、その鋭い眼だった。なぜ歩道の反対側からそれに気づいたのか。それは、そのみすぼらしい男が虫眼鏡を目の前にかざしてこっちを見たからだ。虫眼鏡越しに見るその目は、異様に大きく拡大されていた。その大きな目で心の中まで覗き込まれているような気がして、ぼくはたじろいだ。なにも気づかない通行人が、ぼくと男の間を通り過ぎた。その次の瞬間には、男はもう虫眼鏡を別の方に向けていた。どうやら男の関心は、ぼくの心の中にはない。少しだけほっとした。そしてあわてた自分がおかしかった。

なぜなら、男が虫眼鏡越しに見ている世界は、ぼやけきった不透明な宇宙に過ぎないはずだからだ。虫眼鏡の原理を思い出してみるがいい。拡大されるのは近くのものであって、遠くのものは焦点がずれるだけだ。拡大されるのは男の目であって、ぼくの心ではない。

男はなにも見ていないのか、それともそこにはないものを見ているにちがいない。この冷酷な現実を見るよりは、そのほうが心が休まるのかもしれない。それならそうし続けるがいい。ぼくは背を向けて歩みを早めた。

あんな虫眼鏡では、ぼくの心の中は覗けない。なにもはいっていない、空っぽの、その心の中は。

Back on the Track( 1 / 1 )

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見上げると、そこには水底があった。深く深く淀んだ水底が、頭の上に広がっていた。ビルの谷間から見上げるそれは狭く、井戸の底をのぞくようだ。そこに向かって落ちていけば、二度と這い上がってこれなくなる。覚悟を決めて、まっすぐに見る。

硬いアスファルトが背中を痛めつける。そうやって、夜が明ける直前の車道の真ん中に寝転んでいる。灯火管制の敷かれた灰色の時間、あの巨大な事故以来、極度に電気の使用の制限されたこの街は、ある種の廃墟のようだ。

どんな廃墟だ。瓦礫の埋めた潮臭い廃墟ならよく知っている。人間の暮らしがここまで悪臭を放つものだと、それまで知らなかったのが嘘のようだ。

だが、その悪臭こそが人間が生きている、獣が生きている、動物が生きている、生命が息づくことの証拠なのだ。だから無機質に戻ってしまった世界には、人間の用はない。灰は灰に戻るべきだ。そして、あの水底に戻っていく。

もうしばらくの辛抱だ。もうしばらく、こうやってここに寝そべっていれば、やがて重力は逆転する。そして、あの灰色の井戸の底へと落ちていく。意識は無重力の中で解き放たれ、水面の向こうにある青く透明な世界へと飛翔する。身体はどす黒いしぶきをあげて、有機物の塊へと分解する。あとは魚が片付けてくれるだろう。

そうやって寝そべったまま、いつまでも水底の世界を夢見続けていた。

Well( 1 / 1 )

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泉のそばに腰を下ろして、ぼくは水面を眺めていた。地面はじっとりと濡れて冷たかったけれど、いまさらそれにかまうつもりはない。やがて高く上る太陽が、ぼくの身体を乾かしてくれるだろう。

澄んだ水面を流れてくる小さなもの。あれはどこか遠くで散った花びらかもしれない。その水面をとおして、捨て去ってきたものが揺れる。遠い記憶がぼやけていく。

ぼくが待ち続けてきたもの、それはもうここにはない。その痛みがぼくの心を突き通す。見ないようにしてきたもの、自分の心の中身。見ないから、見えない、見えないから、そこにあると信じてしまう。けれど、まっすぐに見れば、最初からそこは空っぽの空間だ。

そこを満たしていくのは、いまのぼくにはできない。できないことを無理にやることはない。心が空っぽでも、生きていくことはできる。心がなければ人間ではないと、そんなことを信じていたときもあった。それが嘘だと、ようやくわかった。

