信ずるものは、救われぬ

第3章 青春と苦悩( 2 / 16 )

 中学生になったときに、私は礼拝に加えて、土曜日の午後に、学生集会に出席するようになった。
 学生集会とは、『いちご白書をもう一度』に歌われた、左翼の集会のことではなく、文字通り学生への伝道を目的にしたものだった。
 賛美歌を歌い、説教を聴く。説教は、私が中学生の頃は、担当の伝道師や特訓生がしていた。
 賛美歌と説教の合間に「証し」がある。信者が自分の信仰の体験談を語るのだ。それは何の予告もなく、司会者が信者を名指しし、話すことを強要する。
 指導者たちはこう言った。「何を話してもいいんです。皆さんがたとえ『ハレルヤ!』とか。『感謝します!』の一言だけ言ったとしても、それが心からのものなら、初めてきた人にだってわかるものなのです」と。
 だか、実際にはそんなわけにはいかない。
 私の口下手な後輩が証しに指名され、しぶしぶ前に立つと、本当に「感謝します!」の一言をさほど大きくない声で呟いて席に戻ってきたことがあった。座はしらけるし、初めて来た人はきょとんとするしで、司会者は後を取り繕うのに大変だった。
 もちろん私も何度もさせられた。父を早く喪ったこと、母と妹との寂しい生活(実際にはそんなに寂しくなかったのだが)、そして主イエスとの出会いで人生が変えられた…。まぁ、そんなストーリーだった。これを、みんな作らねばならなかったのだ。
 
 証しは嫌だったが、学生集会で先輩からギターを習った私は、音楽の楽しさもあって、基本的には苦痛を感じることもなく、土曜日も嬉々として教会へ行き、週末をすべて教会のために費やすようになった。
 日曜学校に通っていても、中学校に上がったら教会に来なくなるというのは、よくある話だった。
 親が信者であっても、クラブ活動に入れば自然と足は遠のく。親が信者でなかったら、勉強のためにという名目で、教会から離される。実際、子供のころに日曜学 校に通っていたという人は存外多いが、そのまま信者になったという人の数は、圧倒的に少ない。私の今の直属の上司は東京出身の日本人(私はアメリカで働いている)だが、彼もそのひとり だ。
 しかし私は、そろそろ感覚が麻痺していた。教会に通い続けるのは当たり前だと思っていたし、地獄に落ちるのは嫌だった。

 一方私は、中学では、バスケットボール部に所属した。
 入学直後は、大好きだった吉本新喜劇の影響で、コメディーを自分で演じてみたくて、演劇部に入っていた。ただ、先輩や同輩がみな女生徒で、私の影響で一緒に 入部した友人が、私を置いてサッカー部に移ってしまった後は、ただひとりの男子部員として、非常に恥ずかしい思いをしていた。
 そんなある日、講堂兼体育館で練習しているときに、背が高いというだけの理由で、私はバスケットボール部にスカウトされ、そのまま入部した。私は中学入学時にすでに、身長が百七十センチあったのだ。しかし、運動音痴はそのままで、私は基礎練習に四苦八苦した。
 当然、中学校のスポーツクラブの試合は土曜日、日曜日にある。既に洗脳されていた私は、礼拝を休んでまで日曜日の試合に出場することはなかった。本当は試合に出たかったが、日曜日に礼拝を休めば、私は地獄に落ちると思っていたから、それはできない相談だった。
 顧問の先生に、一番背の高いお前が試合に来ないから、フォーメーションを二通り考えねばならないとこぼされたが、そんなことは気にもかけていなかった。

