信ずるものは、救われぬ

第1章 教会と牧師( 1 / 7 )

 「しかし、あなたは目も心も、
 不正な利益のためにのみ用い、
 罪なき者の血を流そうとし、
 圧制と暴虐を行おうとする」。
 『エレミア書』第二二章一七節。


 オレンジ色の古ぼけた電車が水田地帯を走り抜ける、大阪府下のある町に、その教会はあった。

 昭和四〇年代、大阪はまだ雑然としていた。
 まだその前半には、たぶん偽者の傷痍軍人が、阪神梅田駅に近い薄暗い地下道で物を乞うていた。その横で、地下鉄の回数券をばら売りしているおばちゃんが、忙しそうに客を相手に小銭を稼いでいた。
 大阪大空襲で徹底的に破壊された大阪砲兵工廠の跡地は、その後、大阪ビジネスパークとして生まれ変わることなど考えることができない、雑草にまみれた広大な空き地だった。

 そんなころ、この小さな町は、田舎町と呼ぶのが打ってつけの場所だった。

 営業をしているかどうか分からないような旅館が駅前にあり、その向かいにあった日通の事務所には黄色のトラックがいつも止まっていた。駅前の商店街を二百メートルほど行くと、ボンネット型のバスがアイドリング音を響かせて、少ない客を待っていた。
 田んぼに囲まれた民家の壁に貼り付けられた、ホーローでできた大村昆や美空ひばりの看板の横に、ガリ版刷りで「ぜんそくにきくまじない」と、全部ひらがなのチラシが貼ってあった。
 たくさんあった空き地の砂山やコンクリートの土管で、子供たちは遊びまわった。小川は濁っていたが、まだ、メダカや、フナや、ドジョウや、ザリガニや、オタマジャクシやタニシをつかまえられた。
 駄菓子屋はいつも子供であふれていた。一日十円あればおやつが買えた。たこ焼き屋のオバちゃんは、夏にはわらび餅を売っていた。どちらも、薄い薄い木の板で作った船に入っていて、これもやっぱり、ひと船十円で買うことができた。
 レンガ造りのすすけた高い煙突が、子供心に恐ろしく見えた紡績工場。その終業のサイレンは、子供たちに帰宅を促す合図だった。

そんな昭和四十年代前半は、まだ終戦直後の残り香を少し感じさせる時代だった。

 そのころ、大阪の都心部から電車を乗り換えて、三〇分以上はかかるこの町は、まだ人口一〇万人たらずだった。そんなところに、大阪中から、二百人以上もの信者が通うプロテスタントの教会があったというのは、ある意味で驚きだ。
 進駐軍のカマボコ兵舎の払い下げを受けて、私が生まれた昭和三六年に設立されたという、泉南キリスト福音教会は、後に、山の裾野にある急傾斜の住宅地に大きな白い教会堂を建て、名前も関西ペンテコステ福音教会と改められた。現在はカタカナが並ぶ、別の名前になっている。
 大阪のプロテスタントの教会で「関西」という略称で呼ばれるのは、良い意味でも悪い意味でも、この教会を指すのは、今も昔も変わっていないようだ。しかしその当時は、モーターが唸り声を響かせて走る電車の窓から見える、関西ペンテコステ福音教会の白い建物と十字架は、熱心な信者だった若い私の心を高揚させ、 誇らしい気持ちにさせてくれたものだった。

第1章 教会と牧師( 2 / 7 )

 昭和四三年三月、私は小学校に入学する直前に、大阪市西区から、父の郷里であるこの町に引っ越してきた。
 地元の名士の孫で、同志社の短大を卒業した後、しばらくサラリーマンをしたが、若くして独立し、立売堀で零細企業を経営していた私の父・直之は、民社党の党員でもあった。小さな野心家であった父は、郷里で市会議員になることを夢見ていたらしい。

 しかし、故郷に戻ってきてわずか数ヶ月で、父は逝った。

 いわゆるポックリ病というやつだった。昭和九年生まれだった父は、まだ三四歳の誕生日を迎えていなかった。
 身長一七〇センチ、体重八〇キロと、その世代にしては大柄だった父は、高校時代にはラグビーで国体に出たらしい。仕事上のトラブルでヤクザに包丁で刺されても死ななかった。大阪の言葉で言えば、「ごっつい男」だった。
 その夜、父はいつものように床に入ったが、夜中に意識がない状態で荒い息を繰り返しはじめた。そしてそれは静かに途絶え、眠りから覚めることはなかった。

