東京模様

鹿( 1 / 1 )

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鹿

 外神田の神田寺の近所にケバブの店がある。はじめは屋台に毛が生えたような規模だった。それがこのごろはそれなりな小さな店に発展した。経営者がどこの国の出身なのか不明だ。ケバブだからトルコ人だろうか。秋葉原は外国人経営の店などちっとも珍しくない。あいにく私は肉が嫌いなため買ったことがないのだが、近くで眺めてると、活気があり、店長をはじめみんな明るい性格の人たちだ。スタッフは全員オリエント世界出身の男性らしいものの、ときおり従業員か、友達かわからぬ人が混じっていたりする。そこで何よりも驚くことは、スタッフ同士がつねに日本語で話していることである。日本人客に日本語で話すだけでなく、スタッフ同士の会話も日本語なのである。その流暢なこと。驚くばかりだ。いったい何年日本にいるのだろう。

 私の経験ではいっぱんにインドからイラン、アラビア、アナトリア半島あたりの出身者は語学の天才ぞろいだ。言葉をいくつもあやつるし、日本語上達も早い。

 神谷町駅を出たところ、神谷町光明寺向かい側にあるレストランの店長も、外国籍ながら私たちとまったく同じレヴェルの日本語を話す。だがそこで話を聞いたら、かれは生まれは中国華南あたりではあるもの東京育ちだそうだ。その店に、もう何年もむかしになるが、まったくやる気がない若い女性店員がいて愉快だった。私がそのに入るのはいつも朝七時半ころで、時間的に、空いていた。客がなくて暇だからか、その女性はよく厨房で何もせず、ぼおうとしていた。ぼんやり爪を見たりしていた。こちらが呼びかけても、聞こえないのか、反応がなかなかないし、注文と違うものを私のテーブルに運んできたり、精算金額を間違え、五〇円の釣りなのに五百円硬貨を私へ渡そうとしたりした。その時代離れした爽快なまでのやる気のなさに好感を覚えて好きだったのだが、店長が解雇してしまったようだ。今はいない。

 そこからオランダ大使館へ上がる急な坂をちょいと登り、芝高校の脇から能率協会ビルへと狭い道を下ってプリンスホテル脇に出たところの交差点にかかる横断歩道橋から撮影した写真を、拙著「現代の危機を横超するために」の表紙ジャケットに使用した。夜八時に、青松寺・慈恵医科大学方向を写した写真である。

「早春」は小津安二郎監督映画としては名作と言いがたい。亭主の浮気を主題としているのだが、そういう感情の粘り気が濃いテーマは小津の得意分野でなかった。映画中で、浮気相手の若い娘(岸恵子)が、お前たち放送局の前を二人してあるいてたやろ、と冷やかされる場面がある。映画中に場所の詳細な説明はないが、そこはおそらく現在の日比谷シティ前の日比谷通りである。「早春」のころ、そこに日本放送協会があった。渋谷へ移る前である。

 岸恵子と池部良が歩いたとされる「放送局前の通り」の真下に、映画撮影後、しばらくして、都営地下鉄内幸町駅ができた。あるとき、そのホームに降りたら、いつのように空いたホーム(都営地下鉄は一般的に利用者が少ない)にアラブ人ぽい背が高い青年が困っている様子で立っていた。その男の日本語はかなりひどかった。のみならず英語も達者とは言いがたかった。とはいえ観光客に見えなかった。私のほうは、アラビア語といえばサラーム・アライクム(こんにちは)の一語しか知らない。そんなレベルなのに道を尋ねられて答えようとしたのがまずかった。

 互いに下手な英語で話した。青年がヒビヤ・ラインとかチェインジとか言うから、はじめ私は日比谷線に降りかえてどこかへ行きたいのかと解釈した。日比谷線は外国人の利用が多い線である。内幸町駅ホームにいる人間が、東京メトロ日比谷線に乗り換えるのはちょいと面倒だ。霞ヶ関駅が最短であるが、いったん地上に出て歩くことになる。その道のりを英語で説明することなど私には不可能。というより、日本人に日本語で説明しても九九パーセント理解されないだろう。だから、日比谷線に乗りたいなら地上へ出て、もう一度人に尋ねてくれと、私は言った(つもりだった)。

