信ずるものは、救われぬ

第2章 独裁と洗脳( 1 / 7 )

 「彼らは心をひとつにしている。
 そして、自分たちの力と権威とを
 獣に与える」。
 『ヨハネの黙示録』第一七章一三節。


 泉南キリスト福音教会、関西ペンテコステ福音教会の牧師・吉川清は、端的に言えば、恐怖で信者をコントロールする、たちの悪い小国の独裁者のような存在だった。
 ヨシフ・スターリンや毛沢東のような巨悪ではない。エンベル・ホッジャやポル・ポト、いや、それでもまだ大きいかも知れない。現に、吉川の名前は、逮捕され たり告発されたりした他の悪徳牧師、不良牧師ほどには知られてはいない。大阪のプロテスタントの世界だけで、その悪名が響き渡っているだけだ。
 吉川はナチスや北朝鮮の強制収容所長のような独裁者だ。本当は名もない彼らに権威などない。しかし、総統や偉大な将軍様の権威を盾に、全く無力な収容者を支配する。その類の最も醜悪な独裁者だ。
 すべての宗教は、ある種のマインド・コントロールを含むものだが、吉川のそれは、自分を神の代理人の地位に置き、逆らえば「地獄へ落ちる」という恐怖心を巧みに操るものだった。プロローグに紹介した、韓国から来た背徳牧師の「欺瞞的説法」もそれと同じだろう。

 実際、幼い私が最初に吉川から受けた印象は、「恐そうなおっちゃん」だった。

 ある日、日曜学校と礼拝の間にある例の集会の最中、どういう経緯かは覚えていないのだが、その時間帯にはあまり発言しない、というか、顔も出さなかった吉川が会堂内にいて、私たち子供もいる前でこう言った。

 「特訓生・伝道師は、私に絶対服従です。何を言っても私に従わなければなりません。例えばですね…。はいっ、特訓生、伝道師は全員『ひょっとこ』の顔をしなさい」

 当時牧師は吉川だけだった。伝道師とは、牧師に次ぐ専従の者で、時々説教もした。特訓生とは、吉川が名づけた制度で、牧師になるための訓練を受けている住み込みの信者のことだった。
 私は周囲を見渡した。私の先生である福井も、若山も、恥ずかしそうに口を尖らせている。大人も子供もみな、大声で笑った。

 そして吉川は満足げに、「こういうことです」と信者に向かって言った。

 たぶん、伝道師か特訓生の誰かが、吉川に口答えでもしたのだろう。それで、示しをつけるために、子供も含めた全信者の前でそんな馬鹿なことをさせたのだ。
 幼い私は、「牧師先生は一番偉いんや」と、素直にそう思っただけだったが、今から考えれば、そんなコケオドシは、本当は私たち子供にしか通じていなかったは ずだ。冷静な大人なら馬鹿にしたことだろう。そして、教育的観点から言えば、少なくとも生徒である子供の前で、日曜学校だとはいえ、先生の権威を貶めるよ うなことはしてはならないはずだ。

 にもかかわらず、信者は吉川を妄信していた。吉川の言うことはすべて正しかった。

第2章 独裁と洗脳( 2 / 7 )

 伝道師や特訓生など専従の職員(まとめて「献身者」と呼んだ)のみならず、信者は、尊敬を超えて、明らかに吉川を恐れていた。

 怯えていた、と言っても過言ではない。

 吉川は常々、「教会には民主主義はありません。神権主義なのです」と公言していた。

 「神権」とは、吉川によれば、神の権威のことであった。そして吉川はそれを、牧師である自分が独占しているということを暗示した。言い換えれば、神の代理人としての吉川が絶対者だということだった。

 結局それは、吉川自身が神だということに他ならなかった。

 そんな吉川は信者に、「従順であること」を強要した。それは神への従順ではなく、明らかに自分への従順だった。

 根拠は、『ピリピ人への手紙』第二章一二節。

 「わたしの愛する者たちよ。そういうわけだから、あなたがたがいつも従順であったように、わたしが一緒にいる時だけでなく、いない今は、いっそう従順でいて、恐れおののいて自分の救の達成に努めなさい」、という言葉だった。

