信ずるものは、救われぬ

第3章 青春と苦悩( 9 / 16 )

 そして、私たちが深い関係になる前に、たった半年足らずで、この恋愛は指導者たちの知るところとなった。そして叱責を受け、二度と教会の外で会うなと命じられた。
 その上で、学生集会の席上、普段は出席しない吉川までもが出席する中で、私と美智子は自己批判させられた。
 私も美智子も、そのころ、多くの後輩信者を「導く」立場にあったから、集会を二つに分け、古参の学生ばかりを集めた方の集まりで、吉川自らが説教した上で、改めて糾弾を受けた。
 私は、反革命の烙印を押された共産党員のようだった。弁明も何もさせず、一方的に吉川と教会の価値観がまくし立てられた。
 吉川は、「危なかった」という言葉を繰り返した。それは、私と美智子が、一線を越えることになる前に、この恋愛が露見したことに対しての表現だったようだ。

 この糾弾と自己批判の強要は、当事者が言うのも何だが、ちょっと異常なことだった。信者が恋愛することをここまで恐れるのはなぜなのか。
 私たちは、教会をサボった訳でも、教会の品位を落とした訳でもない。ただ、お互いがお互いを好きで、付き合っていただけだ。私は、誰にも聞けない疑問を抱いた。
 丸畑など親しい友人は、私たちの関係を知っていた。だから私たちに同情してくれた。しかしそれは、無言の慰めだった。涙をためて握手を求めてきた後輩もいたが、誰も恋愛の是非について、何ひとつコメントすることはなかった。
 というよりも、誰もできなかった。私もそんなことは期待してはいなかったが、私は教会という集団にいるのに孤独だった。しかしそれでも私は、教会を離れなかったし、そんなことは考えることすらできなかった。
 私はその直後、美智子に手紙を書いた。しかし彼女はそれを自分から指導者に知らせ、私だけ三度目の叱責を受けた。
 私は納得がいかなかったが、どうしようもなかった。私は手紙を書いたことを後悔した。その行為に対してではなく、美智子に私を裏切るような行為をさせてしまったことに対してだった。彼女も私も教会にどっぷり漬かっている以上、どうしようもなかった。
 私たちは、たった一日で余所余所しい関係になった。どうしても何か話さねばならなかった時、私たちは敬語で話をした。

 校則に違反して、軽くパーマを当てていた少し長目の髪を、私は短く刈り込んで、反省しているように見せかけた。髪で覆われていた耳を、一度も外へ出したこと がなかった私が、「おっちゃん。スポーツ刈りにして」となじみの散髪屋に言うと、子供のころから注文がうるさかった私を知っている店主に、「ほんまにええんか」と、念押しされた。
 本当は反省などしていなかった。半分ヤケクソだった。次の週、私の頭を見た吉川は、納得したかのように頷いた。
 理由を知らない学校の友人たちは、私が親にタバコでも見つかって、反省のために髪を切らされたと思ったようだった。大柄な私がスポーツ刈りをしてきたので、 当時、ルールを無視して読売巨人軍に入団し、ダーティーなイメージを一身に浴びていた江川卓投手に似ていると誰かが言い始めた。私は熱烈な阪神ファンでエガワを蛇蝎のごとく嫌っていながら、「エガワ」という最悪のニックネームを頂戴することになった。自業自得だと思った。

 北詰は高校卒業後、私と同じように一浪したが、東京にある有名な大学に進学し、上京した。大学を卒業した後間もなく、彼女が結婚の挨拶をするとかで教会にやってきたことがあった。お相手はエリート官僚だと聞いた。
 そのころ私は、まだ教師になれずに、昼間は出版社でアルバイトをしながら、夜は、家庭教師や塾講師で糊口をしのいでいた。
 私は北詰が教会に来ていることを誰かから教えられたが、彼女がきっとそうであったように、私の中でもあのことはもう過去の話だった。私は北詰に会おうとはしなかった。会えなくても別段何とも思わなかった。

