信ずるものは、救われぬ

第3章 青春と苦悩( 1 / 16 )

「そこで、あなたは
若い時の情欲を避けなさい。
そして、きよい心をもって
主を呼び求める人々と共に、
義と信仰と愛と平和とを
追い求めなさい」。
『テモテへの第二の手紙』第二章二二節。


 昭和四八年、六年生の時に私は、丸畑や妹と一緒に洗礼を受け、正式に泉南キリスト福音教会の信者のひとりとなった。

 ペンテコステ派はバプテストの流れを汲んでいるので、洗礼といってもカトリックのそれのように、頭に水をたらすような厳粛なものではない。
 洗礼用の白い服に着替え、教会に備え付けの水槽の中に入り、牧師が信者を支え、仰向けに全身を水に漬けるというものだ。全身を漬けなければならないというのは、イエスが洗礼者ヨハネから、ヨルダン川で洗礼を受けた故事(『マタイによる福音書』三章一六節他)に由来する。
 実際、夏場のキャンプのときは、川や海で洗礼式が行われることもあった。

 「…沖へ出でよ、岸を離れ
主の恵みの只中へ
いざ、こぎ出でよ」
(聖歌五九七番)

 こんな古い賛美歌の一節が歌われる中、ひとりひとり名前を呼ばれていく。
 私の順番が来た。会堂の説教壇の下に作られた、通称「洗礼タンク」に吉川と一緒に入り、目をつぶって鼻をつまむ。
 
 「主イエスの名によって、青木兄弟に洗礼を施す」

 吉川がそう言うと、私のからだは彼の手で、仰向けに水の中に全身をつけられた。
 一瞬で起こされ、介添人の信者がタオルで顔を拭いてくれる中、これもまた指示されていたように、両手を挙げて、「ハレルヤ」と叫んだ。信者の拍手が起こり、しばらく祈りが続いた。
 そしてピアノの音がして、『沖へ出でよ』が再び始まると、わたしは促されてタンクから上がり、控え室となった日曜学校の教室で、濡れた洗礼着を着替えた。

 生まれ変わった。私はちょっとだけ、そんな気がした。いや、しようと思ったのかもしれない。

 小学校最後の三年間、私は教会に通い続けていたが、その間に引っ込み思案だった性格は、少しずつオープンになっていた。五年生、六年生の時には、勉強の成績 も左程良くないし、運動音痴のくせに、自ら志願して学級委員になっていた。いつの間にかリーダーシップをとれるようになっていた。それが教会のせいなのか どうかは私には分からない。相変わらず私がはっきりとカミングアウトしていなかったので、親しい友人しか、私が教会に行っていることは知らなかった。

 中学生になると、さらに教会生活に没頭するようになった。日曜学校は「卒業」して、日曜日は礼拝に出席するようになった。

 礼拝は、最も重要な集会だった。もちろん、これを休むことは、地獄行きだった。

 礼拝は十時過ぎに始まった。司会者が賛美歌を二、三曲リードする。大体最初は、勇ましい曲を歌う。伝統的な賛美歌であることもあったが、だいたいは、聖書の言葉を題材にして、新しく作られた曲だった。
 音楽は、最初はピアノだけだったが、新しい会堂ができた後は、エレキギター。エレキベース、エレクトーン、ドラム、ヴィブラホン(大型の鉄琴)、トランペットが加わって、賑やかになった。私は最初、エレキギター、後にベースギターの奏者となった。
 十分~十五分ほど歌った後、最後の曲を引きずる形で、祈りに入る。これは、ひとりひとりが聖霊に導かれて祈るもので、客観的に見れば、集団催眠のように見えるだろう。これが数分続く。
 その後で、これもまた聖霊に導かれた者が、ソロで歌う。歌詞もメロディーも即興だ。私たち奏者は、それを追いかけるように伴奏した。

 預言が挟まれることもあった。

 多くの場合は吉川が、神からその場で預かったと称する言葉を、早口でまくし立てた。吉川は文語調が好きだった。「而して」という接続詞を好んで使った。私はそれをかっこいいと思っていた。
 その後、再び、トランス状態の祈りに入り、数分後、司会者が再び賛美歌を導いて、集会は落ち着きを取り戻す。
 次は献金だ。昔、八百屋や魚屋でつり銭を入れていた、プラスチック製の安物の青いザルに、黒い布で作ったカバーをしたものが廻される。新しい会堂になってか らは、会衆席の中央通路に座った人に献金をいったん集め、その人が踊りながら、前方の教壇近くに立つ係りの者に渡すというパフォーマンスを強要されるよう になった。
 これは、献金は苦痛ではなく、喜んで捧げるべきだという、吉川の考えに基づくものだった。

