信ずるものは、救われぬ

第3章 青春と苦悩( 4 / 16 )

 吉川の目標は、千人が日曜礼拝に集う教会をつくることだった。

 ある年、吉川は年度末までに三百人を確保するという目標を立て、それを達成するように信者に命じた。
 これは、『士師記』第七章に登場する、ギデオンが率いた三百人の精兵をヒントにしたもので、三百人は信者へのノルマとなった。そして、それが達成されかけた数年後、その目標は一気に七百人になった。
 時折、特別伝道集会というのが開かれた。これは、新しい信者を獲得するために、概ね1週間単位で開かれるもので、教会のお膝元ではなく、ちょっと離れた町の会館を借りたり、或いは、空き地にテントを建てたりして、そこで行われた。私たちはこれを「特伝」と読んでいた。牧師たちから叱咤され、ビラやトラクト (薄いパンフレット)を配り歩いた。集会ではもちろん、未信者向けのメッセージが用意されるほか、証しやスペシャル(賛美歌の合唱などの特別の出し物)がプログラムされ、「万全の体制」を組んだ。

 しかし、殆どの場合はたいした成果を挙げることはなかった。

 考えても見てほしい。通勤帰りの時間に、駅前のテントで宗教団体が集まりをしている。そこに通りすがりの人が興味を持って入るだろうか。私なら御免だ。興味があれば教会を訪ねる。テントに入って行こうとは決して思わない。それが普通の感覚だろう。
 私は今、成果がないのに何度も同じ轍を踏んでいたこの特伝は、信者獲得というよりも、信者を働かせるための口実だったような気がする。中国や北朝鮮などの独裁国家が、「○○運動」と名付ける空疎な活動を国民に強要し、精神的に緊張させ続けるというあのやり方と同じだ。大躍進運動、文化大革命のようなものだ。

 信者獲得を焦る吉川は、多く人を誘った信者には賞品を出す制度を始めた。しかし結局それは一回だけで終わった。

 賞品目当てに人を教会に誘うような信者は誰もいなかったし、人を誘えるパーソナリティーの人ばかりではないことに気づいたからだろう。制度を続けたところで、賞品を受け取る人は、基本的に同じ顔ぶれになってしまう。
 間もなく信者の増加は頭打ちになり、吉川は苛立った。

 「私は他の教会の人たちにも、千人の教会を作ると宣言しているんです。私に恥をかかせるつもりですか」。

 私は、「恥をかかせるつもりですか」という吉川の言葉に耳を疑った。
 私たちは吉川から、「恥は我がもの、栄光は主のもの」と教えられ、神のために恥をかくことを潔しとせよと言われてきたが、吉川は自分が恥をかくのはいやだというのか。
 そして吉川は、「みなさんひとりひとりが、たったひとりを連れてきたら、一気に人数は倍になるではありませんか。どうしてそんな簡単なことができないんですか」と、軽く言った。
 
 人間を教会に連れてくるのは、捨て猫を拾ってくるのとはわけが違う。捨て猫だって、気に入らなければ引っ掻いて逃げるではないか。
 そんな吉川自身は、その当時、街角で人を誘うわけでもなく、誰かを連れてくることもしていなかった。それはこの教会では牧師の仕事ではなかった。牧師は、信者を叱咤激励、否、恫喝するだけでよかった。

 外面を気にする吉川らしいエピソードがある。

 私が中学三年のころだったろうか、吉川がアメリカに一ヶ月ほど旅行に出かけたことがあった。
 テキサスにある吉川の恩師ブルームの教会など数箇所に滞在して、礼拝などで説教するという結構な大旅行だった。
 出発前、吉川は信者に対して、「私が滞在中にアメリカに手紙を書いてください。皆さんがどれだけ私を思っているか、アメリカの人々が分かるように」。
 
 要するに、ヤラセまがいの手紙を書けということだった。
 
 私は素直に、吉川の滞在先の住所に、たぶん、生まれて初めて、エアメールを出した。
 でも、吉川とまともに話したこともないのに、いきなり手紙を書けと言われても、何を書いてよいかわからなかった。私は苦し紛れに、「お元気ですか」という決 まり文句の後に、吉川の代役で説教した、アメリカ人のゲストスピーカーの説教の内容を書いて送った。送れと言われたのだから、送ることが正しいと思っていた。
 私がちょっとだけ期待していた、吉川からの返事はなかった。しかし、吉川が帰国した最初の日曜日、吉川は私を見つけ、「青木兄弟。あなたの手紙を読みましたよ。ちゃんと送ってくれて、ありがとう」と言って、私の手を強く握った。実際に送った人は左程いなかったようだ。