生きていれば人間だ。水が湧き出していれば泉だというのと同じことだ。その泉は最初はただの地下水の吹き出し口かもしれないが、やがて草が生え、花が咲き、鳥や獣が集い、そして人が憩うようになる。

空っぽの心だって、いつかそこに何かが流れこんでくる。いまはそれを信じることだ。

あと少しだけ、ここに休んでいよう。そしてぼくは歩き出す。さようなら、むかしぼくを養ってくれた泉よ。

Dictator( 1 / 1 )

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この世界がだれかに支配されていると、そんなお考えはよしたほうがよろしいんじゃないでしょうかね。だれかがひとつ命令すればなんでもそのとおりになるなんて、そんな世の中があったためしはございません。世間と申しますのは、だれにとっても意のままにならぬものでございますな。力も位も家柄も、すべては仮のものでございましょう。役目、役割でございます。だれもがその役割をこのかりそめのいのちの中で果たすように定められておるのでございましょう。

おわかりになりませんか。では、小話をひとついたしましょう。なに、このような賤しい者の冗談などおもしろくもなんともありませんでしょうが。

このくにでいちばん偉いのはどなたでしょう。もちろん王さまでございます。畏れ多くもそのようなことを小話にするのははばかられますので、これはどこかとおい異国の話、としてお聞きください。

さて、卑しい身分の髪結いの亭主がごくつまらぬ罪科でお裁きの場に引き出されました。裁判官が死罪を申し渡します。すると、この身分の低い男が高笑いしてこう申すのでございます。おまえはだれに手をかけておるのかわかっているのか、と。

このくにでいちばん偉いのはだれか、という問いが発せられたのはこの場面でございます。裁判官は、それは王さまであると、怪訝な顔でいいましたな。いまさらなにをそんなあたりまえのことを言うのだと。

ところがこの罪人は、もう怖れるものなどございませんから、だれもがはばかって言わぬことをはっきりといったのでございます。お主が知らぬ訳はあるまい。王さまは、実は神官どのの言いなりである。大臣たちがどのように諌めてもお聞きなされぬ。このくにの政を仕切っているのは、実は神官である。これは、街ではだれひとり知らぬことのない事実ですな。

しかし、この神官が思いのままにこのくにをあやつっているのかというと、そういうわけではありませんな。この神官、どういうわけだか俗なことこのうえない幇間には逆らえない。弱みでも握られているのでしょうか、あるいは幇間を寵愛するあまりでありましょうか。幇間がこうしてくれといえば、神官は必ずそれに従います。ですから、少しものを知った者は、なにか願いごとがあるときには必ず幇間のところに賄賂を持っていきます。それが最も確実な方法だというのは、公然の秘密でございます。

ところがこの幇間、実は出入りの髪結いとできております。不義の仲にあります。これを知っているのは当人たちのみ。幇間は実は自分の意志で動いているのではありません。この情婦の言うことはなんでもきくのでございます。つまり、このくにを動かしているのは、王さまではないとして、その実、神官でもなく、幇間でもなく、その情婦である髪結い女に過ぎないわけでございます。

そして、わたしをだれだと思っていると、かの罪人は自虐的な笑いを浮かべたのでございます。自分こそがその髪結いの夫である。妻が夫に従うものである以上、自分こそがこのくにを支配しているのであると、絞首台に上る前に哀しい虚栄をはったのでございます。

さて、この小話からどんな教訓をお学びでしょうか。だれかが権力をもって運命を管理しているのであれば、この罪人はなぜ死なねばならなかったのでしょうか。だれもがとらわれのなかで、己の自由になるものはほんの僅かで、しかもその自由になったと思っていることも実際にはたいしたことはないのだと、この話をしてくれたわたしの親父は申しておりました。その親父もとうになくなりましたが、さて、その小さな自由の中でなにをするべきか、わたしは未だにわからないでいるのでございます。

Jun
作家:Jun_nuJ
Swamp
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