信ずるものは、救われぬ

第4章 教義と解釈( 5 / 7 )

 浮田の出鱈目さは、聖書解釈だけではなかった。

 私は大学で語学専攻だったので、四年間、専攻語学の中国語の授業は、同じクラスの仲間と過ごした。残念なことにその間、私のクラスから二人の自殺者が出た。
 この話をした時浮田は、「あなたのクラスは呪われているから、皆を連れて来なさい」と真顔で言った。
 しかし、もしも本当にそう思っているのなら、自分からキャンパスに赴けば良い。そんな気など毛頭ない、つまり、真剣に心配などしていないのに、言うことだけは一人前だった。もちろん私は、そんな無責任な言動に付き合う気はさらさらなかった。

 私は高校時代の失敗に懲りていた。

 飲酒のタブーも、やはり吉川たちの勝手な解釈だった。
 牧師たちは、『エペソ人への手紙』第五章一八節に、「酒に酔ってはいけない。それは乱行のもとである」とあるのを、今度は字面どおりにそれを読むことを拒否して、「酒を飲むな」と勝手に解釈し、信者に飲酒を禁じていた。
 しかし、聖書によれば、イエスが最初に行った奇跡は、ガリラヤのカナで、水をワインに変えたことではなかったのか(『ヨハネによる福音書』第二章)。ワインは婚礼に必要不可欠だったから、イエスは水をワインに変えて、婚礼の場で、知人の面目を保ったのだ。

 イエスもワインを飲んだことを、みんな忘れているのか。

 いわゆる最後の晩餐の席で、イエスはパンとワインの杯を弟子たちと共にした(『ルカによる福音書』第一二章一七~二〇節他)。それに従って、カトリックではミサ中の聖体拝領(イエスの血と肉を象徴するワインとイースト発酵させないパンである聖餅を神父から受け取る)の際に、実際にワインを使っている。
 しかし、関西ペンテコステ教会では、聖体拝領を模した「聖餐式」に「グレープジュース」を使っていた。しかも百パーセント果汁でないものを。英語では、百パーセントではないものを、ジュースと呼ばないことくらい、英語に堪能な吉川は知らなかったのだろうか。
 ワインは百パーセント、ブドウから作られる。イエスの血を象徴するのだから、水を混ぜて薄めたものでよいはずがない。ワインを使わないのなら、せめてそれくらいはこだわればよいものを、アルコールを抜けばそれでよいと乱暴に、浅墓に考えていたのだろう。
 もしも、ミサと同じように、イエスの最後の晩餐を、聖餐式で再現するのなら、ワインと同様、そこで供されるパンは、無発酵のパンでなければならない。なぜならそれは、『出エジプト記』第十二章に登場する、「過ぎ越しの祭」の伝統を踏襲しているからだ。
 神の導きによって、奴隷となっていたエジプトからユダヤ人が脱出する直前、頑ななファラオを懲らしめるために、神がモーセを通じて、様々な災厄をエジプトに齎した。これを「十戒」に倣って、「十災」と呼ぶ。映画『十戒』でも、ナイル川の血が水に変わったり、ファラオの子が死んだりしたシーンで表現されていることで、読者もご存知だろう。
 この、ファラオの子が死んだ時、ユダヤ人の家では、羊を屠り、その血を家の入口に塗ってしるしとしたた め、死の使いがその家を過ぎ越し、彼らは守られた。その際、家の中では、羊の肉と種入れぬパン、即ち無発酵のパンが供された。過ぎ越しの祭とは、それを記念するもので、「除酵祭」とも呼ばれる所以だ。

 しかし吉川は、そんなことはお構いなしだった。

 いんちきなジュースもそうだが、パンはただの食パンをサイコロ状に切ったものだった。
 関西ペンテコステ福音教会ができた直後の聖餐式で、吉川は今までとは違ったパフォーマンスを見せた。
 それまで、聖餐式のパンは、礼拝の前に、切りわけてステンレスのトレーに盛り付けられていたのだが、その日吉川は、聖餐式に必ず歌われる、聖歌五五〇番を信者が歌う中、白い手袋をして、大きな食パンをその場で切り分け始めた。

