信ずるものは、救われぬ

第4章 教義と解釈( 4 / 7 )

 このようにプロテスタントは、聖書至上主義だというが、その一方で、都合の悪いところは聖書を適当に解釈し、お茶を濁すのだ。知的には興ざめである。少なくとも、吉川や浮田はそうだった。

 彼らが最も説明困難だったのが、イエスをユダヤ人に売ったイスカリオテのユダの最期だ。
 これは福音書と『使徒行伝』で記述が大きく違っている。
 『マタイによる福音書』第二七章一~八節にはこうある。
 「夜が明けると、祭司長たち、民の長老たち一同は、イエスを殺そうとして協議をこらした上、イエスを縛って引き出し、総督ピラトに渡した。その時、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して言った、『わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、 罪を犯しました』。しかし彼らは言った、『それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい』。そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。祭司長たちは、その銀貨を拾いあげて言った、『これは血の代価だから、宮の金庫に入れるのはよくない』。そこで彼らは協議の上、外国人の墓地にするために、その金で陶器師の畑を買った。そのために、この畑は今日まで血の畑と呼ばれている」。

 ところが、『使徒行伝』第一章一六~一九節には、ペテロの言葉として、このように記されている。
 「兄弟たちよ、イエスを捕えた者たちの手びきになったユダについては、聖霊がダビデの口をとおして預言したその言葉は、成就しなければならなかった。彼はわたしたちの仲間に加えられ、この務を授かっていた者であった。彼は不義の報酬で、ある地所を手に入れたが、そこへまっさかさまに落ちて、腹がまん中から引き裂け、はらわたがみな流れ出てしまった。そして、この事はエルサレムの全住民に知れわたり、そこで、この地所が彼らの国語でアケルダマと呼ばれるようになった。『血の地所』との意である」。

 たぶん、成立年代に顕著な違いがあれば、古いほうが事実を反映しているものと予想されるが、両書の成立は紀元八〇年前後で、大きな差はないようだ。しかし、片方は自殺、片方は事故死という正反対のストーリーは、たぶんどちらかが、事実をわざと反映させなかったはずだ。

 有体に言えば、マタイかルカか、どちらかが嘘を書いたのだ。しかし、私はそれを批判しているのではない。

 私害いたいことは、聖書にも間違いはあるし、初代教会の使徒たちが、迫害の中で頑張っている信者を力づけるために、誇張したところもある。そういう当たり前のことを認めればよいのだ。
 私は、信者であった当時、こういった矛盾に対して、「聖書には事実が書かれていないかもしれないが、それは神の許容される範囲での誤りであって、それよりも何よりも、学ぶべき真理がそこにある」という言葉で、自分で聖書の内容を合理化していた。
 だから、ユダが首をくくったか、転落死したかは、イエスを信じる上で大きな問題ではなく、彼がイエスを裏切ったこと、そのために地獄に行ったことだけが本当は問題なのだ。わからなければ、正直にそう言えばよいのだ。「わかりません」と。
 ところが浮田はある時、このユダの死についての矛盾を誰かに突っ込まれたと見えて、説教中に鼻息を荒くして、「聖書に書いてあるから、どちらも起こったのです。首をつって、死体が落ちて、はらわたが流れ出たのです」と、興奮気味にまくし立て、幼稚で乱暴に解釈を信者に押し付け、同意を求めた。
 「アーメンですか」と。
 土地は誰が買ったのか、土地が買われたのはユダの生前なのか死後なのか。後者だとすれば、ユダはイエスのように蘇ったとでも言うのか。同時に起こったというだけで、論理矛盾は一切解消させていない。これは解釈ですらない、ヤケクソである。聖書に書いてあることはすべて事実だから、これでいいのだ。「神には何でもできる。反論無用」という訳だ。
 私は他の信者と同じように、強制されて「アーメン」と唱えながら、この無知性、無教養な牧師に辟易としていた。

第4章 教義と解釈( 5 / 7 )

 浮田の出鱈目さは、聖書解釈だけではなかった。

 私は大学で語学専攻だったので、四年間、専攻語学の中国語の授業は、同じクラスの仲間と過ごした。残念なことにその間、私のクラスから二人の自殺者が出た。
 この話をした時浮田は、「あなたのクラスは呪われているから、皆を連れて来なさい」と真顔で言った。
 しかし、もしも本当にそう思っているのなら、自分からキャンパスに赴けば良い。そんな気など毛頭ない、つまり、真剣に心配などしていないのに、言うことだけは一人前だった。もちろん私は、そんな無責任な言動に付き合う気はさらさらなかった。