 でも、私はとてもうれしかった。吉川が私の名前と顔を覚えていてくれたことに、ちょっとだけ感激した。

第3章 青春と苦悩( 5 / 16 )

 泉南キリスト福音教会、関西ペンテコステ福音教会には行事がたくさんあった。日曜日以外の休みの日も、極力信者を縛り付けておこう、ということだったのだろう。

 そのひとつがキャンプだ。

 キヤンプとは、日本語になったその言葉がイメージするアウトドアの遠足ではない。
 アメリカでは、夏休みなどの長期の休み中に、子供たちを対象に、様々な団体が合宿を開く。野球、アメリカン・フットボール、サッカー、テニスやサーフィン などの各種スポーツ以外に、絵や写真などの芸術、数学や理科など、様々なジャンルの合宿があり、これをキャンプと呼ぶ。
 教会が行うキャンプもある。信者の子供たちが合宿をして、神の言葉を学ぶことを目的にするのが、教会のキャンプだ。

 泉南キリスト福音教会、関西ペンテコステ福音教会で行われたキャンプは、まさしく「信仰強化合宿」だった。

 キャンプは春休みと夏休みに行われた。それは私にとって、楽しみでもあり、また苦痛でもあった。友人たちと外で宿泊できる楽しみと、長時間の祈祷を強要される苦痛がそれである。
 小学生のキャンプは、県境の山の中にある、吉川清も牧師になる前に通った、紀泉聖書学院のキャンパスが主な目的地だった。教会からは車で30分ぐらいの ところであったが、自然に囲まれた悪くない場所だった。難を言えば、建物は古かった。夏場は蚊が多かったので、先生が蚊取り線香をたくさん炊いたり、殺虫剤を直接子供の手に噴霧したり(虫除けスプレーはまだ販売されていなかった)したシーンが脳裏に蘇える。夏は公営の野外活動センターなどで行うこともあった。
 キャンプは聖書の勉強とピクニック、そして長時間の祈祷が主な内容だ。吉川は来なかった。小学生のキャンプは日曜学校の責任者の伝道師が中心になって計画された。
 ペンテコステ派のこの教会では、キャンプで子供にも集団で祈祷させ、聖霊の降臨を期待した。実は私を教会に誘った大野は、小学生でただひとり、聖霊降臨を経験している「エリート」だった。
 私たちはキャンプで、夕食後に行われる礼拝で賛美歌を歌い、説教を聞いた後、一時間以上も、聖霊降臨のために祈らされた。

 念のために書くが、私たちはまだ一〇歳そこそこだった。私の妹のように、もっと幼い参加者もいた。私は、長時間の正座にしびれを切らし、先生に見つからないように、時々薄目を開けながら、「これさえなければ楽しいキャンプなのに」と、いつもそう思っていた。
 小学生なので自分の時計がない。だから祈っている時間がものすごく長く感じられた。祈祷は強制だった。祈りたくないということは許されなかった。私は祈祷時間の終わりを告げる、オルガンの音色が待ち遠しかった。
 このキャンプに保護者は同行しない。二泊三日の間、日曜学校の先生による短期間の王国がそこに構築された。もしも、そこに取材のカメラが入っていて、その一部始終を公にしたならば、オウム真理教やその類の邪教集団が、子供を囲って洗脳していると批判されたのと同じように、何らかの疑いの目を向けられたであろうことは想像に難くない。
 しかし、その頃の私が取材のマイクを向けられたら、「楽しいです」とだけ答え、強制的に祈らされている苦痛を訴えることはできなかっただろう。