 ところが、この青年は短気な性格なようで、トレイン乗らない、ワタシ、ヒビヤ行く、と日本語で言った。それなら話は別だ。駅名こそ内幸町だが、ここが日比谷である。ただ地上へ出れば良いだけだ。そこでそう言ったら、かれはだんだん腹を立ててきたらしい。このへんな日本人、さっきは別のトレインに乗れと言ったのに、今度は乗るなと言う。話にならない、とでも思ったのだろうか。ステーションマスター・オフィス(駅事務所)あるか、と英語で私に訊き、私がイエス、アップステアーズ(あるよ、この上の階だよ)と、階段を指さしつつ答えたら、礼も言わずスタスタ行ってしまった。

 歴史教科書で習った明治初期の鹿鳴館が日比谷のどこにあったのか、わたしは昔から気になっていた。日比谷公園内図書館の四階壁に江戸東京の古い地図がたくさん貼られてあり、こういうのが私は好きなので、行くたびに目を皿のようにしてみる。あの土地は江戸時代はなんとか藩の上屋敷だったのかなどと、おもしろいことこの上ない。そんなことしているうちに、鹿鳴館があったらしい場所が判明した。さきほどの内幸町駅から地上にでると、北西が日比谷公園で、北東は瑞穂銀行本社ビルだ。銀行の東隣が東京電力で、北の隣は電話会社本社となっている。そのあたりが鹿鳴館だったらしい。つまり日比谷公園向かい側だ。

 さらに、鹿鳴館の北側、こんにちでは帝国ホテルが立っている土地は、明治のごく初期、動物園だったそうだ。信じがたいような話であるが、これは放送大学ラジオ講義で聞いた。詳細を忘れてしまって残念だが、上野へ移転する前に動物園があったらしい。いまタカラヅカ歌劇を演じている土地に、鹿や虎やライオンたちがいたのかと思うとなにか可笑しい。

馬( 1 / 1 )

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 三太郎は週末の二日間だけ、世田谷通り傍らの食品スーパーで働いている。担当は精肉係だ。平日五日間は東京タワー斜め下の会社へ通勤する。休みなし暮らしだが、若いからカネがない代わりに体力だけはある。

 彼のシフトはお昼から閉店時間の夜九時までだ。商品の品出し作業は午後も早い時刻に終了するから、夕方から片付けと清掃が主な仕事だ。二〇歳の彼には親のように見えるパートのおばさんたちといっしょに働く。

 時にはシベリヤ越冬するような毛皮の防寒を着て、氷点下三十度の冷凍室内で作業する。中は案外に広く、入ったときはさほど寒さを感じないが、数分で手足の先と鼻の頭に痛みが走る。寒気が逃げないよう、ドアは閉める。そこで万一閉じ込められた場合に備え、緊急ボタンがドアの脇に設置されている。いざというとき本当に使えるのかなと三太郎は怖くなる。

 精肉のチーフは三〇歳くらいな男性。細く長い顔がへちま型にしゃくれてて、国のおふくろが一週間前に亡くなりました、というような沈痛な表情をいつもしている。その下の副チーフは二十六歳の快活な兄さん。まんじゅうなように丸い顔で、いつも機嫌がいい人だ。

 高級住宅地の店のせいなのか、一パック数千円もする高級な肉も販売する。そんな高い肉を、三太郎は食ったことがないばかりか、みたこともなかった。なんという肉かも知らなかったが、一生にいちどくらい食べてみたいものだと思った。

 店長は厳しい人だ。店員全員が、店の商品を無断で持ち帰ったら泥棒とみなすと言い聞かされている。

 そんなところに、新婚で機嫌がいいサブチーフが現われ、

「見つからないようにすれば持って帰ってもいいよ。どうせ捨てちゃうんだから」

と言ってくれた。三太郎は天にのぼるように嬉しい気がした。

 そこで仕事中に、賞味期限切れ近いパックを一つ、狙いを定め、商品陳列ケースの奥深くに押しこんだ。三千円もする高い肉だ。店の規則では、古い商品は客が手に取りやすい最前列に出すのだ。だが売れたら困るので、いちばん奥に押し込んだ。ところが上には上があるもので、精肉係の部屋を掃除しながら客室を眺めていると、どこかの奥さんが、さっき三太郎が隠した棚の奥に手を入れて、奥の商品を手に取っているではないか。あっと三太郎は思った。おれの肉が取られる。