 私は高校時代の失敗に懲りていた。

 飲酒のタブーも、やはり吉川たちの勝手な解釈だった。
 牧師たちは、『エペソ人への手紙』第五章一八節に、「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである」とあるのを、今度は字面どおりにそれを読むことを拒否して、「酒を飲むな」と勝手に解釈し、信者に飲酒を禁じていた。
 しかし、聖書によれば、イエスが最初に行った奇跡は、ガリラヤのカナで、水をワインに変えたことではなかったのか(『ヨハネによる福音書』第二章)。ワインは婚礼に必要不可欠だったから、イエスは水をワインに変えて、婚礼の場で、知人の面目を保ったのだ。

 イエスもワインを飲んだことを、みんな忘れているのか。

 いわゆる最後の晩餐の席で、イエスはパンとワインの杯を弟子たちと共にした(『ルカによる福音書』第一二章一七~二〇節他)。それに従って、カトリックではミサ中の聖体拝領(イエスの血と肉を象徴するワインとイースト発酵させないパンである聖餅を神父から受け取る)の際に、実際にワインを使っている。
 しかし、関西ペンテコステ教会では、聖体拝領を模した「聖餐式」に「グレープジュース」を使っていた。しかも百パーセント果汁でないものを。英語では、百パーセントではないものを、ジュースと呼ばないことくらい、英語に堪能な吉川は知らなかったのだろうか。
 ワインは百パーセント、ブドウから作られる。イエスの血を象徴するのだから、水を混ぜて薄めたものでよいはずがない。ワインを使わないのなら、せめてそれくらいはこだわればよいものを、アルコールを抜けばそれでよいと乱暴に、浅墓に考えていたのだろう。
 もしも、ミサと同じように、イエスの最後の晩餐を、聖餐式で再現するのなら、ワインと同様、そこで供されるパンは、無発酵のパンでなければならない。なぜならそれは、『出エジプト記』第十二章に登場する、「過ぎ越しの祭」の伝統を踏襲しているからだ。
 神の導きによって、奴隷となっていたエジプトからユダヤ人が脱出する直前、頑ななファラオを懲らしめるために、神がモーセを通じて、様々な災厄をエジプトに齎した。これを「十戒」に倣って、「十災」と呼ぶ。映画『十戒』でも、ナイル川の血が水に変わったり、ファラオの子が死んだりしたシーンで表現されていることで、読者もご存知だろう。
 この、ファラオの子が死んだ時、ユダヤ人の家では、羊を屠り、その血を家の入口に塗ってしるしとしたた め、死の使いがその家を過ぎ越し、彼らは守られた。その際、家の中では、羊の肉と種入れぬパン、即ち無発酵のパンが供された。過ぎ越しの祭とは、それを記念するもので、「除酵祭」とも呼ばれる所以だ。

 しかし吉川は、そんなことはお構いなしだった。

 いんちきなジュースもそうだが、パンはただの食パンをサイコロ状に切ったものだった。
 関西ペンテコステ福音教会ができた直後の聖餐式で、吉川は今までとは違ったパフォーマンスを見せた。
 それまで、聖餐式のパンは、礼拝の前に、切りわけてステンレスのトレーに盛り付けられていたのだが、その日吉川は、聖餐式に必ず歌われる、聖歌五五〇番を信者が歌う中、白い手袋をして、大きな食パンをその場で切り分け始めた。

 「その血もてわが身を
あがないしイエスきみ
いかにしてわれ
御旨をなす民となりうるか
みもたまもわが主よ
とりたまえいまより
喜びの日も
憂いの夜も
わが主にしたがわん」

 パンは信者の一体を表すので、大きなパンでなければならない。小さなナイフで吉川がそれを切り、他の牧師や伝道師たちがそれを信者に配ったのだが、三百人の信者がいるのだ。切り分けるのに小一時間かかってしまった。私たちは何回同じところを歌ったかわからない。全員がパンと杯を受け取ったときには、吉川も信者も疲れ果てていた。
 このパフォーマンスは一回限りとなり、次の聖餐式は、元の形式に戻された。もちろん、誰もそれについてとやかく言うものはなかった。