 カルトにいる子供たちは、皆同じだ。そして子供は、どんな答えが先生にほめられるかを知っている。

 六年生の春のキャンプで、私はちょっとした失敗をした。
 バスに乗って紀泉聖書学院に着くと、高学年は、物を運んだり、座布団を並べたり、先生と一緒に準備を手伝った。私は最初に大野と一緒に大きな荷物を運ぶのを手伝って、自分の役目は終わったと思い、ぼけっとしていた。
 すると、大柄な大野が、他の何人かの子供と一緒に、不満そうな顔でオルガンを運んでいるのが目に留まった。
 「何や大野、まだ手伝わされてるんか」。私はそう声をかけて、はっとした。オルガンを担いでいたのは、子供ばかりだと思っていたのだが、そこに小柄な浮田が混じっていたのだ。私は浮田を子供のひとりだと思ってしまったのだった。
 しまったと思った瞬間、浮田は私に、低く厳しい声で、「青木君、『手伝わされる』というような考えでは、イエス様は喜ばれないよ」と言った。私は慌てて大野の横に移動して、オルガンを運んだ。
 優等生の面目丸つぶれだった。どうもそれから、浮田は私を気に入らなくなったようだった。ことあるごとに、私に厳しく当たった。嫌なチビだ。私はずっとそう思っていた。

 中学生以上の学生が参加する春夏の学生キャンプ、そして、主に成人のためにあったゴールデンウィーク、盆と正月の聖会。これらも中身は基本的に小学生のキャンプと同じだった。
 学生キャンプは、春は子供と同じ紀泉聖書学院で、夏はそこよりももっと遠い、和歌山県の山間部にある、教団が管理するキャンプ場で行われた。こちらには吉川も参加した。
 私は中学一年のときから春夏毎年二回。愚かなことに、浪人をしていたときも行ったから、合計二二回も私は学生キャンプに参加したことになる。高校生になって からは、大人の聖会にも参加していたのだから、今から考えると気が遠くなるぐらい、このカルトの信仰強化合宿に参加していたのだ。
 
 学生キャンプには教団の他の教会からも参加者があった。近畿圏内だけでなく、関東、東海地方の教会からも、人数は少ないが参加者があった。私は、キャンプを通 じて親しくなった彼らと会うことが楽しみだったが、成長してからも、相変わらず長時間の祈りには閉口していた。もちろん、それをおくびにも出さなかったが、ちらちらと腕時計を見て、「あと十五分、あと十分」と自分に言い聞かせていたものだった。

 夏の学生キャンプの名物は、キャンプ場のすぐ近くを流れる清流での水泳と、その水で冷やしたスイカ、近所の学校のグラウンドを借りて行うソフトボール、そして、牧師たちが作るバーベキューだった。
 
 ある年のキャンプで、夕食の際に、初めて参加した高校生が、小声でこう毒づいた。「何やねん、あいつらだけエエもん食いやがって」。
 実は、牧師たちに供されるバーベキューの肉は、学生のそれと比べて見るからに大きく、副食の盛りも極端に多かった。また、参加者に供されないデザートなども牧師たちにはあった。つまらないことかもしれないが、食い盛りの学生よりも、中年の牧師たちの盛り付けのほうがあからさまに大きいというのは、信者でない人間にとっては、ちょっと不満だったろう。私はその声が牧師や指導者たちに聞こえないことを祈ったが、内心、ちょっとだけ同じことを思っていた。

 キャンプの講師には、教団の牧師以外に、特別に講師が呼ばれることもあった。たいていは、系列教団の牧師だったが、一度だけ超がつく「有名人」が登壇したことがあった。
 人気バンド「ゴダイゴ」のベーシストだった、スティーヴ・フォックスだ。
 「ゴダイゴ」のリーダーであったミッキー吉野と同じく、バークレー音楽院を卒業し、彼と最初からグループ活動をしていた、筋金入りのミュージシャンだ。一九七〇年代後半の「ゴダイゴ」の音楽シーンでの活躍は、ここで改めて書く必要はないだろう。
 そのフォックスが昭和五五年にゴダイゴを脱退し、キリスト教の宣教活動を行っていた。
 私たちは、テレビで見ていたスターであるスティーヴ・フォックスが田舎のキャンプ場に着てくれたことに興奮した。特に、当時、礼拝の時に見様見真似でベー スギターを弾いていた私は、興奮したと同時に、とても緊張したことを覚えている。ちょっとだけ会話をしたが、彼が何の話をしたかなど覚えてはいない。聖書にサインをもらって、ベース演奏にお世辞を言われて、舞い上がったことだけしかもう記憶にない。

第3章 青春と苦悩( 6 / 16 )

