信ずるものは、救われぬ

第3章 青春と苦悩( 5 / 16 )

 泉南キリスト福音教会、関西ペンテコステ福音教会には行事がたくさんあった。日曜日以外の休みの日も、極力信者を縛り付けておこう、ということだったのだろう。

 そのひとつがキャンプだ。

 キヤンプとは、日本語になったその言葉がイメージするアウトドアの遠足ではない。
 アメリカでは、夏休みなどの長期の休み中に、子供たちを対象に、様々な団体が合宿を開く。野球、アメリカン・フットボール、サッカー、テニスやサーフィン などの各種スポーツ以外に、絵や写真などの芸術、数学や理科など、様々なジャンルの合宿があり、これをキャンプと呼ぶ。
 教会が行うキャンプもある。信者の子供たちが合宿をして、神の言葉を学ぶことを目的にするのが、教会のキャンプだ。

 泉南キリスト福音教会、関西ペンテコステ福音教会で行われたキャンプは、まさしく「信仰強化合宿」だった。

 キャンプは春休みと夏休みに行われた。それは私にとって、楽しみでもあり、また苦痛でもあった。友人たちと外で宿泊できる楽しみと、長時間の祈祷を強要される苦痛がそれである。
 小学生のキャンプは、県境の山の中にある、吉川清も牧師になる前に通った、紀泉聖書学院のキャンパスが主な目的地だった。教会からは車で30分ぐらいの ところであったが、自然に囲まれた悪くない場所だった。難を言えば、建物は古かった。夏場は蚊が多かったので、先生が蚊取り線香をたくさん炊いたり、殺虫剤を直接子供の手に噴霧したり(虫除けスプレーはまだ販売されていなかった)したシーンが脳裏に蘇える。夏は公営の野外活動センターなどで行うこともあった。
 キャンプは聖書の勉強とピクニック、そして長時間の祈祷が主な内容だ。吉川は来なかった。小学生のキャンプは日曜学校の責任者の伝道師が中心になって計画された。
 ペンテコステ派のこの教会では、キャンプで子供にも集団で祈祷させ、聖霊の降臨を期待した。実は私を教会に誘った大野は、小学生でただひとり、聖霊降臨を経験している「エリート」だった。
 私たちはキャンプで、夕食後に行われる礼拝で賛美歌を歌い、説教を聞いた後、一時間以上も、聖霊降臨のために祈らされた。

 念のために書くが、私たちはまだ一〇歳そこそこだった。私の妹のように、もっと幼い参加者もいた。私は、長時間の正座にしびれを切らし、先生に見つからないように、時々薄目を開けながら、「これさえなければ楽しいキャンプなのに」と、いつもそう思っていた。
 小学生なので自分の時計がない。だから祈っている時間がものすごく長く感じられた。祈祷は強制だった。祈りたくないということは許されなかった。私は祈祷時間の終わりを告げる、オルガンの音色が待ち遠しかった。
 このキャンプに保護者は同行しない。二泊三日の間、日曜学校の先生による短期間の王国がそこに構築された。もしも、そこに取材のカメラが入っていて、その一部始終を公にしたならば、オウム真理教やその類の邪教集団が、子供を囲って洗脳していると批判されたのと同じように、何らかの疑いの目を向けられたであろうことは想像に難くない。
 しかし、その頃の私が取材のマイクを向けられたら、「楽しいです」とだけ答え、強制的に祈らされている苦痛を訴えることはできなかっただろう。

 カルトにいる子供たちは、皆同じだ。そして子供は、どんな答えが先生にほめられるかを知っている。

 六年生の春のキャンプで、私はちょっとした失敗をした。
 バスに乗って紀泉聖書学院に着くと、高学年は、物を運んだり、座布団を並べたり、先生と一緒に準備を手伝った。私は最初に大野と一緒に大きな荷物を運ぶのを手伝って、自分の役目は終わったと思い、ぼけっとしていた。
 すると、大柄な大野が、他の何人かの子供と一緒に、不満そうな顔でオルガンを運んでいるのが目に留まった。
 「何や大野、まだ手伝わされてるんか」。私はそう声をかけて、はっとした。オルガンを担いでいたのは、子供ばかりだと思っていたのだが、そこに小柄な浮田が混じっていたのだ。私は浮田を子供のひとりだと思ってしまったのだった。
 しまったと思った瞬間、浮田は私に、低く厳しい声で、「青木君、『手伝わされる』というような考えでは、イエス様は喜ばれないよ」と言った。私は慌てて大野の横に移動して、オルガンを運んだ。
 優等生の面目丸つぶれだった。どうもそれから、浮田は私を気に入らなくなったようだった。ことあるごとに、私に厳しく当たった。嫌なチビだ。私はずっとそう思っていた。

