信ずるものは、救われぬ

第6章 復帰と決別( 1 / 5 )

「千年の期間が終ると、
サタンは
その獄から解放される」。
『ヨハネの黙示録』第二〇章七節。


 「何で総統が帰ってくるんや」。
 私は心で密かにそう呟いた。吉川清が追放された後、私は陰で、なんでも自分でやろうとしたその小独裁者を、ヴァイマール共和国の大統領と首相を兼ねて、第三帝国を築いたアドルフ・ヒトラーに倣って、そう呼んでいた。

 私は吉川が関西ペンテコステ福音教会に帰ってくるという話を、公式発表がある前に事情通の端田か誰からその噂を聞いていたのだが、誰から聞いたのかははっきりとしない。ただ、打ちのめされたような衝撃を受けたことは確かだ。
 アメリカ帰りの私が、教会にアメリカの何かを移植するという大それた、そして雲を摑むような考えを、どのように実行に移すかを思いつく前に、教会は逆コースをたどることになった訳だ。

 吉川の関西ペンテコステ福音教会への執着はとても強かったらしい。

 残された牧師集団や吉川を監督すべき立場にあるはずの教団の力の弱さも手伝って、結局うやむやのうちに、無力な弟子たちは、背徳の師を受け入れることにしたようだった。
 噂によれば、彼らとの会合の席上、吉川は、「ここは私の教会だ」と自分の弟子に声を荒げて迫ったという。

 今度は突然という訳にはいかなかった。

 信者は吉川の尻癖を知っている。少なくとも同意を取り付けたという口実は必要だ。牧師たちは、形式的に臨時信徒総会を開いて、吉川が帰ってくることを、例によってシャンシャンで同意させようと企んだ。
 だが、一部の信者は、吉川に押し切られた牧師よりも、はるかに常識的だった。私が日曜学校の先生になったとき、同じクラスの先任教師で、熱心な信者のひとりだった佐藤明は、その総会中にこう詰め寄った。

 「吉川さんは追放されたんじゃないんですか」。

 破戒僧をなぜ受け入れるのか。まっとうな意見だ。これに対して小松が答えた。「吉川先生は追放されたのではありません。転籍されていました」。
 苦しい言い訳だった。出て行った時には、そんなことは言っていなかった。しかも、どうして他教団の教会だったのか。席上牧師たちは、吉川が転出した先の教会でも慕われており、そこに残るように懇願されていると言った。それならば、帰ってこなければよい。矛盾だらけだ。何も明らかにならなかった。
 結局吉川の弟子たちは、信者を納得させられるような説得をするつもりもなかったのだ。意見だけを出させて、「本日はありがとうございました。では、某月某日に吉川先生は帰って来られます」というアナウンスメントで、すべてを封じ込めてしまった。
 こんなものは総会でもなんでもない。ただの上意下達だ。これでガス抜きができたと思っていたのなら、人を馬鹿にした話だ。
 そもそも、吉川の追放劇そのものが、ほとぼりが冷めるまでの数年間という、密約でもあったのではないかとさえ思えた。

 ところで吉川を監督すべき、JPC教団は何をしていたのか。

 それは一般信者の知るところではなかったが、たぶん、内輪では反対もあっただろう。そうでないと示しがつかないではないか。吉川の復帰を巡ってかどうかは知らないが、その後教団は分裂してしまった。
 図書館でたまたま見つけた数年前のキリスト教年鑑を見ると、JPC教団の総帥であり、吉川の先輩牧師であった中村博は、自分の教団を作り、吉川と袂を分かっ たようだった。JPCは新組織になって改称し、その代表として吉川が、なぜか色つきメガネをかけたままの写真で紹介されていた。それは、田舎ヤクザの組長か総会屋の社長にしか見えないものだった。
 破戒僧を追放できなかった教団と他の教会の牧師たちにも、一定の責任は問われてしかるべきだろう。吉川の事件で、教団が関西ペンテコステ福音教会の信者に、謝罪めいたことや、責任の所在を明言することは全くなかった。

 教団も結局のところ、無責任な人間の寄り集まりだったのだ。

 一言で言えば、教団も教会幹部も、皆、偽善者だった。そして、その末席に座って何もできなかった私も、間違いなく偽善者のひとりだった。
 もちろん、この復帰報告の総会の後、一部の信者は愛想をつかし、大量に脱会した。
 私の親友だった丸畑も黙って去ってしまった。臨時総会で牧師に詰め寄った佐藤も教会をやめた。同じく熱心な信者だった佐藤の妻のところに、戻ってくるように友人が電話をかけてきた。佐藤は「行かへんて言うとけ」と一言叫び、妻もそれに従った。
 しかし私は、哀れなことに、この時点でもまだ完全に洗脳から解けていなかった。しばらく付き合っている苅田が教会にいたことや、教会学校の先生をしていたことも、私の決断を鈍らせた。
 そして、自分が青春を捧げてきた教会を否定してしまうことは、自分自身のすべてを否定することと同じだったから、私には容易に教会を捨てることはできなかったのだ。