 飲酒の話に戻ろう。
 パウロも、弟子のテモテに「水ばかりを飲まないで、胃のため、また、たびたびのいたみを和らげるために、少量のぶどう酒を用いなさい」(『テモテへの第一の 手紙』第五章二三節)と忠告している。それなのにどうしてプロテスタント教会では、飲酒する人間を罪人扱いにするのだろうか。
 一般的にカ ルトと認識されている、あのエホバの証人が、『レビ記』一七章一〇節にある戒律の中の「イスラエルの家の者、またはあなたがたのうちに宿る寄留者のだれで も、血を食べるならば、わたしはその血を食べる人に敵して、わたしの顔を向け、これをその民のうちから断つであろう」という言葉を、「輸血をしてはいけな い」と拡大解釈しているのは有名な話だ。輸血拒否で死人さえ出ている。
 この「血を食うな」というユダヤの戒律は、寄生虫病を防ぐために豚肉を食うことを禁じた戒律と同じく、たぶん消化不良を防ぐための生活の知恵であり、また邪教の儀式を禁じるためのものだった。聖書のどこにも輸血という言葉は出てこない。輸血という概念がなかったのだから、神が輸血を禁じる訳がないのだ。
 マスコミを時折にぎわす、これもまたカルトとして有名な統一協会。その教祖である韓国人・文鮮明は、聖書にあるアジアという記述を、何の根拠もなく朝鮮半島だと解釈している。しかし聖書時代のアジアがトルコ以東、ましてや極東を指すことはあり得ない。
 ところが正統を以って自認しているプロテスタント諸派も、飲酒という点では、五十歩百歩だ。

 誰がエホバの証人や文鮮明を嗤えると言うのだ。

 それがプロテスタ ント流の解釈だからだと言えばそれまでだが、そんな矛盾のある解釈では、やはり知性のある人や、聖書学やオリエントの歴史を少しでも勉強した人を納得させることはできまい。

第4章 教義と解釈( 6 / 7 )

 聖書の教えとして、信者を精神的に縛る大きな要素となっていたのは、吉川のキリスト再臨論、つまり終末論だった。
 イエスの再臨について吉川はこう言って憚らなかった。
 「イエス様がお生まれになったのは、実際には紀元元年ではなく、その数年前だということがわかっています。ですから、紀元二〇〇〇年の数年前には、イエス様は来られます」。
 そうなのだ、驚くべきことに吉川は、イエスの生誕二〇〇〇年にあたる一九九〇年代の終わりに、イエスが再臨すると「予言」していた。私ははっきり覚えている。だからこそ私は、バスに乗り遅れないように、毎週教会に通っていたのだから。
 『マタイによる福音書』第二四章三六節には、「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」とイエスが弟子たちに述べたことを、吉川はどうして無視したのだろうか。
 
 昭和四〇年代後半に、『ノストラダムスの大予言』という本がベストセラーとなったのは、ご承知の通りだ。
 中学生だった私もこれを読んだが、「一九九九年七の月」に恐怖の大王が降りて来るというセンセーショナルな予言解釈は、地球が滅ぼされるというイメージ、そして吉川の言うイエス再臨の年の予言と微妙に重なり、私を不安に陥れた。
 二一世紀は来ないかも知れない。私は本当にそう思っていた。
 キリストは世の終わりに再臨する。その時信者は、天国に迎えられる。これはキリスト教信仰の中心的なテーマであるが、前述のゴンザレス神父は一九九〇年代末、いわゆる世紀末のころ、私に笑いながらこう言った。
 「私たちが生きている間には、イエス様の再臨はありませんよ」、「(神父である)私も直接天国には行けませんよ。みんな煉獄ですよ」と。
 聖職者であっても、信者であっても、それが「再臨」に対する常識的な反応だろう。その日にイエスが再臨するかどうかは別にして、地球が終わる日を、誰かが知っているはずなどない。
 エホバの証人は、一九七五年のハルマゲドンを予言し、それが外れたためにアメリカで信者が激減して、日本や台湾など、アジアでの布教に力を入れ始めたとい う。結局吉川は、統一協会、モルモン教と並んで、「三大異端」として嫌っていたエホバの証人と同じように、当てずっぽうに予言をしてそれをはずし、責任を取らなかったということだ。
 このイエス生誕後二千年目の再臨という根拠はこうである。
 『ペテロの第二の手紙』三章八節に ある「愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである」という言葉を、一日=千年と短絡し。そして、神が七日で万物を創造し終わったので(『創世記』第二章二節)、天地創造から六日間=六千年でイエスが再臨し、信者を天に引き上げる。そして 最後の千年、神は働かない。七日目は安息日だからだ。その間、大患難の時代がやってくる。ハルマゲドンがあり、最終的にイエスは再び地上にやってきて、悪魔を滅ぼす。
 天地創造から千年毎には節目の出来事があり、天地創造から四千年目がイエスの生誕、それが真の紀元元年。そしてその二千年後がイエスの再臨。
 二一世紀になった今、吉川がどんな言い訳をしているかは興味深いところだが、この単純な聖書の物語の継ぎはぎは、吉川一派のみならず、多くのプロテスタント教会が採用していた。
 しかし、その根拠は薄弱だ。
 聖書をそのまま信じるのならば、「一日は千年のようだ」とは書いてあっても、一日は千年だとは書いていないわけだし、人類の創造が、紀元前四千年だというの も、荒唐無稽な話だ。そのころエジプトには既にピラミッドがあった。恐竜の時代はどこへ行ったのだ。ナンセンスもいいところだ。

