東京模様

馬( 1 / 1 )

東京模様

 三太郎は週末の二日間だけ、世田谷通り傍らの食品スーパーで働いている。担当は精肉係だ。平日五日間は東京タワー斜め下の会社へ通勤する。休みなし暮らしだが、若いからカネがない代わりに体力だけはある。

 彼のシフトはお昼から閉店時間の夜九時までだ。商品の品出し作業は午後も早い時刻に終了するから、夕方から片付けと清掃が主な仕事だ。二〇歳の彼には親のように見えるパートのおばさんたちといっしょに働く。

 時にはシベリヤ越冬するような毛皮の防寒を着て、氷点下三十度の冷凍室内で作業する。中は案外に広く、入ったときはさほど寒さを感じないが、数分で手足の先と鼻の頭に痛みが走る。寒気が逃げないよう、ドアは閉める。そこで万一閉じ込められた場合に備え、緊急ボタンがドアの脇に設置されている。いざというとき本当に使えるのかなと三太郎は怖くなる。

 精肉のチーフは三〇歳くらいな男性。細く長い顔がへちま型にしゃくれてて、国のおふくろが一週間前に亡くなりました、というような沈痛な表情をいつもしている。その下の副チーフは二十六歳の快活な兄さん。まんじゅうなように丸い顔で、いつも機嫌がいい人だ。

 高級住宅地の店のせいなのか、一パック数千円もする高級な肉も販売する。そんな高い肉を、三太郎は食ったことがないばかりか、みたこともなかった。なんという肉かも知らなかったが、一生にいちどくらい食べてみたいものだと思った。

 店長は厳しい人だ。店員全員が、店の商品を無断で持ち帰ったら泥棒とみなすと言い聞かされている。

 そんなところに、新婚で機嫌がいいサブチーフが現われ、

「見つからないようにすれば持って帰ってもいいよ。どうせ捨てちゃうんだから」

と言ってくれた。三太郎は天にのぼるように嬉しい気がした。

 そこで仕事中に、賞味期限切れ近いパックを一つ、狙いを定め、商品陳列ケースの奥深くに押しこんだ。三千円もする高い肉だ。店の規則では、古い商品は客が手に取りやすい最前列に出すのだ。だが売れたら困るので、いちばん奥に押し込んだ。ところが上には上があるもので、精肉係の部屋を掃除しながら客室を眺めていると、どこかの奥さんが、さっき三太郎が隠した棚の奥に手を入れて、奥の商品を手に取っているではないか。あっと三太郎は思った。おれの肉が取られる。

 それは古い肉ですよ、忠告しにいこうとしたその時、チーフの長い馬面が三太郎の目の前にぬっと現われ、来週のシフトのことで店長が呼んでる。すぐいけ、と低い声で言った。

 店長の用事とは、次の週末はアルバイト学生が一人休む予定なので、きみには朝九時に出勤して欲しい。その代わり夕方五時までで帰ってよろしいということだけだった。

 急いで持ち場に帰った三太郎が発見したのは、ぐちゃぐちゃに荒らされた陳列ケースと、例の古い高級肉一パックの不存在だった。

 あの奥さんに買われてしまった。なってこった!

 三時の休憩時刻を迎えた。かれはいちおう休憩室に行った。だがいつものように、狭く暗い部屋でパートの女の人たちがタバコをくゆらすだけだ。みんな無口で、吸い終わるとさっさと出て行ってしまう。陰気なそこの空気を彼は嫌いだった。

 そこで気晴らしに近くの広々とした馬場へ行った。春なら梅桜花桃が咲きみだれて空が広い気持ちいいところだ。だが季節は真冬。暮れも押し詰まった師走二十四日の夕方三時すぎである。西に傾いた黄色な太陽が、日暮れ前の弱々しい光を馬場へ投げ出しているばかりだった。それでも狭いスーパーよりましだった。

