信ずるものは、救われぬ

プロローグ( 1 / 1 )

 「耳のある者は聞くがよい」。
 『マタイによる福音書』第一三章九節。


 私は、その新聞記事を読みながら、かつて「牧師先生」と呼び、尊敬していた、吉川清という男の顔を思い出していた。
 吉川は、今はもう、七五歳を過ぎているはずだが、私の脳裏に浮かんだのは、汗かきで、小柄ではあったが、エネルギッシュで、大きな声で人に威圧感を与えた、四〇代の吉川だった。
 私に、教会という名の舞台で、後悔しか残らなかった苦い青春時代を演じさせ、それを演出したこの男を思い出させた記事は、次のようなものだった。

  「『教団施設でわいせつ』キリスト教団牧師を提訴 元信者の女性四人
 茨城県つくば市に本部を置くキリスト教系宗教法人の代表牧師(六一)に教団施設内などで、わいせつな行為を繰り返されたとして、二〇~三〇代の元信者の女 性四人が牧師と教団などを相手取り、計四六二〇万円の損害賠償を求める訴訟を東京地裁に起こしていたことが一七日、被害関係者への取材で分かった。元信者 側は一連の牧師の行為について茨城県警に相談し、刑事告訴も検討している。関係者によると、教団には約三〇〇人の信者が在籍していたが、わいせつ疑惑が表 面化した昨年以降、大半が脱会したという。
 訴状によると、四人は平成一二~一九年の間、つくば市や東京都新宿区の教団施設の牧師室や茨城県土浦市の牧師の自宅などで、牧師と二人きりになった際、胸や下半身を触られたり、キスや性行為などを強要されたとしている。
 教団は弟子養成の一環として、神学校を運営しており、信者の一部は神学生として牧師と共同生活をしていたという。
 元信者側は「(牧師は)指導者の霊的権威は絶対不可侵であるなどと欺瞞的説法を繰り返し、被害女性を抗拒不能にさせた」と主張。被害を受けたという女性は 「『君には癒やしが必要だ』といってセクハラをエスカレートさせた。衝撃的すぎて声も出なかった。嫌だと感じるのは自分の信仰が足りないせいだと思ってし まっていた」と話している。
 複数の関係者によると、牧師は韓国生まれ。昭和五六年に来日し、六二年にプロテスタント系の教団の前身組織を立ち上げた。牧師が導入した弟子養成のプログ ラムは高く評価され、国内の延べ二〇〇〇の教会が影響を受けたとされる。国内五、国外三カ所に教会を持つほか、出版や物販の関連会社があり、牧師やその親 族が役員を務めていた。
 牧師側は「一度たりとも性的関係を迫ったことはない。事実無根」とわいせつ疑惑を全面的に否定。今年二月の産経新聞の取材には「カイロプラクティックは互 いに練習や実習を行っている。医療としての線を越えていない」「インターナショナルな文化でのあいさつは日常的に行われる環境にあるが、慣れなくて避ける 人には無理に要求したことはない」などと回答していた」(二〇〇九年一〇月一八日付『産経新聞』より(漢数字は原文ではアラビア数字。以下同じ)。

 他の報道によれば、この教会の名は、国際福音キリスト教会。そして件の主任牧師の名は、卞在昌(ビュン・ジェチャン)という。ネットを調べればわかるが、卞はその筋では結構悪名の高かった人物らしい。後に、刑事訴訟では原告が敗訴したが、民事では未だに係争中だ。
 もしもこれが事実なのだとしたら、なぜこんな人間が牧師を名乗り、野放しにされていたのか、信者はどうしてもっと早く訴えなかったのか。その世界を知らない人にとっては、不思議に思われるかも知れない。

 「こんな牧師や教会は、きっと特異な存在に違いない」。

 そう思った人も多いかもしれない。
 しかし、私が通っていた「プロテスタント教会」でも、同じような事件があったのだ。そればかりか、複数の女性信者を陵辱したために、一旦は追放された牧師 が、何事もなかったかのように復帰して、年老いた今も、不名誉な過去は不問にされて、「名誉牧師」を名乗り、その教会にまだいる、と言えば、読者はどう思 うだろうか。
 ネットを検索してみると、卞以外にも、牧師と称する独裁者が、プロテスタント教会を称するカルトに君臨し、信者の金と体を貪っている例は、山のようにある。
 