 それは古い肉ですよ、忠告しにいこうとしたその時、チーフの長い馬面が三太郎の目の前にぬっと現われ、来週のシフトのことで店長が呼んでる。すぐいけ、と低い声で言った。

 店長の用事とは、次の週末はアルバイト学生が一人休む予定なので、きみには朝九時に出勤して欲しい。その代わり夕方五時までで帰ってよろしいということだけだった。

 急いで持ち場に帰った三太郎が発見したのは、ぐちゃぐちゃに荒らされた陳列ケースと、例の古い高級肉一パックの不存在だった。

 あの奥さんに買われてしまった。なってこった!

 三時の休憩時刻を迎えた。かれはいちおう休憩室に行った。だがいつものように、狭く暗い部屋でパートの女の人たちがタバコをくゆらすだけだ。みんな無口で、吸い終わるとさっさと出て行ってしまう。陰気なそこの空気を彼は嫌いだった。

 そこで気晴らしに近くの広々とした馬場へ行った。春なら梅桜花桃が咲きみだれて空が広い気持ちいいところだ。だが季節は真冬。暮れも押し詰まった師走二十四日の夕方三時すぎである。西に傾いた黄色な太陽が、日暮れ前の弱々しい光を馬場へ投げ出しているばかりだった。それでも狭いスーパーよりましだった。

 騎乗した騎手があやつる毛並みがいい馬が三太郎の前を歩いて過ぎる。何頭もの馬を眺めるうちに、みんなチーフに見えてきた。三太郎はしだいに空想に沈んだ。騎手になったじぶんが颯爽とチーフにまたがっていた。走れ走れチーフ。あんたが負けたらおいらの生活ままならぬ。

 その晩九時まで勤務し、九時半前にアパートに帰った。お目当てのものが売れてしまったから、三太郎は何も持ち帰えろうとはしなかった。ところが珍しいことに、きょうはクリスマスだから特別にと、店長のほうから帰る店員に売れ残り商品を一つずつ渡してくれた。

 百グラム九十八円のへいぼんな鳥肉だった。アパートのガスコンロにフライパンを乗せ、軽く焼いてひとりでたべた。三太郎のクリスマス。

猫の寺( 1 / 1 )

東京模様

猫の寺


 秋の夜だった。翌日から一〇月に月が変わる深夜だった。土曜日の晩で仕事は休みだった。
 平日なら新宿発〇時五〇分の終電で帰ることがふつうだった。だがその夜は遊びに出かけたかえりだったから、もう少し早い時刻、おそらくは一一時台だったろう。自宅アパート近くの小田急の駅で降りた。寺の脇を通るいつものルートで部屋についた。なんでもこの寺は、その昔、井伊の殿様が通りがかった際に猫が井伊侯を呼んだのだそうだ。寺の中は陶器の招き猫だらけである。しかし深夜の今は森閑としている。

