東京模様

猫の寺( 1 / 1 )

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猫の寺


 秋の夜だった。翌日から一〇月に月が変わる深夜だった。土曜日の晩で仕事は休みだった。
 平日なら新宿発〇時五〇分の終電で帰ることがふつうだった。だがその夜は遊びに出かけたかえりだったから、もう少し早い時刻、おそらくは一一時台だったろう。自宅アパート近くの小田急の駅で降りた。寺の脇を通るいつものルートで部屋についた。なんでもこの寺は、その昔、井伊の殿様が通りがかった際に猫が井伊侯を呼んだのだそうだ。寺の中は陶器の招き猫だらけである。しかし深夜の今は森閑としている。

アパートに着いた。鍵を探した。ポケットになかった。バッグにもなかった。体中を捜した。どこにもなかった。
 ドアがあかない。飲んできたし眠くてたまらない。はやく横になりたい。ドアが開かなきゃ横になれない。
 一縷の望みをたくし、駅までの道を、地面を見つめながら戻ってみた。ニ往復した。月明かりはあったけれど曇天で、地面なんぞろくに見えなかった。カギなんかもちろんどこにも落ちていなかった。
 家主と同じ敷地に住んではいたが、大家さんはおばあさんですでに就寝されたようで真っ暗。まさか叩き起こすわけにもいかぬ。
 自分のアパートの部屋のドアの前で体育座りをして考えた。こうして夜明けを待つしかないのか。いつのまにか日付が変わり十月に入っていた。とくに寒くはない。快適な気温だった。だがそれにしても疲れて眠いのだ。家賃を滞納していないのに、自分の部屋に入れないとは情けない。
 ちょっとひらめいた。刑事モノ映画で泥棒が針金の先を鍵穴に差し込むとかんたんにカギが開くシーンを思い出した。あれやってみよう! 開くかも。他人の部屋じゃない。自分のカギをこじ開けるんだ。犯罪じゃない。
 さっそくそのあたりを探したら、アパートのグラグラにゆるんだ集合郵便受けをむりやり固定した針金を見つけた。これこれ、これで開くかもしれん。慎重に外したつもりなのに、ポストのなにかの部品が落下し、深夜の閑静な高級住宅地に場違いに大きな音をたてた。映画のようにうまくはいかぬ。
 喜び勇んでその針金をわが鍵穴へ挿した。映画なら、ここでカチャッと音がしてドアが開くのだが、なんともない。ただ先端がぐにゃっと曲がった感触がしあったのみである。
 次に挿してからぐるぐる回してみた。あちこちの方向を突いてみた。なんの変化もない。まだ泥棒をしたことがないので。なにをどうすればいいんだか、皆目見当がつかぬ。挿しては回し、回しては挿したが、ただただ鍵穴の中をかき混ぜるだけであった。映画のようにうまくはいかぬ。
 ここで断念した。開ける手段はもうない。朝になって家主の婆さんに開けてもらうしかない。時に午前一時であった。このときほど夜明けが待ち遠しかったことはなかった。もう三時すぎたかな。と時計を見れば無情にも二時すぎたばかりである。物音もせぬ。
 四時すぎ、自転車の音が響き新聞が届いた。街灯の下でそれを読んだ。どう見ても不審者である。
 大家さんがおばあさんなことが幸いし。六時前に起きたようだ。ちょいと遠慮して七時に声をかけ合鍵で開けてもらった。朝帰りと思っただろう。ようやく横になれた。すこし眠ってから、鍵屋に行って新しいのを作成してもらった。予想外に高価だった。
 その数週間後、仕事中にカギがないことに気がついた。大変だ!
 その日は残業もせず、どこにも寄ることなくまっすぐ帰った。
 カギは、なんと、わが木賃アパートの鍵穴に刺さったままの状態であった。

本のなかの人( 1 / 1 )