 しかし、流石に土曜日は試合のために学生集会を休むこともあった。教会側は学生集会に信者が来ないことを問題視し、極力これに来させるように指導していたし、私たちも土曜日は、何もなければ学生集会に行くものと、それを当然視していた。
  中学二年のある土曜日、私は、当時担当者であった三枝祥子に、試合があるので次の週の集会に来られないと告げた。彼女は大野の家の近くにあった、商店主の娘だった。三枝は、私の妹のクラスの日曜学校の先生だったこともあり、私の家に家庭訪問に来たうちの一人も彼女だった。
 三枝は渋々それに応諾した。さすがに学生集会は、日曜日でないから出席を強制することは理屈に合わないからだ。
 すると、丸畑が来て、テニスの試合が、そしてこれまた熱心な信者であった同級の中町幸治も卓球の試合が、と申し出た。偶然三人の試合の日が重なっていたのだ。
 本当はそんなことを告げる必要もなかったのにと、今となっては思うのだが、私たちはそれくらい学生集会も、礼拝と同じように重要だと認識させられていたのだった。三枝は「自分たちで考えてください」と意味不明の言葉を発して、目を真っ赤にして泣き出した。
 私たち中学生三人は、途方にくれて顔を見合わせたが、結局みんな試合に出場した。

第3章 青春と苦悩( 3 / 16 )

 私たちが学生集会に参加するようになったころ、長崎栄治という名の若い特訓生が、担当者のひとりとして、私たち男子学生の面倒を見てくれていた。背が高く。目の大きい人だった。髪の毛が、整髪料でいつもぬれているような感じがしていた。
 長崎は大阪大学を卒業した秀才だったが、非常に癖のある人で、私はちょっと苦手だった。
 中学一年生のときだったと思う。日曜日の午後、私は礼拝が終わったら、学校の友人と一緒に、当時話題になった、カトリックの悪魔祓いが題材の映画、『エクソシスト』のロードショーを観にいくことにしていた。
 ところが私が『エクソシスト』の話をしていたところ、これを耳に挟んだ長崎は真顔で心配し、「悪魔の映画など観に行かないほうが良いよ」と、私に行かないように説得を試みた。大野も心配して、同じように言った。しかし前売券を買っていた私は、それを無視してミナミまで出かけ、その映画を観た。

 何事も起こらなかった。

 後年、教会の仲間から、イーグルスの『ホテル・カリフォルニア』を聴いてはいけないと言われたことがあった。あれは悪魔の歌であると。逆回転で聞くと悪魔の賛歌になる云々。『悲しくてやりきれない』と『イムジン河』ではあるまいに。
 私はイーグルスのアルバムを捨てることはなかった。この手の話に関して私は結構覚めていて、それが信仰と関わりがあるとは全く思えなかった。日曜日に教会に行っていれば、後は大丈夫。

 私の免罪符は、礼拝出席だった。
 
 でも、長崎にとっては、『エクソシスト』は一大事だった。だからといって、『エクソシスト』を見て、悪魔に憑かれたかもしれない私に対するフォローがあった わけではない。そういう点で、牧師や伝道師、特訓生だけではなく、教会の先輩たちも無責任極まりなかった。言いっぱなしが常だった。

 特訓生である長崎は、当然、牧師である吉川から訓練を受けていた。
 吉川の弟子訓練は、訓練とは名ばかりで、しごきそのものだった。他の特訓生もそうだったが、彼らを含め、献身者は吉川の前ではいつもぴりぴりしていた。
 実際吉川は、「私は教育のために、特訓生を殴ったこともあります」と公言していた。
 殴られたのが長崎だったかどうかはわからないが、吉川がこの長崎に非常に厳しく接していたのは、私にもよくわかった。牧師になる訓練を受けている若い特訓生だから当然なのだろうと、最初は思っていたのだが、それにしても目に余るものがあった。
 実際吉川は、人の好き嫌いが激しかった。その基準は、女性に関しては明らかに容姿だった。本人はわからないと思っていただろうが、それは子供の私にさえ見え見えだった。
 ふけ顔で容姿の悪いひとりの女性は、特訓生でもない一般の信者なのに、いつでも吉川につらく当たられていた。それは見ている幼い私の心が痛むほどだった。何か個人的な問題でもあるのかと思えるほどだった。いや、今から考えれば、何かがあったとしか思えない。それほど邪険な扱い方だった。
 さて、吉川が長崎のどこを気に入らなかったのかは、今となってはわからない。優秀な若者が自分の弟子になっている。誇りに思ってもよさそうなものだが、私は、長崎の学歴が災いしたのではないかと私は思っている。当時の男性の特訓生や伝道師は、中卒か高卒で、長崎だけが大卒、しかも阪大卒。吉川は大学中退。学歴コンプレックスを疑われても仕方がない。
 ある日の礼拝中、賛美歌を歌っている途中で、吉川が突然長崎を怒鳴りつけた。伴奏は中断され、会堂内が静まり返った。