 「その血もてわが身を
あがないしイエスきみ
いかにしてわれ
御旨をなす民となりうるか
みもたまもわが主よ
とりたまえいまより
喜びの日も
憂いの夜も
わが主にしたがわん」

 パンは信者の一体を表すので、大きなパンでなければならない。小さなナイフで吉川がそれを切り、他の牧師や伝道師たちがそれを信者に配ったのだが、三百人の信者がいるのだ。切り分けるのに小一時間かかってしまった。私たちは何回同じところを歌ったかわからない。全員がパンと杯を受け取ったときには、吉川も信者も疲れ果てていた。
 このパフォーマンスは一回限りとなり、次の聖餐式は、元の形式に戻された。もちろん、誰もそれについてとやかく言うものはなかった。

 飲酒の話に戻ろう。
 パウロも、弟子のテモテに「水ばかりを飲まないで、胃のため、また、たびたびのいたみを和らげるために、少量のぶどう酒を用いなさい」(『テモテへの第一の 手紙』第五章二三節)と忠告している。それなのにどうしてプロテスタント教会では、飲酒する人間を罪人扱いにするのだろうか。
 一般的にカ ルトと認識されている、あのエホバの証人が、『レビ記』一七章一〇節にある戒律の中の「イスラエルの家の者、またはあなたがたのうちに宿る寄留者のだれで も、血を食べるならば、わたしはその血を食べる人に敵して、わたしの顔を向け、これをその民のうちから断つであろう」という言葉を、「輸血をしてはいけな い」と拡大解釈しているのは有名な話だ。輸血拒否で死人さえ出ている。
 この「血を食うな」というユダヤの戒律は、寄生虫病を防ぐために豚肉を食うことを禁じた戒律と同じく、たぶん消化不良を防ぐための生活の知恵であり、また邪教の儀式を禁じるためのものだった。聖書のどこにも輸血という言葉は出てこない。輸血という概念がなかったのだから、神が輸血を禁じる訳がないのだ。
 マスコミを時折にぎわす、これもまたカルトとして有名な統一協会。その教祖である韓国人・文鮮明は、聖書にあるアジアという記述を、何の根拠もなく朝鮮半島だと解釈している。しかし聖書時代のアジアがトルコ以東、ましてや極東を指すことはあり得ない。
 ところが正統を以って自認しているプロテスタント諸派も、飲酒という点では、五十歩百歩だ。

 誰がエホバの証人や文鮮明を嗤えると言うのだ。

 それがプロテスタ ント流の解釈だからだと言えばそれまでだが、そんな矛盾のある解釈では、やはり知性のある人や、聖書学やオリエントの歴史を少しでも勉強した人を納得させることはできまい。

第4章 教義と解釈( 6 / 7 )

 聖書の教えとして、信者を精神的に縛る大きな要素となっていたのは、吉川のキリスト再臨論、つまり終末論だった。
 イエスの再臨について吉川はこう言って憚らなかった。
 「イエス様がお生まれになったのは、実際には紀元元年ではなく、その数年前だということがわかっています。ですから、紀元二〇〇〇年の数年前には、イエス様は来られます」。
 そうなのだ、驚くべきことに吉川は、イエスの生誕二〇〇〇年にあたる一九九〇年代の終わりに、イエスが再臨すると「予言」していた。私ははっきり覚えている。だからこそ私は、バスに乗り遅れないように、毎週教会に通っていたのだから。
 『マタイによる福音書』第二四章三六節には、「その日、その時は、だれも知らない。天の御使たちも、また子も知らない、ただ父だけが知っておられる」とイエスが弟子たちに述べたことを、吉川はどうして無視したのだろうか。
 