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本のなかの人

 あるとき、築地本願寺で上品な老婦人をみかけた。八〇歳は超えているようにみえた。とても上品な人だった。世田谷あたりでよく見かける感じだった。余談だが、小田急沿線に住んでいたころの大家さんも老婦人で、まだ口もよく回らぬ小さな孫たちが「おばば様」と呼んでいた。

 築地でみかけた人は、さらに気品がある人だった。

 本堂内にいた人に尋ねたら、摂政関白の近衛家の奥方だそうだ。戦前の首相近衛文麿の長男の配偶者。文麿の長男、つまり奥方の夫にあたる人は、敗戦時、ソ連軍に連行され、あちらで死んだと聞いている。

 びっくりした。

 昭和史の本にしばしば登場する人だ。本の中で識っていた人が、今現実に眼の前にいることに驚いた。それに、たいへん失礼な言い方だが、そんな大昔の人が生きているとは思わなかった。

 わたしにとって、直接経験していない歴史上の出来事という意味では、戦前戦後の出来事は、鎌倉幕府だの、大化の改新だのと等しい。近衛さんをみかけたことは、おおげさに言えば、大和朝廷時代の蘇我入鹿が突如出現したかのような驚愕であった。

 同時に、あのおばあさんに近衛首相のこととかを聞いてみたい誘惑にかられた。なにしろ身近で昭和史の重要人物に会ってきた人である。歴史の本に書いてない秘話を知っているかもしれない。それらはあの奥方が亡くなれば、歴史の彼方へ永遠に消えてしまうのだ。

 だがそれはぐっとこらえた。こちらにとっては歴史上の出来事で公的なことだが、あちらにとっては家庭内のプライベートなことである。それにいろいろと辛い思いをしたことだろうから、思い出したくないかもしれない。それでたずねなかった。

 それから数年後、やはり築地本願寺のトイレ内で珍しい人に遭遇した。

 本願寺のトップを門主といって世襲制となっている。トイレで私がひとりで用を足していたら、ひとりの若い人が入ってきた。斜めに振り返ってその人の顔を似たときは、他人の空似だと思った。当時の門主さんの長男とそっくりだったのだ。だがわたしは彼は京都にいると思っていた。東京にいるとは想像しなかった。そこでそっくりさんだとおもったのだが、その人が手を洗うしぐさなどに漂う高い気品を感じた。

 本人だったのだ。貴族とはわれわれと違うものなのだなと感嘆した。

 現在かれは引退した先代門主のあとを継ぎ、浄土真宗本願寺派門主となっている。

じいさん( 1 / 1 )

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じいさん


 ドイツ生まれの音楽家オットー・クレムぺラー指揮による演奏を聴いたのはかなりおそく私が三十歳を過ぎてからだったとおもう。もちろんレコード演奏だ。彼ははちょうど私が生まれた頃に死んだ人であるから実演奏を聴いていない。聞いた曲目はべートーヴェンのシムフォニー五番と七番の組み合わせだった。オーケストラはウィーン・フィルハーモニーだったかと思う。まずびっくりしたのはテムポの遅さ。止まってしまうかのように遅い。なんだこれはと思った。つづいて木管がひらひらと浮き出てクリアに聴こえることに驚いた。オーケストラ演奏ではふつう分厚い弦楽器にかき消されがちな木管がクレンペラーだと実にはっきり聴こえる。しかもその音がきれいだ。じつは初めて聞いたときは人為的に木管を拾って録っているのかと疑った。だがジャケットを読んだらライヴ録音となっていた。スタジオならば木管奏者前に別マイクを立てるのは容易だが、コンサート会場ではできないだろう。指揮者クレンペラーが木管の音を消さないよう繊細な音量配慮をしていたのだろう。