アパートに着いた。鍵を探した。ポケットになかった。バッグにもなかった。体中を捜した。どこにもなかった。
 ドアがあかない。飲んできたし眠くてたまらない。はやく横になりたい。ドアが開かなきゃ横になれない。
 一縷の望みをたくし、駅までの道を、地面を見つめながら戻ってみた。ニ往復した。月明かりはあったけれど曇天で、地面なんぞろくに見えなかった。カギなんかもちろんどこにも落ちていなかった。
 家主と同じ敷地に住んではいたが、大家さんはおばあさんですでに就寝されたようで真っ暗。まさか叩き起こすわけにもいかぬ。
 自分のアパートの部屋のドアの前で体育座りをして考えた。こうして夜明けを待つしかないのか。いつのまにか日付が変わり十月に入っていた。とくに寒くはない。快適な気温だった。だがそれにしても疲れて眠いのだ。家賃を滞納していないのに、自分の部屋に入れないとは情けない。
 ちょっとひらめいた。刑事モノ映画で泥棒が針金の先を鍵穴に差し込むとかんたんにカギが開くシーンを思い出した。あれやってみよう! 開くかも。他人の部屋じゃない。自分のカギをこじ開けるんだ。犯罪じゃない。
 さっそくそのあたりを探したら、アパートのグラグラにゆるんだ集合郵便受けをむりやり固定した針金を見つけた。これこれ、これで開くかもしれん。慎重に外したつもりなのに、ポストのなにかの部品が落下し、深夜の閑静な高級住宅地に場違いに大きな音をたてた。映画のようにうまくはいかぬ。
 喜び勇んでその針金をわが鍵穴へ挿した。映画なら、ここでカチャッと音がしてドアが開くのだが、なんともない。ただ先端がぐにゃっと曲がった感触がしあったのみである。
 次に挿してからぐるぐる回してみた。あちこちの方向を突いてみた。なんの変化もない。まだ泥棒をしたことがないので。なにをどうすればいいんだか、皆目見当がつかぬ。挿しては回し、回しては挿したが、ただただ鍵穴の中をかき混ぜるだけであった。映画のようにうまくはいかぬ。
 ここで断念した。開ける手段はもうない。朝になって家主の婆さんに開けてもらうしかない。時に午前一時であった。このときほど夜明けが待ち遠しかったことはなかった。もう三時すぎたかな。と時計を見れば無情にも二時すぎたばかりである。物音もせぬ。
 四時すぎ、自転車の音が響き新聞が届いた。街灯の下でそれを読んだ。どう見ても不審者である。
 大家さんがおばあさんなことが幸いし。六時前に起きたようだ。ちょいと遠慮して七時に声をかけ合鍵で開けてもらった。朝帰りと思っただろう。ようやく横になれた。すこし眠ってから、鍵屋に行って新しいのを作成してもらった。予想外に高価だった。
 その数週間後、仕事中にカギがないことに気がついた。大変だ!
 その日は残業もせず、どこにも寄ることなくまっすぐ帰った。
 カギは、なんと、わが木賃アパートの鍵穴に刺さったままの状態であった。

本のなかの人( 1 / 1 )

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本のなかの人

 あるとき、築地本願寺で上品な老婦人をみかけた。八〇歳は超えているようにみえた。とても上品な人だった。世田谷あたりでよく見かける感じだった。余談だが、小田急沿線に住んでいたころの大家さんも老婦人で、まだ口もよく回らぬ小さな孫たちが「おばば様」と呼んでいた。

 築地でみかけた人は、さらに気品がある人だった。

 本堂内にいた人に尋ねたら、摂政関白の近衛家の奥方だそうだ。戦前の首相近衛文麿の長男の配偶者。文麿の長男、つまり奥方の夫にあたる人は、敗戦時、ソ連軍に連行され、あちらで死んだと聞いている。

 びっくりした。

 昭和史の本にしばしば登場する人だ。本の中で識っていた人が、今現実に眼の前にいることに驚いた。それに、たいへん失礼な言い方だが、そんな大昔の人が生きているとは思わなかった。

 わたしにとって、直接経験していない歴史上の出来事という意味では、戦前戦後の出来事は、鎌倉幕府だの、大化の改新だのと等しい。近衛さんをみかけたことは、おおげさに言えば、大和朝廷時代の蘇我入鹿が突如出現したかのような驚愕であった。

 同時に、あのおばあさんに近衛首相のこととかを聞いてみたい誘惑にかられた。なにしろ身近で昭和史の重要人物に会ってきた人である。歴史の本に書いてない秘話を知っているかもしれない。それらはあの奥方が亡くなれば、歴史の彼方へ永遠に消えてしまうのだ。

 だがそれはぐっとこらえた。こちらにとっては歴史上の出来事で公的なことだが、あちらにとっては家庭内のプライベートなことである。それにいろいろと辛い思いをしたことだろうから、思い出したくないかもしれない。それでたずねなかった。

 それから数年後、やはり築地本願寺のトイレ内で珍しい人に遭遇した。

 本願寺のトップを門主といって世襲制となっている。トイレで私がひとりで用を足していたら、ひとりの若い人が入ってきた。斜めに振り返ってその人の顔を似たときは、他人の空似だと思った。当時の門主さんの長男とそっくりだったのだ。だがわたしは彼は京都にいると思っていた。東京にいるとは想像しなかった。そこでそっくりさんだとおもったのだが、その人が手を洗うしぐさなどに漂う高い気品を感じた。

 本人だったのだ。貴族とはわれわれと違うものなのだなと感嘆した。

 現在かれは引退した先代門主のあとを継ぎ、浄土真宗本願寺派門主となっている。

金井隆久
作家:金井隆久
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