 昭和四〇年代後半に、『ノストラダムスの大予言』という本がベストセラーとなったのは、ご承知の通りだ。
 中学生だった私もこれを読んだが、「一九九九年七の月」に恐怖の大王が降りて来るというセンセーショナルな予言解釈は、地球が滅ぼされるというイメージ、そして吉川の言うイエス再臨の年の予言と微妙に重なり、私を不安に陥れた。
 二一世紀は来ないかも知れない。私は本当にそう思っていた。
 キリストは世の終わりに再臨する。その時信者は、天国に迎えられる。これはキリスト教信仰の中心的なテーマであるが、前述のゴンザレス神父は一九九〇年代末、いわゆる世紀末のころ、私に笑いながらこう言った。
 「私たちが生きている間には、イエス様の再臨はありませんよ」、「(神父である)私も直接天国には行けませんよ。みんな煉獄ですよ」と。
 聖職者であっても、信者であっても、それが「再臨」に対する常識的な反応だろう。その日にイエスが再臨するかどうかは別にして、地球が終わる日を、誰かが知っているはずなどない。
 エホバの証人は、一九七五年のハルマゲドンを予言し、それが外れたためにアメリカで信者が激減して、日本や台湾など、アジアでの布教に力を入れ始めたとい う。結局吉川は、統一協会、モルモン教と並んで、「三大異端」として嫌っていたエホバの証人と同じように、当てずっぽうに予言をしてそれをはずし、責任を取らなかったということだ。
 このイエス生誕後二千年目の再臨という根拠はこうである。
 『ペテロの第二の手紙』三章八節に ある「愛する者たちよ。この一事を忘れてはならない。主にあっては、一日は千年のようであり、千年は一日のようである」という言葉を、一日=千年と短絡し。そして、神が七日で万物を創造し終わったので(『創世記』第二章二節)、天地創造から六日間=六千年でイエスが再臨し、信者を天に引き上げる。そして 最後の千年、神は働かない。七日目は安息日だからだ。その間、大患難の時代がやってくる。ハルマゲドンがあり、最終的にイエスは再び地上にやってきて、悪魔を滅ぼす。
 天地創造から千年毎には節目の出来事があり、天地創造から四千年目がイエスの生誕、それが真の紀元元年。そしてその二千年後がイエスの再臨。
 二一世紀になった今、吉川がどんな言い訳をしているかは興味深いところだが、この単純な聖書の物語の継ぎはぎは、吉川一派のみならず、多くのプロテスタント教会が採用していた。
 しかし、その根拠は薄弱だ。
 聖書をそのまま信じるのならば、「一日は千年のようだ」とは書いてあっても、一日は千年だとは書いていないわけだし、人類の創造が、紀元前四千年だというの も、荒唐無稽な話だ。そのころエジプトには既にピラミッドがあった。恐竜の時代はどこへ行ったのだ。ナンセンスもいいところだ。

 この吉川の再臨論を信じて、マイホーム購入を断念した信者さえいた。
 バブル前の一九八〇年代の半ばごろの話だ。二〇〇〇年までにキリストの再臨があるのなら、家なんか買うのは無駄だということだった。今彼らがどんな思いでいるのか、考えただけでも気の毒である。

第4章 教義と解釈( 7 / 7 )

 聖書の言葉や、自分たちのつたない説教の矛盾を指摘されて、言葉に詰まる前に、吉川とその弟子たちは、「神にはなんでもできる」(『マルコによる福音書』第一〇章二七節)という決まり文句でいつも予防線を張った。
 進化論も終末論も、結局のところこの言葉に集約してしまい、仮に議論になっても、それを一方的に打ち切れるようにしておくのが、この教会の指導者の戦術だった。実際、信者にも、未信者と議論になったら、この言葉を思い出せと言って教えた。
 私は、高校で教えていた頃、学生に見よう見真似で、ゲーム・ディベートを教えていたが、もしも吉川やその手下がディベートをしたら、全戦全敗だろう。根拠のない主張にポイントはやれない。
 それで科学を否定できると考えているのだから、この連中は始末に悪い。
 ところが「神にはなんでもできる」はずなのに、吉川は、それを信じて育てていた、若い信者の芽を乱暴に摘みとったことがあるのだ。
 私の一学年下に、西蔵譲二という男がいた。家族揃ってクリスチャンの、言わば理想的な家庭だった。
 彼は高校二年生になって突然、趣味のクラリネットで音楽大学へ進学したいと思い立った。
 音大の受験には、専門楽器以外に、ピアノは不可欠だった。それで西蔵は辻本の弟から、課題曲だけをピアノで弾けるようになるために、特訓を受けていた。
 なぜ吉川がそれを気に入らなかったのか分からない。
 信仰があれば何でもできると、吉川から聞いたイエスの教えを、西蔵は信じてチャレンジしていたのだが、吉川は「できるわけがない、目を覚ませ」と否定的な言葉を連ねて説得にかかった。

