信ずるものは、救われぬ

第4章 教義と解釈( 7 / 7 )

 聖書の言葉や、自分たちのつたない説教の矛盾を指摘されて、言葉に詰まる前に、吉川とその弟子たちは、「神にはなんでもできる」(『マルコによる福音書』第一〇章二七節)という決まり文句でいつも予防線を張った。
 進化論も終末論も、結局のところこの言葉に集約してしまい、仮に議論になっても、それを一方的に打ち切れるようにしておくのが、この教会の指導者の戦術だった。実際、信者にも、未信者と議論になったら、この言葉を思い出せと言って教えた。
 私は、高校で教えていた頃、学生に見よう見真似で、ゲーム・ディベートを教えていたが、もしも吉川やその手下がディベートをしたら、全戦全敗だろう。根拠のない主張にポイントはやれない。
 それで科学を否定できると考えているのだから、この連中は始末に悪い。
 ところが「神にはなんでもできる」はずなのに、吉川は、それを信じて育てていた、若い信者の芽を乱暴に摘みとったことがあるのだ。
 私の一学年下に、西蔵譲二という男がいた。家族揃ってクリスチャンの、言わば理想的な家庭だった。
 彼は高校二年生になって突然、趣味のクラリネットで音楽大学へ進学したいと思い立った。
 音大の受験には、専門楽器以外に、ピアノは不可欠だった。それで西蔵は辻本の弟から、課題曲だけをピアノで弾けるようになるために、特訓を受けていた。
 なぜ吉川がそれを気に入らなかったのか分からない。
 信仰があれば何でもできると、吉川から聞いたイエスの教えを、西蔵は信じてチャレンジしていたのだが、吉川は「できるわけがない、目を覚ませ」と否定的な言葉を連ねて説得にかかった。

 矛盾もいいところだ。

 西蔵は吉川に反発して口論となった。結局その夢を断念した西蔵が、教会に来なくなったのは、言うまでもない。
 西蔵は大学に進学せず、美容師になった。全国的に名前が知られている一流店で腕を磨き、私が教師になった頃、神戸の繁華街に自分の店を持った。甘いマスクに長身。西蔵は結婚していたが、客は彼についてきた。
 西蔵の店に、私はよく髪を切りに行った。高級店で刈るような上等な頭でも、お洒落なヘアスタイルでもなかったし、そんな頭にはちょっと高いと思いながらも、彼に会うために、2ヶ月に1度くらいの割合で、神戸に足を伸ばしていた。
 私は西蔵も教会には行っていないものだと思っていたが、彼は別の宗派の教団と関わっていたようだった。宣教団体のパンフレットのようなものを何回かもらったことがある。
 ある日西蔵は、私の髪を切りながら、牧師になるために、アメリカの聖書学校に行こうと思っていると話した。

 私は沈黙した。静かな、そして繊細なハサミの音だけが聞こえた。

 私は、西蔵の気持ちがよく分かった。そのころ私は、既に関西ペンテコステ福音教会を脱会してはいたが、教会に行っていないことに、何か後ろめたさを常に感じていたときだったからだ。
 一度イエスに、いや、教会の教えに呪縛されると、そこから解き放たれるのは容易なことではない。そのことは、私自身が一番よく知っていた。
 その後私は、西蔵の消息を知らない。どこかで人々を導いているのか、それともハサミを振るっているのか。変わった苗字なので、ネットで検索してみたこともあったが、それは徒労に終わった。

第5章 追放と黙殺( 1 / 4 )