 キャンプ以外に、クリスマスやイースターはもちろんだが、運動会やピクニックもあった。

 運動会は、教会の規模が大きくなってからは、かな り大掛かりなものになっていった。私たちは走るとき、演技をするとき、吉川の目を意識し、彼に賞賛されることを期待した。実際、高校生の時、私は教区対抗の運動会で応援団長を買って出、剣道部の友人から借りたはかまを身につけ、必死になって応援をした。あとで「吉川先生が感心していた」と伝え聞いて、一人喜んだことを思い出す。
 新入学、七五三、敬老の日、父の日、母の日などには、礼拝の後で、対象者は吉川から祝福を受けた。
 毎月一回、誕生日会もあった。

 教会では毎週日曜日の礼拝後に、大きな鍋でカレーを作って、献身者や遠方から来ている信者のために安い値段で昼食として供していのだが、誕生日会は、そのカレーを参加者が車座になって食べる食事会の延長線上にあった。
 その月に誕生日を迎える信者だけは上座に並んで座り、食後にささやかなプレゼントをもらった。私も何回かもらったが、何をもらったのかはもう覚えていない。
 その日、私の最初の先生であった福井の姉・秋代が、誕生日の列に加わっていた。彼女は私の実家の近くに住んでいた。秋代は私の母や吉川と同年輩のおばさんだったが、熱烈な阪神タイガースのファンだということで、やはり大の阪神ファンになっていた私は、彼女とよく野球の話をしたものだった。
 さて司会者が、ひとりひとり誕生日を迎えた信者を紹介していった。女性の信者は生まれた日にちだけを、男性の信者は生れ年までを紹介することになっていた。
 秋代がその月に最初に紹介される女性だった。司会者は、「福井秋代姉妹、何月何日生まれ」と言った後で、「年齢は伺わないでおきましょう」と、慣例に従って軽く言って参加者の笑いを誘った。
 それを聞いた吉川が、大きな声を張り上げた。

 「クリスチャンが何を言っているんですか。私たちに年齢など関係ありません」。

 またまた場違いの激怒だった。
 楽しいはずの誕生日会の座が静まり、凍りついた。司会者はおろおろして何も言えないでいる。
 それを見かねた秋代が、ふくよかな顔に満面の笑みをたたえて、「今年四三歳でございます」と言い、再び参加者が笑って彼女のために拍手をして、ようやく雰囲気が和んだ。
  秋代は独身だった。適齢期のころに大病を患い、婚期を逃したと聞いた。国家資格を独学で取得して、完全に自立している努力の人だった。キャリアウーマンとはいえ、女性なのだから年齢を気にしない訳はないだろう。私は、吉川の言うことは、確かに間違いではないが、何も場の雰囲気を凍らせてまで、オールドミス に年齢を白状させることもなかろうに、と思った。

 その日の帰り、大野の母が私に話しかけてきた。
 「青木さん、吉川先生はあんなこと言わはったけどな、自分の奥さんの年齢は、絶対に秘密にしてはんねんで。先生より奥さんのほうが年上やっちゅうのん、言いたないらしいわ」。
 私は、彼女が吉川の批判をするのを聞いて、どきどきしている自分に気がついた。そういう話が、大人の女性信者の間には流布していると言うことなのか。 
 「教会批判」。
 その恐ろしい響きの言葉が私の頭に浮かんだ。
 もしもこれを吉川が知ったら、どんな叱責を受けるかわからない。もしかしたら「破門」されるかもしれない。私は、何か聞いてはいけないことを聞いてしまったような感じがした。

 果たして、吉川の妻・民子の誕生月。どのように紹介されるかを私は見守っていた。
 やはりというか、予想通りというか、当然のことのように、民子の生れ年は発表されなかった。他の女性信者も、バランスを取るためか、年齢を暴露されないで済んだ。

 吉川は黙っていた。

 司会者に、民子の年齢を暴露する勇気がなかったのか、それとも吉川がさせなかったのか。どちらかといえば前者だろう。結局、それ以降も、女性の場合には誕生年を言わなくなった。
 あの吉川の激怒は単なる気まぐれだったのだ。秋代だけが損をしたのだ。

第3章 青春と苦悩( 7 / 16 )

 クリスマスはやはり、泉南キリスト福音教会、関西ペンテコステ福音教会でも最大の行事だった。

 常々吉川は、「イエス様が復活しなければ、この救いはなかったのですから、本当はクリスマスよりもイースターの方が重要なのです」と言っていたのだが、その割にはイースターには余り力が入っていないようだった。
 日曜学校のクリスマスは、各クラスで先生が考えた出し物をした。イエス生誕の劇とか、ろうそくを持って聖書の言葉を順番に述べる、キャンドルサービスというパフォーマンス、賛美歌の合唱などだ。
 私は後に日曜学校の先生になったのだが、他の先生と競うようにして、子供たちに練習をさせた。

