信ずるものは、救われぬ

第4章 教義と解釈( 1 / 7 )

 「この書の預言の言葉を聞く
 すべての人々に対して、
 わたしは警告する。
 もしこれに書き加える者があれば、
 神はその人に、
 この書に書かれている災害を加えられる。
 また、もしこの預言の書の言葉を
 とり除く者があれば、
 神はその人の受くべき分を、
 この書に書かれているいのちの木と
 聖なる都から、
 とり除かれる」。
 『ヨハネの黙示録』第二一二章一八節。


 泉南福音教会、関西ペンテコステ福音教会の礼拝や集会で、どのような説教が行われていたかを、私はまだ詳しくは書いていなかった。

 礼拝や聖書研究会で、ランダムにではあっても、聖書の物語そのものを繰り返し聞くことができたのは、負け惜しみではなく、後に学校で歴史を教えることになった私にとって、非常に大きな収穫であった。
 しかし、だからと言って、吉川清やその弟子たちの聖書解釈は、信者である私を、論理的に納得させるものではなかった。私は地獄が怖かったから、彼らの説教に頷く振りをしていただけだった。
 
 基本的に吉川たちの説教は、聖書の故事に、神学的エッセンスをふりかけ、日常の信仰生活の指針とするような類いの話だった。
 生臭坊主が葬式でする安っぽい説法より、少しましな程度のものだ。これが礼拝でも聖書研究会でも、各集会で毎週たっぷり一時間はあった。
 内容に左程変わりはなく、聖書研究会とは言っても、体系的に聖書を教えているわけではなかった。礼拝と同じように、賛美歌を歌い、祈祷をし、講義ではなく説教を聴いた。
 これ以外に、前述のように、吉川が弟子を養成するために作った「ロゴス・アカデミー」と称する勉強会もあった。吉川が養成した牧師の多くは、この勉強会を 「卒業」したことで、神学の課程を学んだことになっている。私は説教なんかより、講義のほうに興味があったのだが、さすがにそれにまで顔を出すと、私生活は全くなくなってしまうので、それには一度も出たことがなかった。自分でも意外なことだ。
 
 私が支那大陸への宣教師になりたいと思っていたことは既に書いたが、それでも、教会で献身者になる気はさらさらなかった。
 吉川の下でしごかれるのは嫌だったし、ましてや、わたしを目の敵にしている浮田の下でなど真っ平御免だった。そして特訓生として教会で運転手や雑用係などしていては、聖書そのものの勉強をできるとは、とうてい思えなかった。
 だから、いつかアメリカの聖書学校にでも行って、きっちりとした神学を学びたいと考えていた。
 吉川たちの説教は、今から考えればほとんど価値のないものであり、極めて幼稚だった。そう、明治の知識人を失望させた、あの知性のなさが見え隠れしていた。それは既に、浮田の説教の幼稚さを紹介したとおりだ。
 私は決して自分が知性的だと言っているのではない。知性の決して高くない私さえ、満足させられない内容だったと言いたいのだ。

 既に吉川は英語が得意だったことは書いた。しかし、その得意の分野でも、かなりいい加減なところもあった。 
 私が高校生の時、吉川が学生キャンプで、「Historyというのは、hisとstoryという二つの単語からなります。『彼の物語』ということですね。この彼とは神のこと。即ち歴史とは、神の物語だという意味なのです」、と説教の中でとうとうと語ったことがあった。
 英語音痴の私は、「流石に吉川先生の英語は大したものだ」と、この話を鵜呑みにして感心していた。
 しかし、説教の後、解散する会衆の中の誰かが吐き捨てるように言った声が聞こえた。
 「逆やで。storyの語源がhistoryやがな」。
 図書館で、大きい英和辞典を調べてみたら、この大学生の方が正しかった。History=his+storyというのは、吉川の知ったかぶりか、作り話だったのだ。
 キャンプが終わった後、教会でこの大学生の顔を見ることはなかった。

第4章 教義と解釈( 2 / 7 )

