「この書の預言の言葉を聞く
すべての人々に対して、
わたしは警告する。
もしこれに書き加える者があれば、
神はその人に、
この書に書かれている災害を加えられる。
また、もしこの預言の書の言葉を
とり除く者があれば、
神はその人の受くべき分を、
この書に書かれているいのちの木と
聖なる都から、
とり除かれる」。
『ヨハネの黙示録』第二一二章一八節。 泉南福音教会、関西ペンテコステ福音教会の礼拝や集会で、どのような説教が行われていたかを、私はまだ詳しくは書いていなかった。
礼拝や聖書研究会で、ランダムにではあっても、聖書の物語そのものを繰り返し聞くことができたのは、負け惜しみではなく、後に学校で歴史を教えることになった私にとって、非常に大きな収穫であった。
しかし、だからと言って、吉川清やその弟子たちの聖書解釈は、信者である私を、論理的に納得させるものではなかった。私は地獄が怖かったから、彼らの説教に頷く振りをしていただけだった。
基本的に吉川たちの説教は、聖書の故事に、神学的エッセンスをふりかけ、日常の信仰生活の指針とするような類いの話だった。
生臭坊主が葬式でする安っぽい説法より、少しましな程度のものだ。これが礼拝でも聖書研究会でも、各集会で毎週たっぷり一時間はあった。
内容に左程変わりはなく、聖書研究会とは言っても、体系的に聖書を教えているわけではなかった。礼拝と同じように、賛美歌を歌い、祈祷をし、講義ではなく説教を聴いた。
これ以外に、前述のように、吉川が弟子を養成するために作った「ロゴス・アカデミー」と称する勉強会もあった。吉川が養成した牧師の多くは、この勉強会を
「卒業」したことで、神学の課程を学んだことになっている。私は説教なんかより、講義のほうに興味があったのだが、さすがにそれにまで顔を出すと、私生活は全くなくなってしまうので、それには一度も出たことがなかった。自分でも意外なことだ。
私が支那大陸への宣教師になりたいと思っていたことは既に書いたが、それでも、教会で献身者になる気はさらさらなかった。
吉川の下でしごかれるのは嫌だったし、ましてや、わたしを目の敵にしている浮田の下でなど真っ平御免だった。そして特訓生として教会で運転手や雑用係などしていては、聖書そのものの勉強をできるとは、とうてい思えなかった。
だから、いつかアメリカの聖書学校にでも行って、きっちりとした神学を学びたいと考えていた。
吉川たちの説教は、今から考えればほとんど価値のないものであり、極めて幼稚だった。そう、明治の知識人を失望させた、あの知性のなさが見え隠れしていた。それは既に、浮田の説教の幼稚さを紹介したとおりだ。
私は決して自分が知性的だと言っているのではない。知性の決して高くない私さえ、満足させられない内容だったと言いたいのだ。
既に吉川は英語が得意だったことは書いた。しかし、その得意の分野でも、かなりいい加減なところもあった。
私が高校生の時、吉川が学生キャンプで
、「Historyというのは、hisとstoryという二つの単語からなります。『彼の物語』ということですね。この彼とは神のこと。即ち歴史とは、神の物語だという意味なのです」、と説教の中でとうとうと語ったことがあった。
英語音痴の私は、「流石に吉川先生の英語は大したものだ」と、この話を鵜呑みにして感心していた。
しかし、説教の後、解散する会衆の中の誰かが吐き捨てるように言った声が聞こえた。
「逆やで。storyの語源がhistoryやがな」。
図書館で、大きい英和辞典を調べてみたら、この大学生の方が正しかった。History=his+storyというのは、吉川の知ったかぶりか、作り話だったのだ。
キャンプが終わった後、教会でこの大学生の顔を見ることはなかった。