第6章 復帰と決別( 2 / 5 )

 無為に数週間が過ぎた。私は結局、暫く悩んだ末に、愛想笑いで吉川を向かえることにした。
 
 吉川が帰ってくる最初の日曜日。私が吉川のスキャンダルを知っていることを、吉川自身が知っていたかどうかは知らない。教会がそれを公表した時、集会に出席を許された最年少のグループに、私は属していたから、私がそれを知らなくてもおかしくはない。
 実際私の妹もそうだが、教会に来て間もなかった彼女の夫は、私と同学年だが、公表そのものを聞いていないのだ。
 吉川は、出て行くときとは正反対の大きな笑顔で私と握手を交わした。
 「いやぁ、あなたでしたか。変わりましたね」。
 私は何とも言えない複雑な気持ちになった。

 礼拝の説教。私は、事件の本質に触れるかどうかは別にして、吉川が信者に頭を下げるところから始まることを期待した。「頼むからそうしてくれ」。私はそう祈った。吉川が頭を下げてくれたら、私は何も言わずに、この教会で頑張れる。

 しかし、私の心秘かな思いは打ち砕かれた。拍手で迎えられた吉川は、謝罪をするどころか、ふんぞり返って説教をした。五年前のように、そしてその間、何もなかったかのように。 
 吉川は『ヨハネによる福音書』第十五章一二節、「わたしのいましめは、これである。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互に愛し合いなさい」 と、『エペソ人への手紙』第四章三二節、「互に情深く、あわれみ深い者となり、神がキリストにあってあなたがたをゆるして下さったように、あなたがたも互に ゆるし合いなさい」をひいて、「イエス様を信じる私たちは、たとえ何があっても互いを許さねばりません。なぜなら、イエス様がそうしてくださったからです。ですから、私たちもお互いに許し、愛し合いましょう」と、平然と言ってのけた。
 それは、「私はイエスに許されているのだ。だからイエスに倣って、お前たちも私を許せ。何も言うな」。そういうことだった。

 説教が終わると、私の戸惑いに気づくはずもなく、牧師たちはにこやかに講壇に集まり、私たちには威張り散らしていた浮田が腰ぎんちゃくに舞い戻って、改めて吉川を歓迎することを宣言した。礼拝堂に拍手が響いた。しばらく続いた拍手の中。私はひとり、取り残されていた。
 意外だったのは、つんけんしていることで有名で、信者の女性たちから評判が悪かった吉川の妻・民子が促されて挨拶をしたことだ。その中で彼女は、「主人の不祥事」で皆さんに迷惑をかけたと、頭こそ下げなかったが、謝罪の言葉を述べたのだった。
 私は吉川の顔を見たが、「追放」されたときと同じような、他人事の顔で、妻の謝罪を聞き流していた。

 「妻だって私を許しているのだ。お前たちも許せ」。そう言わんばかりに。

 吉川は結局、今でも、未信者の時の、引っ込み思案だったころのように、ややこしいことは民子にさせるということなのか。それで自分の禊は終わったと思っていたのか。
 吉川は、信者にスリッパを並べる気持ちなど、やはりなかった。私は、ベースギターをケースにしまい、帰り支度をしながら、怒りと失望で涙が出そうになった。

 この教会はもうだめだ。

 イエス様は私たちを許してくれたのだから、私たちが許しあうべきなのはわかる。私も吉川を許す。しかし、破戒僧が信者に許しを強要し、再び上に立って、偉そうに説教を垂れることなど許してはならないのだ。
 浮田は、私の「恋愛事件」の時、「おまえが今度女にちょっかいを出したらお前を用いない」と私に言ったが、吉川は不倫をしても、自分の権威を利用して信者の女に手を出しても、また用いられている。それに対して、信者に厳しい浮田は、吉川にはへらへらしているだけだ。
 こんなダブルスタンダードが、関西ペンテコステ福音教会ではまかり通っていたのだ。浮田に、「お前の嫁はんも、今、お前の目の前にいるこの男に抱かれたという噂やねんぞ」、と言ってやりたかった。