 吉川は説教の中で他の宗教・宗派を批判することが好きだった。とりわけ、カトリックをよく批判した。

 偶々吉川が、どこかで見かけた、マリア像に向かって一心不乱に祈る髪の長い女性の姿を、身振りまで真似て、揶揄して紹介し、「こういうのを憑かれているというのです」と言った。
 しかし、ペンテコステ派の信者が聖霊を求めて祈る姿は、カトリックの信者から見れば、「憑かれている」ように見えるだろう。自分のことは棚に上げて、他の宗派を非難するのは、宗教家として失格だ。
 吉川の反カトリック思想は、信者にも根付いていた。
 紅衛兵・横山は、カトリック作家の曽野綾子、プロテスタント作家の三浦綾子、そして、関西ペンテコステ福音教会の伝道師で、珍しく大卒だった木村綾子の名前を挙げて、冗談半分に「クリスチャン三大綾子」と呼んでいた。
 しかし、「でも、曽野綾子は、本当にクリスチャンかどうかは分からない」と、カトリックであるがゆえに、曽野を斬って捨てていた。
 私はその頃、曽野綾子のこともカトリックのことも、殆ど知らなかったのでそれを鵜呑みにしたが、誰が一介の信者に、人が本当のクリスチャンかどうかを疑う資格を与えたのだろう。思い上がりもいいところだ。そんな歪んだ感覚を、吉川の教えは齎していた。

 カトリックをほとんど異端扱いする思想は、この教会だけでなく、JPC教団に一致した見解だった。
 大学生のころ、キャンプで知り合った、東海地方のある教会の信者だった女子大生を訪ねて、東京旅行の帰りに、彼女が下宿する静岡を訪ねたことがあった。
 喫茶店で話をしていた時、たまたま当時、市場に出始めていた『共同訳聖書』の話になった。
 共同訳とは、それまでフランシスコ会訳を使っていたカトリックと、聖書協会訳を使っていたプロテスタントが、同じ言葉の聖書を使うことを目的に、双方の研究者が翻訳をしたものだった。
 彼女は、自分の所属教会の女性牧師が、「『共同訳聖書』は悪魔の試みだ」と述べていたと私に話した。それは、明らかに、カトリックが絡んでいることに対してだった。何が根拠なのかは彼女も知らないということだった。
 自分たちが最高だと勘違いしている、了見の狭い人間にとって、世界の宗教の融和を解く、懐の深いカトリック教会が気に入らないということなのかと、穿った見方もしたくなる。
 根拠を示さずカトリックを嫌うのは、吉川も同じだった。吉川のカトリック嫌いは、カトリックが容共だからだということもあったようだ。
 実際、日本のカトリックの上層部は、現在もかなり過激で、確信犯的な反日左翼が巣食っているようだ。日本のカトリック教会に、政治的にかなり問題があることは事実であるが、それと教義は別物だ。

 私が日本人として絶対に容認できないのが、吉川の神道批判である。

 私は神道は一般的な宗教ではなく、日本人の心そのものだと思っている。それは、インド人のヒンドゥー教のようなもので、他の宗教と両立できるものなのだ。私は、民族の心である神道と両立できない限り、キリスト教にしろ何にしろ、外来宗教はこの国で根が生えないと思っている。
 多 くの日本人は、日本は神国である以上に、仏教国だと思っているし、自分は仏教徒だと思っている。宗旨や檀那寺の名前を知っている。しかしその仏教は、遠藤周作の表現を借りれば、神仏習合によって、日本流に仕立て直された袈裟だから、日本人の身の丈にあっているだけなのだ。
 だから日本人は、インド生まれのその外来宗教に、違和感を覚えない。
 原始仏教を騙ったオウム真理教の麻原彰晃がメディアに現れた当時、普通の日本人は直感的に変だと思っただろう。次元は違うが、ダライ・ラマ十四世の姿を見て、自分は同じ仏教を信じているとは、普通の日本人は思わないだろう。
 キリスト教には、仏教が長年にわたって行ってきた仕立て直しがない。だから、遠藤は、母親に着せられたサイズの合わない洋服の着心地が悪かった。それで、自ら和服に仕立て直す必要があったと、自身のカトリック信仰を分析的に回顧したのだ。
 特に、古くからあるキリスト教団をまとめて作った日本基督教団やカトリックなどは、戦前、「政府に協力した」という、変な負い目があるため、その反動で戦後一気に左傾化し、神道に敵愾心をあらわにしている。
 地鎮祭訴訟や忠魂費訴訟等で、知性のない反日田舎牧師が絡んでいることが多いのは、そういう訳だ。
 しかし本当は、戦争中に政府に協力するのは当たり前の話で、何ら恥じることはない。勝てば官軍、負ければ賊軍。それだけの話だ。