 矛盾もいいところだ。

 西蔵は吉川に反発して口論となった。結局その夢を断念した西蔵が、教会に来なくなったのは、言うまでもない。
 西蔵は大学に進学せず、美容師になった。全国的に名前が知られている一流店で腕を磨き、私が教師になった頃、神戸の繁華街に自分の店を持った。甘いマスクに長身。西蔵は結婚していたが、客は彼についてきた。
 西蔵の店に、私はよく髪を切りに行った。高級店で刈るような上等な頭でも、お洒落なヘアスタイルでもなかったし、そんな頭にはちょっと高いと思いながらも、彼に会うために、2ヶ月に1度くらいの割合で、神戸に足を伸ばしていた。
 私は西蔵も教会には行っていないものだと思っていたが、彼は別の宗派の教団と関わっていたようだった。宣教団体のパンフレットのようなものを何回かもらったことがある。
 ある日西蔵は、私の髪を切りながら、牧師になるために、アメリカの聖書学校に行こうと思っていると話した。

 私は沈黙した。静かな、そして繊細なハサミの音だけが聞こえた。

 私は、西蔵の気持ちがよく分かった。そのころ私は、既に関西ペンテコステ福音教会を脱会してはいたが、教会に行っていないことに、何か後ろめたさを常に感じていたときだったからだ。
 一度イエスに、いや、教会の教えに呪縛されると、そこから解き放たれるのは容易なことではない。そのことは、私自身が一番よく知っていた。
 その後私は、西蔵の消息を知らない。どこかで人々を導いているのか、それともハサミを振るっているのか。変わった苗字なので、ネットで検索してみたこともあったが、それは徒労に終わった。

第5章 追放と黙殺( 1 / 4 )

「今は
この世がさばかれる時である。
今こそこの世の君は
追い出されるであろう」。
『ヨハネによる福音書』第一二章三一節


 それは何の前触れもなくやってきた。
 ある日突然、礼拝の後で、たった今説教をしたばかりの主任牧師・吉川清が、別の教会に移籍するというアナウンスがあった。
 余りにも意外で、一瞬頭の中が空白になった。
 吉川はにこりともせず、全くの無表情で、その、自分に関する知らせを、他人事のように聞いていた。
 吉川の転籍先とは、岐阜県にある別の教団の教会で、名前すらこれまでに聞いたことがないところだった。私は吉川が、関西ペンテコステ福音教会での役割を終え、新天地を求めたのかと思ったが、すぐに、開拓伝道ではなく、他教団への移籍であることに、何か裏があるのを感じ取ることは難しくなかった。
 これは単純な転籍などではない。しかし、だからと言って、吉川に疑いを持っていたという訳ではなかった。頭によぎったのは、弟子によるクーデターだが、それにあまり意味があるとも思えないし、よしかわをついほうするなら、それないの大義名分と、教団の承認が必要なはずだ。しかし、その時点では何も見えなかった。
 私は自ら追求しようとは思わなかった。追求してはいけないと思った。私はもたげてくる好奇心を、必死で拭おうとした。
 礼拝が終わった後、急いで楽器を片付けて、私は他の信者と同じように、吉川に別れの挨拶をしに行った。吉川は会堂の出口に立って、挨拶を受け流していた。ちょっと疲労の色が見えた。
 私の順番が着た。私の手を強く握ったその小柄な男は、予想に反して少しも微笑まなかった。
 「霊的にね」。一言だけ静かにそう言った。
 吉川先生はまだ、あの恋愛の一件で、私に釘をさしているというか、戒めているのだと感じた。私は、吉川にそんな心配をさせている自分が情けなかった。
 結局のところ私は教会を、そして吉川を信じきっていた。