 偽善だ。全くの偽善だ。イエスが批判したパリサイ人よりもひどい偽善だ。

 イエスに許されたらみなチャラになる。これが偽善でなくて何だというのか。イエスはそんなつもりで、罪人を許すと教えたというのか。それならば、真面目に信仰生活を送るのは、烏滸の沙汰だ。

 後に私はカトリック教会で、アンドレアスという若い神父と知り合った。彼は、信者の女性と恋に落ちた。神父は結婚することができない。彼は罪を犯す前にその職を捨て、一般信者となって彼女と結婚する道を選んだ。彼が結婚した後、日曜日のミサの聖体拝領の時、今までは彼が信者にご聖体をわたしていたのに、信者の列に並んで、別の神父から聖体を受ける。彼はそれを屈辱とは思わず、誇りに思っているようだったし、他の神父たちも、ミサが終われば、彼に勇気ある友人として接していた。

 同じような例をもうひとつ知っている。名前は忘れたが、そのドイツ人の神父は、私の母校の教授でもあった。彼は、同僚から「転びキリシタン」だと揶揄されながらも、一回り以上年下の細君と結婚するために、神職を捨てたのだった。
 彼らは吉川のような不倫をした訳ではない。しかし、彼らが恋愛し、結婚することは、神父に叙階された者に対する戒めを破ることになるので、自らその職を辞したのだ。

 吉川が即席で牧師になったのとは違い、カトリックの神父は、幼少期から長い年月をかけて、その地位に到達する。それまでの間に、何度も自分を試されることがあって、それでも養成課程を全うした者だけが、神父としての尊敬を受ける。にもかかわらずアンドレアスも、その教授も、罪を犯すことがないように、それを捨てたのだった。

 このカトリック神父の潔さと比べて、吉川の醜い執着心はどうだろう。

 吉川は、結婚もできるし、妻とセックスもできるプロテスタントの牧師という立場で、権威をかさに来て、抵抗できない、無力な女信者に手を出したのだ。それが露見しても、自ら職を辞すこともなく、転籍でお茶を濁して、今度はごり押しの復帰だ。

 私はようやく、白昼夢から目を覚まそうとし始めた。

第6章 復帰と決別( 3 / 5 )

 私は丸畑と一緒に出奔しなかったことを心から悔やんだ。そしてこの日から、いよいよというか、ようやく脱会するタイミングを見計らうようになっていった。

 吉川が帰ってくる直前から、私は明らかに礼拝を、というよりも、礼拝における説教を軽視するようになっていた。同じ話の繰り返しで、つまらないから、ということもあった。一三歳の時から取り続けてきた説教のメモも一切取らなくなった。誰が説教をし、誰が司会をし、誰が賛美歌のリードをしたかということまで、集会ごとに細かくつけていたノートをすべて捨てた。今となっては、どれだけくだらない話をしていたのかを思い出すために、もう一度読み返したい気分だ。

 アメリカから帰国して以来、私ははっきりと教員志望になったので、日曜学校で教材を工夫して子供たちを教えることに熱心になってはいた。その頃私は、小学校中級クラス(三、四年生)を担当していた。カリキュラムは、キリスト教出版社が発行している教育雑誌をもとに一応あって、それに従って授業案を考え、教案や教具を作った。
 モーゼの十戒の内容を絵で説明したフラッシュカード、アダムとエヴァが蛇に騙されるという、いわゆる失楽園の物語(『創世記』第三章)のために作った、東京コミックショーのような蛇のパペットなどを思い出す。
 全部自腹だったが、子供に判りやすく教えるためだったら、全く苦にはならなかった。自分が作りたかったから、保護者向けの月報も作り、私は、自分がいつか、本当の教壇に立つときのための準備をしていた。しかし、日曜学校以外は極力手を抜いていった。

 バンマスが、吉川の女だった辻本から、古参信者で、やっぱり吉川を妄信していた狩谷崎ひとみに代わったら、礼拝でベースギターを弾くことからおろされた。これは、私より腕がたつベーシストがいたということもあるかも知れないし、日曜学校の行事の関係で、日曜礼拝に出られないこともあったから、便宜上ということから始まったのかも知れない。私はその理由の説明を受ける前に、いつの間にか、完全にバンドメンバーから外されていたのだが、これでまた少し気が楽になった。私は、泥沼から足が片方抜けたような感覚を覚えていた。