 神道もそうだが、皇室尊崇とキリスト教信仰も百パーセント両立できる。

 『箴言』二四章二一節には、「
わが子よ、主と王とを恐れよ、そのいずれにも不従順であってはならない」とある。皇室を崇敬しつつ、YHWHの神を信ずることは、聖書的にも正しいことだ。
 実際、それを前面に打ち出しているプロテスタントの教団もある。彼らは、保守系の政治集会に参加し、皇室を敬愛することや、愛国心を発揮することを訴えているほどだ。一神教の信者からすれば、それは異様な光景に映るかもしれないが、実にこれこそが日本的なことなのだ。
 終戦直後、鹿児島のラ・サールでは、占領軍の意向に反して、日の丸が翻っていたという。この一事をもって、今、名門と言われるラ・サ―ル高校は、地元の信頼を勝ち得たのだと、卒業生である、某大手新聞社の論説委員に直接話を聞いたことがある。日本的なことを守ることは、実は神の栄光を発揮するにも重要なことのだ。それは常識の範囲内の話で、牧師がそれを否定するのは、烏滸の沙汰である。
 私が二〇年来親しくしている、カトリック教会のアルベルト・ゴンザレス神父は、明治以来の伝道にもかかわらず、日本にキリスト教が定着しない理由について、それは、日本の文化に反する形で、宣教師が伝道していたからだと私に語った。
 世界史を紐解けば、支那の清朝の時代、いわゆる典礼問題でイエズス会が他の宗派と対立したことがある。
 ゴンザレス神父は、支那の風土や土着信仰に合わせたイエズス会のやり方が正しかったと言う。私もそれが正しいと考える。仕立て直しをしない服は、やっぱり着心地が悪いのだ。
 ところが吉川はそうではなかった。吉川は日本人でありながら、日本文化の根源である神道を否定して憚らなかった。
 「日本の神話は、神々が海の水を掻きませて、ぽたぽたと落ちた潮で島を作ったと言いますが、なんと非科学的なのでしょう。聖書はどうです。神が『光あれ』と言われて光が生まれました。神の言葉に力があるからです。どちらが神を表しているか、一目瞭然ですね」。
 信者は頷いていたり、国産み神話をジェスチャーたっぷりに説明する吉川のおどけた口調に笑ったりしていた。
 しかし本当は、この比較には何の意味もない。神話は風土を反映するものだ。砂漠に生まれた厳しい神・YHWHに対して、日本の神々はこの温暖湿潤な風土を反映して、豊かで優しい。そして大らかだ。国産みの所作は、性行為がモチーフだというではないか。
 そもそも祖先が素朴な頭であみ出した、神に対するイメージが環境によって異なるのは当然だ。だからこそ、神話の内容も地域によって異なる。
 そんな単純なこともわからないで、先祖の書き残したものを無残にも非科学的だと否定しておきながら、実はユダヤ・キリスト教の神話が科学的だという根拠を、吉川の説教は、結局何ひとつ示すことはできていなかった。それは吉川が嫌った共産主義が、理想のみを宣伝し、現実を全く顧みないのと同じことだった。

第4章 教義と解釈( 3 / 7 )

 吉川の科学否定の際たるものが、進化論の否定だ。

 吉川によれば、ダーウィンの進化論は「種は進化する」という仮説に過ぎない。だからすべての種を、神が創造したことも否定できないのだそうだ。
 しかし、単純な話だが、化石や地層を見れば、進化の痕跡は様々なところに見受けられる。
 炭素年代測定法の知識は、今や小学生でも持っている。確かに、進化の枝をたどっていくと、動物と人間の間には断絶がある。サルと人間の間にある深い谷間は、昔に比べればずいぶん埋まったが、まだ今のところ、明確な中間種は見つかっていないのではなかろうか。
 ただ、少なくとも生命の誕生から、最も進化した動物である類人猿までの連綿とした進化を、私を含む常識人は否定しないし、アウストラロピテクス群からホモ・サピエンスへの段階的な進化を否定しない。
 問題は、類人猿からヒトへの進化の間にある謎だけなのだ。どうして言葉が生まれたのか、どうして文明が発生したのか。そこが謎になっているだけで、ボノボや母系ミトコンドリアDNAの研究などを見れば、私たちも、進化の枝の延長線上にあると考えるのが自然だ。だから進化そのものは謎でも何でもないし、それを何の根拠もなく否定するのは、狂信者だと言えよう。
 アメリカのプロテスタント教会の保守派にも、進化論を否定する人はたくさんいるし、学校でそのように教えるように要求しているグループさえある。だから、進化論否定に代表される科学否定は、吉川とJPC教団だけの問題ではない。
 私は疑問に思うのだが、そもそも、多くのキリスト教信者が、進化論を否定することは、神を否定することだと、なぜ考えてしまうのだろう。

