東京模様

作る( 1 / 1 )

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作る


 ある編集者出身作家がかつて、作家と編集者の関係を野球のピッチャーとキャッチャーに喩えた。一段高いマウンドの上で、観客全員の視線を浴びて華麗に舞う投手と、防護マスクで顔を隠し地面にうずくまる捕手。投手が調子を落としかけたら、捕手はすかさず一八メートル走ってピッチャーを励ましに行く。投手はマウンドをほんの一歩か二歩おりるだけだ。投手成績の何割かはおそらく捕手の手柄なのだろうが、キャッチャーが数字で評価されることはない。

 本とは、書いた人の作品であるとともに、それを出版した本屋さんの商品である。著作権が著者にあるとともに、出版権は出版社にある。おおざっぱにいえば、本に書かれている文章は著者のものであり、本という物体は出版社のものである。

 ここから本をつくる人に、著者と編集者の二人がいることがわかるだろう。著者については説明不要だろう。編集者とは、大きな出版社の場合はその会社の社員であり、小さな出版社の場合は社長が兼務することもある。編集者の仕事は本のプロデュースである。出版物の計画を立て、著者(または著者候補)と折衝し、出版後の広告宣伝活動もする。出版社も営利企業であり、本は商品である。編集者はつねに読者の好みや需要を頭の片隅に常駐させている。世の中に訴えたいこと、ひろめたいと思っている思想はあるけれど、それが編集者の頭脳のすべてを占領することはない。一方的で独善的な主張に満ちた本を出版してみても、その本がベストセラーになることはまずないのである。編集者は視野が広く、かんがえが柔軟でなければならないのである。編集者はゼネラリストだ。

 これにたいして著者はスペシャリストだ。概して知識と視野が狭く鋭い。それは美点でもある。これと粘り強い執拗さが結びつくと、素晴らしい作家や思想家、研究者になれるかもしれない。だが美質はその副作用として、独善的自己主張をまねいてしまう。良い著者であっても、読者の存在を顧慮しない一方的主張になってしまいがちだ。そうなってしまったら、読者はそっぽをむく。せっかく素晴らしい内容の本であるのに読んでもらえないのである。

 ここに出版物が著者と編集者の共同作業であることの長所があるのだ。常に読者の存在と、本の売れ行きを忘れない編集者の広い視野が、読者を無視する一方的主張に傾きがちな著者を矯めることがきる。矯正してもっと良い本にできるのである。著者一人で作る本より、編集者とともに複数視点で作る本のほうが良い本になるのだ。

 インターネットのセルフ出版の本は拙著を含めて当たりハズレが大きく、大多数がハズレだ。私見によれば、その原因がここにある。執筆、編集、校正、出版の各作業を一人だけで行い、他人の視点が入っていないから、読者を忘れ、著者の主張ばかりになってしまう。そういう本は読んで面白くないものだ。電子出版の今後の課題は、いかに編集者的人物の広い視野を取り入れ、出版物の質を上昇させるかである。

 世の中は編集者出身作家が多くいる。かつて出版社で編集者をしていた人が転身した作家たちである。はじめから作家であった人と比較すると、編集者出身作家はおおむね作品の質にばらつきがすくなく、読みやすく、商業的に成功している人が多い印象がある。それはかれらが作家転身後も編集者としてのセンスを忘れないからであろう。複数視点を同一人物の中に維持しているのである。

 また編集者出身作家の特徴として直接自己主張が少ないことを挙げよう。なんらかの主張を読者に告げたい時にも、かれらはそれを間接的に表現したり、ルポルタージュとして社会的事実に語らせて主張しようとする。自分をルポされる事実の影に抑制する傾向がある。

 本を作る現場での第三アクターは校正者である。

 校正者の存在は影が薄い。一般にそんな職業は知られていないであろう。元来は原稿の誤字脱字を指摘する仕事であった。工場でいえば「製品検査係」のようなものであった。だが近年は二つの理由により校正者の役割が大きく変わった。一つは、印刷工場の職人さんが活字を手で拾っていた時代と違い、単純な誤字脱字が減少したこと。二つは、長引く出版不況により、校正を省略してしまうか、編集者が兼務する出版社が増えたことである。そのため校正者の仕事がぜんたいに校閲に近づいた。その本の「最初の読者」として、意味不明確な表現を指摘するとか、不適切な言葉使いを指摘する業務等の比重が大きくなったのである。