 用いられなくなっても平気な自分がそこにいた。

 私は次に、教会で洗礼を受けた信者に半ば強制されていた、「什一返金」を拒否した。この奇妙な名前のお布施は、『マラキ書』第三章一〇節にある「わたしの宮に食物のあるように、十分の一全部をわたしの倉に携えてきなさい。これをもってわたしを試み、わたしが天の窓を開いて、あふるる恵みを、あなたがたに注ぐか否かを見なさいと、万軍の主は言われる」を都合よく解釈したもので、全収入の十分の一は神の取り分であるから教会に持って来いというものだ。献金は匿名だが、「什一返金」は記名で、金額も書かねばならない。
 吉川は、神を試してはいけない(『申命記』六章一六節)という大原則に反して、この箇所だけ、唯一「私(神)を試せ」と書かれていると教え、このお布施を奨励した。
 私は、神を試すつもりなどなかったので、実際のアルバイト収入の十分の一など袋に入れたためしはなかったのだが、結局それも完全に止めてしまった。
 二~三ヶ月して、会計責任者の三木が私を呼び出し、「最近什一返金をしていないようだがどうなっているんだ」と詰問した。えらそうな口調だった。
 まさか、金のことで教会が私を監視しているとは、その時までは思わなかったが、私は開き直っていた。憤然として、「神を試せと言われているが、私にはその信仰がないからしないのです。それに献金で私はその分も捧げています」と嘘をついた。
 実はそのころ私は、献金もほとんどしなくなっていた。「献金と返金は違うんだが、信仰がないと言われればそれまでだ」と、三木は引き下がらざるを得なかった。

 私は勝ったと思った。そしてそれを牧師たちに咎められることもなかった。

 献金といえば、こういう話がある。吉川が復帰してからのことだ。
 地元の建設会社社長の田淵幸雄一家は家族そろって熱心な信者だった。私は、学生キャンプで中学生になったばかりだった長女の面倒を見たことがきっかけで、一時期彼女の家庭教師をしていた。それで家族ぐるみで懇意にしていた。お金持ちで優しい両親、可愛い子供たち。いつも笑顔が絶えない、素敵な一家だった。
 ある日、吉川が礼拝中にこう言った。
 「私は献金のことについてとやかく言うつもりはないのですが、先日田淵さんが教会に百万円を献金しました。みなさんもできる限りのことをしようじゃありませんか」
 私は耳を疑った。吉川は百万円という金額を暴露した上で、田淵の名前を公表したのだ。
 もちろん、田淵はそんなつもりで献金したのではなかったろう。これはプライバシーの問題でもある。私は吉川が下半身だけでなく、こういった面でも牧師を名乗る資格はないと思った。

 吉川は追放の前に一度、浄水器の宣伝を礼拝の説教の中でしたことがあった。そして「買いたい人は私に言ってください」と付け加えた。浄水器がマルチまがいの商法で売られていることがよくあるが、吉川はそれでサイドビジネスもしていたのかも知れない。もちろん、純粋に自分の感想を述べただけかもしれないが、そ れを疑われても仕方がないだろう。

 少なくとも浄水器の斡旋は、説教中に話す話題ではない。

 それでも私はまだ、最終的に教会を離れる決心がつかないでいた。私は何を恐れていたのだろう。マインド・コントロールと言えばそれまでだが、私はやはり、この教会がマトモになるなら、続けて通っていたいと思っていた。
 
 そうだ、日曜は礼拝を休んではいけないのだ。私はまだ地獄が怖かったようだ。

第6章 復帰と決別( 4 / 5 )

 吉川が戻って来て最初の信徒総会の一ヶ月ほど前のことだった。今回から「目安箱」がなくなり、質問はすべて当日受け付けるというアナウンスがあった。
 会計監査がまだ行われていないことは明らかだったし、これは明らかに質問封じだった。会計監査くらいなら誤魔化せるが、吉川のスキャンダルでも書いた紙爆弾があったら困るからだろう。

 私はひとつの決心をした。目安箱がなくても、事前に質問をして反応を見ようと。

 私は吉川宛にではなく、信徒総会担当者宛に、匿名の質問状を送りつけた。吉川のスキャンダルについてはあえて書かなかった。それはせめてもの武士の情けだと考えた。
 新しく信者になった若者の親が、興信所を使って関西ペンテコステ福音教会を調査させたところ、カルト集団として報告されていた。友人であった信者のひとりが、彼に話をよくよく聞いてみると、どうやら、統一協会と間違えられたらしかった。
 その話題を中心に、会計監査のことはもとより、教会運営の不満について、連綿と便箋一枚にワープロで書き、あたかも複数の人間がそれに関与しているかのように装った。私は、今のままでは、友人を教会に誘うことは、恥ずかしくてできないと締めくくった。