 何があっても牧師とその背後にある神の権威に逆らってはならない。

 イエスの救いである「愛」そのものよりも、この従順というコンセプトが、教会を支配していた。

 吉川は、「牧師命令」という言葉が好きだった。

 関西ペンテコステ福音教会の会堂は、最初に書いたように急な坂にあった。ある日吉川は、「自転車に乗ったまま坂を下ってはいけません。これは『牧師命令』です」と宣言した。牧師の命令は神の命令と同じで、誰も抗うことを許さないという意味だった。もちろんその日から、みんな自転車を押して坂を下った。これは 安全のためには悪くない命令だったが、いずれにしても「牧師命令」には「問答無用」の効果があった。

 吉川の切り札は、「除名」をちらつかせることだった。

 吉川は、古代・中世のローマ・カトリック教会が異端者を破門したことに倣っていたのだろうか。しかし、かの時代には、ヨーロッパ世界にはカトリック以外に宗 教は存在しなかった。というよりも、してはいけなかった。そして、ローマ・カトリックは国際政治と渾然一体となっていた。だからこそ破門宣告には効果があ り、「カノッサの屈辱」のような出来事が起こった訳だ。

 しかし現代社会においては、仮に教会に破門されても、教団が除名しても、他の教団の教会に行けばよいだけだ。

 いや、そもそも「信ずる者は救われる」、ではないか。

 だから、今から考えれば、牧師の除名宣告など、何の効力もなかったのだ。神はそんなものを認めはしないだろう。なのに、吉川はそれが恰も、死刑宣告と同じであるかのような、荘厳な言葉に見せかけていた。

 吉川は名前こそ出さなかったが、「私は過去にひとりだけ除名にしたことがあります」と口にしていた。

 それが誰だったのか。なぜそうしなければならなかったのか。吉川がそれを明かすことはなかった。「何らかの理由で除名された人がいる」。それだけで十分、地獄を恐れる信者に対する脅しになった。

 いずれにしても、吉川の叱責は神の叱責だった。

 吉川の前では、特に古参の信者は緊張していた。年配の人ほどそうだった。そういった余りにも緊張した関係はまずいと思ったのか、吉川は、意識的に自分を親しみやすく見せようとすることもあった。怒っていないときは笑顔を絶やさず、信者にも気さくに話しかけてはいた。

 「私 は牧師ですが、私にもへりくだりが必要です。私がもしも、教会にやって来た人に、スリッパを並べて出してあげられないようなら、私はもう終わりです」と、 吉川は口にした。だが、少なくとも私は、一度でも彼が会堂の入り口で、スリッパを人に並べるところなど見たことはなかった。逆に、誰かが必ず、吉川にス リッパを揃えて出していた。吉川は黙って履いた。それを当然のように思っていた。

 もちろん、吉川に何か注意することなど、誰にもできなかった。吉川はすべて正しいのだから。

 吉川はひところ、口臭がひどかった。歯を磨いていなかったらしい。何の理由かは忘れたが、歯科医にでも言われたのだろう。ある日から歯を磨くことにしたようだった。礼拝の説教の中で吉川はおどけながらその話をして、「皆さん、『吉川先生は口が臭いと思っていたでしょう』」と言い、会衆の笑いを誘った。
 これなどその典型的な事例だ。吉川自身が認めるまで、吉川のネガティヴな面は、誰にも注意できないし、諌められない。独裁者が自分の奇妙な服装や、支配する国家のこっけいさ加減に気づかない構造と全く同じだ。

 裸の王様。その一言に尽きる。

第2章 独裁と洗脳( 3 / 7 )