 いや、本当はそうではなかった。

 顔をあわせることで、浮田か誰かに余計なことを言われたくなかっただけだ。本当は幸せになった彼女を一目見たかったし、手を握って祝福したかった。男らしく。しかし私は北詰に「おめでとう」と言うことを、自分が不愉快な思いをしないためという理由で断念した。用事もないのに忙しそうにして、時を過ごしたのだった。

第3章 青春と苦悩( 10 / 16 )

 私が「恋愛事件」を起こす以前から、浮田が私を良く思っていないということを、ことあるごとに私は感じ取っていた。事件後はますます、私には浮田の目が光るようになった。

 浮田は、まるで私に、悪魔でも乗り移っているかのように扱い、汚らわしいものを見るかのような目を向けた。それが吉川の差し金であったかどうかはわからないが、浮田は私を眼の敵にした。
 私がちょっと同年輩の女性信者と親しく話していると、浮田はそれを見咎めて、「もう一度同じことをやったら、あなたはもう用いませんよ」と、私を呼んで冷たく言った。

 「用いない」というのは、信者として何か役目を与えないということだった。

 泉南キリスト福音教会、関西ペンテコステ福音教会には、一般信者にもさまざまな役割があった。礼拝や聖書研究などのメインの集会ではない集会での説教者、司会者、日曜学校の先生、楽器奏者、音響技術者、ビデオカメラのカメラマン等々。それは名誉なこととされた。
 教会内部の役割など、信仰そのものには関係ないし、どうでもよいはずなのだが、マインド・コントロールが効いていた当時、その小柄な男の脅しが、大きく私にのしかかった。
 当時の私にとって、集会でギターを弾くことは、重要な問題であった。恋愛問題で「前科者」となった私にとって、「用いられないこと」は、吉川の言う破門にも等しかった。

 だからといって、正常なティーンエージャーが、恋愛をしたくないはずがない。私はその後、教会の外で、教会に隠れて、人並みに、教会とは無関係な女の子と付き合いながら、いつもびくびくしていたものだった。
 デートに行った先から、電車なら一五分で帰れるのに、わざわざバスに乗って、一時間以上かけて帰ったこともある。もちろんそれは、教会の牧師たちや、他の信者 に見つからないためだった。それでも一度、予備校時代に、女の子と天王寺駅にいるところをある特訓生から見咎められ、彼女が浮田に告げ口をしたので、私はやんわりと浮田から釘を刺されたことがある。

 「あなたはその女性といるときに、イエス様のことを話せますか」と。

 私は、教会という狭い世界の中に住んでおり、そこから抜け出すことができないのなら、女の子とまともに付き合うのは難しいと実感した。受験が近くなっていたということもあって、結局、その彼女とも別れることにした。
 私は明らかに苦痛を感じていた。人を愛することを教えたイエスの教会が、人を愛することを禁じているのだ。しかし私は、それでも教会には留まらなければ ならないと真剣に思っていた。本当に地獄が怖かったからだ。教会にさえ行っていれば、私は少なくともバスに乗り遅れることはない。素朴にそう信じきってい た。
 ところが、恋愛ご法度のルールは、私が大学在学中に、いつの間にか撤廃された。公式のアナウンスメントはもちろんなかったが。指導者が認めたカップルは構わないということになったようだった。
 学生の間では、「公認カップル」が続々と誕生したが、それはある意味で自然なことだった。
 私は間もなく、大手を振って、苅田徳子という高校生と付き合い始めた。念のためにそれを、親しくしていた女性伝道師に報告したが、あっさり「よかったわね」 と言われて、かえって拍子抜けした。妹はその頃、もう商業高校を卒業して、就職していたが、大学生だった今の夫とつきあうようになり、彼が卒業した後間もなく結婚し、子供にも恵まれた。

 大げさな言い方かもしれないが、恋愛解禁はこの教会の小さなペレストロイカだった。

第3章 青春と苦悩( 11 / 16 )