 騎乗した騎手があやつる毛並みがいい馬が三太郎の前を歩いて過ぎる。何頭もの馬を眺めるうちに、みんなチーフに見えてきた。三太郎はしだいに空想に沈んだ。騎手になったじぶんが颯爽とチーフにまたがっていた。走れ走れチーフ。あんたが負けたらおいらの生活ままならぬ。

 その晩九時まで勤務し、九時半前にアパートに帰った。お目当てのものが売れてしまったから、三太郎は何も持ち帰えろうとはしなかった。ところが珍しいことに、きょうはクリスマスだから特別にと、店長のほうから帰る店員に売れ残り商品を一つずつ渡してくれた。

 百グラム九十八円のへいぼんな鳥肉だった。アパートのガスコンロにフライパンを乗せ、軽く焼いてひとりでたべた。三太郎のクリスマス。

猫の寺( 1 / 1 )

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猫の寺


 秋の夜だった。翌日から一〇月に月が変わる深夜だった。土曜日の晩で仕事は休みだった。
 平日なら新宿発〇時五〇分の終電で帰ることがふつうだった。だがその夜は遊びに出かけたかえりだったから、もう少し早い時刻、おそらくは一一時台だったろう。自宅アパート近くの小田急の駅で降りた。寺の脇を通るいつものルートで部屋についた。なんでもこの寺は、その昔、井伊の殿様が通りがかった際に猫が井伊侯を呼んだのだそうだ。寺の中は陶器の招き猫だらけである。しかし深夜の今は森閑としている。

アパートに着いた。鍵を探した。ポケットになかった。バッグにもなかった。体中を捜した。どこにもなかった。
 ドアがあかない。飲んできたし眠くてたまらない。はやく横になりたい。ドアが開かなきゃ横になれない。
 一縷の望みをたくし、駅までの道を、地面を見つめながら戻ってみた。ニ往復した。月明かりはあったけれど曇天で、地面なんぞろくに見えなかった。カギなんかもちろんどこにも落ちていなかった。
 家主と同じ敷地に住んではいたが、大家さんはおばあさんですでに就寝されたようで真っ暗。まさか叩き起こすわけにもいかぬ。
 自分のアパートの部屋のドアの前で体育座りをして考えた。こうして夜明けを待つしかないのか。いつのまにか日付が変わり十月に入っていた。とくに寒くはない。快適な気温だった。だがそれにしても疲れて眠いのだ。家賃を滞納していないのに、自分の部屋に入れないとは情けない。
 ちょっとひらめいた。刑事モノ映画で泥棒が針金の先を鍵穴に差し込むとかんたんにカギが開くシーンを思い出した。あれやってみよう! 開くかも。他人の部屋じゃない。自分のカギをこじ開けるんだ。犯罪じゃない。
 さっそくそのあたりを探したら、アパートのグラグラにゆるんだ集合郵便受けをむりやり固定した針金を見つけた。これこれ、これで開くかもしれん。慎重に外したつもりなのに、ポストのなにかの部品が落下し、深夜の閑静な高級住宅地に場違いに大きな音をたてた。映画のようにうまくはいかぬ。
 喜び勇んでその針金をわが鍵穴へ挿した。映画なら、ここでカチャッと音がしてドアが開くのだが、なんともない。ただ先端がぐにゃっと曲がった感触がしあったのみである。
 次に挿してからぐるぐる回してみた。あちこちの方向を突いてみた。なんの変化もない。まだ泥棒をしたことがないので。なにをどうすればいいんだか、皆目見当がつかぬ。挿しては回し、回しては挿したが、ただただ鍵穴の中をかき混ぜるだけであった。映画のようにうまくはいかぬ。
 ここで断念した。開ける手段はもうない。朝になって家主の婆さんに開けてもらうしかない。時に午前一時であった。このときほど夜明けが待ち遠しかったことはなかった。もう三時すぎたかな。と時計を見れば無情にも二時すぎたばかりである。物音もせぬ。
 四時すぎ、自転車の音が響き新聞が届いた。街灯の下でそれを読んだ。どう見ても不審者である。
 大家さんがおばあさんなことが幸いし。六時前に起きたようだ。ちょいと遠慮して七時に声をかけ合鍵で開けてもらった。朝帰りと思っただろう。ようやく横になれた。すこし眠ってから、鍵屋に行って新しいのを作成してもらった。予想外に高価だった。
 その数週間後、仕事中にカギがないことに気がついた。大変だ!
 その日は残業もせず、どこにも寄ることなくまっすぐ帰った。
 カギは、なんと、わが木賃アパートの鍵穴に刺さったままの状態であった。