 そして、説教。

 吉川の説教はおもしろかったが、とにかく長かった。私は眠たくなって、何を聞いているのかわからなくなることもしばしばだった。しかし、吉川は、説教の途中 で「アーメンですか」としばしば信者に尋ね、声が小さいと激怒したので、説教中の「アーメン」という大声で、実際に眠りこけてしまうことはなかった。もち ろん、吉川を恐れている信者が、居眠りをするはずもなかった。

 信者が増えた後は、小さい子供連れの母親は別室(年少者の日曜学校が行われていた奥の部屋)に入れられ、テレビカメラを使って吉川の説教が「中継」されるようになった。また、礼拝は毎回録音、後には録画されるようになり、熱心な信者はそれを競って買い求めていた。

第3章 青春と苦悩( 2 / 16 )

 中学生になったときに、私は礼拝に加えて、土曜日の午後に、学生集会に出席するようになった。
 学生集会とは、『いちご白書をもう一度』に歌われた、左翼の集会のことではなく、文字通り学生への伝道を目的にしたものだった。
 賛美歌を歌い、説教を聴く。説教は、私が中学生の頃は、担当の伝道師や特訓生がしていた。
 賛美歌と説教の合間に「証し」がある。信者が自分の信仰の体験談を語るのだ。それは何の予告もなく、司会者が信者を名指しし、話すことを強要する。
 指導者たちはこう言った。「何を話してもいいんです。皆さんがたとえ『ハレルヤ!』とか。『感謝します!』の一言だけ言ったとしても、それが心からのものなら、初めてきた人にだってわかるものなのです」と。
 だか、実際にはそんなわけにはいかない。
 私の口下手な後輩が証しに指名され、しぶしぶ前に立つと、本当に「感謝します!」の一言をさほど大きくない声で呟いて席に戻ってきたことがあった。座はしらけるし、初めて来た人はきょとんとするしで、司会者は後を取り繕うのに大変だった。
 もちろん私も何度もさせられた。父を早く喪ったこと、母と妹との寂しい生活(実際にはそんなに寂しくなかったのだが)、そして主イエスとの出会いで人生が変えられた…。まぁ、そんなストーリーだった。これを、みんな作らねばならなかったのだ。
 
 証しは嫌だったが、学生集会で先輩からギターを習った私は、音楽の楽しさもあって、基本的には苦痛を感じることもなく、土曜日も嬉々として教会へ行き、週末をすべて教会のために費やすようになった。
 日曜学校に通っていても、中学校に上がったら教会に来なくなるというのは、よくある話だった。
 親が信者であっても、クラブ活動に入れば自然と足は遠のく。親が信者でなかったら、勉強のためにという名目で、教会から離される。実際、子供のころに日曜学 校に通っていたという人は存外多いが、そのまま信者になったという人の数は、圧倒的に少ない。私の今の直属の上司は東京出身の日本人(私はアメリカで働いている)だが、彼もそのひとり だ。
 しかし私は、そろそろ感覚が麻痺していた。教会に通い続けるのは当たり前だと思っていたし、地獄に落ちるのは嫌だった。

 一方私は、中学では、バスケットボール部に所属した。
 入学直後は、大好きだった吉本新喜劇の影響で、コメディーを自分で演じてみたくて、演劇部に入っていた。ただ、先輩や同輩がみな女生徒で、私の影響で一緒に 入部した友人が、私を置いてサッカー部に移ってしまった後は、ただひとりの男子部員として、非常に恥ずかしい思いをしていた。
 そんなある日、講堂兼体育館で練習しているときに、背が高いというだけの理由で、私はバスケットボール部にスカウトされ、そのまま入部した。私は中学入学時にすでに、身長が百七十センチあったのだ。しかし、運動音痴はそのままで、私は基礎練習に四苦八苦した。
 当然、中学校のスポーツクラブの試合は土曜日、日曜日にある。既に洗脳されていた私は、礼拝を休んでまで日曜日の試合に出場することはなかった。本当は試合に出たかったが、日曜日に礼拝を休めば、私は地獄に落ちると思っていたから、それはできない相談だった。
 顧問の先生に、一番背の高いお前が試合に来ないから、フォーメーションを二通り考えねばならないとこぼされたが、そんなことは気にもかけていなかった。