 恋愛感もおかしいのだから、結婚観も極めて異常なものだった。勿論それを構築したのは、吉川に他ならない。

 吉川が育てた最初の牧師は、山城一朗という、細身で背の高い、品のある人だった。私には物静かなインテリに見えた。吉川や他の弟子たちとは対照的だった。
 関西大学法学部在学中に入信し、所定の単位を三年でほぼ取り終えた後、献身して、教会生活に邁進したと、日ごろ人のことを余り褒めることのない吉川が、この一番弟子の前川だけは、いつも自分のことのように自慢していた。
 私が教会に通い始めたころ、彼はどういう経緯かは全く知らないが、ブラジルに宣教師として派遣されていた。その後、山城は独立して、別の教会の牧師になっていた。同じ教団にも所属していないようだった。この山城牧師の妹が、私の妹の日曜学校の最初の先生だった、あの笑顔の女性である。彼女は、別の教会の信者と結婚し、夫の教会に移ったのだが、吉川はそれが気に入らなかったらしい。

 「山城姉妹はよその教会の人と結婚したが、その人はあまりよくない人だった。だから私は信者を、私の知らない、よその教会の人と結婚をさせるのはいやなんです」。

 何がよくないのかについて、吉川は言及しなかったが、要するに吉川は、教会内での「近親婚」しか基本的には認めたくないと言うのだった。
 その言葉を真に受けた浮田は調子に乗って、私たち男子学生に、「外で彼女を見つけたいのなら、先にその人を信者にしなさい。」と発破をかけたのだった。

 ある夏の学生キャンプの講師に、周永民という牧師が招かれた。台湾系の人のようだったが、それまでに全く知らない名前だったので、私は少し驚いた。他の教団から講師を招くことはあったが、「ベテラン」の私にとって、講師陣はおなじみの顔であることが多かったからだ。
 周牧師が一連の説教の中で、中・高・大学生しかいない聴衆に向かって、「結婚相手について、今からちゃんと神に祈りなさい」と強く勧めた。
 恋愛禁止、近親婚のみの関西ペンテコステ福音教会の牧師たちが慌てたのは言うまでもない。流石にそのキャンプの期間中には否定はしなかったが、帰ってから牧師たちは、やっきになって、「周先生はそう言ったが、学生の間は結婚相手を考えるのはまだ早い」と、周牧師の発言を必死でもみ消そうとした。

 私はひとり苦笑した。

 余談になるが、教会がこういうふうに、影響力があると思われる他の牧師の発言を否定することは、たまにあった。
 当時、日曜の朝などに、費用の安いUHF局などで、アメリカのエヴァンジェリスト(テレビ牧師)の番組がいくつかあった。
 中でも、レックス・ハンバードの番組を見ている信者は結構いた。私も番組宛に感想を送り、「あなたは愛されています」と刻まれた、金色のピンバッジをもらったことがある。私はよほどバッジが好きなようだ。
 説教の内容は非常にソフトなもので、総体的に言って、未信者向けの内容だった。既に信者であった私には、毒にも薬にもならないものだったが、アメリカの教会の雰囲気が感じられ、気に入っていた。この番組については、他の宗派が嫌いなこの教会の牧師たちは無関心だった。
 ところが、別のエヴァンジェリスト、ジミー・スワガートのテレビ説教の内容に、わざわざ、「あれは私たちの見解とは違う」というコメントをしたことがあっ た。私はスワガートの番組も何度か観たことがあった。説教の内容などは、スワガートがアッセンブリー・オブ・ゴッドに当時所属し、教派が近かったせいか、 ハンバードのものよりも、こちらの方がしっくりと来た。ただ、吹き替えの声があまりにも不自然だったので、聞き苦しく、あえて観ようとしなくなったと記憶している。
 後日、スワガート本人の売春スキャンダルが発覚して、一般のマスコミにも大きく報じられ、間もなく番組は終了したが、そのときには教会はなぜか無反応だった。