 神はそんなに無力なのだろうか。

 私は、信者であったころから、神が進化をコントロールしたと思って、それを合理化していた。神だから生命を進化させられたのだと信じていた。
 確かに、「神である主は、土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで、人は、生きものとなった」と、『創世記』第二章七節にあり、それをかたくなに信じれば、少なくとも人間に進化の枝が伸びているとは思ってはいけないのだろう。

 しかし聖書の言葉は、明らかに何かの象徴なのだ。記紀が語る、国産み神話と本質的には変わらない。

 吉川やその弟子たちは、聖書は象徴的に物事を語っていると、都合の良いところでは自分勝手に合理化していたが、この箇所ではかたくなになっていた。
 長らくカトリックは、地球が丸いこと、地動説を公式に否定していたが、地球が丸くても、地球が動いていても、神の権威には何の影響もなかったはずだ。かえって、宇宙空間に巨大な球体である地球を自転させ、正確に公転させている神の方が偉大ではないか。それと同じように、神が進化をコントロールしたことを信じることで、さらに神の権威は増すのではないか。私が牧師ならば、自然界は神の偉大さを象徴する完璧なシステムだと教えるだろう。
 私の高校時代の化学の先生は、修士号を持っている優秀な人であった。生意気な高校生を相手に、いろいろな常識を教えてくれた人だった。この先生が、私が熱心なクリスチャンだということを知って、ある日こう話してくれた。
 「科学的に考えれば、神なんていないと言うことは簡単なんだけど、私が自分の専門分野である化学を追及していくと、どうしても、『なぜこんなに調和しているんだ』と思う場面に出くわすんだよ。例えば、周期律表が、規則正しくちゃんと並んでいることや、原子の周りを電子がちゃんと回っているのも、素朴に考えたら、うまくいきすぎているんだ。だからそういうのを見ていると、神はいるのかなと、考えることもあるんだよね。」
 科学と神を一致させるという「クリスチャン・サイエンス」は、日本では異端とされているが、別に彼らのように科学的にこじつける必要はない。科学の目を通じて、神の偉大さを考えればよいのだ。

 それにしても吉川の進化論否定は穴だらけだった。

 吉川はすべての人類が、アダムから始まったと主張したが、その根拠とする『創世記』にある人類の起源の件を読んでいると、アダムの子孫だけで地上に人類が増えたとは思えない記述が見られる。
 『創世記』第四章一七節によると、アダムの長男カインは、嫉妬心から弟アベルを殺して、エデンの東、ノドという場所に追放された。そこでカインは結婚し、エノクをもうけたが、カインの妻の名は記されていない。
 アダムとエヴァにはひとりだけ娘がいたが、彼女が生まれたのは、カイン追放の後のことであって、カインの妻がその妹でないことは、明らかだ。
 そうすると、登場人物だけを見れば、残りの可能性は、カインとエヴァの母子相姦だけだ。
 しかし、それが行われていたとすれば、ロトが自分の娘と交わった時(『創世記』第一九章三〇~三八節)と同じように、何らかの記載があるはずではないか。聖書は近親相姦をタブーとして教えているのだから。
 そして、もしも『創世記』の作者が、アダムがすべての人類の祖だと確実に教えたいのなら、無理にでもカインの近親相姦を書かねばならなかったはずだ。

