信ずるものは、救われぬ

第3章 青春と苦悩( 7 / 16 )

 クリスマスはやはり、泉南キリスト福音教会、関西ペンテコステ福音教会でも最大の行事だった。

 常々吉川は、「イエス様が復活しなければ、この救いはなかったのですから、本当はクリスマスよりもイースターの方が重要なのです」と言っていたのだが、その割にはイースターには余り力が入っていないようだった。
 日曜学校のクリスマスは、各クラスで先生が考えた出し物をした。イエス生誕の劇とか、ろうそくを持って聖書の言葉を順番に述べる、キャンドルサービスというパフォーマンス、賛美歌の合唱などだ。
 私は後に日曜学校の先生になったのだが、他の先生と競うようにして、子供たちに練習をさせた。

 この町に市民ホールができてからは、教会全体のクリスマス会は、そこで行われることになった。内容は、子供のクリスマス会とさほど変わらなかった。 
 後年私はアメリカで、地方都市の一教会が主催するクリスマスのイベントに出席したことがある。それは大規模な教会堂(日本でいえば、市民会館のホールよりはるかに立派な設備を持つ)の舞台中央にすえられた、巨大なクリスマスツリーを中心に、歌と踊りと物語が繰り広げられるという大規模なものだった。それは、その町の冬の風物詩となっていて、信者でない人もチケットを買って見に来るほどで、毎年地元メディアでも取り上げられている。
 吉川の教会のクリスマス会はは、規模はそれなりに大きかったが、アメリカの教会のクリスマス会に比べたら、中身は幼稚なものだった。無料だとはいえ、一般の人が時間をとって見に来るほどのものではなく、吉川と信者の自己満足に過ぎなかった。

 私は高校生の時、キャンドルサービスで舞台に立ったことがある。リハーサルのとき、他の出演者が皆、当日と同じ、白いカッターシャツかブラウスを着用してい たのに、私だけ、当時気に入っていた黒のシャツを着ていた。総監督だった吉川にどやされるのではないかとひやひやしたが、吉川は私たちには余り興味がなさ そうで、何も言われなかった。
 それもそのはず。その年は、かなり大掛かりな、聖書の物語をもとにした劇が行われることになっていて、そちらに吉川の意識はいっていた。中心的な信者がこぞって出演するこの劇は、素人狂言にしてはよくできていた。小道具や大道具、衣装にいたるまで、凝った作りのものだった。リハーサルを観て、演出をしていた吉川も満足そうだった。

 ある年は、聖歌隊が「カンタータ」(cantata)と称して、かなり長いプログラムのコンサートをした。こちらも、何故か、音楽に造詣があるとは思えない吉川が総監督をした。
 吉川は日ごろ、「牧師に何もかもさせてはいけません。牧師が教えに専念するためにも、皆さんがいろんな役割を分担しなければなりません。時々、何でもやってしまう牧師がいますが、そういうのを『蛸足牧師』と言うのです」と言っていた。
 しかし、そう言っている吉川自身が、何でも自分でしなければ気がすまない人で、自らすすんで「蛸足牧師」になっていた。それを信者が止められるはずなどない。何でもする吉川が、なぜ伝道をしなかったのが不思議なくらいだ。
 勿論、キャンドルサービスも芝居もコンサートも、信者が時間を潰して、汗水たらして、吉川に怒鳴られて作った出し物の全ては、もちろんクリスマス集会の前座で、最後にある吉川の説教がメイン・イベントだった。

 新しい人が比較的多く集うクリスマス会では、いつもはエネルギッシュな吉川が、ソフトな物腰で語りかける、初老の牧師になっていた。私はその変化に一寸戸惑った。
 クライマックスは、いつもとは違って短い説教の後で、吉川が静かに、「皆さん目を閉じてください。今日の劇、歌、そして聖書の物語をお聞きになって、私も救われたい、もっとイエス様のことを知りたい。そう思った方は、静かに手を挙げてください」というところだった。
 私が薄目を開けてみると、ピアノ伴奏が静かに流れる観客席の中に、何人かが手を挙げている。
 私は、こういう機会には、渋々だが、時々来てくれた母に目をやった。しかし、母が手を挙げることはなかった。

  その母は、末期の肝臓癌で亡くなる直前に、妹夫婦のたっての願いで、ホスピスの病床で洗礼を受けた。洗礼を施したのは、吉川の教会を継承している、私も知る若い牧師だった。私は、あの頑固だった母がと、一瞬驚いただけだったが、妹にとっては慰めになったであろうことを思い、その一点については、その牧師に感謝してい る。