 昭和四五年四月。

 四年生になった私は、新しいクラスで急速に親しくなった丸畑尚を教会に誘い、間もなく大野、丸畑、私の妹と四人で、大野の母の送迎ではなく、自分たちで電車に乗って、毎週日曜学校に通い始めた。
 買い物が好きだった母と、心斎橋のそごうや大丸へ行くためによく乗った大阪市内方面にではなく、府県境に向かって逆方向に電車に乗るということで、その二駅 の旅が子供にとってはちょっとした冒険だった。そして日曜学校の後で、当時まだ珍しかった、焼きたてのパンの店で、軽く塩味がついた、大きな丸いパンを 買って帰るのが、新たな楽しみのひとつとなった。母もそのパンが好きになり、私と妹は、いつも母のためにもうひとつパンを買って帰った。
 日曜学校で何を習ったかは、実はほとんど覚えていない。断片的な聖書の言葉は覚えているが、正直言って、子供のころは聖書そのものに、余り関心はなかった。
 しかし、成長してから読んだ、旧約聖書に書かれてあるオリエント史は、素直に面白かった。高校で世界史を学んだ時、聖書に書かれてあったことが事実として登場していることにひとり感動を覚えた。
 例えば、『エレミア書』に出てくるネブカデレザル王が、新バビロニアのネブカドネザル二世だと知ったとき、『エステル記』に登場するアハシュエロス王が、アケメネス朝ペルシャのクセルクセス大王だと知った時、或いは、ダビデ王、ソロモン王、そしてイエスの名前を教科書に見つけた時、私は、「ああ、私が信じて 読んでいる『聖書』は、真の神の書物だ」と、自分で再確認していたのだった。

 牧師や先生たちの説教の詳細は覚えていないが、繰り返し歌わされた讃美歌は、今でもいくつかはそらで歌える。
 信者でない人の間でも、有名な『星の界』のメロディーと同じであるこの歌。

 「いつくしみ深き、友なるイエスは
 罪、咎、憂いを、取り去り給う
 心の嘆きを、包まず述べて
 などかは降ろさぬ、負える重荷を」

 (賛美歌三一二番)

 そして、その歌の別ヴァージョン。
 「罪咎を担う友なるイエスに
 打ち明け得るとは、如何なる幸ぞ
 安きのなき者、悩み負う者
 ともなるイエスをば、訪れよかし」

 (聖歌六〇七番)

 キリスト教のキャッチコピーのようなフレーズを連呼するこの歌。
 「十字架にかかりたる、救い主を見よや
 こはなが犯したる、罪のため
 ただ信ぜよ、ただ信ぜよ
 信ずる者はたれも、皆救われん」

 (聖歌四二四番)

 聖霊を求めて祈る時よく歌ったこの歌は、私の一番のお気に入りだった。
 「いずこにある、島々にも
 いずこに住む、人々にも
 喜ばしく、のべつたえよ
 聖霊きたれり
 聖霊きたれり、聖霊きたれり
 あまくだりし、慰め主
 地の果てまでのべつたえよ
 聖霊来たれり」

 (聖歌五七六番)

 思い出せばきりがない。

 子供向けの歌もあったが、私は小さいころから何故か、文語調の古い賛美歌が好きだった。

 いや正直に言うと、今も好きだ。

 ク リスマスソングも頭に焼き付いている。『もろびとこぞりて』(賛美歌一一二番)や「グローリア・イン・エクセルシス・デオ」の件で有名な『荒野の果てに』 (賛美歌一〇六番)など、小学生のときから、言葉の意味も教えられないまま、何度も何度も歌わされたが、これらも大好きな賛美歌だ。
 新旧約聖書にある六六巻の名前を、『鉄道唱歌』のメロディーで覚えるという替え歌のお陰で、今でも私は、『創世記』から『ヨハネの黙示録』まで、それらの名前はすべて記憶している。