 さて第五交響曲の高名な第一楽章を聞いていたあたりでは、ただもうその遅さに呆気に取られるばかりであったが、つづく二、三、四楽章を聴くうちに、音楽スケールの巨大さに圧倒されてしまった。こんなにおおきなべートーヴェンを聴いたのは生まれて初めてだった。最後のあのしつこい和音の連打によって曲が閉じれれたときは言葉が出なかった。ただもう「すごい」の一語に尽きた。二曲目の第七交響曲イ長調の演奏も同様に冷たく無愛想なもので、テンポはさらに遅かった。音楽を揺らすことがない。止まってしまいそう、でなく、部分的には実際止まった箇所もあった。そして音楽の雄大さは第五番以上であった。受けた感動により圧倒され息もつけないほどであった。この演奏はなんだ。この演奏をやったのはいったいどんな人なのか。それからこの謎の人物のレコードをたくさん聞いたのだった。

 写真をみると彼はおそろしく背が高く、二メートル近い長身で痩せていた。分厚い度の強い眼鏡をかけいかにも神経質そう。若い時の写真ではこめかみに青筋を立てている。晩年も痩身で頬がこけ、黒縁眼鏡をかけ、歯がない口で噛みつきそうな表情をしている。この狷介きわまる老人と比較すれば、俳優のクリント・イーストウッドなんか親しみやすいフレンドリーな人物に見えるほどだ。実際の性格も写真どおり。毒舌家で皮肉屋で、付きあいにくいひとだったそうだ。

 演奏の基本は、テンポを動かさないザッハリヒカイト。せかせかした速いテンポで若い時は演奏していたそうだ。取り上げる曲目も、同時代のわかりくい現代音楽主体。古典派ロマン派の人気曲はまずやらない。そんなふうだから人気はあまりなく聴衆もすくなかった。俺の音楽がわからないやつは俺のコンサーに来なくていい、との主義だったらしい。友達にしたくないタイプである。彼はユダヤ系ドイツ人だったので一九三三年以降ドイツを追い出された。アメリカ合衆国へ行った。けれども世渡りができず、トラブルメーカーだった彼はアメリカで成功できなかった。失敗したといったほうがいい。彼の音楽も彼の人格も、アメリカ人が認めるところとならなかった。戦争が終わるとすぐヨーロッパへ戻っている。

 知る人は知る。しかし一般の音楽ファンに人気がない彼はその後も鳴かず飛ばずだった。だがアメリカ滞在中から健康を崩し、帰欧後は寝たばこの不始末により全身火傷を負い、飛行機のタラップから転落する大怪我をし、さらに脳卒中により半身不随となった。そのころからクレンペラーの運がひらかれる。スター指揮者を欲していたレコード会社の販売戦略によって、彼はイギリスのフィルハーモニア管弦楽団と組み、大量のレコード録音を開始した。体の障害によりその頃の彼は速いテンポを取れなくなっていた。手が思うように動かないのだ。さらには口をうまく動かせないため、オーケストラのメンバーに意志を伝えるにも苦労した。オーケストラからすればなにを言っているのか聞き取れなかった。そのためしばしば癇癪を起こしたそうだ。だがそんな肉体の障碍が彼の音楽のスケールを雄大にした。もともと、テンポを動かさず小細工をしない演奏を得意にしていたから、それが音楽の雄大さに発展したのである。オーケストラメンバーも狷介な性格のこの老人を敬愛した。なにを言ってるのかわからないし、よく怒るし、高齢と身体障碍のため指揮台に一人で登ることもできない老人。演奏中に寝てしまうことさえあったこの老人を慕った。かれが指揮台にいるだけで素晴らしい音楽を奏でることができたからである。

 さてそんなクレンペラーの録音遺産は無数と言っていいほどたくさんある。正式なスタジオ録音も多いし、ライヴ録音はそれよりさらに多いかもしれない。かれの録音の特徴は出来不出来の差が激しいことである。素晴らしい演奏に接すると人生が変わるほど魂をゆすぶられる。しかしダメな演奏は徹底してだめだ。おもしろくもおかしくもない。録音をたくさん聞いてじぶんでたしかめるしかないだろう。