 中学生以上の学生が参加する春夏の学生キャンプ、そして、主に成人のためにあったゴールデンウィーク、盆と正月の聖会。これらも中身は基本的に小学生のキャンプと同じだった。
 学生キャンプは、春は子供と同じ紀泉聖書学院で、夏はそこよりももっと遠い、和歌山県の山間部にある、教団が管理するキャンプ場で行われた。こちらには吉川も参加した。
 私は中学一年のときから春夏毎年二回。愚かなことに、浪人をしていたときも行ったから、合計二二回も私は学生キャンプに参加したことになる。高校生になって からは、大人の聖会にも参加していたのだから、今から考えると気が遠くなるぐらい、このカルトの信仰強化合宿に参加していたのだ。
 
 学生キャンプには教団の他の教会からも参加者があった。近畿圏内だけでなく、関東、東海地方の教会からも、人数は少ないが参加者があった。私は、キャンプを通 じて親しくなった彼らと会うことが楽しみだったが、成長してからも、相変わらず長時間の祈りには閉口していた。もちろん、それをおくびにも出さなかったが、ちらちらと腕時計を見て、「あと十五分、あと十分」と自分に言い聞かせていたものだった。

 夏の学生キャンプの名物は、キャンプ場のすぐ近くを流れる清流での水泳と、その水で冷やしたスイカ、近所の学校のグラウンドを借りて行うソフトボール、そして、牧師たちが作るバーベキューだった。
 
 ある年のキャンプで、夕食の際に、初めて参加した高校生が、小声でこう毒づいた。「何やねん、あいつらだけエエもん食いやがって」。
 実は、牧師たちに供されるバーベキューの肉は、学生のそれと比べて見るからに大きく、副食の盛りも極端に多かった。また、参加者に供されないデザートなども牧師たちにはあった。つまらないことかもしれないが、食い盛りの学生よりも、中年の牧師たちの盛り付けのほうがあからさまに大きいというのは、信者でない人間にとっては、ちょっと不満だったろう。私はその声が牧師や指導者たちに聞こえないことを祈ったが、内心、ちょっとだけ同じことを思っていた。

 キャンプの講師には、教団の牧師以外に、特別に講師が呼ばれることもあった。たいていは、系列教団の牧師だったが、一度だけ超がつく「有名人」が登壇したことがあった。
 人気バンド「ゴダイゴ」のベーシストだった、スティーヴ・フォックスだ。
 「ゴダイゴ」のリーダーであったミッキー吉野と同じく、バークレー音楽院を卒業し、彼と最初からグループ活動をしていた、筋金入りのミュージシャンだ。一九七〇年代後半の「ゴダイゴ」の音楽シーンでの活躍は、ここで改めて書く必要はないだろう。
 そのフォックスが昭和五五年にゴダイゴを脱退し、キリスト教の宣教活動を行っていた。
 私たちは、テレビで見ていたスターであるスティーヴ・フォックスが田舎のキャンプ場に着てくれたことに興奮した。特に、当時、礼拝の時に見様見真似でベー スギターを弾いていた私は、興奮したと同時に、とても緊張したことを覚えている。ちょっとだけ会話をしたが、彼が何の話をしたかなど覚えてはいない。聖書にサインをもらって、ベース演奏にお世辞を言われて、舞い上がったことだけしかもう記憶にない。

第3章 青春と苦悩( 6 / 16 )

 キャンプ以外に、クリスマスやイースターはもちろんだが、運動会やピクニックもあった。

 運動会は、教会の規模が大きくなってからは、かな り大掛かりなものになっていった。私たちは走るとき、演技をするとき、吉川の目を意識し、彼に賞賛されることを期待した。実際、高校生の時、私は教区対抗の運動会で応援団長を買って出、剣道部の友人から借りたはかまを身につけ、必死になって応援をした。あとで「吉川先生が感心していた」と伝え聞いて、一人喜んだことを思い出す。
 新入学、七五三、敬老の日、父の日、母の日などには、礼拝の後で、対象者は吉川から祝福を受けた。
 毎月一回、誕生日会もあった。