 話を戻そう。
 適齢期になった男女は、吉川や他の牧師が「仲人」になって結びつけた。
 地域集会で一緒に活動した、三十代前半のまじめな男性信者がいた。結婚願望が強かったこの人は、「結婚したい」と、浮田に直訴した。その時浮田は、まず釣書を持って来いと言ったそうだ。
 私は拍子抜けした。吉川は自分が祈って、最高の人を探すと言っていたが、要するに、伝統的見合いと同じやりかたではないか。教会の枠の中で、マッチングをしていただけだった。
 ある真面目で、教会活動も熱心な露天商がいた。彼は吉川の取り持ちで、箱入り娘と結婚することを勧められた。もちろん、同じく熱心な信者だった女性のほうも断るはずがない。
 彼女の父親は当然のように反対した。だが娘は、「お父さんに何を言われても、神が導いてくれた人と結婚します」と突っぱねた。そして結婚後に、父はその男性の真摯な性格にほれ込み、彼女の両親も信者になった。
 こういう教会が描くシナリオどおりというか、それ以上の例もあれば、もちろん、うまくいかない例もあった。
 ある女性伝道師の物静かな妹は、気が進まないのに結婚させられたようだった。
 結婚生活は数年で破綻した。しかし教会内で離婚の事実があったことを口外することはタブーとなっていた。彼女は教会から静かに消え、異常に熱心に教会活動を行うようになったその元夫だけが残ったのだった。

第3章 青春と苦悩( 12 / 16 )

 昭和四〇年代後半に、泉南キリスト福音教会は人数が急激に増え、新会堂を構えて関西ペンテコステ福音教会となるのだが、その後まもなく三つの教区に分けられて、統治されることになった。
 礼拝は、本部に集まるが、その他の活動は地域単位で行うことになった。
 それで、吉川は自らを主任牧師とし、浮田に加え、江戸川治、小松邦正という三人の牧師が教区長に任命された。
 江戸川は関東にある同じ教団の教会からやってきた人だった。JPC教団は、事実上単立教会のゆるやかな集まりだったから、教会間の聖職者の転勤はない。にも関わらず、なぜ伝道師であった江戸川が大阪に来たのかはわからない。何の説明もなかった。
 
 こういったケースは、普通ならば何らかの不祥事が疑われる。教団内の移動で、不始末を有耶無耶にするというやり方だ。

 ほんの一時期、ハワイにある、ブルームがアメリカで主宰する教団の教会から、ジョージ・ナカモトという男が、ルースという名の夫人とともに所属していたことがあった。
 ジョージは特訓生と称していた。研修名目で来ている、というような説明だった。日系人で日英両語を話し、ギターが得意なジョージと、美人で美声の持ち主だったルースは、田舎町の教会にバタ臭い雰囲気をもたらした。
 ルースは私たち学生との接触は殆どなかったが、聖歌隊の指導をしていたので、その存在感は礼拝中に輝いていた。一方ジョージは、学生集会にも顔を出した。持ち前の明るさで、すぐに私たちの溶け込んだジョージは、ギターもそうだが歌も上手で、私たちに新しい賛美歌やギターを熱心に教えてくれたのだった。
 ところが、実はこのジョージ、ハワイで女性信者と問題を起こしたため、一時的にこちらに身を寄せていたのだった。私がそれを知ったのは、彼が帰国してから、 ずいぶん後のことだった。帰国の際、これまた何の説明もなく、そそくさといなくなった。その後彼がどうなったかを、私は知らない。