 クレンペラーとおなじく音楽家マーラーの弟子だったブルーノ・ヴァルター。本名はシュレジンガーで、ヴァルターはミドルネームだそうだが、指揮者デビューの時ヴァルターを名乗った。彼の演奏は一〇代の少年の時から親しんだ。作風はクレンペラーの正に反対だ。温厚で温かく親しみやすい。いつも微笑みを絶やさない音楽。一生涯笑ったことがない音楽をしたクレンペラーと、生涯微笑みを忘れなかったヴァルター。苦難の人生を歩んだことではふたりとも同様であるが、同一の師からよくもこれほど正反対の弟子が生まれたとおう。

 ヴァルターの演奏も数多く残されている。出来不出来の差が激しいこともクレンペラーに同じ。ヴァルターの欠点は、その温かさが弛みに変わってしまうことがあることである。弛緩した音楽ほど飽きるものはない。けれども持って生まれた明るく溌剌としてはずんだ美質が存分に現われたときのヴァルター音楽はまさに楽園の愉悦のようだ。たとえばステレオ録音によるべートーヴェン交響曲第二番ニ長調(コロンビア交響楽団)。若葉にそよぐ薫風のようにさわやかな馥郁たる青春の香りにあふれ、若さに弾むこの演奏が、八〇歳を過ぎた人によるとは、教えられなければ誰も想像しないだろう。それからモノラル録音のほうのモーツァルト交響曲第三九番(ニューヨーク・フィルハーモニック)。輝くようなヴァイオリンの主旋律と、胸をかきむしるようなかなしみにくれる副旋律の対比。そこに弛緩のかけらもない。これぞ理想のモーツアルトである。べートーヴェンの田園交響曲の録音はヴァルター指揮コロンビア交響楽団のものと、ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニーのもの、二つあればじゅうぶんだ。前者は不満を言う所がない名演奏だ。後者は指揮は平凡だがウィーンフィルの音がとろけるほど美しい。

 二人共に自伝を遺した。ただし自身が筆を取ったのでなく、インタビューアーがまとめた聞き書き形式である。歴史研究者はぜひ目を通すといいと思う。音楽家人名と専門用語が頻出するため一般の研究者にとっては煩わしいだろうが、二〇世紀前半のドイツの様子が詳細に記録されているからである。ことにブルーノ・ヴァルターの自伝「主題と変奏」はいつどこで誰と会い何を語ったとか、あたかも日記のように細密だ。ちなみにこの本に飛行機墜落事故のことが書かれている。オットー・クレンペラーは飛行機のタラップから墜ちただけで済んだが、ヴァルターは乗っていた飛行機そのものが墜落したのである。ギリシアあたりの海辺の沼沢地のような場所へ落ちたそうだ。墜ちる飛行機の中を体験するとはこういうことかと思わされる。クレンペラーの本は絶版で、古書店で買えるが、極めて高価である。各地の図書館を精査すれば、見つけられるかもしれぬ。

 余談だがヴァルターのリハーサル収録がCDレコードの付録として付いていた。彼の練習風景は、「グッドモーニング、ジェントルメン」の挨拶からはじまり、決して大きな声を出さないで紳士的で丁寧なものであった。ひどくドイツ風に訛った英語だったため私でもほぼ聞き取ることができた。

夏風( 1 / 1 )

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夏風


 録音技術がなかった時代。具体的には一九世紀以前のことだが、作曲家は自分の作品を聞く機会が少なかった。ピアノ独奏や歌は別だが、演奏に数十人以上を要する大規模編成の曲を聞ける機会は乏しかった。頭の中に響かせた想像上の音楽を楽譜に書きつけた。それが実際の音として響くのを聞くことは作曲家の人生でも数少なかった。