 「長崎兄弟、あなたは何をしているんですか。どうしてみんなと一緒の『振り』をしないんですか」。

 この教会では礼拝で賛美歌を歌う際に、黒人教会でそうするように、司会者のリードで、礼拝で賛美歌を歌っている途中に、全員が立ち上がって体を大きく揺らしたり、手拍子をしたり、歌詞に合わせた手振りをつけたりすることがあった。
 長崎の賛美歌の手振りが人とそれ違うということで、吉川は激怒したのだった。
 もしもそれがいけないことならば、礼拝が終わってから別室に呼んで注意すればよいはずだ。神への礼拝の最中に怒鳴りつけることが、違う手振りをすることと比べて、果たしてどちらが正しいのだろうか。
 全体主義者の吉川が、一糸乱れぬ、北朝鮮か創価学会のマスゲームのようなものを礼拝に期待したことは想像に難くない。また、それを乱したのが長崎だったことで、余計に癪に障ったのかもしれない。しかし、余りにもひどい叱責の仕方に、信者全員が震え上がった。

 その事件の直後、長崎は明らかに精神に変調をきたした。

 うつろな目をして、ぼおっとしていることを目にするようになった。そんなところを吉川に見つかって、また怒鳴られることもあった。
 間もなく長崎は教会から消えた。聞くところによると、父親が迎えにきたということだったが、長崎がなぜ消えたかということを、誰も説明する者はなかった。それどころか、長崎がいなくなったという事実さえ、一切公表されることはなかった。
 
 ちょっと古い言葉で言うと「蒸発」のようなものだった。

 長崎以外にも「蒸発」の例はあったが、どんなに熱心な人であっても、その顛末については何も話されない。誰かが消える。そしてその誰かは、最初から存在しなかったように装われる。ソ連か中国で起こった粛清の顛末のようなものだった。
 ひとりだけ、その「蒸発」に触れざるを得ない案件が生じた。
 元特訓生で、突然教会をやめた榎本光男という、鼻の大きい若い男がいた。その榎本がキャバレーで呼び込みとして働いていて、風俗営業法違反か何かで逮捕されたのだった。
 かつて、榎本が牧師志望で、教会で修行をしていた経験があったということで、風俗店の店長とのギャップの面白さを嗅ぎ付けた週刊誌の記者が、教会のことを含めて、面白おかしく書いたらしい。そこに吉川のスキャンダルが載っていたという噂も後年聞いた。
 私は、榎本がいつの間にかいなくなっていたことは知っていたが、まだ子供だったので、週刊誌の内容は知らなかった。
 説教の最中、榎本が逮捕された話をわざわざ持ち出した吉川は、わざと絞り出すような声で、「榎本兄弟はキャバレーの呼び込みをやっていたというのです」と、 信仰から離れ、堕落した元特訓生を惜しむような演技をして見せた。苦悶の表情を浮かべ、如何に自分が榎本を愛し、指導していたかを演出して見せた。
 吉川によれば、彼は拝金主義者になっていたらしい。
 結局、あくまでも、榎本の脱会と転落は彼自身のせいだということだったが、私は幼いながらにも、信仰熱心な信者を突然変えるどんな事件があったのかに、思いをめぐらせた。
 教会で何かがあったのだ。何もなければ、堕落などしない。私はそう直感した。
 金がほしかったなら最初から牧師になるために献身などしないだろう。特訓生には給料などない。教会とは価値観が正反対の風俗店に勤めるよりも、金もうけをする道はある。
 なぜ榎本は、あえて風俗店を選んだのか。今から考えれば、榎本は、至聖の道から、意図的に正反対の堕落の道を選んだのではないかと思うのだ。

 吉川へのあてつけとして。

 もちろん、私には本当のことは何もわからなかったし、今もわからないが。

第3章 青春と苦悩( 4 / 16 )