 しかし、流石に土曜日は試合のために学生集会を休むこともあった。教会側は学生集会に信者が来ないことを問題視し、極力これに来させるように指導していたし、私たちも土曜日は、何もなければ学生集会に行くものと、それを当然視していた。
  中学二年のある土曜日、私は、当時担当者であった三枝祥子に、試合があるので次の週の集会に来られないと告げた。彼女は大野の家の近くにあった、商店主の娘だった。三枝は、私の妹のクラスの日曜学校の先生だったこともあり、私の家に家庭訪問に来たうちの一人も彼女だった。
 三枝は渋々それに応諾した。さすがに学生集会は、日曜日でないから出席を強制することは理屈に合わないからだ。
 すると、丸畑が来て、テニスの試合が、そしてこれまた熱心な信者であった同級の中町幸治も卓球の試合が、と申し出た。偶然三人の試合の日が重なっていたのだ。
 本当はそんなことを告げる必要もなかったのにと、今となっては思うのだが、私たちはそれくらい学生集会も、礼拝と同じように重要だと認識させられていたのだった。三枝は「自分たちで考えてください」と意味不明の言葉を発して、目を真っ赤にして泣き出した。
 私たち中学生三人は、途方にくれて顔を見合わせたが、結局みんな試合に出場した。

第3章 青春と苦悩( 3 / 16 )

 私たちが学生集会に参加するようになったころ、長崎栄治という名の若い特訓生が、担当者のひとりとして、私たち男子学生の面倒を見てくれていた。背が高く。目の大きい人だった。髪の毛が、整髪料でいつもぬれているような感じがしていた。
 長崎は大阪大学を卒業した秀才だったが、非常に癖のある人で、私はちょっと苦手だった。
 中学一年生のときだったと思う。日曜日の午後、私は礼拝が終わったら、学校の友人と一緒に、当時話題になった、カトリックの悪魔祓いが題材の映画、『エクソシスト』のロードショーを観にいくことにしていた。
 ところが私が『エクソシスト』の話をしていたところ、これを耳に挟んだ長崎は真顔で心配し、「悪魔の映画など観に行かないほうが良いよ」と、私に行かないように説得を試みた。大野も心配して、同じように言った。しかし前売券を買っていた私は、それを無視してミナミまで出かけ、その映画を観た。

 何事も起こらなかった。

 後年、教会の仲間から、イーグルスの『ホテル・カリフォルニア』を聴いてはいけないと言われたことがあった。あれは悪魔の歌であると。逆回転で聞くと悪魔の賛歌になる云々。『悲しくてやりきれない』と『イムジン河』ではあるまいに。
 私はイーグルスのアルバムを捨てることはなかった。この手の話に関して私は結構覚めていて、それが信仰と関わりがあるとは全く思えなかった。日曜日に教会に行っていれば、後は大丈夫。

 私の免罪符は、礼拝出席だった。
 
 でも、長崎にとっては、『エクソシスト』は一大事だった。だからといって、『エクソシスト』を見て、悪魔に憑かれたかもしれない私に対するフォローがあった わけではない。そういう点で、牧師や伝道師、特訓生だけではなく、教会の先輩たちも無責任極まりなかった。言いっぱなしが常だった。

 特訓生である長崎は、当然、牧師である吉川から訓練を受けていた。
 吉川の弟子訓練は、訓練とは名ばかりで、しごきそのものだった。他の特訓生もそうだったが、彼らを含め、献身者は吉川の前ではいつもぴりぴりしていた。
 実際吉川は、「私は教育のために、特訓生を殴ったこともあります」と公言していた。
 殴られたのが長崎だったかどうかはわからないが、吉川がこの長崎に非常に厳しく接していたのは、私にもよくわかった。牧師になる訓練を受けている若い特訓生だから当然なのだろうと、最初は思っていたのだが、それにしても目に余るものがあった。
 実際吉川は、人の好き嫌いが激しかった。その基準は、女性に関しては明らかに容姿だった。本人はわからないと思っていただろうが、それは子供の私にさえ見え見えだった。
 ふけ顔で容姿の悪いひとりの女性は、特訓生でもない一般の信者なのに、いつでも吉川につらく当たられていた。それは見ている幼い私の心が痛むほどだった。何か個人的な問題でもあるのかと思えるほどだった。いや、今から考えれば、何かがあったとしか思えない。それほど邪険な扱い方だった。
 さて、吉川が長崎のどこを気に入らなかったのかは、今となってはわからない。優秀な若者が自分の弟子になっている。誇りに思ってもよさそうなものだが、私は、長崎の学歴が災いしたのではないかと私は思っている。当時の男性の特訓生や伝道師は、中卒か高卒で、長崎だけが大卒、しかも阪大卒。吉川は大学中退。学歴コンプレックスを疑われても仕方がない。
 ある日の礼拝中、賛美歌を歌っている途中で、吉川が突然長崎を怒鳴りつけた。伴奏は中断され、会堂内が静まり返った。