 関西ペンテコステ福音教会に残った浮田、江戸川、小松、そして石上志麻子の四人の牧師たちは、吉川の「移籍」の理由については口をつぐんだままで、何も語ろうとしなかった。

 明らかにそれは、新たに教会に加えられたタブーのようだった。

 吉川の動静など、報告されてもよさそうだったのだが、次の週から、まるで吉川が最初からいなかったかのような扱いだった。それは、榎本や長崎のときと全く同じだった。
 何かを隠そうとしている。わたしがそれを感じ取ったのは、吉川が消えた直後の、地域集会でのことだった。
 地域集会では、信者が交代で趣向を凝らして、合唱や寸劇を披露することがあった。未信者が来ることを想定してのものだったが、実際には、仲間にウケることを、私は考えていた。
 その日私は、友人と相計って、吉川本人と、当時吉川がご執心だった韓国人牧師・朴東植のパペットを紙でつくり、人形劇で彼らの説教を再現した。
 朴はソウルにある、世界最大級のプロテスタント教会の牧師で、当時から、日本によくやって来ては、「癒し」の集会を行った。癒しとは神への祈りで悪霊を払 い、肉体的な病を治すというパフォーマンスであった。朴は元医学生で、「日帝」に恨みを持っていたらしいが、神のおかげで、その恨みを無くすことができたという話を、私は今も覚えている。
 キリスト教における癒しに対する信仰は、中心的なテーマでもある。話はそれるが、少し癒しの話をしよう。
 新約聖書には、イエス自身が、ハンセン氏病の患者(「マタイによる福音書」第八章二、三節など)、目の見えない人(「ヨハネによる福音書」第九章一~七節な ど)、婦人病の患者(「ルカによる福音書」第八章四〇~四八節など)など、様々な人の病を癒している。死人を蘇らせた記事さえある(「ヨハネによる福音書」第一一章」)。
 カトリック教会は公式に奇跡の癒しを認めている。
 有名な聖地、南フランスのルルドには、聖母マリアが出現して、聖ベルナデッタに教えた泉の水が病を癒すとして、病気を抱えた人が世界中から巡礼に赴く。難病が治ったという例も数多くあり、実際ルルドには、奇跡で治癒されたかどうかを審査し、記録するところまであるらしい。それで医学的にどうしても治癒の理由が分からないものについてだけ、カトリック教会が公式 に、「奇跡」として認定しているという。
 さて、朴の癒しの集会は、賛美歌と説教という、日曜礼拝と同じようなパターンで進行するが、最後に朴が、神に参加者の癒しを祈るところに特徴があった。
 朴が祈るとき、病を持つ者は、癒しを信じて念ずる。しばらくすると朴は、「今、胃の痛みを持つ人が癒されました」とか、「今、婦人病を持つ人が癒されました」と、病名や症状を挙げながら、「治癒宣言」をするのだ。
 癒されたと感じた人は、立ち上がってそれを報告し、参加者の拍手で祝福される。そういう流れだ。
 実は、イエスが生きた紀元一世紀前半、ローマ帝国には、そういった癒しのパフォーマンスをする人が結構いたらしい。しかし、彼らの名前は歴史の表舞台から 消えている。ひとりイエスだけが、「神の子」「救い主」として名を残しているのは、それなりに意味のあることだとは思う。
 吉川の教会でも、実際に難病が癒された人を私は知っている。それは何も不思議なことではない。人間には自然治癒力があり、治ると念ずることで、それを増幅させる。だから、どんな宗教でも身体の癒しはある。
 そして、エロ牧師がそれを利用して、女性信者を犯したり、セクハラをしたりする例が後を絶たない理由の一端も、そういうところにあるのだ。
 さて、その難病が癒された人とは、犬山真二という。彼は極度の難聴だった。
 ある日、教会で吉川に癒しの祈りを受け、国電の線路沿いにあった小さなアパートに帰った。いつものように眠ったが、午前5時過ぎ、一番電車が通過する轟音に飛び起きた。今までまったく気づかなかった大音響だった。
 自分は癒されたのだ。犬山はすぐに、手術費として貯めていた預金をすべて献金して、献身者になった。
 私は、特訓生時代の犬山を知っている。補聴器をつけてはいたが、聞くことにはほとんど不自由ないようだった。長年聞こえなかったせいで、滑舌が少し悪いとはいえ、会話は普通で、彼が本当に聞こえなかったとは信じられないくらいだった。いつもにこやかで、優しい人だった。
 犬山はその後牧師になり、聴覚障害者のための教会を作って、手話でも礼拝を行っている。そこには、犬山の人柄を慕ってか、いつか健常者も多く集うように なっていったと聞く。日曜日の礼拝に集えない、理髪師や美容師のために、月曜日にも礼拝の日を設けていた。彼の優しさの現れだと私は思う。
 このように吉川も時々、癒しのための祈りとやらを、パフォーマンス的にすることがあった。
 『ヤ コブの手紙』第五章十四節に、「あなたがたの中に、病んでいる者があるか。その人は、教会の長老たちを招き、主の御名によって、オリブ油を注いで祈っても らうがよい」とある。あるとき、私の近所に住んでいたおばあさんの信者が、どういう経緯かは忘れたが、ひとりだけ、吉川に癒しの祈りをしてもらうということがあった。吉川が取り出したのは、「日本薬局方・オリーブ油」と印刷した紙が張ってある茶色い小瓶だった。
 聖書には「注いで」と書いてあるのに、吉川はそれを脱脂綿に少しだけ浸して、その老女の額に塗っただけだった。私はもちろん、その作法が正しいのかどうかなどわからなかったが、安っぽいなと感じたのは事実だった。
 彼女が癒されたかどうかは知らない。そして、この、オリーブ油のパフォーマンスは、あの大掛かりな聖餐式と同じで、一回限りだった。

