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節子とカティ( 1 / 1 )

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節子とカティ

 スオミ(フィンランド)の映画監督アキ・カウリスマキをご存知だろうか。一九五〇年代後半生まれ。一九八〇年代から現在まで映画製作を継続している。なおフィンランドは英語による他称で、フィンランド人自身は自分たちのくにをスオミと言う。日本とジャパンのようなことだ。カウリスマキ映画の中でもときにスオミと言う俳優の台詞を聞くことがある。蛇足であるがリナックスをコムピューターへインストールするとき、言語選択画面に主要な言語一覧が出るのだが、そこにアルファベットでスオミとある。フィンランドと書いてない。各民族の自称を尊重しているのである。日本語についても漢字で日本となっている。ただし言語がアルファベットだけのインストーラーソフトの場合は英語でジャパンとなっている。

 話が逸れてしまった。カウリスマキ映画の話だ。

 かれは小津安二郎映画に私淑している。どれほど小津の世界を愛しているかを彼がつたない日本語でとつとつと語ったヴィデオをどこかで見た。小津好きのあまり日本語を覚えたようだ。カウリスマキ作品における小津の影響は明白である。無表情、極端に短い台詞、どこかぎこちない流れ。そして画面の素晴らしい美しさ。小津の世界の基調色は白だが、アキ・カウリスマキ映画の基調色は深いブルーとグリーンである。

 なおここでアキ・カウリスマキと長い正式名を用いるのは、彼の兄弟でやはり映画監督のミカ・カウリスマキと区別するためである。

 小津映画を見た観客の反応ははっきりと二つにわかれる。大好きになる人と、アキの世界を受けつけない人。アキ・カウリスマキについてはその傾向が更に顕著だ。映画の作りがあまりに独特なためである。祖国スオミでも彼の評価は抜群に高いわけでないという、むしろ外国に熱心なファンがいる。日本はカウリスマキ映画ファンの多い国である。筆者は彼の作品を全部見た。みんな好きだ。好きなあまり私もスオミ語の単語をいくつか覚えてしまった。なにしろ極度に台詞が少なく、それも単語一つ二つ程度の短いものなのばかりで、繰り返し見ているといつの間にか覚えてしまう。

 小津が醜い容貌の女優を主演級として繰り返し起用したことに触発されたのか、カウリスマキもカティ・オウティネンという女優さんを長年用いている。最新作では脇役だったが、一九九〇年代の「マッチ工場の少女」から「ルアーブルの靴みがき」に至るまで主役ないし主役級として出演しつづけ、カウリスマキ映画の顔のような女優さんだ。彼女は一九六一年生まれで、監督よりやや若い。

 六一年生まれというと同い年の俳優に、例えばアメリカ人のメグ・ライアンがいる。ハリウッドのラブコメディ映画で一世を風靡したメグを太陽に喩えると、カティは夜空の凡庸な三等星だ。明るくも暗くもなく、夜空にたくさん浮かび、とくに注目するひともいない平凡な星のようだ。そんなところがカウリスマキ監督の好むところなのだろう。

 彼女が二〇歳台の頃主演したカウリスマキ作品が「マッチ工場の少女」。この作品はドストエフスキーの小説「罪と罰」の翻案で、アキさんの初期の傑作だ。この前に「罪と罰」そのものの映画化をかれはしたが、これはやたらに長ったらしく説明調な演出で退屈な出来だった。私は途中で寝てしまった。本人も失敗作と自覚したのだろう。つづく「マッチ工場の少女」は引き締まったみごとな傑作となった。この作品でカティは工場で働く貧しくあまり恵まれていない娘を演じる。若いのに人生に疲れている。笑うこともない。同時期のメグ・ライアンは二〇歳代後半から三〇歳代に入ってもラブコメディ映画のヒロインとして光輝を放っていた。同い年なのになんという違いだろう。

 小津に傾倒しその美質を吸収したカウリスマキだが、そんなところから相違点もあるのだ。それは弱いもの、社会の最低底で虐げられている存在とのかぎりなき同悲である。じぶんはかれらなのだとするかぎりなき同慈である。そこから必然的に生ずる社会へのプロテストである。それは智慧である。それを高い調子でスピーチしたりしないことは小津と似てはいる。かれは諧謔と登場人物たちの哀感のなかからそっとメッセージを発するのである。