「今は
この世がさばかれる時である。
今こそこの世の君は
追い出されるであろう」。
『ヨハネによる福音書』第一二章三一節


 それは何の前触れもなくやってきた。
 ある日突然、礼拝の後で、たった今説教をしたばかりの主任牧師・吉川清が、別の教会に移籍するというアナウンスがあった。
 余りにも意外で、一瞬頭の中が空白になった。
 吉川はにこりともせず、全くの無表情で、その、自分に関する知らせを、他人事のように聞いていた。
 吉川の転籍先とは、岐阜県にある別の教団の教会で、名前すらこれまでに聞いたことがないところだった。私は吉川が、関西ペンテコステ福音教会での役割を終え、新天地を求めたのかと思ったが、すぐに、開拓伝道ではなく、他教団への移籍であることに、何か裏があるのを感じ取ることは難しくなかった。
 これは単純な転籍などではない。しかし、だからと言って、吉川に疑いを持っていたという訳ではなかった。頭によぎったのは、弟子によるクーデターだが、それにあまり意味があるとも思えないし、よしかわをついほうするなら、それないの大義名分と、教団の承認が必要なはずだ。しかし、その時点では何も見えなかった。
 私は自ら追求しようとは思わなかった。追求してはいけないと思った。私はもたげてくる好奇心を、必死で拭おうとした。
 礼拝が終わった後、急いで楽器を片付けて、私は他の信者と同じように、吉川に別れの挨拶をしに行った。吉川は会堂の出口に立って、挨拶を受け流していた。ちょっと疲労の色が見えた。
 私の順番が着た。私の手を強く握ったその小柄な男は、予想に反して少しも微笑まなかった。
 「霊的にね」。一言だけ静かにそう言った。
 吉川先生はまだ、あの恋愛の一件で、私に釘をさしているというか、戒めているのだと感じた。私は、吉川にそんな心配をさせている自分が情けなかった。
 結局のところ私は教会を、そして吉川を信じきっていた。

 関西ペンテコステ福音教会に残った浮田、江戸川、小松、そして石上志麻子の四人の牧師たちは、吉川の「移籍」の理由については口をつぐんだままで、何も語ろうとしなかった。

 明らかにそれは、新たに教会に加えられたタブーのようだった。

 吉川の動静など、報告されてもよさそうだったのだが、次の週から、まるで吉川が最初からいなかったかのような扱いだった。それは、榎本や長崎のときと全く同じだった。
 何かを隠そうとしている。わたしがそれを感じ取ったのは、吉川が消えた直後の、地域集会でのことだった。
 地域集会では、信者が交代で趣向を凝らして、合唱や寸劇を披露することがあった。未信者が来ることを想定してのものだったが、実際には、仲間にウケることを、私は考えていた。
 その日私は、友人と相計って、吉川本人と、当時吉川がご執心だった韓国人牧師・朴東植のパペットを紙でつくり、人形劇で彼らの説教を再現した。
 朴はソウルにある、世界最大級のプロテスタント教会の牧師で、当時から、日本によくやって来ては、「癒し」の集会を行った。癒しとは神への祈りで悪霊を払 い、肉体的な病を治すというパフォーマンスであった。朴は元医学生で、「日帝」に恨みを持っていたらしいが、神のおかげで、その恨みを無くすことができたという話を、私は今も覚えている。
 キリスト教における癒しに対する信仰は、中心的なテーマでもある。話はそれるが、少し癒しの話をしよう。
 新約聖書には、イエス自身が、ハンセン氏病の患者(「マタイによる福音書」第八章二、三節など)、目の見えない人(「ヨハネによる福音書」第九章一~七節な ど)、婦人病の患者(「ルカによる福音書」第八章四〇~四八節など)など、様々な人の病を癒している。死人を蘇らせた記事さえある(「ヨハネによる福音書」第一一章」)。
 カトリック教会は公式に奇跡の癒しを認めている。
 有名な聖地、南フランスのルルドには、聖母マリアが出現して、聖ベルナデッタに教えた泉の水が病を癒すとして、病気を抱えた人が世界中から巡礼に赴く。難病が治ったという例も数多くあり、実際ルルドには、奇跡で治癒されたかどうかを審査し、記録するところまであるらしい。それで医学的にどうしても治癒の理由が分からないものについてだけ、カトリック教会が公式 に、「奇跡」として認定しているという。
 さて、朴の癒しの集会は、賛美歌と説教という、日曜礼拝と同じようなパターンで進行するが、最後に朴が、神に参加者の癒しを祈るところに特徴があった。
 朴が祈るとき、病を持つ者は、癒しを信じて念ずる。しばらくすると朴は、「今、胃の痛みを持つ人が癒されました」とか、「今、婦人病を持つ人が癒されました」と、病名や症状を挙げながら、「治癒宣言」をするのだ。
 癒されたと感じた人は、立ち上がってそれを報告し、参加者の拍手で祝福される。そういう流れだ。
 実は、イエスが生きた紀元一世紀前半、ローマ帝国には、そういった癒しのパフォーマンスをする人が結構いたらしい。しかし、彼らの名前は歴史の表舞台から 消えている。ひとりイエスだけが、「神の子」「救い主」として名を残しているのは、それなりに意味のあることだとは思う。
 吉川の教会でも、実際に難病が癒された人を私は知っている。それは何も不思議なことではない。人間には自然治癒力があり、治ると念ずることで、それを増幅させる。だから、どんな宗教でも身体の癒しはある。
 そして、エロ牧師がそれを利用して、女性信者を犯したり、セクハラをしたりする例が後を絶たない理由の一端も、そういうところにあるのだ。
 さて、その難病が癒された人とは、犬山真二という。彼は極度の難聴だった。
 ある日、教会で吉川に癒しの祈りを受け、国電の線路沿いにあった小さなアパートに帰った。いつものように眠ったが、午前5時過ぎ、一番電車が通過する轟音に飛び起きた。今までまったく気づかなかった大音響だった。
 自分は癒されたのだ。犬山はすぐに、手術費として貯めていた預金をすべて献金して、献身者になった。
 私は、特訓生時代の犬山を知っている。補聴器をつけてはいたが、聞くことにはほとんど不自由ないようだった。長年聞こえなかったせいで、滑舌が少し悪いとはいえ、会話は普通で、彼が本当に聞こえなかったとは信じられないくらいだった。いつもにこやかで、優しい人だった。
 犬山はその後牧師になり、聴覚障害者のための教会を作って、手話でも礼拝を行っている。そこには、犬山の人柄を慕ってか、いつか健常者も多く集うように なっていったと聞く。日曜日の礼拝に集えない、理髪師や美容師のために、月曜日にも礼拝の日を設けていた。彼の優しさの現れだと私は思う。
 このように吉川も時々、癒しのための祈りとやらを、パフォーマンス的にすることがあった。
 『ヤ コブの手紙』第五章十四節に、「あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈っても らうがよい」とある。あるとき、私の近所に住んでいたおばあさんの信者が、どういう経緯かは忘れたが、ひとりだけ、吉川に癒しの祈りをしてもらうということがあった。吉川が取り出したのは、「日本薬局方・オリーブ油」と印刷した紙が張ってある茶色い小瓶だった。
 聖書には「注いで」と書いてあるのに、吉川はそれを脱脂綿に少しだけ浸して、その老女の額に塗っただけだった。私はもちろん、その作法が正しいのかどうかなどわからなかったが、安っぽいなと感じたのは事実だった。
 彼女が癒されたかどうかは知らない。そして、この、オリーブ油のパフォーマンスは、あの大掛かりな聖餐式と同じで、一回限りだった。