 教会では毎週日曜日の礼拝後に、大きな鍋でカレーを作って、献身者や遠方から来ている信者のために安い値段で昼食として供していのだが、誕生日会は、そのカレーを参加者が車座になって食べる食事会の延長線上にあった。
 その月に誕生日を迎える信者だけは上座に並んで座り、食後にささやかなプレゼントをもらった。私も何回かもらったが、何をもらったのかはもう覚えていない。
 その日、私の最初の先生であった福井の姉・秋代が、誕生日の列に加わっていた。彼女は私の実家の近くに住んでいた。秋代は私の母や吉川と同年輩のおばさんだったが、熱烈な阪神タイガースのファンだということで、やはり大の阪神ファンになっていた私は、彼女とよく野球の話をしたものだった。
 さて司会者が、ひとりひとり誕生日を迎えた信者を紹介していった。女性の信者は生まれた日にちだけを、男性の信者は生れ年までを紹介することになっていた。
 秋代がその月に最初に紹介される女性だった。司会者は、「福井秋代姉妹、何月何日生まれ」と言った後で、「年齢は伺わないでおきましょう」と、慣例に従って軽く言って参加者の笑いを誘った。
 それを聞いた吉川が、大きな声を張り上げた。

 「クリスチャンが何を言っているんですか。私たちに年齢など関係ありません」。

 またまた場違いの激怒だった。
 楽しいはずの誕生日会の座が静まり、凍りついた。司会者はおろおろして何も言えないでいる。
 それを見かねた秋代が、ふくよかな顔に満面の笑みをたたえて、「今年四三歳でございます」と言い、再び参加者が笑って彼女のために拍手をして、ようやく雰囲気が和んだ。
  秋代は独身だった。適齢期のころに大病を患い、婚期を逃したと聞いた。国家資格を独学で取得して、完全に自立している努力の人だった。キャリアウーマンとはいえ、女性なのだから年齢を気にしない訳はないだろう。私は、吉川の言うことは、確かに間違いではないが、何も場の雰囲気を凍らせてまで、オールドミス に年齢を白状させることもなかろうに、と思った。

 その日の帰り、大野の母が私に話しかけてきた。
 「青木さん、吉川先生はあんなこと言わはったけどな、自分の奥さんの年齢は、絶対に秘密にしてはんねんで。先生より奥さんのほうが年上やっちゅうのん、言いたないらしいわ」。
 私は、彼女が吉川の批判をするのを聞いて、どきどきしている自分に気がついた。そういう話が、大人の女性信者の間には流布していると言うことなのか。 
 「教会批判」。
 その恐ろしい響きの言葉が私の頭に浮かんだ。
 もしもこれを吉川が知ったら、どんな叱責を受けるかわからない。もしかしたら「破門」されるかもしれない。私は、何か聞いてはいけないことを聞いてしまったような感じがした。

 果たして、吉川の妻・民子の誕生月。どのように紹介されるかを私は見守っていた。
 やはりというか、予想通りというか、当然のことのように、民子の生れ年は発表されなかった。他の女性信者も、バランスを取るためか、年齢を暴露されないで済んだ。

 吉川は黙っていた。

 司会者に、民子の年齢を暴露する勇気がなかったのか、それとも吉川がさせなかったのか。どちらかといえば前者だろう。結局、それ以降も、女性の場合には誕生年を言わなくなった。
 あの吉川の激怒は単なる気まぐれだったのだ。秋代だけが損をしたのだ。

第3章 青春と苦悩( 7 / 16 )

 クリスマスはやはり、泉南キリスト福音教会、関西ペンテコステ福音教会でも最大の行事だった。

 常々吉川は、「イエス様が復活しなければ、この救いはなかったのですから、本当はクリスマスよりもイースターの方が重要なのです」と言っていたのだが、その割にはイースターには余り力が入っていないようだった。
 日曜学校のクリスマスは、各クラスで先生が考えた出し物をした。イエス生誕の劇とか、ろうそくを持って聖書の言葉を順番に述べる、キャンドルサービスというパフォーマンス、賛美歌の合唱などだ。
 私は後に日曜学校の先生になったのだが、他の先生と競うようにして、子供たちに練習をさせた。