 しかしどこをどう読んでも、カインの妻は、アダムの他の子孫や母・エヴァではないとしか読めない。

 一方、『創世記』第六章一~五節にこのような記述がある。「神の子たちは人の娘たちの美しいのを見て、自分の好む者を妻にめとった。(中略)そのころ、またその後にも、地にネピリムがいた。これは神の子たちが人の娘たちのところにはいって、娘たちに産ませたものである。彼らは昔の勇士であり、有名な人々で あった」。
 この後、地上に悪がはびこったため、神はノアとその家族を「方舟」で救う。
 さて、ここで始めて登場する、「ネピリム」(または「ネフィリム」)の父である「神の子」は、いつ創造されたのか。何者なのか。天使なのか。聖書にはその記述はない。
 ネピリムはこの箇所以外にも登場し、読者を知的な迷宮に誘う。
 『民数記』第一三章三二~三三節には、「わたしたちが行き巡って探った地(筆者注、カナン)は、そこに住む者を滅ぼす地です。またその所でわたしたちが見た民はみな背の高い人々です。わたしたちはまたそこで、ネピリムから出たアナクの子孫ネピリムを見ました。わたしたちには自分が、いなごのように思われ、また彼らにも、そう見えたに違いありません」とある。
 さらに、その影響を受けたと思われる旧約外典の『ヨベル書』や、エチオピア正教では旧約の正典とされる『第一エノク書』にも、「ネフィリム」、「巨人」という表現がある。
 聖書をすべて一言一句信じるなら、「ネピリム」や「巨人」の存在も信じねばなるまい。しかし、私はこれらの人々について、吉川やその弟子たちから、聖書の解釈を聞いたことはなかった。読み飛ばすか、無視するかしていた。もちろん、私が覚えていないだけだと批判されるかもしれないが、それは私の記憶に残らない 程度の、ちんけな解釈しかしなかったということだ。

 このように聖書にだって吉川が小ばかにした日本神話とほとんど変わらない、現代人からすれば荒唐無稽なストーリーが展開されている。
 これらの表現が意味するのは、素直に読めば、神の創造の系譜とは別の人類が地上にいたということだ。アダムが唯一の人類共通の先祖であるとはどこにも書かれてはいない。それは、土台無理なこじつけなのだ。
 私は、他の常識的な人と同じように、この記述には、古代オリエント人に語り継がれた素朴だか貴重な史実が、そのまま反映されているのだと思う。
 アダムはひとつの人類グループの祖であり、彼の子孫がメソポタミアに広がった。その間、「ネピリム」、或いは「巨人」と、アダムの子孫が名づけた異邦人や、他のグループとの接触もあった。素直にそう考えればよいのではなかろうか。

 『創世記』第六~九章にある「ノアの洪水」が、本当にメソポタミアであったらしきことは、『ギルガメシュ叙事詩』に、同様の洪水の記述が存在すること、また、地質学の研究などからほぼ明らかなようだ。アダムといい、巨人といい、洪水といい、語り伝えられた史実のパッチワークが、旧約聖書の神話だ。
 それはまさしく、記紀と同じ構成ではないか。
 例えば、神武天皇による東征の記述は、弥生文化の勢力が、縄文文化の勢力を西方から東北へ追いやる過程を、皇室を中心とした物語として編み上げたものであって、事実を反映してはいるが事実そのものではない。
 そして、仁徳天皇の好色や、武烈天皇の残忍、皇位簒奪をにおわせる神功皇后と応仁天皇、不可解な皇位継承の継体天皇など、記す必要がない、皇室にとって「不利な」物語も記紀には散見される。特に『日本書紀』などは、皇室中心ではありながら、「一書によると」という表現で、他の伝承にも多数言及している。
 これらは、正直に、「ネピリム」や「巨人」について言及している、『創世記』の作者の「良心」に通じるところがある。
 ところが吉川やその弟子の説教は、聖書だけでは説明がつかない部分に(聖書以外の、歴史や考古学などの書物を読まない、彼らの勉強不足もあるのだろうが)都合よく蓋をして、つじつまの合う部分だけを結びつけた内容だった。
 こういった『創世記』の謎解きの、本当は知的興奮を覚える面白い部分を、吉川もその手下も、完全に無視していた。
 それはちょうど、皇国史観による国史のようなものだった。
 『三国志』の著者が「卑弥呼」と表記した三世紀の「倭国」の女王が、記紀では誰にあたるのかを、記紀の記述だけを頼りに、無理やりに神功皇后だと決め付けるかのような解釈を、吉川たちは平然と行っていた。無知な、いや、自らが愚民政策で無知にした、聖書解釈を許されていない信者を煙にまこうとしていたのだ。