 吉川の目標は、千人が日曜礼拝に集う教会をつくることだった。

 ある年、吉川は年度末までに三百人を確保するという目標を立て、それを達成するように信者に命じた。
 これは、『士師記』第七章に登場する、ギデオンが率いた三百人の精兵をヒントにしたもので、三百人は信者へのノルマとなった。そして、それが達成されかけた数年後、その目標は一気に七百人になった。
 時折、特別伝道集会というのが開かれた。これは、新しい信者を獲得するために、概ね1週間単位で開かれるもので、教会のお膝元ではなく、ちょっと離れた町の会館を借りたり、或いは、空き地にテントを建てたりして、そこで行われた。私たちはこれを「特伝」と読んでいた。牧師たちから叱咤され、ビラやトラクト (薄いパンフレット)を配り歩いた。集会ではもちろん、未信者向けのメッセージが用意されるほか、証しやスペシャル(賛美歌の合唱などの特別の出し物)がプログラムされ、「万全の体制」を組んだ。

 しかし、殆どの場合はたいした成果を挙げることはなかった。

 考えても見てほしい。通勤帰りの時間に、駅前のテントで宗教団体が集まりをしている。そこに通りすがりの人が興味を持って入るだろうか。私なら御免だ。興味があれば教会を訪ねる。テントに入って行こうとは決して思わない。それが普通の感覚だろう。
 私は今、成果がないのに何度も同じ轍を踏んでいたこの特伝は、信者獲得というよりも、信者を働かせるための口実だったような気がする。中国や北朝鮮などの独裁国家が、「○○運動」と名付ける空疎な活動を国民に強要し、精神的に緊張させ続けるというあのやり方と同じだ。大躍進運動、文化大革命のようなものだ。

 信者獲得を焦る吉川は、多く人を誘った信者には賞品を出す制度を始めた。しかし結局それは一回だけで終わった。

 賞品目当てに人を教会に誘うような信者は誰もいなかったし、人を誘えるパーソナリティーの人ばかりではないことに気づいたからだろう。制度を続けたところで、賞品を受け取る人は、基本的に同じ顔ぶれになってしまう。
 間もなく信者の増加は頭打ちになり、吉川は苛立った。

 「私は他の教会の人たちにも、千人の教会を作ると宣言しているんです。私に恥をかかせるつもりですか」。

 私は、「恥をかかせるつもりですか」という吉川の言葉に耳を疑った。
 私たちは吉川から、「恥は我がもの、栄光は主のもの」と教えられ、神のために恥をかくことを潔しとせよと言われてきたが、吉川は自分が恥をかくのはいやだというのか。
 そして吉川は、「みなさんひとりひとりが、たったひとりを連れてきたら、一気に人数は倍になるではありませんか。どうしてそんな簡単なことができないんですか」と、軽く言った。
 
 人間を教会に連れてくるのは、捨て猫を拾ってくるのとはわけが違う。捨て猫だって、気に入らなければ引っ掻いて逃げるではないか。
 そんな吉川自身は、その当時、街角で人を誘うわけでもなく、誰かを連れてくることもしていなかった。それはこの教会では牧師の仕事ではなかった。牧師は、信者を叱咤激励、否、恫喝するだけでよかった。

 外面を気にする吉川らしいエピソードがある。

 私が中学三年のころだったろうか、吉川がアメリカに一ヶ月ほど旅行に出かけたことがあった。
 テキサスにある吉川の恩師ブルームの教会など数箇所に滞在して、礼拝などで説教するという結構な大旅行だった。
 出発前、吉川は信者に対して、「私が滞在中にアメリカに手紙を書いてください。皆さんがどれだけ私を思っているか、アメリカの人々が分かるように」。
 
 要するに、ヤラセまがいの手紙を書けということだった。
 
 私は素直に、吉川の滞在先の住所に、たぶん、生まれて初めて、エアメールを出した。
 でも、吉川とまともに話したこともないのに、いきなり手紙を書けと言われても、何を書いてよいかわからなかった。私は苦し紛れに、「お元気ですか」という決 まり文句の後に、吉川の代役で説教した、アメリカ人のゲストスピーカーの説教の内容を書いて送った。送れと言われたのだから、送ることが正しいと思っていた。
 私がちょっとだけ期待していた、吉川からの返事はなかった。しかし、吉川が帰国した最初の日曜日、吉川は私を見つけ、「青木兄弟。あなたの手紙を読みましたよ。ちゃんと送ってくれて、ありがとう」と言って、私の手を強く握った。実際に送った人は左程いなかったようだ。