 新聞に報じられているのは、実は氷山の一角なのだ。

 私はそのような教会のひとつに青春を捧げ、それを無駄にしてしまった。自分の青春をドブか掃き溜めに捨ててしまったようなものだった。いや、私だけではない。私とその教会に一緒に通っていた、多くの信者がそうだった。
 毒牙にかかった女性信者を無抵抗にした、牧師とその弟子たちが振りかざした神の権威とやらに、私は長らく、精神的に呪縛され続けた。
 牧師の知性のなさを心の中で馬鹿にしながらも、どうしても教会から離れられなかったのは、「教会から離れる者は、地獄に落ちる」という、実に単純な脅しの言葉だったのだ。

 笑い話ではない。

 子供のころから、永遠に続くという地獄の恐ろしさを刷り込まれてきた私は、三十近くになっても、地獄が怖かった。だから教会から脱会できずにいた。
 そして脱会してもしばらくの間は、地獄へ落ちるという不安を、ぬぐいきることはできずに、私はカトリック教会に通って、自分を安心させなければならなかったのだ。
 私はその後、今の妻と出会い、自分の人生を冷静に振り返る機会が与えられた。そのおかげで何とか、自力で脱洗脳することができた。
 私にはもはや教会は要らないが、冷静に教会、そして、クリスチャンという存在と対応できるようになった。
 しかし、今もなお、地獄を恐れんがために、教会と牧師の呪縛から解放されていない信者は多くいる。
 もちろん私は、私の個人的な経験と、この事件をはじめ、時折マスコミを賑わす、キリスト教を自称する、事実上のカルト、セクト集団と、そこに巣食う似非牧師の事件だけで、プロテスタント系のキリスト教会すべてを、淫宗邪教集団だと決め付ける気はない。
 
 ましてや宗教を否定するつもりなど毛頭ない。

 自衛官や教師が罪を犯した時に、ことさらに大きく報じられるが、そういった不良分子よりも、決して報じられることのない、職務に忠実で、善良で、国の為に、生徒のために自分を犠牲にしている自衛官や教師の方が遥かに多いことを、私は常識的に知っているからだ。
 牧師や僧侶といった聖職者だって、それと同じだ。純粋に人々の魂を救うために骨身を削って活動し、自らを鍛え、日々精進しながら、心から神仏に祈りを捧げて、修行をしている人の方が、不逞牧師や、生臭坊主よりもはるかに多いことだろう。
 しかし、少なくとも、この新聞記事と同じような「プロテスタント教会」が、他にもあるということを、私は多くの人に知ってもらいたい。私のような体験を、私は自分の子供や、他の誰にもしてほしくないのだ。
 本書は、元カルト信者の自分史であるとともに、今も牧師を名乗って活動する、吉川清という男と、その破戒僧が主宰したプロテスタント教会を名乗るカルト、そして、その男の手下となって、私の青春を奪うことに協力した浮田賢一はじめ、「クリスチャン」と称する偽善者にまつわる、 記録と物語である。
 私が本書の中で開陳したキリスト教の教義やその解釈などは、すべて私の個人的理解と見解であって、特定の宗派のそれではない。私は今、どの宗派にも属してはいない。
 聖書の引用はすべて、私が長年使い慣れた、日本聖書教会編『聖書』(口語訳)による。
 本当ならば、これは犯罪の記録でもあるので、全て実名で暴露したいところだが、他の被害者の人権に配慮して、人名、団体名などについては、引用した新聞の記事に登場した事件に関連するもの以外は、すべて仮称としている。
 地名や個人情報などについては、それらが特定できないように、一部事実とは異なる実在する名称や仮称を充てている。
 三〇年以上前の出来事も中にはあり、多少の記憶違いはあろうが、内容はすべて私、青木大蔵が経験した事実に基づいている。

第1章 教会と牧師( 1 / 7 )

 「しかし、あなたは目も心も、
 不正な利益のためにのみ用い、
 罪なき者の血を流そうとし、
 圧制と暴虐を行おうとする」。
 『エレミア書』第二二章一七節。


 オレンジ色の古ぼけた電車が水田地帯を走り抜ける、大阪府下のある町に、その教会はあった。

 昭和四〇年代、大阪はまだ雑然としていた。
 まだその前半には、たぶん偽者の傷痍軍人が、阪神梅田駅に近い薄暗い地下道で物を乞うていた。その横で、地下鉄の回数券をばら売りしているおばちゃんが、忙しそうに客を相手に小銭を稼いでいた。
 大阪大空襲で徹底的に破壊された大阪砲兵工廠の跡地は、その後、大阪ビジネスパークとして生まれ変わることなど考えることができない、雑草にまみれた広大な空き地だった。