 この町に市民ホールができてからは、教会全体のクリスマス会は、そこで行われることになった。内容は、子供のクリスマス会とさほど変わらなかった。 
 後年私はアメリカで、地方都市の一教会が主催するクリスマスのイベントに出席したことがある。それは大規模な教会堂(日本でいえば、市民会館のホールよりはるかに立派な設備を持つ)の舞台中央にすえられた、巨大なクリスマスツリーを中心に、歌と踊りと物語が繰り広げられるという大規模なものだった。それは、その町の冬の風物詩となっていて、信者でない人もチケットを買って見に来るほどで、毎年地元メディアでも取り上げられている。
 吉川の教会のクリスマス会はは、規模はそれなりに大きかったが、アメリカの教会のクリスマス会に比べたら、中身は幼稚なものだった。無料だとはいえ、一般の人が時間をとって見に来るほどのものではなく、吉川と信者の自己満足に過ぎなかった。

 私は高校生の時、キャンドルサービスで舞台に立ったことがある。リハーサルのとき、他の出演者が皆、当日と同じ、白いカッターシャツかブラウスを着用してい たのに、私だけ、当時気に入っていた黒のシャツを着ていた。総監督だった吉川にどやされるのではないかとひやひやしたが、吉川は私たちには余り興味がなさ そうで、何も言われなかった。
 それもそのはず。その年は、かなり大掛かりな、聖書の物語をもとにした劇が行われることになっていて、そちらに吉川の意識はいっていた。中心的な信者がこぞって出演するこの劇は、素人狂言にしてはよくできていた。小道具や大道具、衣装にいたるまで、凝った作りのものだった。リハーサルを観て、演出をしていた吉川も満足そうだった。

 ある年は、聖歌隊が「カンタータ」(cantata)と称して、かなり長いプログラムのコンサートをした。こちらも、何故か、音楽に造詣があるとは思えない吉川が総監督をした。
 吉川は日ごろ、「牧師に何もかもさせてはいけません。牧師が教えに専念するためにも、皆さんがいろんな役割を分担しなければなりません。時々、何でもやってしまう牧師がいますが、そういうのを『蛸足牧師』と言うのです」と言っていた。
 しかし、そう言っている吉川自身が、何でも自分でしなければ気がすまない人で、自らすすんで「蛸足牧師」になっていた。それを信者が止められるはずなどない。何でもする吉川が、なぜ伝道をしなかったのが不思議なくらいだ。
 勿論、キャンドルサービスも芝居もコンサートも、信者が時間を潰して、汗水たらして、吉川に怒鳴られて作った出し物の全ては、もちろんクリスマス集会の前座で、最後にある吉川の説教がメイン・イベントだった。

 新しい人が比較的多く集うクリスマス会では、いつもはエネルギッシュな吉川が、ソフトな物腰で語りかける、初老の牧師になっていた。私はその変化に一寸戸惑った。
 クライマックスは、いつもとは違って短い説教の後で、吉川が静かに、「皆さん目を閉じてください。今日の劇、歌、そして聖書の物語をお聞きになって、私も救われたい、もっとイエス様のことを知りたい。そう思った方は、静かに手を挙げてください」というところだった。
 私が薄目を開けてみると、ピアノ伴奏が静かに流れる観客席の中に、何人かが手を挙げている。
 私は、こういう機会には、渋々だが、時々来てくれた母に目をやった。しかし、母が手を挙げることはなかった。

  その母は、末期の肝臓癌で亡くなる直前に、妹夫婦のたっての願いで、ホスピスの病床で洗礼を受けた。洗礼を施したのは、吉川の教会を継承している、私も知る若い牧師だった。私は、あの頑固だった母がと、一瞬驚いただけだったが、妹にとっては慰めになったであろうことを思い、その一点については、その牧師に感謝してい る。

 吉川が入信希望の人たちを前方に招き、祈りを捧げ、係りの信者がエスコートして、彼らの情報を確保する。
 ただ、私の記憶が正しければ、こういう機会で決心をした人は、なかなか長続きしないことが多かったように思う。

第3章 青春と苦悩( 8 / 16 )

 泉南キリスト福音教会、関西ペンテコステ福音教会では、礼拝でも、学生集会でも、どんな集会でも、男女別席という、厳しい決まりがあった。

 夫婦や親子以外の男女が、席を並べることはありえない話だった。いや、夫婦・親子でも、別席が基本だった。
 東京へ旅行に行って、同じ教団の教会の学生集会に参加した時、たまたまこの話になって、「えっ、それはおかしいでしょう。なぜですか」と突っ込まれた。こっちがその理由を知りたかった。男女関係にここまで「ストイック」なのは吉川の教会だけだった。