 小津映画には思想がないと言われる。私もそう思う。ただ小津安二郎は冷酷な検閲制度に包囲されていた。

 小津に限らず、日本の表現者は本心を韜晦するかなしい護身を身につけざるを得ないのではなかろうか。小津の国には冷酷な検閲がある。世間という名の権力を使嗾して政府が真綿で絞め殺すがごとき事実の検閲をする。うっかり気に入らない作品を作ってしまったら、逮捕・拷問・処刑が待っている。

 スオミは政府が表現の自由を保障する国である。ヨーロッパ連合に加盟もしている。スオミ政府は思想信条の自由を憎悪したり悪徳視したりしない。そこは法治国家であり暴力が支配する国でない。表現者が個人的な中傷を被ることはあっても政府による拷問はない。権力者の打擲を恐れなくて済む。

出る( 1 / 1 )

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出る

 一九六〇年代、人口の地理移動があった。田舎から都会へ、人が大量に移った。そのころ集団就職というのがあったたそうだ。地方の中学校卒業生が団体で東京大阪の会社へ就職した。一五歳で郷里と家族を棄てた。そういう時代があった。

 私自身はちょうどその頃生まれたため、集団就職時代を知らない。私が物心ついたころは経済が安定成長に移行し、人出不足も一段落していた。

 ともあれ、大量の若者が都会に移った時代には、当然ながら大衆文化に、それに対応した作品が現われた。都会へ出ることを賛美するものが多かったろうと推測される。だがそういった作品は大半が消えてしまい、こんにちに残らない。

 むしろ記憶に残した幼少時の故郷の野山を懐旧する歌や、父母をおもう歌が今も歌い継がれる。人の自然な感情からしてとうぜんかもしれない。

 都会なんかに憧れるな、地方の地道な暮らしこそほんらいの人の生活なのだと訴える大衆娯楽作品もあった。例えば映画の黒澤明監督作品「用心棒」。

 これは上州馬目宿という架空の宿場を舞台とする時代劇である。三船敏郎主演。冒頭に旅の浪人侍である三船が偶然通りががった農家から水を一杯もらう。一人の若者が、おらあ太く短く生きるんだ、と叫び家を飛び出す。若者は貧しい農家の暮らし嫌さに、馬目宿で抗争するヤクザに仲間入りしたのだ。この映画では、馬目宿がちっぽけな東京の役目をしている。いろいろあって、ラストで、その若者が「水粥すすって暮らしても、殺されるよりは農家の暮らしのほうがいいだろう。」と三船に説教されて両親の元へ帰る。この映画はあからさまな表現でないものの、当時の都会への人口移動を批判していると見ることができる。

 同じ時期に木下恵介監督作品映画「笛吹川」が制作された。高峰秀子主演。甲州の武田家の話で、舞台は当然ながら戦国時代。戦さにつく戦さの時代。武田信玄の栄光時代の映画であるのに、合戦シーンがまったくない。すべてまずしい農民の視点で語られる。この作品においても、貧しさから抜け出そうと足軽奉公に志願する村の若者が次々に現われるが、それで貧しさから抜け出たものはなく、より悲惨な境遇に落ちてしまう。この作品も間接的に、田舎から都会への移動、つまり豊かさの夢を求める移動を暗に批判する。そうみることができる。

 そのほか、山田洋次監督の初期作品「家族」はもっと直接的にそれを批判する作品だ。同監督の連作映画「男はつらいよ」にも同様のテーマが取り上げられた。ずっと後年の「息子」もそうだ。

 歌謡曲の世界なら、太田裕美が歌い大ヒットした「木綿のハンカチーフ」が代表的だろう。松本隆作詞。地方から東京に出た恋人と、地方に残ったガールフレンドの問答歌。

 華やかな東京に出て得意げに変わってゆく恋人。都会の絵の具に染まっていく恋人に、「あなた最後のわがまま、贈り物をねだるわ、ねえ涙を拭く木綿のハンカチーフをください。」とガールフレンドが歌う。

 木綿のハンカチ=素朴=田舎=ほんとうの生活。

 見間違うようなスーツ=虚飾=都会=ほんとうでない生活。

 このように対比されている。

黒と赤( 1 / 1 )