本のなかの人( 1 / 1 )

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本のなかの人

 あるとき、築地本願寺で上品な老婦人をみかけた。八〇歳は超えているようにみえた。とても上品な人だった。世田谷あたりでよく見かける感じだった。余談だが、小田急沿線に住んでいたころの大家さんも老婦人で、まだ口もよく回らぬ小さな孫たちが「おばば様」と呼んでいた。

 築地でみかけた人は、さらに気品がある人だった。

 本堂内にいた人に尋ねたら、摂政関白の近衛家の奥方だそうだ。戦前の首相近衛文麿の長男の配偶者。文麿の長男、つまり奥方の夫にあたる人は、敗戦時、ソ連軍に連行され、あちらで死んだと聞いている。

 びっくりした。

 昭和史の本にしばしば登場する人だ。本の中で識っていた人が、今現実に眼の前にいることに驚いた。それに、たいへん失礼な言い方だが、そんな大昔の人が生きているとは思わなかった。

 わたしにとって、直接経験していない歴史上の出来事という意味では、戦前戦後の出来事は、鎌倉幕府だの、大化の改新だのと等しい。近衛さんをみかけたことは、おおげさに言えば、大和朝廷時代の蘇我入鹿が突如出現したかのような驚愕であった。

 同時に、あのおばあさんに近衛首相のこととかを聞いてみたい誘惑にかられた。なにしろ身近で昭和史の重要人物に会ってきた人である。歴史の本に書いてない秘話を知っているかもしれない。それらはあの奥方が亡くなれば、歴史の彼方へ永遠に消えてしまうのだ。

 だがそれはぐっとこらえた。こちらにとっては歴史上の出来事で公的なことだが、あちらにとっては家庭内のプライベートなことである。それにいろいろと辛い思いをしたことだろうから、思い出したくないかもしれない。それでたずねなかった。

 それから数年後、やはり築地本願寺のトイレ内で珍しい人に遭遇した。

 本願寺のトップを門主といって世襲制となっている。トイレで私がひとりで用を足していたら、ひとりの若い人が入ってきた。斜めに振り返ってその人の顔を似たときは、他人の空似だと思った。当時の門主さんの長男とそっくりだったのだ。だがわたしは彼は京都にいると思っていた。東京にいるとは想像しなかった。そこでそっくりさんだとおもったのだが、その人が手を洗うしぐさなどに漂う高い気品を感じた。

 本人だったのだ。貴族とはわれわれと違うものなのだなと感嘆した。

 現在かれは引退した先代門主のあとを継ぎ、浄土真宗本願寺派門主となっている。

じいさん( 1 / 1 )

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じいさん


 ドイツ生まれの音楽家オットー・クレムぺラー指揮による演奏を聴いたのはかなりおそく私が三十歳を過ぎてからだったとおもう。もちろんレコード演奏だ。彼ははちょうど私が生まれた頃に死んだ人であるから実演奏を聴いていない。聞いた曲目はべートーヴェンのシムフォニー五番と七番の組み合わせだった。オーケストラはウィーン・フィルハーモニーだったかと思う。まずびっくりしたのはテムポの遅さ。止まってしまうかのように遅い。なんだこれはと思った。つづいて木管がひらひらと浮き出てクリアに聴こえることに驚いた。オーケストラ演奏ではふつう分厚い弦楽器にかき消されがちな木管がクレンペラーだと実にはっきり聴こえる。しかもその音がきれいだ。じつは初めて聞いたときは人為的に木管を拾って録っているのかと疑った。だがジャケットを読んだらライヴ録音となっていた。スタジオならば木管奏者前に別マイクを立てるのは容易だが、コンサート会場ではできないだろう。指揮者クレンペラーが木管の音を消さないよう繊細な音量配慮をしていたのだろう。