 しかし、江戸川はそういう感じの人では全くなかった。長身で細身の彼は、まじめを絵に描いたような人だった。三人の子持ちで、いいお父さんに見えた。だから余計に、彼が何故わざわざ大阪にやってきたのかがわからなかった。
 年上に見える細君は英語が堪能で、朗らかな人だった。吉川不在の際には、ゲストスピーカーのアメリカ人牧師の同時通訳をすることもあった。江戸川と私には接点はあまりなかったが、上から押し付けるようなタイプではなかったので、私は悪い感情は持っていなかった。
 江戸川は、教会がある町よりも大きな、同じ泉州の町に集会所を構えた。現在は中部地方で教会を主宰し、また今は紀泉聖書学院で教えてもいると言う。
 もうひとりの小松は九州出身で、元船乗りというバンカラな中年男だった。「私は遊んできました」と公言するだけに、遊びたい盛りの若い人間の気持ちが分かると評判だった。親分肌で、豪快。美人の奥さんとの間に、二人の子供がいた。
 小松の昔話は面白かった。
 「映画『卒業』のラストシーン。結婚式の会場に乗り込んで、恋人を奪い返すダスティン・ホフマン。私は、良いシーンだなぁーと思いました。主人公に感情移入してね。でも、フィアンセを奪われる方の立場になるとは、夢にも思いませんでしたよ。ははは」。
 小松は、婚約者に結婚直前に逃げられた経験があるのだそうだ。船員として仕事をしていた時、極度の近視になって、憧れだった船長になる夢が叶わなくなり、その後イエスと出会った。
 彼の集会所があったのは大阪市内の下町だったが、彼自らが不良少年を更正させるなど、そこは活気にあふれていた。
 私は小松の下に集う同年輩の連中が、和気藹々としているのをいつも横目で見ていた。心底羨ましかった。その中から二人が牧師になっている。小松自身は今、そのうちのひとりの教会で副牧師をしているらしい。

 私は比較的教会の近くに住んでいたから、教会の周辺の教区であった。あろうことか教区長は、あの浮田だった。浮田は三人の中では古参だったから、教会の本丸を任されたのだと思う。

 私は自分の不幸を呪った。

 教区制になっても、私には何の変化もなかった。 浮田は融通が利かない独裁者の手下だったからだ。
 浮田の無知、無教養ぶりは、説教を聴くこちらが赤面するほどだった。
 説教のネタも少なく、私の頭に残っている浮田の話は、「人間にはそもそも神意識があります。犬がワンと神に祈りますか。猫がニャンと神に祈りますか。祈るのは人間だけです」「雨の中、モーターバイクで転倒事故を起こした時、私は神に召されたと思いました」「私が開拓伝道をしていたころ、少々腐ったものも食べ て頑張りました」。これだけだ。 
 浮田はほんの一時期、北河内のある町で開拓伝道をしていた。吉川はそこに拠点をつくって、教会の拡張を図 ろうとしたようだが、期待された成果は得られず、うやむやのうちに伝道所は閉鎖された。浮田は悪びれる様子もなく、本部教会に戻ってきていた。そのことも やはり、絶対に話題に上らない、教会のタブーのひとつだった。
 歴史をまともに敷衍したこともないのに、「韓国の人には過去のことを謝罪せねばならなりません」という、軽薄な偽善的発言には辟易としたし、チェルノブイリ原発事故のニュースに接し、地名を覚え間違えて、「チェルノブリイとはロシア語で『ニガヨモギ』のことで、これは聖書に書かれてあることなのです」とひとり興奮した姿には、反吐が出そうになった。
 確かに、『ヨハネの黙示録』第八章一一節には、「この星の名は『苦よもぎ』と言い、水の三分の一が『苦よもぎ』のように苦くなった。水が苦くなったので、そのために多くの人が死んだ」とある。で、「ニガヨモギ」=チェルノブイリだから、この原発事故は旧約聖書に預言されていたという訳だ。
 チェルノブイリはウクライナの地名だが、その言葉の意味は「ニガヨモギ」ではなく、それによく似た「オウショウヨモギ」という植物のことらしい。ロシア語では 少し発音は違うが、やはり同じ。「ニガヨモギ」は、ウクライナ語では「ポリン」、ロシア語では「ポルイニ」という、チェルノブイリとは全く違う別の言葉が ある。誰かの言ったことを鵜呑みにしたのだろう。検証もせずにそれを説教で話したという軽率さ。これくらいは、図書館で辞書を見れば分かる程度の知識だ。