 吉川が入信希望の人たちを前方に招き、祈りを捧げ、係りの信者がエスコートして、彼らの情報を確保する。
 ただ、私の記憶が正しければ、こういう機会で決心をした人は、なかなか長続きしないことが多かったように思う。

第3章 青春と苦悩( 8 / 16 )

 泉南キリスト福音教会、関西ペンテコステ福音教会では、礼拝でも、学生集会でも、どんな集会でも、男女別席という、厳しい決まりがあった。

 夫婦や親子以外の男女が、席を並べることはありえない話だった。いや、夫婦・親子でも、別席が基本だった。
 東京へ旅行に行って、同じ教団の教会の学生集会に参加した時、たまたまこの話になって、「えっ、それはおかしいでしょう。なぜですか」と突っ込まれた。こっちがその理由を知りたかった。男女関係にここまで「ストイック」なのは吉川の教会だけだった。

 男女不同席なのだから、この教会では、恋愛がご法度だったのは言うまでもない。

 私は、中学一年のキャンプで、教団の形式的な本部があった教会から来ていた、南佐緒里という、当時の人気アイドルと同じ名前を持つ、同学年の女の子と知り合い、文通するようになった。しかし、隣の市に住んでいた彼女とは、その後二、三回キャンプで顔をあわせた以外は、一回だけダブルデートをして、その後私は一方的に振られてしまった。実は大野も佐緒里が好きで、私と佐緒里が付き合っていることを知った大野は、しばらく口をきいてくれなかったことがあった。
 私と佐緒里のことは、親しい友人の信者しか知らなかったので、教会で問題になることはなかった。もしも、この一件が露見していたら、何らかの指導が教会から入ったであろうことは想像に難くない。
 ただこの時、万一私が問題になっていたら、教会にとってもまずかったはずだ。なぜなら、この南の同級生で、やはりキャンプに来ていた市川美津子が、吉川の息子・清次と付き合っていたのだから。清次は私が振られた後も、ずいぶん長いこと美津子と付き合っていた。私は清次たちと一緒に、美津子に紹介してもらった 別の女の子と四人で、デートに行ったこともあった。
 清次は私よりもふたつ年上だった。私たちはとても馬が合った。牧師の息子だからと言って偉そうぶるところもなく、ユーモラスで、妹思いで、しかもなかなかの美男子で、スポーツが得意だった。いわゆる、もてるタイプだった。その真逆の私にとって、清次は、憧れの先輩といったところだった。中学・高校のころは、教会でいつもつるんで、冗談を言って笑い転げていた。キャンプでは尚更だった。

 教会の指導者たちは、恋愛がご法度だとは公には言わなかった。それはあくまでも、暗黙の了解だった。

 それでも私は高校二年の時に、北詰美智子という中学校時代の同級生と、学生集会を通じて急速に親しくなり、付き合っていたことがある。
 彼女のことは中学時代から知っていたが、その時はお互いに没交渉だった。美智子は他の学校に通う自分の友人に頼まれて、私にバレンタインデーのチョコレート を届けたことがある。北詰は自分のものだ思われたくなかったので、わざわざ新聞紙でそれを包んで私に届けたくらいだった。
 高校は別々だった。彼女は私の父の母校でもある、旧制女学校の流れを汲む地元の名門校に通っていた。私はそこには手が届かず、担任に勧められた地元公立校への進学を拒んで (当時大阪では、成績に関わらず地元の高校に行かせるという愚行が、似非平等主義の教師によって推進されていた)、敢えて私学に進んだ。電車通学がしたい ということや、私の過去を知っている人がいないところで、高校生活を送りたいということも、地元を拒否した理由のひとつだった。
 私と美智子が、何がきっかけで付き合うようになったのか、今はもう忘れた。
 付き合い始めて間もなく夏休みになると、私たちは一緒に、人目につかないように、というか、信者の誰かに見つからないように、わざわざ遠出をして、中之島の府立図書館や西長堀にあった改築前の大阪市立中央図書館へ行き、隣同士に座って受験勉強をした。水曜日の夜に通い始めた聖書研究会の後は、時間がたつのも 忘れて、いつまでも星空の下でとりとめもない話をした。私は相変わらずいつも、丸畑と行動していたが、丸畑は私たちの話が終わるのを、辛抱強く待っていてくれた。そうしてくれることで、私たちには、ふたりっきりで会っていないという、アリバイを作ることができたのだ。
 もちろん日曜は教会活動でずっと一緒だった。日曜日が待ち遠しかった。
 ある日、私の部屋で話していた時、美智子はこう言った。「私たちが生まれた昭和三六年って、本当に何もない年なんやけど、吉川先生が教会を開いた年やっていうだけで、誇りに感じるわ」。
 私は黙って頷いた。
 ある日私は風邪をひいて、咳が止まらなかったのだが、もちろんそんなことぐらいで、教会を休むはずがない。私は咳き込みながら礼拝に出席した。吉川の説教の声と私の咳が幾度となく交叉した。礼拝の後で美智子は、私の体調を心配する前に、「あんなに咳して、怒られるんやないかって、ハラハラしたわ」と、ツンとして言った。
 私たちは、タブーを破って付き合ってはいても、教会を愛し、吉川を尊敬していた。それには何の変わりもなかった。でも、指導者たちはそんなことを理解してくれるはずもなかった。