第4章 教義と解釈( 4 / 7 )

 このようにプロテスタントは、聖書至上主義だというが、その一方で、都合の悪いところは聖書を適当に解釈し、お茶を濁すのだ。知的には興ざめである。少なくとも、吉川や浮田はそうだった。

 彼らが最も説明困難だったのが、イエスをユダヤ人に売ったイスカリオテのユダの最期だ。
 これは福音書と『使徒行伝』で記述が大きく違っている。
 『マタイによる福音書』第二七章一~八節にはこうある。
 「夜が明けると、祭司長たち、民の長老たち一同は、イエスを殺そうとして協議をこらした上、イエスを縛って引き出し、総督ピラトに渡した。その時、イエスを裏切ったユダは、イエスが罪に定められたのを見て後悔し、銀貨三十枚を祭司長、長老たちに返して言った、『わたしは罪のない人の血を売るようなことをして、 罪を犯しました』。しかし彼らは言った、『それは、われわれの知ったことか。自分で始末するがよい』。そこで、彼は銀貨を聖所に投げ込んで出て行き、首をつって死んだ。祭司長たちは、その銀貨を拾いあげて言った、『これは血の代価だから、宮の金庫に入れるのはよくない』。そこで彼らは協議の上、外国人の墓地にするために、その金で陶器師の畑を買った。そのために、この畑は今日まで血の畑と呼ばれている」。

 ところが、『使徒行伝』第一章一六~一九節には、ペテロの言葉として、このように記されている。
 「兄弟たちよ、イエスを捕えた者たちの手びきになったユダについては、聖霊がダビデの口をとおして預言したその言葉は、成就しなければならなかった。彼はわたしたちの仲間に加えられ、この務を授かっていた者であった。彼は不義の報酬で、ある地所を手に入れたが、そこへまっさかさまに落ちて、腹がまん中から引き裂け、はらわたがみな流れ出てしまった。そして、この事はエルサレムの全住民に知れわたり、そこで、この地所が彼らの国語でアケルダマと呼ばれるようになった。『血の地所』との意である」。

 たぶん、成立年代に顕著な違いがあれば、古いほうが事実を反映しているものと予想されるが、両書の成立は紀元八〇年前後で、大きな差はないようだ。しかし、片方は自殺、片方は事故死という正反対のストーリーは、たぶんどちらかが、事実をわざと反映させなかったはずだ。

 有体に言えば、マタイかルカか、どちらかが嘘を書いたのだ。しかし、私はそれを批判しているのではない。

 私害いたいことは、聖書にも間違いはあるし、初代教会の使徒たちが、迫害の中で頑張っている信者を力づけるために、誇張したところもある。そういう当たり前のことを認めればよいのだ。
 私は、信者であった当時、こういった矛盾に対して、「聖書には事実が書かれていないかもしれないが、それは神の許容される範囲での誤りであって、それよりも何よりも、学ぶべき真理がそこにある」という言葉で、自分で聖書の内容を合理化していた。
 だから、ユダが首をくくったか、転落死したかは、イエスを信じる上で大きな問題ではなく、彼がイエスを裏切ったこと、そのために地獄に行ったことだけが本当は問題なのだ。わからなければ、正直にそう言えばよいのだ。「わかりません」と。
 ところが浮田はある時、このユダの死についての矛盾を誰かに突っ込まれたと見えて、説教中に鼻息を荒くして、「聖書に書いてあるから、どちらも起こったのです。首をつって、死体が落ちて、はらわたが流れ出たのです」と、興奮気味にまくし立て、幼稚で乱暴に解釈を信者に押し付け、同意を求めた。
 「アーメンですか」と。
 土地は誰が買ったのか、土地が買われたのはユダの生前なのか死後なのか。後者だとすれば、ユダはイエスのように蘇ったとでも言うのか。同時に起こったというだけで、論理矛盾は一切解消させていない。これは解釈ですらない、ヤケクソである。聖書に書いてあることはすべて事実だから、これでいいのだ。「神には何でもできる。反論無用」という訳だ。
 私は他の信者と同じように、強制されて「アーメン」と唱えながら、この無知性、無教養な牧師に辟易としていた。
青木大蔵
信ずるものは、救われぬ
0
  • 0円
  • ダウンロード