 吉川は自分の思い付きを行動に移す人だったようだ。

 ところで、朴の集会では、私は癒しよりも、朴の聖書解釈に興味を持った。
 『ダニエル書』に、歴史の展開を象徴する巨大な像の話が出てくる。
 どのようなコンテクストかは、もう忘れたが、朴はそこにある巨像の足の指の数である一〇が、当時まだ数カ国だったECの最終加盟国数を指すと言った。それはローマ帝国の復活であり、それが成立した後、世の終わりが近づく云々。
 しかしこの「予言」も、吉川の再臨の予言同様、見事に外れてしまった。ご承知のとおり、ソ連が崩壊した後、二〇一一年九月現在、EUには二七カ国が加盟している。
 
 話がずいぶん脱線した。

 私が「吉川追放劇」の裏に潜む、秘密の臭いを感じ取るきっかけとなった、その人形劇に戻ろう。
 教会に来ていた美大の学生に書いてもらった吉川と朴の似顔絵もよくできていたし、英語で朴が話し、吉川が通訳するという、その直前に行われた癒しの集会をパロディーにした構成も大いに受けた。
 しかし、その日の終わりに私たちは、紅衛兵・横山から呼ばれて、大いに叱責を受けた。
 「吉川先生はもう他所の先生やねんから。吉川先生を登場させたらあかんでしょ」。
 私はこの頑固な女に逆らわなかったが、それに納得したわけではなかった。教会の創設者で、あれほどみんなが慕っている吉川を、転籍したからといって忘れろというのか。私は横山の私に対する叱責が、吉川と比べてカリスマ性の乏しい、浮田らに対する気遣いのように思えた。そして、なぜそうまでして、臭いものに蓋をするかのように、吉川を無視させようとするのか。
 実際教会は、横山に限らず、牧師、伝道師、献身者、古参信者たちは、吉川色を払拭しようとして必死になっていたようだった。
 もしかしたら、以前に書いた恋愛の解禁もそのひとつだったのかも知れない。ただ、相変わらず礼拝堂の席は男女別のままだったが。