 「長崎兄弟、あなたは何をしているんですか。どうしてみんなと一緒の『振り』をしないんですか」。

 この教会では礼拝で賛美歌を歌う際に、黒人教会でそうするように、司会者のリードで、礼拝で賛美歌を歌っている途中に、全員が立ち上がって体を大きく揺らしたり、手拍子をしたり、歌詞に合わせた手振りをつけたりすることがあった。
 長崎の賛美歌の手振りが人とそれ違うということで、吉川は激怒したのだった。
 もしもそれがいけないことならば、礼拝が終わってから別室に呼んで注意すればよいはずだ。神への礼拝の最中に怒鳴りつけることが、違う手振りをすることと比べて、果たしてどちらが正しいのだろうか。
 全体主義者の吉川が、一糸乱れぬ、北朝鮮か創価学会のマスゲームのようなものを礼拝に期待したことは想像に難くない。また、それを乱したのが長崎だったことで、余計に癪に障ったのかもしれない。しかし、余りにもひどい叱責の仕方に、信者全員が震え上がった。

 その事件の直後、長崎は明らかに精神に変調をきたした。

 うつろな目をして、ぼおっとしていることを目にするようになった。そんなところを吉川に見つかって、また怒鳴られることもあった。
 間もなく長崎は教会から消えた。聞くところによると、父親が迎えにきたということだったが、長崎がなぜ消えたかということを、誰も説明する者はなかった。それどころか、長崎がいなくなったという事実さえ、一切公表されることはなかった。
 
 ちょっと古い言葉で言うと「蒸発」のようなものだった。

 長崎以外にも「蒸発」の例はあったが、どんなに熱心な人であっても、その顛末については何も話されない。誰かが消える。そしてその誰かは、最初から存在しなかったように装われる。ソ連か中国で起こった粛清の顛末のようなものだった。
 ひとりだけ、その「蒸発」に触れざるを得ない案件が生じた。
 元特訓生で、突然教会をやめた榎本光男という、鼻の大きい若い男がいた。その榎本がキャバレーで呼び込みとして働いていて、風俗営業法違反か何かで逮捕されたのだった。
 かつて、榎本が牧師志望で、教会で修行をしていた経験があったということで、風俗店の店長とのギャップの面白さを嗅ぎ付けた週刊誌の記者が、教会のことを含めて、面白おかしく書いたらしい。そこに吉川のスキャンダルが載っていたという噂も後年聞いた。
 私は、榎本がいつの間にかいなくなっていたことは知っていたが、まだ子供だったので、週刊誌の内容は知らなかった。
 説教の最中、榎本が逮捕された話をわざわざ持ち出した吉川は、わざと絞り出すような声で、「榎本兄弟はキャバレーの呼び込みをやっていたというのです」と、 信仰から離れ、堕落した元特訓生を惜しむような演技をして見せた。苦悶の表情を浮かべ、如何に自分が榎本を愛し、指導していたかを演出して見せた。
 吉川によれば、彼は拝金主義者になっていたらしい。
 結局、あくまでも、榎本の脱会と転落は彼自身のせいだということだったが、私は幼いながらにも、信仰熱心な信者を突然変えるどんな事件があったのかに、思いをめぐらせた。
 教会で何かがあったのだ。何もなければ、堕落などしない。私はそう直感した。
 金がほしかったなら最初から牧師になるために献身などしないだろう。特訓生には給料などない。教会とは価値観が正反対の風俗店に勤めるよりも、金もうけをする道はある。
 なぜ榎本は、あえて風俗店を選んだのか。今から考えれば、榎本は、至聖の道から、意図的に正反対の堕落の道を選んだのではないかと思うのだ。

 吉川へのあてつけとして。

 もちろん、私には本当のことは何もわからなかったし、今もわからないが。

第3章 青春と苦悩( 4 / 16 )