 そんなころ、この小さな町は、田舎町と呼ぶのが打ってつけの場所だった。

 営業をしているかどうか分からないような旅館が駅前にあり、その向かいにあった日通の事務所には黄色のトラックがいつも止まっていた。駅前の商店街を二百メートルほど行くと、ボンネット型のバスがアイドリング音を響かせて、少ない客を待っていた。
 田んぼに囲まれた民家の壁に貼り付けられた、ホーローでできた大村昆や美空ひばりの看板の横に、ガリ版刷りで「ぜんそくにきくまじない」と、全部ひらがなのチラシが貼ってあった。
 たくさんあった空き地の砂山やコンクリートの土管で、子供たちは遊びまわった。小川は濁っていたが、まだ、メダカや、フナや、ドジョウや、ザリガニや、オタマジャクシやタニシをつかまえられた。
 駄菓子屋はいつも子供であふれていた。一日十円あればおやつが買えた。たこ焼き屋のオバちゃんは、夏にはわらび餅を売っていた。どちらも、薄い薄い木の板で作った船に入っていて、これもやっぱり、ひと船十円で買うことができた。
 レンガ造りのすすけた高い煙突が、子供心に恐ろしく見えた紡績工場。その終業のサイレンは、子供たちに帰宅を促す合図だった。

そんな昭和四十年代前半は、まだ終戦直後の残り香を少し感じさせる時代だった。

 そのころ、大阪の都心部から電車を乗り換えて、三〇分以上はかかるこの町は、まだ人口一〇万人たらずだった。そんなところに、大阪中から、二百人以上もの信者が通うプロテスタントの教会があったというのは、ある意味で驚きだ。
 進駐軍のカマボコ兵舎の払い下げを受けて、私が生まれた昭和三六年に設立されたという、泉南キリスト福音教会は、後に、山の裾野にある急傾斜の住宅地に大きな白い教会堂を建て、名前も関西ペンテコステ福音教会と改められた。現在はカタカナが並ぶ、別の名前になっている。
 大阪のプロテスタントの教会で「関西」という略称で呼ばれるのは、良い意味でも悪い意味でも、この教会を指すのは、今も昔も変わっていないようだ。しかしその当時は、モーターが唸り声を響かせて走る電車の窓から見える、関西ペンテコステ福音教会の白い建物と十字架は、熱心な信者だった若い私の心を高揚させ、 誇らしい気持ちにさせてくれたものだった。

第1章 教会と牧師( 2 / 7 )

 昭和四三年三月、私は小学校に入学する直前に、大阪市西区から、父の郷里であるこの町に引っ越してきた。
 地元の名士の孫で、同志社の短大を卒業した後、しばらくサラリーマンをしたが、若くして独立し、立売堀で零細企業を経営していた私の父・直之は、民社党の党員でもあった。小さな野心家であった父は、郷里で市会議員になることを夢見ていたらしい。

 しかし、故郷に戻ってきてわずか数ヶ月で、父は逝った。

 いわゆるポックリ病というやつだった。昭和九年生まれだった父は、まだ三四歳の誕生日を迎えていなかった。
 身長一七〇センチ、体重八〇キロと、その世代にしては大柄だった父は、高校時代にはラグビーで国体に出たらしい。仕事上のトラブルでヤクザに包丁で刺されても死ななかった。大阪の言葉で言えば、「ごっつい男」だった。
 その夜、父はいつものように床に入ったが、夜中に意識がない状態で荒い息を繰り返しはじめた。そしてそれは静かに途絶え、眠りから覚めることはなかった。

 私が小学校に入学して二ヶ月も経たない時のことだった。

 私 は夜中に母にたたき起こされて、何が何だかわからないまま、父の死という重い事実を突きつけられた。祖父が、母が、みんな涙にくれていたが、泣き虫だった 私は、なぜか、夢を見ているようで、涙も出なかったし、泣くこともなかった。火葬場で父の遺骨を見て、それが現実だとわかって、私は静かに涙が流れるのを 感じたのだった。
 生前の父は仕事に忙しく、日曜日は趣味のゴルフに興じていたので、もともと我が家は母子家庭のようなものだった。
 
 昭和四〇年代の父親とは、多かれ少なかれそういうものだった。

 だから正直なところ、父の死後も、父がいなくて寂しいという感覚を余り持ったことはなかった。
 それまでの父の記憶が余りにも希薄だったので、幸か不幸か、父がいる家庭というもののイメージが、私には完成されていなかったようだ。大人になってから は、父という大人の男の手本がなかったこと、父と一緒に酒を飲んだり喧嘩をしたりできないということを、心から残念に思ったが。
 私が父の ことで覚えているのは、トヨタのコロナに乗っていたこと、戌年生まれで犬が好きだったこと、タバコはショートホープ、酒はサントリーの角瓶だったことぐら いだ。だがなぜか、ミナミの行きつけのバー『渚』のことを鮮明に覚えている。一度母と一緒に行ったのだ。私はホステスに、酒を割るための濃いジュースを、 氷水で割ったものを飲ませてもらった。後年、母に聞いた話によると、父の女がそこにいたようだ。
 