第5章 追放と黙殺( 2 / 4 )

 しばらくして、真実を暴露せざるを得ない日がきた。信者の流失もさることながら、噂の広がりをとめることができなかったのだろう。 一度けじめをつけねばならなかった。
 そもそも、転籍ならば吉川を無視する必要はない。吉川を無視し続けるためには、その理由を明らかにせねばなるまい。

 その理由とは、吉川の不品行だった。

 吉川は複数の女性信者に手を出して、事実上追放されたということだった。その乱行はかなり以前からのもので、継続的に行われていたという。
 私はその話を、吉川の弟子たちが、渋々信者に公開する前に、同級生の端田から聞いたのだった。
 それは、日曜学校の「同窓会」の席でのことだった。
 私を教会に引きずり込んだ大野は、転居に伴い、中学進学時に隣町に転校して、別の小さな教会に通うようになっていた。彼は高校卒業後、夢が叶って国鉄マンになった。そして旅好きの大野は、旅行中に知り合った女性と遠距離恋愛を成就させ、二〇歳で結婚することになった。
 私たち日曜学校の幼馴染みは、その小さな教会での結婚式とレセプションに招かれ、その帰りに、ファミリーレストランで思い出話に花を咲かせたのだった。
 そしてそこで私たちは、吉川のご乱行の事実を聞いた。
 端田は、吉川の娘・マリアと仲がよかった。それでかなり前に、マリアから、事の真相を聞いていたというのだ。可哀想な娘は、牧師である父の破廉恥行為を知っていたという訳だ。
 私が恋愛問題を起こすはるか以前から、吉川は女性信者に手を出していた。吉川はその上で、臆面もなく、一緒に寝ていた辻本と一緒になって、私と北詰に、自己批判を強要していたのだ。
 全員が一瞬驚いた後、沈黙した。そして、その後で、口々に何か話し始めたが、丸畑だけは黙りこくっていた。
 私は怒りよりも脱力感に襲われた。端田は私に、「青木君とみっちゃんの時、私、このことをもう知ってたから、『あんたはどうなん』って、言ってやりたかったわ」と言った。
 端田によれば、いわゆる献身者の女性は、ほとんどが吉川のお手つきだったという。
 私の最初の先生だった若山もそうだった。そして哀れなことに、浮田の細君もそうだったと端田は私に言った。若山や辻本が消えたのも、吉川が手をつけたのが露見したことが原因だった。
 教会が恋愛を解禁にしたのは、やはり吉川追放に関係がありそうだ。牧師が女に手を出しているのに、信者に恋愛禁止とは言えまい。
 また、吉川には教会財産の私物化もあったらしい。教会が牧師一家の住居になっていたのも、牧師にはふさわしくないセリカのクーペに乗っていたのも、それとどうやら関係があったようだ。
 私はいささかショックを受けたが、それでも信仰そのものはゆるぎなかった。イエスは悪くない。ただ、この教会がちょっとおかしいんだ、という感覚は覚えるようになっていた。
 私は、スターリンや毛沢東や金日成は批判しても、マルクスやレーニンは正しかったと頑なに主張する、ガチガチの共産主義者か、その主張の焼き直しに過ぎない、「世界システム論」の信奉者のようだった。
 私は、教会を去るのではなく、内側から何とかせねばならないと考えるようになっていた。教会を離れることは全く考えなかった。

 洗脳とは、かくも恐ろしいものだ。
 
 誰にも言わなかったが、大学で中国語を専攻している私なのに、同級生が北京語言学院や台北大学へ短期留学に行くのを尻目に、アメリカへ旅に出ようと考えたのは、そういう意識があったからだ。アメリカへの憧れも確かにあったのだが、この旅は、教会改革のための、個人的な視察旅行だった。
 アメリカの教会を見てみたい。そして、それをこの歪んだ教会に持ち込みたい。それが、私の初めてのアメリカ旅行の真の目的だった。