 果たしてその信徒総会の前の週、吉川は礼拝中に大爆発したらしい。

 らしい、というのは、私は日曜学校の行事の関係で礼拝には出席せず、午前中いっぱい子供たちと一緒にすごしていたからだった。
 偶々その日私は、帰り間際に、百万円の田淵夫妻と立ち話をした。
 吉川は、「質問があるなら直接しろと言ったはずです。ワープロを使うとはやり方が汚い」と、ものすごい剣幕だったらしい。まぁ、人格者でない吉川なら、さも ありなんといったところだ。同じことでも冷静に言えばよいものを、長崎の時もそうだったが、礼拝中に激怒するとは、スキャンダルがなくても、牧師としての 資格を疑うのに十分な話だ。

 しかし、質問封じに『目安箱』を撤去するほうがよほど汚いではないか。

 私は運よく礼拝に出席していなくてよかったと思った。吉川に睨みつけられでもしたら、私はその時点でも、自分がやったと自白してしまいそうだったからだ。
 その時、田淵は私に、意外なことを言った。
 「それを書いたのは私だって言おうかと思ったんだよ」。
 私がきょとんとしていると、「いろいろ聞きたいことがたくさんあるもの」と続けた。そして田淵の妻が、いつものように、ふくよかな顔に、満面の笑みをたたえ ながら、夫と同じ鹿児島訛りで、「私たちが『幸福の科学』の勉強をしていると言ったら、先生、何て言うかしらね」と付け加えた。
 私は一瞬耳を疑い、何も言うことができないでいた。その様子を気遣うこともなく、夫のほうが続けてこう言った。「青木兄弟、私は、大川先生は、よみがえりのイエス、本当のエルカンターレだと思うよ」と言い切った。

 私は、誰かが聞いていないかと、ひとりひやひやしていた。

 大川隆法の作ったこの新興宗教は、当時芸能人を巻き込んで、ものすごい勢いを見せていた。田淵夫妻は、信者の疑問に答える気のないイエスよりも、エルカンターレ・大川を選ぼうとしていた。
 吉川流に言えば、教会に百万円寄付するほどの大きな信仰がある田淵一家が、キリスト教ではない新興宗教に興味を持ち始めている。私はある意味で驚いたが、よく考えてみれば、この教会だって、客観的に見れば新興宗教だった。セクトかカルトだと言われても仕方が無い組織だった。

 その頃私は、教会を去る準備をしながら、教会に通い始めたころのことをよく思い出していた。

 大野との出会い、優しかった大野の母、あまりきれいでなかった古い教会堂と日曜学校の狭い部屋、洗礼タンク、キャンプ、私の最初の先生である若山と福井…。
 若山は吉川に手をつけられたことが原因で、同じ教団の別の教会に、ずいぶん前に移っていた。今は老女となった彼女が、どんな気持ちでいるのか、私は哀れで仕方がない。福井は、吉川が追放される前に、牧師になって教会を去っていた。ネットで探したが無駄だった。
 噂によれば福井を牧師に任命する時、吉川は女の問題を暴露されることを恐れて、渋々任命したという。任命式に私は出席していたが、吉川は福井を会衆の面前で土下座させ、按手の祈り(手を頭の上に置いて祈ること)をした。せめてもの吉川の意地だったのだろう。
 福井には悪いが、私はもしもそれが事実なら、福井は悪魔に魂を売ったも同然だと思う。自分の牧師任命を犠牲にしてでも、福井は事実を暴露する道を選ぶべき だったのだ。それが聖職者ではないか。それをした福井を攻める者がいたとしても、マトモな信者は福井についていくだろう。吉川の穢れた手による按手よりも、信者の推戴を選ぶ勇気を、この教会の牧師や伝道師たちは持っていなかった。

 見て見ぬふりをしたのなら、みんな同罪だ。

 その福井の姉が、私にこう言ったことがある。「創価学会は仏教の異端、あなたたちはキリスト教の異端だと友人に言われるのよ」。
 確かにそうだろう。異端=カルトといってもピンキリだ。統一教会、モルモン教、エホバの証人、クリスチャン・サイエンスなどは、ほとんどのキリスト教会がそれをキリスト教だとは認めていない。しかし、キリスト教のカテゴリーに入ってはいても、実は関西ペンテコステ福音教会のように、かなり際どいものも多くあ る。
 ネット上にはそのような情報が飛び交っている。信者は、イエスの教えにではなく、実はその教会の教え、有体に言えば、牧師の脅しに呪縛されてしまうのだ。
青木大蔵
信ずるものは、救われぬ
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