 吉川の目標は、千人が日曜礼拝に集う教会をつくることだった。

 ある年、吉川は年度末までに三百人を確保するという目標を立て、それを達成するように信者に命じた。
 これは、『士師記』第七章に登場する、ギデオンが率いた三百人の精兵をヒントにしたもので、三百人は信者へのノルマとなった。そして、それが達成されかけた数年後、その目標は一気に七百人になった。
 時折、特別伝道集会というのが開かれた。これは、新しい信者を獲得するために、概ね1週間単位で開かれるもので、教会のお膝元ではなく、ちょっと離れた町の会館を借りたり、或いは、空き地にテントを建てたりして、そこで行われた。私たちはこれを「特伝」と読んでいた。牧師たちから叱咤され、ビラやトラクト (薄いパンフレット)を配り歩いた。集会ではもちろん、未信者向けのメッセージが用意されるほか、証しやスペシャル(賛美歌の合唱などの特別の出し物)がプログラムされ、「万全の体制」を組んだ。

 しかし、殆どの場合はたいした成果を挙げることはなかった。

 考えても見てほしい。通勤帰りの時間に、駅前のテントで宗教団体が集まりをしている。そこに通りすがりの人が興味を持って入るだろうか。私なら御免だ。興味があれば教会を訪ねる。テントに入って行こうとは決して思わない。それが普通の感覚だろう。
 私は今、成果がないのに何度も同じ轍を踏んでいたこの特伝は、信者獲得というよりも、信者を働かせるための口実だったような気がする。中国や北朝鮮などの独裁国家が、「○○運動」と名付ける空疎な活動を国民に強要し、精神的に緊張させ続けるというあのやり方と同じだ。大躍進運動、文化大革命のようなものだ。

 信者獲得を焦る吉川は、多く人を誘った信者には賞品を出す制度を始めた。しかし結局それは一回だけで終わった。

 賞品目当てに人を教会に誘うような信者は誰もいなかったし、人を誘えるパーソナリティーの人ばかりではないことに気づいたからだろう。制度を続けたところで、賞品を受け取る人は、基本的に同じ顔ぶれになってしまう。
 間もなく信者の増加は頭打ちになり、吉川は苛立った。

 「私は他の教会の人たちにも、千人の教会を作ると宣言しているんです。私に恥をかかせるつもりですか」。

 私は、「恥をかかせるつもりですか」という吉川の言葉に耳を疑った。
 私たちは吉川から、「恥は我がもの、栄光は主のもの」と教えられ、神のために恥をかくことを潔しとせよと言われてきたが、吉川は自分が恥をかくのはいやだというのか。
 そして吉川は、「みなさんひとりひとりが、たったひとりを連れてきたら、一気に人数は倍になるではありませんか。どうしてそんな簡単なことができないんですか」と、軽く言った。
 
 人間を教会に連れてくるのは、捨て猫を拾ってくるのとはわけが違う。捨て猫だって、気に入らなければ引っ掻いて逃げるではないか。
 そんな吉川自身は、その当時、街角で人を誘うわけでもなく、誰かを連れてくることもしていなかった。それはこの教会では牧師の仕事ではなかった。牧師は、信者を叱咤激励、否、恫喝するだけでよかった。

 外面を気にする吉川らしいエピソードがある。

 私が中学三年のころだったろうか、吉川がアメリカに一ヶ月ほど旅行に出かけたことがあった。
 テキサスにある吉川の恩師ブルームの教会など数箇所に滞在して、礼拝などで説教するという結構な大旅行だった。
 出発前、吉川は信者に対して、「私が滞在中にアメリカに手紙を書いてください。皆さんがどれだけ私を思っているか、アメリカの人々が分かるように」。
 
 要するに、ヤラセまがいの手紙を書けということだった。
 
 私は素直に、吉川の滞在先の住所に、たぶん、生まれて初めて、エアメールを出した。
 でも、吉川とまともに話したこともないのに、いきなり手紙を書けと言われても、何を書いてよいかわからなかった。私は苦し紛れに、「お元気ですか」という決 まり文句の後に、吉川の代役で説教した、アメリカ人のゲストスピーカーの説教の内容を書いて送った。送れと言われたのだから、送ることが正しいと思っていた。
 私がちょっとだけ期待していた、吉川からの返事はなかった。しかし、吉川が帰国した最初の日曜日、吉川は私を見つけ、「青木兄弟。あなたの手紙を読みましたよ。ちゃんと送ってくれて、ありがとう」と言って、私の手を強く握った。実際に送った人は左程いなかったようだ。

 でも、私はとてもうれしかった。吉川が私の名前と顔を覚えていてくれたことに、ちょっとだけ感激した。
青木大蔵
信ずるものは、救われぬ
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