 さて第五交響曲の高名な第一楽章を聞いていたあたりでは、ただもうその遅さに呆気に取られるばかりであったが、つづく二、三、四楽章を聴くうちに、音楽スケールの巨大さに圧倒されてしまった。こんなにおおきなべートーヴェンを聴いたのは生まれて初めてだった。最後のあのしつこい和音の連打によって曲が閉じれれたときは言葉が出なかった。ただもう「すごい」の一語に尽きた。二曲目の第七交響曲イ長調の演奏も同様に冷たく無愛想なもので、テンポはさらに遅かった。音楽を揺らすことがない。止まってしまいそう、でなく、部分的には実際止まった箇所もあった。そして音楽の雄大さは第五番以上であった。受けた感動により圧倒され息もつけないほどであった。この演奏はなんだ。この演奏をやったのはいったいどんな人なのか。それからこの謎の人物のレコードをたくさん聞いたのだった。

 写真をみると彼はおそろしく背が高く、二メートル近い長身で痩せていた。分厚い度の強い眼鏡をかけいかにも神経質そう。若い時の写真ではこめかみに青筋を立てている。晩年も痩身で頬がこけ、黒縁眼鏡をかけ、歯がない口で噛みつきそうな表情をしている。この狷介きわまる老人と比較すれば、俳優のクリント・イーストウッドなんか親しみやすいフレンドリーな人物に見えるほどだ。実際の性格も写真どおり。毒舌家で皮肉屋で、付きあいにくいひとだったそうだ。

 演奏の基本は、テンポを動かさないザッハリヒカイト。せかせかした速いテンポで若い時は演奏していたそうだ。取り上げる曲目も、同時代のわかりくい現代音楽主体。古典派ロマン派の人気曲はまずやらない。そんなふうだから人気はあまりなく聴衆もすくなかった。俺の音楽がわからないやつは俺のコンサーに来なくていい、との主義だったらしい。友達にしたくないタイプである。彼はユダヤ系ドイツ人だったので一九三三年以降ドイツを追い出された。アメリカ合衆国へ行った。けれども世渡りができず、トラブルメーカーだった彼はアメリカで成功できなかった。失敗したといったほうがいい。彼の音楽も彼の人格も、アメリカ人が認めるところとならなかった。戦争が終わるとすぐヨーロッパへ戻っている。

 知る人は知る。しかし一般の音楽ファンに人気がない彼はその後も鳴かず飛ばずだった。だがアメリカ滞在中から健康を崩し、帰欧後は寝たばこの不始末により全身火傷を負い、飛行機のタラップから転落する大怪我をし、さらに脳卒中により半身不随となった。そのころからクレンペラーの運がひらかれる。スター指揮者を欲していたレコード会社の販売戦略によって、彼はイギリスのフィルハーモニア管弦楽団と組み、大量のレコード録音を開始した。体の障害によりその頃の彼は速いテンポを取れなくなっていた。手が思うように動かないのだ。さらには口をうまく動かせないため、オーケストラのメンバーに意志を伝えるにも苦労した。オーケストラからすればなにを言っているのか聞き取れなかった。そのためしばしば癇癪を起こしたそうだ。だがそんな肉体の障碍が彼の音楽のスケールを雄大にした。もともと、テンポを動かさず小細工をしない演奏を得意にしていたから、それが音楽の雄大さに発展したのである。オーケストラメンバーも狷介な性格のこの老人を敬愛した。なにを言ってるのかわからないし、よく怒るし、高齢と身体障碍のため指揮台に一人で登ることもできない老人。演奏中に寝てしまうことさえあったこの老人を慕った。かれが指揮台にいるだけで素晴らしい音楽を奏でることができたからである。