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黒と赤

 黒澤明監督映画について。

 黒澤明はおそらく世界一有名な日本人といっていい。すくなくとも映画好きな人たちなら、世界で黒澤を知らない人はいないだろう。外国でその映画が熱狂的に好かれているのに、日本国内で好かれないことでも黒澤は特異な存在である。

 私は「乱」以降、同時代として黒澤明を知っていた。もっとも当時、作品を見たことはなかった。十代の少年には難しかったからだ。しかしラジオなどから監督の噂や評判はしばしば聞いていた。そのことごとくが悪口であった。傲慢な性格だとか、作品についても、あれだけ巨額の制作費をかければ(誰だって)傑作を撮影できるよ、などと黒澤監督の人格を貶める話ばかりであった。かように黒澤明を日本人は嫌い、その作品を無視する。それが外国の人たちにとって理解し難い謎なのである。

 ともあれ外国での黒澤作品の人気はすごい。その理由のひとつは、黒澤映画の基本が西部劇だからだろう。彼はジョン・フォード監督を尊敬していた。黒澤映画にはフォード流西部劇の影響が色濃い。明確で面白いストーリー、スーパーヒーローである主人公が縦横無尽の大活躍をする。わかりやすくおもしろく、ワクワクする作品なのである。ジョン・フォード映画でのジョン・ウェインに相応する俳優が、言うまでもなく三船敏郎だ。三船が悪いやつらをやっつっけて観客をスカッとさせる。

 ところで、黒澤明に影響を与えたのがもうひとつあって、それは文学である。イギリスのシェークスピアと十九世紀のロシア文学諸作品。「乱」とか「どん底」が文学の映画化だ。この系列の作品は、わかりにくいからか、黒澤作品としては人気が低い。

 黒澤の作品を、その構造の方面から分析すると、二つに別れる。一つは主人公映画。三船敏郎が巨大な存在の主人公として屹立し、大小さまざまな脇役俳優たちが、あたかも三船太陽を中心に回転する遊星であるかのような形式の作品。黒澤三船コンビの印象が強烈のため、黒澤映画とはこのタイプばかりかと誤解してしまいがちである。

 もう一つ群集劇タイプ作品がある。主人公がそれほど目立たない作品。「生きる」が典型。「生きる」は志村喬の名演によって、あたかも主人公映画のように錯覚してしまうが、あれは群集劇だ。志村は作品中で最も目立つ俳優であるのであって、三船のような大主人公ではないのだ。そもそも「生きる」での志村喬は前半で死んでしまい、長い後半では、職場の同僚の人たちが集まる通夜での回想の中にしか登場しない。

 以上の二タイプの黒澤映画のうち、監督の前半である一九六〇年代までは双方が同程度の比重を占めていた。しかし「赤ひげ」からあと、監督は主人公映画を作らなかった。「赤ひげ」から後の黒澤映画はすべて群集劇である。この作風変化が、黒澤三船コンビ解消の原因だろう。ふたりは喧嘩して一緒の仕事をやめたとかいろいろ言われるが、私は作風変化が原因であろうと思う。

 群集劇においては、三船敏郎の存在は邪魔なのである。かれは典型的なスター俳優で主人公俳優だった。むかしの映画スターはそうだった。ジョン・ウェインも、ジャン・ギャバンも、三船敏郎も、脇役ができない。存在感が大きすぎて、彼らが画面に現われると他の俳優が霞んでしまう。それから、かれらは基本的に役作りをしない。どの映画に出ても、ジョン・ウェインはジョン・ウェインであって、むかしの客はそんなスタアを見たくて映画館へ行ったのである。三船もこうした古いタイプの主人公俳優だった。だから黒澤監督は「生きる」を撮るとき三船を外したのである。

「赤ひげ」は黒澤映画における最後の三船敏郎出演作品だった。三船の存在が重厚にして巨大だ。だからぼくらはなんとなくあれを主人公映画として見てしまう。だけれども、よくよくみてみると、三船が画面に登場しないシーンがかなり長いのだ。登場するときでも、若い医者である加山雄三の目を通して、監督は三船を撮る。「赤ひげ」以前の三船主人公作品ではなかった手法である。ここから「赤ひげ」が群集劇であることがわかる。「生きる」とおなじように、「赤ひげ」でも回想シーンでのみ登場する人物がいる。