 聴衆もまた音楽を聞ける機会がまれにしかなかった。例えば第九のような有名曲でも、生涯に数回くらいしか聞くことがなかったと想像される。それはプロの音楽家もおそらくそうで、楽譜を読み、先輩音楽家の話を聞いて、音楽作品をこうかなああかなと研究した。だから、じっさいに音として聞けるコンサートが開かれたとき、その聞く態度の真剣さは現代の私たちの比ではなかっただろう。稀にしか遇えないチャンスにめぐりあえたのだから一音たりとも聞き逃すまいと神経を集中させただろう。

 私たちは耳が肥えている。

 古今東西の有名曲、無名曲をかたっぱしから聞いている。子供時代から録音音楽を聞いている。有名な曲なら、じっさいのコンサートの座席に座る以前に数十回は録音を聞いている。しかもそれらはときの流れに濾過されて生きのこった名演奏中の名演奏ばかりだ。そんなとびきりすばらしい演奏に慣れた私たちがコンサートにでかけたら、たいがいは違和感をおぼえるものだ。音のバランスが違う。独奏楽器の音がかき消され聞こえないなどと。だがそれはお門違いな失望だ。録音による音楽は、商品としての質が販売に耐ええるよう家庭のオーディオ再生に最適化された音に調整してあるのだから。不自然な音なのだ。不自然な音に慣れすぎて、コンサートのほんものの音に不平を言うのだ、私たちは。

 演奏家のほうも現代は困難な時代だ。とびきり上等な録音による演奏で耳が肥えたお客相手に演奏を聞かせなければならない。聴衆は録音で聞き慣れたハイフェッツとかホロヴィッツの演奏と比較しつつ聞いているのだ。技巧にせよ音楽性にせよ、過去の超一流音楽家と較べられてしまう現代の演奏家はじつに酷な環境にいる。

 音楽にゆたかな感性があった思想家のサイードがテキスト主義を論じていた。現代人はあらゆることについて、「知っている」。みんなものしりだ。ただしそれは本とか、写真とか映画とかテレビとかのテキストを通した知識だ。たとえば、行ったことがない国の観光名所についての該博な知識を私たちはもっているし、本やインターネットをつうじてその知識をもっともっと増やすことができる。その結果、じっさいのその土地を旅行したとき、私たちはテキストとして「知っている」知識と、そこに出現した現実のその土地を無意識に比較し、齟齬をおぼえ、がっかり失望したりするのだ。あらかじめテキストとして知ってしまっているがゆえに、じかにその土地を肌で感じるたいあたりの経験に乏しくなってしまう。

 私たちは音楽を聞く以前からその音楽作品を「知っている」。知りすぎるほど「知っている」。だからコンサートへ行く目的が、「知っている曲を体験する」ことになっている。一九世紀以前の人はそうでなかった。コンサートでその作品を初めて知ったのである。コンサートで曲を体験して知ったのである。知ることとと体験することの順番が私たちと逆である。二〇世紀三〇年代ころから、コンサートの曲目が過去の作曲家の作品中心となり、同時代の作曲家による作品がプログラムから排除された。この現象が、レコードと蓄音機と録音音楽ファン増加と並行していることは、おそらく偶然でないだろう。

 たしかに録音音楽の功績はおおきい。おおぜいの人がすばらしい音楽を安価にいつでも聞けるようになった。それから、その音楽(および作曲家)と一対一で向き合って聞くことができるようになった。たくさんの聴衆とたくさんの演奏家とスタッフがいる場所でのコンサートで、作品の世界に深く沈潜することは意外に難しい。雑音や他人の視線など感興を妨害する情報がおおいからだ。家でならそれらノイズをカットできる。夜、灯りをすべて消しバッハのレコードをかければドイツの深い森のような哲学的世界に沈むことができる。音楽を聞きながら涙をながすこともある。録音のこうした功績は大きいけれど、知らない音楽に全身で体当りする体験を録音は奪ってしまった。

 昔の人と、私たちと、どちらが仕合わせだろうか。

金井隆久
作家:金井隆久
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