 男女不同席なのだから、この教会では、恋愛がご法度だったのは言うまでもない。

 私は、中学一年のキャンプで、教団の形式的な本部があった教会から来ていた、南佐緒里という、当時の人気アイドルと同じ名前を持つ、同学年の女の子と知り合い、文通するようになった。しかし、隣の市に住んでいた彼女とは、その後二、三回キャンプで顔をあわせた以外は、一回だけダブルデートをして、その後私は一方的に振られてしまった。実は大野も佐緒里が好きで、私と佐緒里が付き合っていることを知った大野は、しばらく口をきいてくれなかったことがあった。
 私と佐緒里のことは、親しい友人の信者しか知らなかったので、教会で問題になることはなかった。もしも、この一件が露見していたら、何らかの指導が教会から入ったであろうことは想像に難くない。
 ただこの時、万一私が問題になっていたら、教会にとってもまずかったはずだ。なぜなら、この南の同級生で、やはりキャンプに来ていた市川美津子が、吉川の息子・清次と付き合っていたのだから。清次は私が振られた後も、ずいぶん長いこと美津子と付き合っていた。私は清次たちと一緒に、美津子に紹介してもらった 別の女の子と四人で、デートに行ったこともあった。
 清次は私よりもふたつ年上だった。私たちはとても馬が合った。牧師の息子だからと言って偉そうぶるところもなく、ユーモラスで、妹思いで、しかもなかなかの美男子で、スポーツが得意だった。いわゆる、もてるタイプだった。その真逆の私にとって、清次は、憧れの先輩といったところだった。中学・高校のころは、教会でいつもつるんで、冗談を言って笑い転げていた。キャンプでは尚更だった。

 教会の指導者たちは、恋愛がご法度だとは公には言わなかった。それはあくまでも、暗黙の了解だった。

 それでも私は高校二年の時に、北詰美智子という中学校時代の同級生と、学生集会を通じて急速に親しくなり、付き合っていたことがある。
 彼女のことは中学時代から知っていたが、その時はお互いに没交渉だった。美智子は他の学校に通う自分の友人に頼まれて、私にバレンタインデーのチョコレート を届けたことがある。北詰は自分のものだ思われたくなかったので、わざわざ新聞紙でそれを包んで私に届けたくらいだった。
 高校は別々だった。彼女は私の父の母校でもある、旧制女学校の流れを汲む地元の名門校に通っていた。私はそこには手が届かず、担任に勧められた地元公立校への進学を拒んで (当時大阪では、成績に関わらず地元の高校に行かせるという愚行が、似非平等主義の教師によって推進されていた)、敢えて私学に進んだ。電車通学がしたい ということや、私の過去を知っている人がいないところで、高校生活を送りたいということも、地元を拒否した理由のひとつだった。
 私と美智子が、何がきっかけで付き合うようになったのか、今はもう忘れた。
 付き合い始めて間もなく夏休みになると、私たちは一緒に、人目につかないように、というか、信者の誰かに見つからないように、わざわざ遠出をして、中之島の府立図書館や西長堀にあった改築前の大阪市立中央図書館へ行き、隣同士に座って受験勉強をした。水曜日の夜に通い始めた聖書研究会の後は、時間がたつのも 忘れて、いつまでも星空の下でとりとめもない話をした。私は相変わらずいつも、丸畑と行動していたが、丸畑は私たちの話が終わるのを、辛抱強く待っていてくれた。そうしてくれることで、私たちには、ふたりっきりで会っていないという、アリバイを作ることができたのだ。
 もちろん日曜は教会活動でずっと一緒だった。日曜日が待ち遠しかった。
 ある日、私の部屋で話していた時、美智子はこう言った。「私たちが生まれた昭和三六年って、本当に何もない年なんやけど、吉川先生が教会を開いた年やっていうだけで、誇りに感じるわ」。
 私は黙って頷いた。
 ある日私は風邪をひいて、咳が止まらなかったのだが、もちろんそんなことぐらいで、教会を休むはずがない。私は咳き込みながら礼拝に出席した。吉川の説教の声と私の咳が幾度となく交叉した。礼拝の後で美智子は、私の体調を心配する前に、「あんなに咳して、怒られるんやないかって、ハラハラしたわ」と、ツンとして言った。
 私たちは、タブーを破って付き合ってはいても、教会を愛し、吉川を尊敬していた。それには何の変わりもなかった。でも、指導者たちはそんなことを理解してくれるはずもなかった。
青木大蔵
信ずるものは、救われぬ
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