 次作「どですかでん」ではこの特徴がもっと先鋭的になる。この作品は黒澤はじめてのカラー作品。ここでは主人公と呼べる人などまったくいない。かんぜんな群集劇である。三船敏郎の出る幕がないタイプの作品だ。黒澤はこのあと「デルス・ウザーラ」「影武者」を作った。どちらも主人公と言える人物は存在はする。が、かつての悪者をやっつける完全無欠のヒーローではない。赤ひげ先生が加山雄三の視線から間接的に描かれたように、 デルス・ウザーラもまたロシア軍将校の眼から描かれる。「影武者」の影武者に至ってはまったく虚ろな主人公だ。なにしろ死んでしまった武田信玄の死亡を隠蔽するための道具として(顔が信玄そっくりなので)雇われただけなのだから。そうして用が済んだら、武田館を叩き出されてしまう男なのだから。

「夢」の寺尾聰は主人公とすら言えないだろう。このように後期黒澤明は作風を変化さして、ヒーローが八面六臂の大活躍をする主人公映画を撮らなかった。

 ちょっと付け足す。黒澤の師匠の一人で、たいへん尊敬していた成瀬巳喜男監督もまた、その作品系列に、一人の主人公(成瀬作品の場合はたいてい高峰秀子が務めた)を中心に物語が展開する作品と、特定の主人公がいない群集劇とがある。成瀬監督は群集劇を撮るのが上手であった。「稲妻」は高峰秀子を中心とした集団ドラマ。成瀬監督の代表作。「流れる」にも主人公はない。家政婦役の田中絹代の視線を通じて、時代変化に取り残され、没落してゆく戦後柳島の、芸者置屋を淡々と描く。「おかあさん」は娘の香川京子の目を通してお母さんを中心とする庶民の貧しい家庭を描いた佳作だ。はんたいに「放浪記」は成瀬作品としては明らかな失敗作である。高峰秀子が、あたかも三船の如き存在感大きな主人公を全編に渡って力を入れて演じた作品で、高峰は作品の出来に自信満々だったそうだ。

 どんなに優秀な表現者であっても自分の作品の評価がわからない典型と言える。

鹿( 1 / 1 )

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鹿

 外神田の神田寺の近所にケバブの店がある。はじめは屋台に毛が生えたような規模だった。それがこのごろはそれなりな小さな店に発展した。経営者がどこの国の出身なのか不明だ。ケバブだからトルコ人だろうか。秋葉原は外国人経営の店などちっとも珍しくない。あいにく私は肉が嫌いなため買ったことがないのだが、近くで眺めてると、活気があり、店長をはじめみんな明るい性格の人たちだ。スタッフは全員オリエント世界出身の男性らしいものの、ときおり従業員か、友達かわからぬ人が混じっていたりする。そこで何よりも驚くことは、スタッフ同士がつねに日本語で話していることである。日本人客に日本語で話すだけでなく、スタッフ同士の会話も日本語なのである。その流暢なこと。驚くばかりだ。いったい何年日本にいるのだろう。

 私の経験ではいっぱんにインドからイラン、アラビア、アナトリア半島あたりの出身者は語学の天才ぞろいだ。言葉をいくつもあやつるし、日本語上達も早い。

 神谷町駅を出たところ、神谷町光明寺向かい側にあるレストランの店長も、外国籍ながら私たちとまったく同じレヴェルの日本語を話す。だがそこで話を聞いたら、かれは生まれは中国華南あたりではあるもの東京育ちだそうだ。その店に、もう何年もむかしになるが、まったくやる気がない若い女性店員がいて愉快だった。私がそのに入るのはいつも朝七時半ころで、時間的に、空いていた。客がなくて暇だからか、その女性はよく厨房で何もせず、ぼおうとしていた。ぼんやり爪を見たりしていた。こちらが呼びかけても、聞こえないのか、反応がなかなかないし、注文と違うものを私のテーブルに運んできたり、精算金額を間違え、五〇円の釣りなのに五百円硬貨を私へ渡そうとしたりした。その時代離れした爽快なまでのやる気のなさに好感を覚えて好きだったのだが、店長が解雇してしまったようだ。今はいない。