 さてそんなクレンペラーの録音遺産は無数と言っていいほどたくさんある。正式なスタジオ録音も多いし、ライヴ録音はそれよりさらに多いかもしれない。かれの録音の特徴は出来不出来の差が激しいことである。素晴らしい演奏に接すると人生が変わるほど魂をゆすぶられる。しかしダメな演奏は徹底してだめだ。おもしろくもおかしくもない。録音をたくさん聞いてじぶんでたしかめるしかないだろう。

 クレンペラーとおなじく音楽家マーラーの弟子だったブルーノ・ヴァルター。本名はシュレジンガーで、ヴァルターはミドルネームだそうだが、指揮者デビューの時ヴァルターを名乗った。彼の演奏は一〇代の少年の時から親しんだ。作風はクレンペラーの正に反対だ。温厚で温かく親しみやすい。いつも微笑みを絶やさない音楽。一生涯笑ったことがない音楽をしたクレンペラーと、生涯微笑みを忘れなかったヴァルター。苦難の人生を歩んだことではふたりとも同様であるが、同一の師からよくもこれほど正反対の弟子が生まれたとおう。

 ヴァルターの演奏も数多く残されている。出来不出来の差が激しいこともクレンペラーに同じ。ヴァルターの欠点は、その温かさが弛みに変わってしまうことがあることである。弛緩した音楽ほど飽きるものはない。けれども持って生まれた明るく溌剌としてはずんだ美質が存分に現われたときのヴァルター音楽はまさに楽園の愉悦のようだ。たとえばステレオ録音によるべートーヴェン交響曲第二番ニ長調(コロンビア交響楽団)。若葉にそよぐ薫風のようにさわやかな馥郁たる青春の香りにあふれ、若さに弾むこの演奏が、八〇歳を過ぎた人によるとは、教えられなければ誰も想像しないだろう。それからモノラル録音のほうのモーツァルト交響曲第三九番(ニューヨーク・フィルハーモニック)。輝くようなヴァイオリンの主旋律と、胸をかきむしるようなかなしみにくれる副旋律の対比。そこに弛緩のかけらもない。これぞ理想のモーツアルトである。べートーヴェンの田園交響曲の録音はヴァルター指揮コロンビア交響楽団のものと、ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニーのもの、二つあればじゅうぶんだ。前者は不満を言う所がない名演奏だ。後者は指揮は平凡だがウィーンフィルの音がとろけるほど美しい。

 二人共に自伝を遺した。ただし自身が筆を取ったのでなく、インタビューアーがまとめた聞き書き形式である。歴史研究者はぜひ目を通すといいと思う。音楽家人名と専門用語が頻出するため一般の研究者にとっては煩わしいだろうが、二〇世紀前半のドイツの様子が詳細に記録されているからである。ことにブルーノ・ヴァルターの自伝「主題と変奏」はいつどこで誰と会い何を語ったとか、あたかも日記のように細密だ。ちなみにこの本に飛行機墜落事故のことが書かれている。オットー・クレンペラーは飛行機のタラップから墜ちただけで済んだが、ヴァルターは乗っていた飛行機そのものが墜落したのである。ギリシアあたりの海辺の沼沢地のような場所へ落ちたそうだ。墜ちる飛行機の中を体験するとはこういうことかと思わされる。クレンペラーの本は絶版で、古書店で買えるが、極めて高価である。各地の図書館を精査すれば、見つけられるかもしれぬ。

 余談だがヴァルターのリハーサル収録がCDレコードの付録として付いていた。彼の練習風景は、「グッドモーニング、ジェントルメン」の挨拶からはじまり、決して大きな声を出さないで紳士的で丁寧なものであった。ひどくドイツ風に訛った英語だったため私でもほぼ聞き取ることができた。

金井隆久
作家:金井隆久
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