 私が小学校に入学して二ヶ月も経たない時のことだった。

 私 は夜中に母にたたき起こされて、何が何だかわからないまま、父の死という重い事実を突きつけられた。祖父が、母が、みんな涙にくれていたが、泣き虫だった 私は、なぜか、夢を見ているようで、涙も出なかったし、泣くこともなかった。火葬場で父の遺骨を見て、それが現実だとわかって、私は静かに涙が流れるのを 感じたのだった。
 生前の父は仕事に忙しく、日曜日は趣味のゴルフに興じていたので、もともと我が家は母子家庭のようなものだった。
 
 昭和四〇年代の父親とは、多かれ少なかれそういうものだった。

 だから正直なところ、父の死後も、父がいなくて寂しいという感覚を余り持ったことはなかった。
 それまでの父の記憶が余りにも希薄だったので、幸か不幸か、父がいる家庭というもののイメージが、私には完成されていなかったようだ。大人になってから は、父という大人の男の手本がなかったこと、父と一緒に酒を飲んだり喧嘩をしたりできないということを、心から残念に思ったが。
 私が父の ことで覚えているのは、トヨタのコロナに乗っていたこと、戌年生まれで犬が好きだったこと、タバコはショートホープ、酒はサントリーの角瓶だったことぐら いだ。だがなぜか、ミナミの行きつけのバー『渚』のことを鮮明に覚えている。一度母と一緒に行ったのだ。私はホステスに、酒を割るための濃いジュースを、 氷水で割ったものを飲ませてもらった。後年、母に聞いた話によると、父の女がそこにいたようだ。
 
 さて、父の故郷に都会からやってきた私は、よそ者だった。

 近所の子供たちやクラスメイトたちに、馴染んでいるようで馴染んでいなかった。父に似て肥満気味だったが、父に似ず運動神経が鈍かったこともあって、ちょっとしたことでよくからかわれていた。
 ただ、当時の友人たちの名誉のために言えば、それはいじめというほどの陰湿なものではなく、私は時々彼らと遊びはしていた。
 しかし、田んぼと蓮根畑しかなかったこの土地に拒絶反応を起こしていた、大都市の辺縁部に生まれ育った母の影響もあって、私は社交的にはなれず、ひとり家で遊ぶことが多い、大人しい少年になっていった。
 その町には、巨大な汚水溝とも言うべき汚い小さな川がふたつ流れていた。その合流地点の近くにあった、歴史の古い小学校に私は通っていた。
 先生が歩くとみしみし響き、大掃除の時には、みんなで床に油引きをした、戦前に建てられた木造校舎で、私は最初の二年間を学んだ。三年生の時には、生徒急増で乱暴に立てられたプレハブの小屋に押し込まれ、夏はサウナに入っているようで、いつも汗だくになっていた。

 昭和四六年三月、終業式。

 埃っぽい校庭に並んでいた私は、今まで一度も言葉を交わしたことのなかった、隣のクラスの少年に声をかけられた。
 以前から大野務という名前は、名札を見て知っていた。大野も私もクラスで一番背が高く、同じ位置に立っていたからだ。
 その日、大野は何を思ったのか、私に近づいてきてこう言った、

 「青木(最初から呼び捨てだった)、汽車の写真いらんか」。

 私はちょっと驚いた。どうして大野は、私が鉄道好きだということを知っていたのだろうかと。
というのも、私は一〇月一四日の鉄道記念日に生まれたということが因果だったのか、電車が大好きだったからだ。
 いつも家で、ひとりで、電車の絵を描いたり、誰かからもらったお古の時刻表を読んだりしていた。紙工作で車両を作り、自分だけの架空の鉄道会社を運営した。 祖父やいとこにねだって期限を切れた定期券や切符や携帯用の時刻表などをもらってコレクションし、誰に見せるわけでもなく、時々それを収めた箱を開いて は、ひとり悦にいっていた。
 父がいないことを慰めるためでもあったろう、母は少々無理をして、高価なカツミの鉄道模型も時々買ってくれた。私は今でいう「鉄っちゃん」というやつだったが、当時はただの変わった子供だった。
 他の友人は、どちらかと言えば、鉄道より自動車だった。一般的に言ってもそうだろう。
 私は、大野が同じ嗜好の持ち主だと知って、ふたつ返事で彼の家に遊びに行く約束をしたのだった。
 大野は、私と違って太ってはいなかったが、私と一緒で、運動神経が鈍く、運動会ではいつもビリだった。そういう点でも、私は彼といることでとても慰められた。
 数日後訪ねた彼の家は、ドアを開けると玄関だけがあり、すぐに階段で、二階部分だけが住居になっているという構造の文化住宅だった。
 母とふたり暮らしのその家には、私が大好きだったトミーのプラレールが山のようにあった。最初期のモーターの無いタイプのものもあり、私は心が躍った。
 肝心の写真のことは何も覚えていない。もらったかどうかも定かではない。ただその後、大野の影響で、従兄から譲ってもらったちゃちなカメラで、彼と一緒に、駅や踏切に行って、田舎電車や短い貨物列車を引っ張る蒸気機関車の写真を撮るようになった。
 そして、これもまたきっかけが何だったかは覚えていないのだが、まもなく彼とその母親が通うキリスト教会に行くことに、私は同意していたのだった。