 この町に市民ホールができてからは、教会全体のクリスマス会は、そこで行われることになった。内容は、子供のクリスマス会とさほど変わらなかった。 
 後年私はアメリカで、地方都市の一教会が主催するクリスマスのイベントに出席したことがある。それは大規模な教会堂(日本でいえば、市民会館のホールよりはるかに立派な設備を持つ)の舞台中央にすえられた、巨大なクリスマスツリーを中心に、歌と踊りと物語が繰り広げられるという大規模なものだった。それは、その町の冬の風物詩となっていて、信者でない人もチケットを買って見に来るほどで、毎年地元メディアでも取り上げられている。
 吉川の教会のクリスマス会はは、規模はそれなりに大きかったが、アメリカの教会のクリスマス会に比べたら、中身は幼稚なものだった。無料だとはいえ、一般の人が時間をとって見に来るほどのものではなく、吉川と信者の自己満足に過ぎなかった。

 私は高校生の時、キャンドルサービスで舞台に立ったことがある。リハーサルのとき、他の出演者が皆、当日と同じ、白いカッターシャツかブラウスを着用してい たのに、私だけ、当時気に入っていた黒のシャツを着ていた。総監督だった吉川にどやされるのではないかとひやひやしたが、吉川は私たちには余り興味がなさ そうで、何も言われなかった。
 それもそのはず。その年は、かなり大掛かりな、聖書の物語をもとにした劇が行われることになっていて、そちらに吉川の意識はいっていた。中心的な信者がこぞって出演するこの劇は、素人狂言にしてはよくできていた。小道具や大道具、衣装にいたるまで、凝った作りのものだった。リハーサルを観て、演出をしていた吉川も満足そうだった。

 ある年は、聖歌隊が「カンタータ」(cantata)と称して、かなり長いプログラムのコンサートをした。こちらも、何故か、音楽に造詣があるとは思えない吉川が総監督をした。
 吉川は日ごろ、「牧師に何もかもさせてはいけません。牧師が教えに専念するためにも、皆さんがいろんな役割を分担しなければなりません。時々、何でもやってしまう牧師がいますが、そういうのを『蛸足牧師』と言うのです」と言っていた。
 しかし、そう言っている吉川自身が、何でも自分でしなければ気がすまない人で、自らすすんで「蛸足牧師」になっていた。それを信者が止められるはずなどない。何でもする吉川が、なぜ伝道をしなかったのが不思議なくらいだ。
 勿論、キャンドルサービスも芝居もコンサートも、信者が時間を潰して、汗水たらして、吉川に怒鳴られて作った出し物の全ては、もちろんクリスマス集会の前座で、最後にある吉川の説教がメイン・イベントだった。

 新しい人が比較的多く集うクリスマス会では、いつもはエネルギッシュな吉川が、ソフトな物腰で語りかける、初老の牧師になっていた。私はその変化に一寸戸惑った。
 クライマックスは、いつもとは違って短い説教の後で、吉川が静かに、「皆さん目を閉じてください。今日の劇、歌、そして聖書の物語をお聞きになって、私も救われたい、もっとイエス様のことを知りたい。そう思った方は、静かに手を挙げてください」というところだった。
 私が薄目を開けてみると、ピアノ伴奏が静かに流れる観客席の中に、何人かが手を挙げている。
 私は、こういう機会には、渋々だが、時々来てくれた母に目をやった。しかし、母が手を挙げることはなかった。

  その母は、末期の肝臓癌で亡くなる直前に、妹夫婦のたっての願いで、ホスピスの病床で洗礼を受けた。洗礼を施したのは、吉川の教会を継承している、私も知る若い牧師だった。私は、あの頑固だった母がと、一瞬驚いただけだったが、妹にとっては慰めになったであろうことを思い、その一点については、その牧師に感謝してい る。

 吉川が入信希望の人たちを前方に招き、祈りを捧げ、係りの信者がエスコートして、彼らの情報を確保する。
 ただ、私の記憶が正しければ、こういう機会で決心をした人は、なかなか長続きしないことが多かったように思う。
青木大蔵
信ずるものは、救われぬ
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