 でも、私はとてもうれしかった。吉川が私の名前と顔を覚えていてくれたことに、ちょっとだけ感激した。

第3章 青春と苦悩( 5 / 16 )

 泉南キリスト福音教会、関西ペンテコステ福音教会には行事がたくさんあった。日曜日以外の休みの日も、極力信者を縛り付けておこう、ということだったのだろう。

 そのひとつがキャンプだ。

 キヤンプとは、日本語になったその言葉がイメージするアウトドアの遠足ではない。
 アメリカでは、夏休みなどの長期の休み中に、子供たちを対象に、様々な団体が合宿を開く。野球、アメリカン・フットボール、サッカー、テニスやサーフィン などの各種スポーツ以外に、絵や写真などの芸術、数学や理科など、様々なジャンルの合宿があり、これをキャンプと呼ぶ。
 教会が行うキャンプもある。信者の子供たちが合宿をして、神の言葉を学ぶことを目的にするのが、教会のキャンプだ。

 泉南キリスト福音教会、関西ペンテコステ福音教会で行われたキャンプは、まさしく「信仰強化合宿」だった。

 キャンプは春休みと夏休みに行われた。それは私にとって、楽しみでもあり、また苦痛でもあった。友人たちと外で宿泊できる楽しみと、長時間の祈祷を強要される苦痛がそれである。
 小学生のキャンプは、県境の山の中にある、吉川清も牧師になる前に通った、紀泉聖書学院のキャンパスが主な目的地だった。教会からは車で30分ぐらいの ところであったが、自然に囲まれた悪くない場所だった。難を言えば、建物は古かった。夏場は蚊が多かったので、先生が蚊取り線香をたくさん炊いたり、殺虫剤を直接子供の手に噴霧したり(虫除けスプレーはまだ販売されていなかった)したシーンが脳裏に蘇える。夏は公営の野外活動センターなどで行うこともあった。
 キャンプは聖書の勉強とピクニック、そして長時間の祈祷が主な内容だ。吉川は来なかった。小学生のキャンプは日曜学校の責任者の伝道師が中心になって計画された。
 ペンテコステ派のこの教会では、キャンプで子供にも集団で祈祷させ、聖霊の降臨を期待した。実は私を教会に誘った大野は、小学生でただひとり、聖霊降臨を経験している「エリート」だった。
 私たちはキャンプで、夕食後に行われる礼拝で賛美歌を歌い、説教を聞いた後、一時間以上も、聖霊降臨のために祈らされた。

 念のために書くが、私たちはまだ一〇歳そこそこだった。私の妹のように、もっと幼い参加者もいた。私は、長時間の正座にしびれを切らし、先生に見つからないように、時々薄目を開けながら、「これさえなければ楽しいキャンプなのに」と、いつもそう思っていた。
 小学生なので自分の時計がない。だから祈っている時間がものすごく長く感じられた。祈祷は強制だった。祈りたくないということは許されなかった。私は祈祷時間の終わりを告げる、オルガンの音色が待ち遠しかった。
 このキャンプに保護者は同行しない。二泊三日の間、日曜学校の先生による短期間の王国がそこに構築された。もしも、そこに取材のカメラが入っていて、その一部始終を公にしたならば、オウム真理教やその類の邪教集団が、子供を囲って洗脳していると批判されたのと同じように、何らかの疑いの目を向けられたであろうことは想像に難くない。
 しかし、その頃の私が取材のマイクを向けられたら、「楽しいです」とだけ答え、強制的に祈らされている苦痛を訴えることはできなかっただろう。