 今となって思えば、大野が汽車の写真で釣って、私を教会に引っ張り込もうとしたのかもしれない。

 ただ、私にはその意識は全くなかったし、教会に縛られ、翻弄され、あってなきが如きだった青春時代を悔やむことはあっても、今日に至るまで、大野のことを悪く思ったことは一度もない。数年前 に亡くなったという、優しかった彼の母には、今も感謝の念でいっぱいだ。
 大野自身からは、数年前に一度、携帯電話からのテキストで近況(あまり愉快な内容ではなかった)を知らせてきたが、 その後音信が途絶えている。風の噂では、大阪を離れ、東北地方に住んでいるということだ。

第1章 教会と牧師( 3 / 7 )

 キリスト教はアーメンの神さんだ。

 イエス・キリストというエライ人がいて、十字架にかかって死んだ。クリスマスはその人の誕生日。キリス ト教会がお寺やお宮さんと違うことも知っていた。三歳年下の妹が、教会が経営する幼稚園に通っており、家で賛美歌を歌ったり、クリスマスの話をしたりして いたということで、その程度の知識はあった。しかし、「アーメン」の意味は知らなかった。
 「会費とかいるんやろ」。私は大野にそう聞いた。
 金がかかるなら、母には言いにくい。そう思った。
 しかし意外にも答えは、「タダやで」、だった。
 大野の母は、私が妹と朝早く大野家に来て、みんなで一緒に朝ごはんを食べてから教会に行けば良いと言ってくれた。
 私が母に、大野の母からのオファーを話すと、母は心ひそかに喜んだ。日曜日に私たちが教会に行けば、堂々と朝寝ができるからだ。
 母は、低血圧気味だったこともあって、朝起きるのが苦手だった。基本的には父の遺産で食べていたので、彼女は外で働いていないこともあった。それでも平日は、私と妹のために早起きせねばならない。だからそうする必要がない、日曜の朝寝は母の楽しみだった。
 私と妹は、よく先に起きてごそごそしていたが、小学二年生のある日、妹と一緒にインスタントラーメンを作った。これがうまくいった。私は調理に非常に興味が あって、以前から台所で母が作るのを何度も見て、作り方を覚えていたのだ。その後、日曜日の朝は、ラーメンを自分で作るということは私の楽しみになった。 母はそれを聞くと、逆に安心したようで、思い切り朝寝をするようになった。
 私も妹も、それが楽しみだったので何とも思っていなかったが、 親しい友人から「日曜日でも、朝ごはんくらい作ったりや」と注意されたことがあり、母には後ろめたい気持ちもあったようだ。教会に行くことで、大野さんが 朝食をご馳走してくれるというのなら、堂々と朝寝ができる。母はそう思った。
 母の名誉のために付け加えれば、母は時々、母親が忙しい大野を夕食に招いたり、家に遊びに来る私の友人たちのためにお菓子を買い置きしていてくれたりと、決して母親としての仕事をしていないわけではなかった。ただ、朝が苦手だったのだ。
 無神論者、というよりも、都合の良い時だけ神仏に祈る母は、父の死後、最初は命日ごとに毎月、近所にあった寺の、オールバックの生臭坊主にお経をあげても らっていたが、そのうちそれは祥月命日だけになり、やがて法事の時だけになった。だから、アーメンの教会に子供を行かせることに躊躇はなかった。そしてま た、この田舎町でハイカラなところを自慢したい彼女にとって、最初のうち、「うちの子供は教会行ってますねん」というのはちょっとした自慢でさえもあったのだ。