 浮田には吉川レベルの知性もないくせに、吉川流の「牧師命令」は好きだった。
 
 大学時代、私が口髭をたくわえたところ、浮田は理由も聞かず「生意気だ。剃りなさい」と命じた。
 私が、「信仰と髭は関係がないでしょう。現に、本木君だって伸ばしているじゃないですか」と、一つ年上の本木拓也の名前を出した。彼は小松の教区の信者で、後に勤めていた会社を辞め、紀泉聖書学院を経て牧師になった。小松が育てたふたりの牧師のうちのひとりだ。
 私の口答えが悔しかったのだろう、浮田は、私をぐっと睨みつけて、「自分で稼げるようになってからにしなさい」とまるで説得力のない説教をし、再度剃るように命令した。
 私は逆らっても無駄だと分かっていたので、納得したフリをして引き下がったが、大学を卒業したあとで、もう一度伸ばし始めた。もちろん今度は、浮田も何も言えなかった。それを確認してから、私は髭を剃った。
 
 髭だけではなく、教会は方針として、信者の身なりにも口出しをすることがあった。
 私は礼拝で楽器奏者をしていたので、高校生のころから、日曜日はネクタイを着用するように命じられていた。
 一度、ジャケットに袖を通さず、肩からかけていたところを浮田に見咎められ、「そんな格好をしていたらやくざと間違えられますよ」と、大げさに注意されたことがあった。誰が高校生をやくざに間違うというのだ。
 小松の教区に、仲良くしていた姉妹がいた。私は彼女たちの弟とも年齢が近く、長女のほうとは日曜学校で同じクラスの先生をしていたので、結構親しくしていた。
 彼女たちはいつも、派手にではないが、世間並みの化粧をしていた。私は、その妹のほうから、化粧をしていることを、小松から咎められたことがあると聞いた。
 私の母は、教会の女性たちは、大半が長く髪を伸ばし、化粧っ気がないので、スーパーで見かけてもすぐわかると言っていたが、全くその通りだった。質素といえば聞こえはよいが、信者が同じような姿かたちで、浮世離れしている集団に見えることで、人々は余計に教会へ行くことを嫌がるだろう。
 世間に迎合するということではなく、常識の範囲を超えてはいけないということだ。そういうことを、牧師もほとんどの信者も理解できていなかった。

 吉川が、ロングヘアーの女性が好みなのは彼の態度でわかった。

 逆に男性の長髪は大嫌いだった。それを牽強付会するのに、説教中に出鱈目な説明をした。「女性が髪を伸ばすと、どこまでも伸びますが、男性は肩ぐらいまでし か伸びません。これは神が、そのように身体を作られたからなのです。だから女性は髪を伸ばし、男性は髪を短くすべきなのです」。
 聖書のどこにもそんなことが書いてあるのだろう。そればかりか、『士師記』第一三~一六章に登場するサムソンは、長髪が怪力の源だったではないか。彼は溺愛したデリラに髪を切られて、敵に捕らえられ、目を抉られる羽目に陥った。
 吉川はシク教徒の男性のターバンが、下半身まで届く髪を覆っているものだということを知らなかった。私の友人のロベルトはメキシコ出身のヒスパニックだが、長い髪を三つ編みにしていて、それは彼の尻にまで届いている。
吉川は、人をそのままで受け入れることができず、自分の趣味を押し付けるために、非科学的で、非聖書的でさえもある根拠をでっち上げていたのだった。
 
 私が高校一年生の時だった。浮田が私にこう尋ねたことがあった。「君は、教会が髪形を決めたら、それに従うことができるか」。
 私は絶句し、答に窮した。驚くべきことに、吉川たち首脳陣は、そんな恐ろしいことまで考えていたのだ。
 反対が多かったのか、ヘアスタイルの統一は実現しなかった。
 仮にそうなっていたら、我々は明らかにカルトの烙印を押されていただろう。それは白装束やヘッドギアと何ら変わりがない異常な姿だ。私たちはもうちょっとで、集団洗脳された哀れな姿を、世間にさらしていたかも知れなかった。
青木大蔵
信ずるものは、救われぬ
0
  • 0円
  • ダウンロード