 この吉川の再臨論を信じて、マイホーム購入を断念した信者さえいた。
 バブル前の一九八〇年代の半ばごろの話だ。二〇〇〇年までにキリストの再臨があるのなら、家なんか買うのは無駄だということだった。今彼らがどんな思いでいるのか、考えただけでも気の毒である。

第4章 教義と解釈( 7 / 7 )

 聖書の言葉や、自分たちのつたない説教の矛盾を指摘されて、言葉に詰まる前に、吉川とその弟子たちは、「神にはなんでもできる」(『マルコによる福音書』第一〇章二七節)という決まり文句でいつも予防線を張った。
 進化論も終末論も、結局のところこの言葉に集約してしまい、仮に議論になっても、それを一方的に打ち切れるようにしておくのが、この教会の指導者の戦術だった。実際、信者にも、未信者と議論になったら、この言葉を思い出せと言って教えた。
 私は、高校で教えていた頃、学生に見よう見真似で、ゲーム・ディベートを教えていたが、もしも吉川やその手下がディベートをしたら、全戦全敗だろう。根拠のない主張にポイントはやれない。
 それで科学を否定できると考えているのだから、この連中は始末に悪い。
 ところが「神にはなんでもできる」はずなのに、吉川は、それを信じて育てていた、若い信者の芽を乱暴に摘みとったことがあるのだ。
 私の一学年下に、西蔵譲二という男がいた。家族揃ってクリスチャンの、言わば理想的な家庭だった。
 彼は高校二年生になって突然、趣味のクラリネットで音楽大学へ進学したいと思い立った。
 音大の受験には、専門楽器以外に、ピアノは不可欠だった。それで西蔵は辻本の弟から、課題曲だけをピアノで弾けるようになるために、特訓を受けていた。
 なぜ吉川がそれを気に入らなかったのか分からない。
 信仰があれば何でもできると、吉川から聞いたイエスの教えを、西蔵は信じてチャレンジしていたのだが、吉川は「できるわけがない、目を覚ませ」と否定的な言葉を連ねて説得にかかった。

 矛盾もいいところだ。

 西蔵は吉川に反発して口論となった。結局その夢を断念した西蔵が、教会に来なくなったのは、言うまでもない。
 西蔵は大学に進学せず、美容師になった。全国的に名前が知られている一流店で腕を磨き、私が教師になった頃、神戸の繁華街に自分の店を持った。甘いマスクに長身。西蔵は結婚していたが、客は彼についてきた。
 西蔵の店に、私はよく髪を切りに行った。高級店で刈るような上等な頭でも、お洒落なヘアスタイルでもなかったし、そんな頭にはちょっと高いと思いながらも、彼に会うために、2ヶ月に1度くらいの割合で、神戸に足を伸ばしていた。
 私は西蔵も教会には行っていないものだと思っていたが、彼は別の宗派の教団と関わっていたようだった。宣教団体のパンフレットのようなものを何回かもらったことがある。
 ある日西蔵は、私の髪を切りながら、牧師になるために、アメリカの聖書学校に行こうと思っていると話した。

 私は沈黙した。静かな、そして繊細なハサミの音だけが聞こえた。

 私は、西蔵の気持ちがよく分かった。そのころ私は、既に関西ペンテコステ福音教会を脱会してはいたが、教会に行っていないことに、何か後ろめたさを常に感じていたときだったからだ。
 一度イエスに、いや、教会の教えに呪縛されると、そこから解き放たれるのは容易なことではない。そのことは、私自身が一番よく知っていた。
 その後私は、西蔵の消息を知らない。どこかで人々を導いているのか、それともハサミを振るっているのか。変わった苗字なので、ネットで検索してみたこともあったが、それは徒労に終わった。
青木大蔵
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