 旧約は、「創(創世記)、出(出エジプト記)、レビ(レビ記)、民(民数記)、申命記。
 ヨシュア(ヨシュア記)、士師(士師記)、ルツ(ルツ記)、サム(サムエル記上・下)、列王(列王記上・下)。
 歴代(歴代志上・下)、エズ(エズラ記)、ネヘ(ネヘミア記)、エステル記。
 ヨブ(ヨブ記)、詩(詩篇)、箴言、伝道(伝道の書)、雅歌。
 イザヤ(イザヤ書)、エレ(エレミア書)、哀(哀歌)、エゼ(エゼキエル書)、ダニル(ダニエル書)。
 ホセア(ホセア書)、ヨエ(ヨエル書)、アモ(アモス書)、オバ(オバテヤ書)、ヨナ(ヨナ書)、ミ(ミカ書)。
 ナホム(ナホム書)、ハバクク(ハバクク書)、ゼパ(ゼパニア書)、ハガイ(ハガイ書)。
 ゼカリア(ゼカリア書)、マラキ(マラキ書)、三九(さんじゅうく)」。

 新約は、「マタイ(マタイによる福音書)、マコ(マルコによる福音書)、ルカ(ルカによる福音書)、ヨハネ伝(ヨハネによる福音書)。
 使徒(使徒行伝)、ロマ(ローマ人への手紙)、コリント(コリント人への手紙第一・第二)、ガラテヤ書(ガラテヤ人への手紙)。
 エペソ(エペソ人への手紙)、ピリ(ピリピ人への手紙)、コロ(コロサイ人への手紙)’、テサロニケ(テサロニケ人への手紙第一・第二)。
 テモ(テモテへの手紙第一・第二)、テト(テトスへの手紙)、ピレモン(ピレモンへの手紙)、ヘブル書(ヘブル人への手紙)。
 ヤコブ(ヤコブの手紙)、ペテロ(ペテロの手紙第一・第二)、ヨハネ(ヨハネの手紙第一・第二)、ユダ(ユダの手紙)。
 ヨハネの黙示(ヨハネの黙示録)、二七(にじゅうしち)。
 旧新両約あわせれば、聖書の数は六六(ろくじゅうろく)」。

 この実用的な歌は、結構早い段階で覚えさせられた。そして、先生が聖書の箇所を言ったときに、この歌をすばやく頭の中で口ずさみ、聖書のページを繰った。そして誰が早くそのページにたどり着くか、私たちはお互いに競いあっていた。

この歌詞を書きながら、重度身体障害者の越智悟という信者のことを思い出した。

 彼は脳性麻痺で、歩くことも、話すことも困難なのだが、介護人の手を借りて、自分で何でもやろうとする、すばらしい人だった。なぜか今はつながらないが、ネットサーフィンをしていて、彼が作ったというウェブサイトをわたしは見つけたことがある。
 高校生のころ、どういう経緯だったか覚えていないのだが、ある集会で、私が彼の隣に座ることになった。牧師が聖書の箇所を言った時、私は先に彼の聖書を開こ うとした。頭の中でその『鉄道唱歌』の替え歌を口ずさんでページを繰っていると、突然彼が不自由な手を出して、私の手を止めた。えっと思って見てみると、 私はぼおっとしていて、開かねばいけない箇所をとっくに通り過ぎていたのだった。
 私の歌よりも、彼の記憶の方が正確だった。

第2章 独裁と洗脳( 4 / 7 )

 吉川の説教には、ジョークがよく登場し、説教中に爆笑が起こることもしばしばだった。他の牧師に比べると、元塾講師だけあって、中身はともかく、説教は上手かった。しかし、それと対照的に、日曜学校の先生の説教は、真面目くさっていて面白みがなかった。

 私たち子供が日曜学校で頭に叩き込まれたのは、「日曜学校の五原則」というものだった。

 それは、「祈る」、「聖書を読む」、「献金する」、「伝道する」、そして、「日曜日に教会に行く」ということだった。
 その根拠は、『出エジプト記』第二〇章八節にある、「モーセの十戒」の第四番目。「安息日を覚えて、これを聖とせよ」という言葉だった。
 この安息日とはもともと、神が天地創造の事業を休んだ第七日目、即ち土曜日のことだった。だからユダヤ教では土曜日を休む。しかし、イエスが復活した日、イースターが週の初めの日、即ち日曜日だったので、キリスト教ではそれを新しい安息日とするようになったという。