 さて、父の故郷に都会からやってきた私は、よそ者だった。

 近所の子供たちやクラスメイトたちに、馴染んでいるようで馴染んでいなかった。父に似て肥満気味だったが、父に似ず運動神経が鈍かったこともあって、ちょっとしたことでよくからかわれていた。
 ただ、当時の友人たちの名誉のために言えば、それはいじめというほどの陰湿なものではなく、私は時々彼らと遊びはしていた。
 しかし、田んぼと蓮根畑しかなかったこの土地に拒絶反応を起こしていた、大都市の辺縁部に生まれ育った母の影響もあって、私は社交的にはなれず、ひとり家で遊ぶことが多い、大人しい少年になっていった。
 その町には、巨大な汚水溝とも言うべき汚い小さな川がふたつ流れていた。その合流地点の近くにあった、歴史の古い小学校に私は通っていた。
 先生が歩くとみしみし響き、大掃除の時には、みんなで床に油引きをした、戦前に建てられた木造校舎で、私は最初の二年間を学んだ。三年生の時には、生徒急増で乱暴に立てられたプレハブの小屋に押し込まれ、夏はサウナに入っているようで、いつも汗だくになっていた。

 昭和四六年三月、終業式。

 埃っぽい校庭に並んでいた私は、今まで一度も言葉を交わしたことのなかった、隣のクラスの少年に声をかけられた。
 以前から大野務という名前は、名札を見て知っていた。大野も私もクラスで一番背が高く、同じ位置に立っていたからだ。
 その日、大野は何を思ったのか、私に近づいてきてこう言った、

 「青木(最初から呼び捨てだった)、汽車の写真いらんか」。

 私はちょっと驚いた。どうして大野は、私が鉄道好きだということを知っていたのだろうかと。
というのも、私は一〇月一四日の鉄道記念日に生まれたということが因果だったのか、電車が大好きだったからだ。
 いつも家で、ひとりで、電車の絵を描いたり、誰かからもらったお古の時刻表を読んだりしていた。紙工作で車両を作り、自分だけの架空の鉄道会社を運営した。 祖父やいとこにねだって期限を切れた定期券や切符や携帯用の時刻表などをもらってコレクションし、誰に見せるわけでもなく、時々それを収めた箱を開いて は、ひとり悦にいっていた。
 父がいないことを慰めるためでもあったろう、母は少々無理をして、高価なカツミの鉄道模型も時々買ってくれた。私は今でいう「鉄っちゃん」というやつだったが、当時はただの変わった子供だった。
 他の友人は、どちらかと言えば、鉄道より自動車だった。一般的に言ってもそうだろう。
 私は、大野が同じ嗜好の持ち主だと知って、ふたつ返事で彼の家に遊びに行く約束をしたのだった。
 大野は、私と違って太ってはいなかったが、私と一緒で、運動神経が鈍く、運動会ではいつもビリだった。そういう点でも、私は彼といることでとても慰められた。
 数日後訪ねた彼の家は、ドアを開けると玄関だけがあり、すぐに階段で、二階部分だけが住居になっているという構造の文化住宅だった。
 母とふたり暮らしのその家には、私が大好きだったトミーのプラレールが山のようにあった。最初期のモーターの無いタイプのものもあり、私は心が躍った。
 肝心の写真のことは何も覚えていない。もらったかどうかも定かではない。ただその後、大野の影響で、従兄から譲ってもらったちゃちなカメラで、彼と一緒に、駅や踏切に行って、田舎電車や短い貨物列車を引っ張る蒸気機関車の写真を撮るようになった。
 そして、これもまたきっかけが何だったかは覚えていないのだが、まもなく彼とその母親が通うキリスト教会に行くことに、私は同意していたのだった。

 今となって思えば、大野が汽車の写真で釣って、私を教会に引っ張り込もうとしたのかもしれない。

 ただ、私にはその意識は全くなかったし、教会に縛られ、翻弄され、あってなきが如きだった青春時代を悔やむことはあっても、今日に至るまで、大野のことを悪く思ったことは一度もない。数年前 に亡くなったという、優しかった彼の母には、今も感謝の念でいっぱいだ。
 大野自身からは、数年前に一度、携帯電話からのテキストで近況(あまり愉快な内容ではなかった)を知らせてきたが、 その後音信が途絶えている。風の噂では、大阪を離れ、東北地方に住んでいるということだ。