 そこからオランダ大使館へ上がる急な坂をちょいと登り、芝高校の脇から能率協会ビルへと狭い道を下ってプリンスホテル脇に出たところの交差点にかかる横断歩道橋から撮影した写真を、拙著「現代の危機を横超するために」の表紙ジャケットに使用した。夜八時に、青松寺・慈恵医科大学方向を写した写真である。

「早春」は小津安二郎監督映画としては名作と言いがたい。亭主の浮気を主題としているのだが、そういう感情の粘り気が濃いテーマは小津の得意分野でなかった。映画中で、浮気相手の若い娘(岸恵子)が、お前たち放送局の前を二人してあるいてたやろ、と冷やかされる場面がある。映画中に場所の詳細な説明はないが、そこはおそらく現在の日比谷シティ前の日比谷通りである。「早春」のころ、そこに日本放送協会があった。渋谷へ移る前である。

 岸恵子と池部良が歩いたとされる「放送局前の通り」の真下に、映画撮影後、しばらくして、都営地下鉄内幸町駅ができた。あるとき、そのホームに降りたら、いつのように空いたホーム(都営地下鉄は一般的に利用者が少ない)にアラブ人ぽい背が高い青年が困っている様子で立っていた。その男の日本語はかなりひどかった。のみならず英語も達者とは言いがたかった。とはいえ観光客に見えなかった。私のほうは、アラビア語といえばサラーム・アライクム(こんにちは)の一語しか知らない。そんなレベルなのに道を尋ねられて答えようとしたのがまずかった。

 互いに下手な英語で話した。青年がヒビヤ・ラインとかチェインジとか言うから、はじめ私は日比谷線に降りかえてどこかへ行きたいのかと解釈した。日比谷線は外国人の利用が多い線である。内幸町駅ホームにいる人間が、東京メトロ日比谷線に乗り換えるのはちょいと面倒だ。霞ヶ関駅が最短であるが、いったん地上に出て歩くことになる。その道のりを英語で説明することなど私には不可能。というより、日本人に日本語で説明しても九九パーセント理解されないだろう。だから、日比谷線に乗りたいなら地上へ出て、もう一度人に尋ねてくれと、私は言った(つもりだった)。

 ところが、この青年は短気な性格なようで、トレイン乗らない、ワタシ、ヒビヤ行く、と日本語で言った。それなら話は別だ。駅名こそ内幸町だが、ここが日比谷である。ただ地上へ出れば良いだけだ。そこでそう言ったら、かれはだんだん腹を立ててきたらしい。このへんな日本人、さっきは別のトレインに乗れと言ったのに、今度は乗るなと言う。話にならない、とでも思ったのだろうか。ステーションマスター・オフィス(駅事務所)あるか、と英語で私に訊き、私がイエス、アップステアーズ(あるよ、この上の階だよ)と、階段を指さしつつ答えたら、礼も言わずスタスタ行ってしまった。

 歴史教科書で習った明治初期の鹿鳴館が日比谷のどこにあったのか、わたしは昔から気になっていた。日比谷公園内図書館の四階壁に江戸東京の古い地図がたくさん貼られてあり、こういうのが私は好きなので、行くたびに目を皿のようにしてみる。あの土地は江戸時代はなんとか藩の上屋敷だったのかなどと、おもしろいことこの上ない。そんなことしているうちに、鹿鳴館があったらしい場所が判明した。さきほどの内幸町駅から地上にでると、北西が日比谷公園で、北東は瑞穂銀行本社ビルだ。銀行の東隣が東京電力で、北の隣は電話会社本社となっている。そのあたりが鹿鳴館だったらしい。つまり日比谷公園向かい側だ。

 さらに、鹿鳴館の北側、こんにちでは帝国ホテルが立っている土地は、明治のごく初期、動物園だったそうだ。信じがたいような話であるが、これは放送大学ラジオ講義で聞いた。詳細を忘れてしまって残念だが、上野へ移転する前に動物園があったらしい。いまタカラヅカ歌劇を演じている土地に、鹿や虎やライオンたちがいたのかと思うとなにか可笑しい。

金井隆久
作家:金井隆久
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