 私が、泉南キリスト福音教会に初めて行ったのは、昭和四六年三月の最後の日曜日だった。

 なぜそれをはっきり覚えているかというと、その日は、日曜学校の終業式で、表彰式があったからだ。
 朝早く、妹と一緒に、家から歩いて二〇分ほどかかる、その町に初めてできた大型スーパーの裏にあった大野の家を訪ねた。マルシン・ハンバーグと目玉焼きという、ついぞお目にかかったことのないデラックスな朝食をいただいた後、大野の母が運転するライトバンに乗って教会へ行った。
 当時まだこの町では、家庭の主婦で運転をする人は珍しかったが、彼女は仕事の関係で免許を持っていた。目鼻立ちのはっきりした、日焼けで肌の色が黒い、大柄な人だった。その日焼けは、一日中運転をして得意先を回っていたからだった。
 彼女はいつも、可愛いひとり息子の友人のことを「さん付け」で呼んでいた。私のことも「青木さん」と呼んだ。それが少し大人になったようで、背中がくすぐったかった。
 二〇分ほど田んぼに囲まれた道を走り抜けると、ごちゃごちゃした住宅街の中にある教会に私たちは着いた。
 想像と違って教会は、赤色のとんがり屋根ではなかった。スレート葺の安物の日本家屋だった。ベニヤ板で作った、ニスの色が鈍く光る玄関のドアと、ペンキがはげかけた白い十字架だけは、確かに、想像していた教会を思わせるものだったが、私はちょっとがっかりした。

第1章 教会と牧師( 4 / 7 )

 もっとがっかりしたのは、私と大野は教会堂ではなく、建物の左側に飛び出した、畳敷きの部屋に導かれたからだった。
 そこはもはや教会でさえなく、子供会の集まりなどで時々行った、集落(当時はそうは言わず、部落といったが)の公民館の一室のようだった。六畳ほどのその小部屋が、小学校高学年の教室で、四年生から六年生まで、一〇人ほどの子供が集まっていた。
 目の大きい、黒髪の長い女と、少し言葉がどもる、大柄な男が私の先生だった。二人とも二十代後半か三十代前半だったと思う。女は若山、男は福井と名乗り、私を歓待してくれた。
 授業は九時から一〇時まで、一時間あった。生徒はスケッチブックに、太いマジックで大書された歌詞を見ながら、伴奏なしで賛美歌を歌った。
 
  「主は素晴らしい
 主は素晴らしい
 主は素晴らしい
 私の主」

 私は、主が何かもわからないまま、この英語の賛美歌を直訳した歌をなぞるように歌った。
 その後生徒は、聖書のフレーズを暗証するという宿題を披露した。そして祈りと説教。
 
 その間ずっと正座をしていたので、足がしびれてしまった。

 妹は会堂の奥にある、年少者のクラスに導かれていた。そちらは笑顔を絶やさない背の高い女・山城恵子と、対照的に非常に小柄な男、浮田賢一が先生だった。彼らも若山や福井と同年輩に見えた。
 その日、何の話があったのかは、全く覚えてはいない。覚えているのは、授業が終わった後、日曜学校の表彰式が行われたことだった。大野は何ももらえなかったのだが、クラスメイトの何人かは、皆勤賞とか、精勤賞とかで、表彰状と金属製のバッジをもらっていた。

 私の心に火がついた。会費も要らないし、車での送り迎えもある。それで父のいない家庭での退屈な休日が、楽しい一日になるのだ。
 
 私は決心した。「あのバッジをもらえるまで、毎回通おう」。

 私は、小学校の音楽室で、毎週土曜日に行われていたオルガン以外には、他に習い事をしていなかったので、それまでに賞状のようなものをもらったことがなかっ た。だからそれも魅力的だった。後に珠算塾に通うようになって、検定試験の合格証を何枚かもらったが、教会でもらう賞状の魅力は消えなかった。というか、 教会から賞状をもらうことが、最高の名誉だと思うようになっていった。
 その日から私は、毎日曜日にその教会に通うようになった。中学入学までに賞状は何枚ももらったが、残念ながら景品としてバッジをもらったことは一度も無かった。

 通い始めて間もなく、イースターがあった。

 私たちは食紅で、なぜか鈍い緑色に染められたゆで卵をもらった。殻を破るという行為が、イエスの復活をイメージすると、イースター・エッグの由来を教わった。
 毎週通ううちに、少しずつ友人もできた。足がしびれることはさほど苦痛ではなくなった。私は教会に行くことが好きになっていた。
 妹が幼稚園の卒園記念品としてもらっていた文庫版サイズの新約聖書があったので、私は、最初はそれを使っていた。しかし、聖書のお話は、新約からだけではな く、旧約を題材にしたものもあった。そんな時、大野や他の誰かに旧約聖書を見せてもらったのだが、すぐに私も、自分専用のフル装備の聖書がほしくなり、母 にねだって、商店街の本屋に注文して買ってもらった。
 一週間ほどで届いたのは、黒い紙のソフトカバーの、一番小さい版のものだったが、私はとてもうれしかった。毎回、日曜学校で学んだ聖書の言葉に色鉛筆で線を引き、色を塗り、その部分が増えていくことが楽しみだった。
青木大蔵
信ずるものは、救われぬ
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