第1章 教会と牧師( 3 / 7 )

 キリスト教はアーメンの神さんだ。

 イエス・キリストというエライ人がいて、十字架にかかって死んだ。クリスマスはその人の誕生日。キリス ト教会がお寺やお宮さんと違うことも知っていた。三歳年下の妹が、教会が経営する幼稚園に通っており、家で賛美歌を歌ったり、クリスマスの話をしたりして いたということで、その程度の知識はあった。しかし、「アーメン」の意味は知らなかった。
 「会費とかいるんやろ」。私は大野にそう聞いた。
 金がかかるなら、母には言いにくい。そう思った。
 しかし意外にも答えは、「タダやで」、だった。
 大野の母は、私が妹と朝早く大野家に来て、みんなで一緒に朝ごはんを食べてから教会に行けば良いと言ってくれた。
 私が母に、大野の母からのオファーを話すと、母は心ひそかに喜んだ。日曜日に私たちが教会に行けば、堂々と朝寝ができるからだ。
 母は、低血圧気味だったこともあって、朝起きるのが苦手だった。基本的には父の遺産で食べていたので、彼女は外で働いていないこともあった。それでも平日は、私と妹のために早起きせねばならない。だからそうする必要がない、日曜の朝寝は母の楽しみだった。
 私と妹は、よく先に起きてごそごそしていたが、小学二年生のある日、妹と一緒にインスタントラーメンを作った。これがうまくいった。私は調理に非常に興味が あって、以前から台所で母が作るのを何度も見て、作り方を覚えていたのだ。その後、日曜日の朝は、ラーメンを自分で作るということは私の楽しみになった。 母はそれを聞くと、逆に安心したようで、思い切り朝寝をするようになった。
 私も妹も、それが楽しみだったので何とも思っていなかったが、 親しい友人から「日曜日でも、朝ごはんくらい作ったりや」と注意されたことがあり、母には後ろめたい気持ちもあったようだ。教会に行くことで、大野さんが 朝食をご馳走してくれるというのなら、堂々と朝寝ができる。母はそう思った。
 母の名誉のために付け加えれば、母は時々、母親が忙しい大野を夕食に招いたり、家に遊びに来る私の友人たちのためにお菓子を買い置きしていてくれたりと、決して母親としての仕事をしていないわけではなかった。ただ、朝が苦手だったのだ。
 無神論者、というよりも、都合の良い時だけ神仏に祈る母は、父の死後、最初は命日ごとに毎月、近所にあった寺の、オールバックの生臭坊主にお経をあげても らっていたが、そのうちそれは祥月命日だけになり、やがて法事の時だけになった。だから、アーメンの教会に子供を行かせることに躊躇はなかった。そしてま た、この田舎町でハイカラなところを自慢したい彼女にとって、最初のうち、「うちの子供は教会行ってますねん」というのはちょっとした自慢でさえもあったのだ。

 私が、泉南キリスト福音教会に初めて行ったのは、昭和四六年三月の最後の日曜日だった。

 なぜそれをはっきり覚えているかというと、その日は、日曜学校の終業式で、表彰式があったからだ。
 朝早く、妹と一緒に、家から歩いて二〇分ほどかかる、その町に初めてできた大型スーパーの裏にあった大野の家を訪ねた。マルシン・ハンバーグと目玉焼きという、ついぞお目にかかったことのないデラックスな朝食をいただいた後、大野の母が運転するライトバンに乗って教会へ行った。
 当時まだこの町では、家庭の主婦で運転をする人は珍しかったが、彼女は仕事の関係で免許を持っていた。目鼻立ちのはっきりした、日焼けで肌の色が黒い、大柄な人だった。その日焼けは、一日中運転をして得意先を回っていたからだった。
 彼女はいつも、可愛いひとり息子の友人のことを「さん付け」で呼んでいた。私のことも「青木さん」と呼んだ。それが少し大人になったようで、背中がくすぐったかった。
 二〇分ほど田んぼに囲まれた道を走り抜けると、ごちゃごちゃした住宅街の中にある教会に私たちは着いた。
 想像と違って教会は、赤色のとんがり屋根ではなかった。スレート葺の安物の日本家屋だった。ベニヤ板で作った、ニスの色が鈍く光る玄関のドアと、ペンキがはげかけた白い十字架だけは、確かに、想像していた教会を思わせるものだったが、私はちょっとがっかりした。
青木大蔵
信ずるものは、救われぬ
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