第3章 青春と苦悩( 9 / 16 )

 そして、私たちが深い関係になる前に、たった半年足らずで、この恋愛は指導者たちの知るところとなった。そして叱責を受け、二度と教会の外で会うなと命じられた。
 その上で、学生集会の席上、普段は出席しない吉川までもが出席する中で、私と美智子は自己批判させられた。
 私も美智子も、そのころ、多くの後輩信者を「導く」立場にあったから、集会を二つに分け、古参の学生ばかりを集めた方の集まりで、吉川自らが説教した上で、改めて糾弾を受けた。
 私は、反革命の烙印を押された共産党員のようだった。弁明も何もさせず、一方的に吉川と教会の価値観がまくし立てられた。
 吉川は、「危なかった」という言葉を繰り返した。それは、私と美智子が、一線を越えることになる前に、この恋愛が露見したことに対しての表現だったようだ。

 この糾弾と自己批判の強要は、当事者が言うのも何だが、ちょっと異常なことだった。信者が恋愛することをここまで恐れるのはなぜなのか。
 私たちは、教会をサボった訳でも、教会の品位を落とした訳でもない。ただ、お互いがお互いを好きで、付き合っていただけだ。私は、誰にも聞けない疑問を抱いた。
 丸畑など親しい友人は、私たちの関係を知っていた。だから私たちに同情してくれた。しかしそれは、無言の慰めだった。涙をためて握手を求めてきた後輩もいたが、誰も恋愛の是非について、何ひとつコメントすることはなかった。
 というよりも、誰もできなかった。私もそんなことは期待してはいなかったが、私は教会という集団にいるのに孤独だった。しかしそれでも私は、教会を離れなかったし、そんなことは考えることすらできなかった。
 私はその直後、美智子に手紙を書いた。しかし彼女はそれを自分から指導者に知らせ、私だけ三度目の叱責を受けた。
 私は納得がいかなかったが、どうしようもなかった。私は手紙を書いたことを後悔した。その行為に対してではなく、美智子に私を裏切るような行為をさせてしまったことに対してだった。彼女も私も教会にどっぷり漬かっている以上、どうしようもなかった。
 私たちは、たった一日で余所余所しい関係になった。どうしても何か話さねばならなかった時、私たちは敬語で話をした。

 校則に違反して、軽くパーマを当てていた少し長目の髪を、私は短く刈り込んで、反省しているように見せかけた。髪で覆われていた耳を、一度も外へ出したこと がなかった私が、「おっちゃん。スポーツ刈りにして」となじみの散髪屋に言うと、子供のころから注文がうるさかった私を知っている店主に、「ほんまにええんか」と、念押しされた。
 本当は反省などしていなかった。半分ヤケクソだった。次の週、私の頭を見た吉川は、納得したかのように頷いた。
 理由を知らない学校の友人たちは、私が親にタバコでも見つかって、反省のために髪を切らされたと思ったようだった。大柄な私がスポーツ刈りをしてきたので、 当時、ルールを無視して読売巨人軍に入団し、ダーティーなイメージを一身に浴びていた江川卓投手に似ていると誰かが言い始めた。私は熱烈な阪神ファンでエガワを蛇蝎のごとく嫌っていながら、「エガワ」という最悪のニックネームを頂戴することになった。自業自得だと思った。