 吉川は自分の思い付きを行動に移す人だったようだ。

 ところで、朴の集会では、私は癒しよりも、朴の聖書解釈に興味を持った。
 『ダニエル書』に、歴史の展開を象徴する巨大な像の話が出てくる。
 どのようなコンテクストかは、もう忘れたが、朴はそこにある巨像の足の指の数である一〇が、当時まだ数カ国だったECの最終加盟国数を指すと言った。それはローマ帝国の復活であり、それが成立した後、世の終わりが近づく云々。
 しかしこの「予言」も、吉川の再臨の予言同様、見事に外れてしまった。ご承知のとおり、ソ連が崩壊した後、二〇一一年九月現在、EUには二七カ国が加盟している。
 
 話がずいぶん脱線した。

 私が「吉川追放劇」の裏に潜む、秘密の臭いを感じ取るきっかけとなった、その人形劇に戻ろう。
 教会に来ていた美大の学生に書いてもらった吉川と朴の似顔絵もよくできていたし、英語で朴が話し、吉川が通訳するという、その直前に行われた癒しの集会をパロディーにした構成も大いに受けた。
 しかし、その日の終わりに私たちは、紅衛兵・横山から呼ばれて、大いに叱責を受けた。
 「吉川先生はもう他所の先生やねんから。吉川先生を登場させたらあかんでしょ」。
 私はこの頑固な女に逆らわなかったが、それに納得したわけではなかった。教会の創設者で、あれほどみんなが慕っている吉川を、転籍したからといって忘れろというのか。私は横山の私に対する叱責が、吉川と比べてカリスマ性の乏しい、浮田らに対する気遣いのように思えた。そして、なぜそうまでして、臭いものに蓋をするかのように、吉川を無視させようとするのか。
 実際教会は、横山に限らず、牧師、伝道師、献身者、古参信者たちは、吉川色を払拭しようとして必死になっていたようだった。
 もしかしたら、以前に書いた恋愛の解禁もそのひとつだったのかも知れない。ただ、相変わらず礼拝堂の席は男女別のままだったが。
青木大蔵
信ずるものは、救われぬ
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