第5章 追放と黙殺( 3 / 4 )

 大学三回生の夏のことだった。
 吉川の師であるブルームが住むテキサス州ヒューストンと、同じ教団グループの教会があるカリフォルニア州オークランドでの滞在を中心に、アメリカの教会を肌で感じようと私は思い立った。
 既に成田空港は開港していたが、一番安い航空券は、羽田発の中華航空便だった。羽田の方がはるかに便利ではないか。私は迷わず、行きはサンフランシスコへ入り、ロサンゼルスから帰るというオープン・ジョーのチケットを買い、それとは別に、コンチネンタル航空の「空遊券」を買って、自分が行きたいと思った都市 と、ホームステイをする予定だったヒューストンとシアトルを点と線で結んだ。
 ヒューストンでブルーム夫妻は、私を大歓迎してくれた。今までに、吉川の教会から、吉川以外の人間は来たことがなかったようだった。
 教会では信者から、「パスター・ヨシカワは元気か?」と、よく聞かれた。アメリカの信者は、吉川の追放劇を誰も知らなかったようだ。彼らは、かつて日本から 来た、あの小柄だがエネルギッシュな牧師が、まさか下半身のスキャンダルで教会を追われたとは夢にも思わなかっただろう。私はそう尋ねられるたびに困惑した。
 「いや、吉川はもういない。他の教会に行った」とだけ答えた。今よりももっと拙い私の英語で、その意味が通じたかどうかはわからないが、彼らはそれ以上何も聞こうとはしなかった。
 
 さすがにブルームは吉川が去ったことだけは知っていたようだった。
 
 デニーズへ食事に連れて行ってもらった時、吉川無き後の教会の様子を、心配そうに私に聞いたからだ。しかし、私には、教団がブルームに本当のことを言ったとは思えなかった。信者にさえ最初は本当のことを言わなかったぐらいなのだから、ましてや吉川の師匠であるブルームに、あの男の失態を包み隠さずに言ったとは思えなかった。私はブルームに、弟子の失態を知っているかを聞いてみようかとも思ったが、やめた。もしも知らなかったら、この善意の老人を苦しめることになると考えたからだ。もちろん、ブルームの方が、私が事実を知らないと思って、詳しい話をしなかっただけなのかもしれないが。
 私は当時英語がほとんどできなかったから、アメリカにいても特に何ができるというわけではなかった。ただ日曜日に礼拝に出て、信者と触れ合って、新しい何かを吸収して、関西ペンテコステ福音教会に移植しようと、漠然と思っていただけだった。
 折角の長期滞在。英語を勉強するチャンスだったのに、短期間でも語学学校に行けばよかったと、今から考えればそう思う。しかし、ぼけっと日をすごすことはまんざら悪い経験ではなかった。誰もいなくなったホストファミリーの家で、日本ではめったに聴けない、本場のキリスト教ミュージックをラジオで聞きな がら、一日中聖書を読んでいた日もあった。
 ホームステイをしない半分ほどの日程は、自分で旅をした。サンフランシスコ、ニューオーリン ズ、ニューヨーク、ワシントンDCなど。早とちりな日本人女子大生に、桑田佳祐に間違えられても、それをきっかけにガールハントをする勇気など毛頭なく、 『地球の歩き方』を妄信して、道に迷いながらひたすら街を歩き、バスを何度も逆方向に乗りながら引き返し、金を節約し、写真を撮り、安宿に泊まって、日曜日には教会に行った。