 安息日と言えば、吉川は説教中に、こんなことを言ったことがある。

 「イエス様が復活されたのは、週の初めの日、即ち日曜日です。その前の三日三晩、イエス様は葬られていました。だから、イエス様が十字架にかかったのは、金曜 日ではなく、木曜日なのです。世間では『一三日の金曜日』だと言っていますが、私たちは、イエス様の受難は木曜日だと、みんなに教えてあげなければなりません」。

 大胆な意見だ。

 しかし、吉川自身がその後、「イエス磔刑木曜日説」を広げようとした形跡はない。今もそう思っているのか聞いてみたいところだ。

 古代ユダヤでは、日没から日没までを一日として数えたらしい。

 だから日曜日とは、土曜日の日没から日曜日の日没までを指すことになる。そうだとすれば、金曜日に十字架にかかったイエスが、その日没までに葬られていれば、日曜日に復活にしていても、金曜日から三晩という数え方と矛盾しない。

 しかし実際には、そんなことはどうでもよいハズだ。

 イエスの誕生日とされるクリスマスが、本当はイエスの誕生日ではないというのは定説である。一二月二五日は、ミトラ教の冬至の祭に由来する日だという。

 聖書を見ても、実際のイエスの生誕日は、少なくとも真冬ではないということは明らかなのだそうだ。なぜなら『ルカによる福音書』第二章八節に、羊飼いたち が、夜に戸外で家畜の群れの番をしていたとあるからだ。一二月はパレスティナも冬は寒く、夜外で羊の番をする季節ではない。

 いずれにしても聖書だけでは、イエスの誕生日を特定することはできない。しかし、だからと言って、「イエスの誕生日」ではなく、「イエスの誕生を祝う日」として定着し ている一二月二五日を、これは異教の祭の日だから別の日にしようと言っても、世界中から冷笑されるだけだろう。

 吉川が金曜日ではなく、木曜日を受難日だと主張したのも同じことだ。仮に学術的にそうだったとしても、意味はない。

 イエスの誕生は学術的には、紀元前六年~四年だ。しかし、キリスト教を国教とする国でも、Anno Domini(我らの主の年)として数えられている今の西暦を、変えようとは決して主張しないだろう。

 しかも吉川の主張は、思いつきの言いっぱなしだ。察するところ、勢いで口を滑らせたのだ。

 話を五原則に戻そう。結局のところ、その中で、「日曜日は教会を休んではいけない」ということが最も重要だと、先生は私たち子供に叩き込んだ。

 ある日、日曜学校の授業中に、若山が私たちにこう尋ねた。

 「とても仲のよいお友達が病気で入院しました。他のお友達はみんな一緒に、日曜日の朝にお見舞いに行くことにしました。その中のひとりが皆さんにこう言いました。『あなた、教会に行ってるんでしょう、病院でお祈りしてあげてよ』。さぁ、みなさんはどうしますか」。

 誰も手を挙げなかった。

 そこで彼女は、吉川の娘・マリアをあてた。彼女は私よりひとつ年上だった。

 「お見舞いには行かないで、教会に行って、そのお友達のためにお祈りします」。

 私は実は、マリアのことがちょっと好きだった。高校時代、付き合っていたわけではないのだが、同じ沿線の女子高に通っていた彼女と、私が乗る駅で待ち合わせをして、同じ電車で、しばらくの間途中まで一緒に通っていたことがある。

 このとき私は、彼女の答えを聞いて、ちょっと驚いた。「マリアちゃんって、冷たいんや」と一瞬思った。

 しかし、若山の反応は違っていた。満面に笑みをたたえてこう言った。

 「そうですね。教会を休まないことが、どんなことよりも一番大事です」。

 私は、マリアの答えもそうだが、先生の言葉に大きなショックを受けた。友情よりも、義理人情よりも、教会に行くことは絶対的な重要事だったのだ。
 眼から鱗が落ちたとは、まさにこのことだった。私はそれを、額面どおりに受け入れた。

 「アーメン」(しかり)、と。
青木大蔵
信ずるものは、救われぬ
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