 北詰は高校卒業後、私と同じように一浪したが、東京にある有名な大学に進学し、上京した。大学を卒業した後間もなく、彼女が結婚の挨拶をするとかで教会にやってきたことがあった。お相手はエリート官僚だと聞いた。
 そのころ私は、まだ教師になれずに、昼間は出版社でアルバイトをしながら、夜は、家庭教師や塾講師で糊口をしのいでいた。
 私は北詰が教会に来ていることを誰かから教えられたが、彼女がきっとそうであったように、私の中でもあのことはもう過去の話だった。私は北詰に会おうとはしなかった。会えなくても別段何とも思わなかった。

 いや、本当はそうではなかった。

 顔をあわせることで、浮田か誰かに余計なことを言われたくなかっただけだ。本当は幸せになった彼女を一目見たかったし、手を握って祝福したかった。男らしく。しかし私は北詰に「おめでとう」と言うことを、自分が不愉快な思いをしないためという理由で断念した。用事もないのに忙しそうにして、時を過ごしたのだった。

第3章 青春と苦悩( 10 / 16 )

 私が「恋愛事件」を起こす以前から、浮田が私を良く思っていないということを、ことあるごとに私は感じ取っていた。事件後はますます、私には浮田の目が光るようになった。

 浮田は、まるで私に、悪魔でも乗り移っているかのように扱い、汚らわしいものを見るかのような目を向けた。それが吉川の差し金であったかどうかはわからないが、浮田は私を眼の敵にした。
 私がちょっと同年輩の女性信者と親しく話していると、浮田はそれを見咎めて、「もう一度同じことをやったら、あなたはもう用いませんよ」と、私を呼んで冷たく言った。

 「用いない」というのは、信者として何か役目を与えないということだった。

 泉南キリスト福音教会、関西ペンテコステ福音教会には、一般信者にもさまざまな役割があった。礼拝や聖書研究などのメインの集会ではない集会での説教者、司会者、日曜学校の先生、楽器奏者、音響技術者、ビデオカメラのカメラマン等々。それは名誉なこととされた。
 教会内部の役割など、信仰そのものには関係ないし、どうでもよいはずなのだが、マインド・コントロールが効いていた当時、その小柄な男の脅しが、大きく私にのしかかった。
 当時の私にとって、集会でギターを弾くことは、重要な問題であった。恋愛問題で「前科者」となった私にとって、「用いられないこと」は、吉川の言う破門にも等しかった。

 だからといって、正常なティーンエージャーが、恋愛をしたくないはずがない。私はその後、教会の外で、教会に隠れて、人並みに、教会とは無関係な女の子と付き合いながら、いつもびくびくしていたものだった。
 デートに行った先から、電車なら一五分で帰れるのに、わざわざバスに乗って、一時間以上かけて帰ったこともある。もちろんそれは、教会の牧師たちや、他の信者 に見つからないためだった。それでも一度、予備校時代に、女の子と天王寺駅にいるところをある特訓生から見咎められ、彼女が浮田に告げ口をしたので、私はやんわりと浮田から釘を刺されたことがある。

 「あなたはその女性といるときに、イエス様のことを話せますか」と。

 私は、教会という狭い世界の中に住んでおり、そこから抜け出すことができないのなら、女の子とまともに付き合うのは難しいと実感した。受験が近くなっていたということもあって、結局、その彼女とも別れることにした。
 私は明らかに苦痛を感じていた。人を愛することを教えたイエスの教会が、人を愛することを禁じているのだ。しかし私は、それでも教会には留まらなければ ならないと真剣に思っていた。本当に地獄が怖かったからだ。教会にさえ行っていれば、私は少なくともバスに乗り遅れることはない。素朴にそう信じきってい た。
 ところが、恋愛ご法度のルールは、私が大学在学中に、いつの間にか撤廃された。公式のアナウンスメントはもちろんなかったが。指導者が認めたカップルは構わないということになったようだった。
 学生の間では、「公認カップル」が続々と誕生したが、それはある意味で自然なことだった。
 私は間もなく、大手を振って、苅田徳子という高校生と付き合い始めた。念のためにそれを、親しくしていた女性伝道師に報告したが、あっさり「よかったわね」 と言われて、かえって拍子抜けした。妹はその頃、もう商業高校を卒業して、就職していたが、大学生だった今の夫とつきあうようになり、彼が卒業した後間もなく結婚し、子供にも恵まれた。

 大げさな言い方かもしれないが、恋愛解禁はこの教会の小さなペレストロイカだった。
青木大蔵
信ずるものは、救われぬ
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