 その間、ヒューストンのバイブルカレッジに通う日本人学生を介して、メアリーという二つ年上の女性と知り合った。
 彼女は私の後半の旅程を聞き、「最期に予定しているシカゴを外して、私の実家に来ない」と誘ってくれた。
 彼女の実家はユタ州の田舎町だと言う。私は、ユタ州がどこにあるのかさえ知らなかった。周りにいた彼女の同級生たちは、「シカゴなんていつでも行ける。ユタなんて行く機会は絶対ないわよ」と、寄ってたかって私に勧めた。「(シカゴの)オヘア空港は大きすぎて迷子になるからやめなさい」と、変な理由で説得する娘もいた。
 私は意を決して、ブルームに頼んで、電話で飛行機の予約変更をしてもらい、旅程の最後にメアリーの実家を訪ねることにした。
 ワシントン州シアトルから、コロラド州デンバー経由で着いた、同州グランドジャンクションの小さな空港。私はロビーに着くまでいささか不安だった。本当にメアリーは来ているのか。
 しかしそれは杞憂だった。彼女は、一〇〇マイルもの道をひとりで運転して、隣の州から私を迎えに来てくれたのだった。
 メアリーの家は田舎というよりも、ほとんど岩山の中にあった。見渡す限りの土地は彼女の家族の持ち物だということだった。広さを聞いたが、それを換算すると、九二万坪になったということだけは覚えている。
 メ アリーの実家はトラクターなどの工機を販売する傍ら、農場を営んでいた。裕福なのだろうが、家は質素だった。近い将来、発破で穴を開けて、その岩の中に部屋を作って住むことを計画中だということだった。メアリーの父・ジェームスがその「工事現場」に案内し、自慢げに穴の中を見せてくれた。それはまだ、単なる洞窟に過ぎなかったが、完成後は、夏は涼しく冬は暖かい、理想的な住居になるのだという。岩の家にも驚いたが。衛星放送受信用の巨大なアンテナにはもっと驚いた。日本にはその当時、まだそのようなものはなかったし、チャンネルが数十もあるテレビなど、とても信じられなかった。
 偶々、私が着いた日は、 ジェームスの誕生日だった。私も一緒に、バーベキューで歓迎を受けた。たくさんの人が集まった。誰がメアリーとどんな関係なのかさっぱりわからない。見たこともないような大きさのハンバーガーをほお張りながら、言葉もマトモにわからない異邦人を快く受け入れてくれたメアリーとその家族に感謝し、シカゴではなく、ここに来てよかったと心から、思っていた。
 私はメアリーの兄の部屋に泊めてもらい、毎日西部劇のセットに紛れ込んだような経験を楽しんだ。岩山に描かれた古代インディアンの壁画を見たり、岩のアーチが連なるその名もアーチーズ国立公園へ訪問したりする経験も、確かに愉快だった。
 この街の東洋人は、支那人のひと家族だけだった。私はたぶん、この街を訪れた最初の日本人だったかも知れない。だから、「生きた教材」として、地元の教会が経営する小学校の授業に参加させられることになった。
 先生が言う。「この人は日本人です」。
 子供たちがちょっとざわめいて、私に注目する。「日本ってどこにあるのかな」先生は地球儀を回しながら尋ねる。いっせいに子供たちが手を挙げて、教室がにぎやかになった。私は折り紙を披露して、子供たちにプレゼントした。
 教会の牧師は、若い、髭もじゃの、腕に刺青をした大柄な白人男だった。やくざだった男性が、イエスに出会って改心したという『親分はイエス様』の話より何年も前だ。タトゥがファッションだと知らなかった私は、さすがはアメリカだと驚いた。
 ヒューストンでも教会が経営する小さな学校を見学したが、こういった経験を通じて私は、中国語の習得が思うようにいかなかったこともあり(それは多分に、教会活動に没頭し、予復習をほとんどしていなかった、私の努力不足によるのだが)、宣教師や牧師にではなく、教師になる決意をかためはじめていた。

 四四日間のアメリカ滞在はただただ楽しかった。後ろ髪を引かれる思いで、メアリー一家と別れ、もう一度アメリカに戻りたいという強い気持ちを抱いて、私はロサンゼルス発ホノルル経由羽田行の帰国便に乗り込んだ。
 関西ペンテコステ福音教会に何を伝えるかについては、結局漠然としたままだった。ただ、アメリカの教会を訪ねて、関西ペンテコステ福音教会はどこかが変だという印象をさらに強くして帰って来た。

 私は既に一〇年以上もの期間教会に通っていた。その私の居心地が悪いのに、どうして新しい信者が居心地よく感じられるだろうか。ところがアメリカの教会は、初めての、しかも異邦人の私にとっても居場所があり、私はすっとそこに入ることができたのだ。
 その後メアリーとは一度も会っていないが、今私は、高校生になる彼女の息子と、フェイスブックで時々やり取りをしている。
青木大蔵
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