 カルトにいる子供たちは、皆同じだ。そして子供は、どんな答えが先生にほめられるかを知っている。

 六年生の春のキャンプで、私はちょっとした失敗をした。
 バスに乗って紀泉聖書学院に着くと、高学年は、物を運んだり、座布団を並べたり、先生と一緒に準備を手伝った。私は最初に大野と一緒に大きな荷物を運ぶのを手伝って、自分の役目は終わったと思い、ぼけっとしていた。
 すると、大柄な大野が、他の何人かの子供と一緒に、不満そうな顔でオルガンを運んでいるのが目に留まった。
 「何や大野、まだ手伝わされてるんか」。私はそう声をかけて、はっとした。オルガンを担いでいたのは、子供ばかりだと思っていたのだが、そこに小柄な浮田が混じっていたのだ。私は浮田を子供のひとりだと思ってしまったのだった。
 しまったと思った瞬間、浮田は私に、低く厳しい声で、「青木君、『手伝わされる』というような考えでは、イエス様は喜ばれないよ」と言った。私は慌てて大野の横に移動して、オルガンを運んだ。
 優等生の面目丸つぶれだった。どうもそれから、浮田は私を気に入らなくなったようだった。ことあるごとに、私に厳しく当たった。嫌なチビだ。私はずっとそう思っていた。

 中学生以上の学生が参加する春夏の学生キャンプ、そして、主に成人のためにあったゴールデンウィーク、盆と正月の聖会。これらも中身は基本的に小学生のキャンプと同じだった。
 学生キャンプは、春は子供と同じ紀泉聖書学院で、夏はそこよりももっと遠い、和歌山県の山間部にある、教団が管理するキャンプ場で行われた。こちらには吉川も参加した。
 私は中学一年のときから春夏毎年二回。愚かなことに、浪人をしていたときも行ったから、合計二二回も私は学生キャンプに参加したことになる。高校生になって からは、大人の聖会にも参加していたのだから、今から考えると気が遠くなるぐらい、このカルトの信仰強化合宿に参加していたのだ。
 
 学生キャンプには教団の他の教会からも参加者があった。近畿圏内だけでなく、関東、東海地方の教会からも、人数は少ないが参加者があった。私は、キャンプを通 じて親しくなった彼らと会うことが楽しみだったが、成長してからも、相変わらず長時間の祈りには閉口していた。もちろん、それをおくびにも出さなかったが、ちらちらと腕時計を見て、「あと十五分、あと十分」と自分に言い聞かせていたものだった。

 夏の学生キャンプの名物は、キャンプ場のすぐ近くを流れる清流での水泳と、その水で冷やしたスイカ、近所の学校のグラウンドを借りて行うソフトボール、そして、牧師たちが作るバーベキューだった。
 
 ある年のキャンプで、夕食の際に、初めて参加した高校生が、小声でこう毒づいた。「何やねん、あいつらだけエエもん食いやがって」。
 実は、牧師たちに供されるバーベキューの肉は、学生のそれと比べて見るからに大きく、副食の盛りも極端に多かった。また、参加者に供されないデザートなども牧師たちにはあった。つまらないことかもしれないが、食い盛りの学生よりも、中年の牧師たちの盛り付けのほうがあからさまに大きいというのは、信者でない人間にとっては、ちょっと不満だったろう。私はその声が牧師や指導者たちに聞こえないことを祈ったが、内心、ちょっとだけ同じことを思っていた。

 キャンプの講師には、教団の牧師以外に、特別に講師が呼ばれることもあった。たいていは、系列教団の牧師だったが、一度だけ超がつく「有名人」が登壇したことがあった。
 人気バンド「ゴダイゴ」のベーシストだった、スティーヴ・フォックスだ。
 「ゴダイゴ」のリーダーであったミッキー吉野と同じく、バークレー音楽院を卒業し、彼と最初からグループ活動をしていた、筋金入りのミュージシャンだ。一九七〇年代後半の「ゴダイゴ」の音楽シーンでの活躍は、ここで改めて書く必要はないだろう。
 そのフォックスが昭和五五年にゴダイゴを脱退し、キリスト教の宣教活動を行っていた。
 私たちは、テレビで見ていたスターであるスティーヴ・フォックスが田舎のキャンプ場に着てくれたことに興奮した。特に、当時、礼拝の時に見様見真似でベー スギターを弾いていた私は、興奮したと同時に、とても緊張したことを覚えている。ちょっとだけ会話をしたが、彼が何の話をしたかなど覚えてはいない。聖書にサインをもらって、ベース演奏にお世辞を言われて、舞い上がったことだけしかもう記憶にない。
青木大蔵
信ずるものは、救われぬ
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