 どんな本においても、著者はその分野の専門家である。編集者も校正者もその分野における知識と技能とでは著者に比肩し得ない。しかし専門家は専門家であるがゆえの罠に嵌まることがある。例えば、この程度のことなら誰でも知っているはずだと、ちょっとした専門用語を説明抜きで使用したりする。専門家だから「こんな初歩的な用語は説明不要だ」と判断しがちだが、じっさいは世の中の多数の人はその言葉の意味を知らなかったりする。だから「最初の読者」である校正者がそんな専門家の陥穽を指摘してあげるのである。こうしてより良い本になってゆく。その意味で現在の各出版社による校正省略傾向は、本の質低下を招くだろう。憂慮すべき事態である。

 ちなみに編輯者は「作り手」の側の人なので、専門の校正者のようにはまちがいを見抜けない。校正者は「作り手ではない」からこそ原稿の間違いが見えるのである。

 文章を書く仕事をした経験者ならばだれしも、自分の原稿の間違いが見えないことに驚いたことがあるはずだ。何度も見直したのに、間違いが見えない。それなのにその原稿を、校正者にみせたら、あっという間に間違いを何箇所も指摘された体験があるだろう。固定観念が根強いからか、誰でも自分の間違いは見えないものなのである。しかし他人の間違いはよくみえるのだ。他人の原稿ならば、渡されてちょっと眺めれば間違いが見える。長年の熟練のおかげもあるけれど、私などは瞬間的に間違いが見える。編集者は著者ではないが、本をつくるがわなので、自分が手がけている原稿の間違いに気づきにくい。

 作り手側にいないからこそプロの校正者は間違いと不適切を瞬時に指摘できるのである。

つゆ( 1 / 1 )

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つゆ


 六月のつゆのさきのじきになると死んだ叔母をおもいだす。叔母が死んでもう四〇年にもなる。

 広い沼を見おろす丘の上の病院の一室で叔母は死んだ。乳がんだった。まだ三〇歳代だった。

 叔母は立派な人でなかった。無学歴で、教養はなく、お世辞にも美人とは言えなかった。趣味と言えることはタバコとパチンコくらいだった。ある晩など、パチンコ屋であたったからと、景品を抱えて夜十時頃わが家へ突然やってきたりした。一度結婚し離婚していた。

 どちらかといえば、だらしない生き方をしてる人と、世間から後ろ指さされるタイプの人だった。

 叔母は変な趣味をもっていた。注射が好きだったのだ。チクッとされる感覚が気持ちいいと言っていた。そこで病気でもないのに、なにか仮病の口実をこしらえては近所の町医者へ通った。そんな人なのに、ガンが末期になるまで気づかなかったのだ。

 丘の上の病院に入院してからは、私はときおり叔母を訪ねた。ひとりで行ったこともあったし、脚が不自由なわが母と一緒に電車に乗って行ったこともあった。叔母は母の妹だ。私は十代半ばだった。

 最後に会ったのは六月上旬、晴れた気持ちのいい午後だった。湖面を吹き抜ける薫風が病室のガラス窓の外側で踊っていた。それは生命にあふれていた。風のいのちのダンスだった。

 窓に背を向け、上半身を立たせてもらった叔母が、「私と違って頭がよくしっかりしてるんだから、よく勉強してがんばるんだよ」、と私に言った。私は意外に感じた。自分をしっかりしているとも、いい人だとも、思ったことがなかったからだ。

 それが叔母の最後の言葉だった。叔母は末期がんであることを知らされていないはずなのに、じぶんが間もなく死んでゆく身であることを悟っている人の言葉に違いなかった。そこに死への恐怖はまったくなかった。容貌は衰えて醜かったのに、悟りきった高僧の後光のような荘厳を私は感じた。

 翌日の未明に叔母は死んだ。だらしない生き方をし、なんの取り柄もなかった叔母が、すこしも取り乱さず、私に人生を教え訓し立派に死んでいった。

 葬儀の日も晴れてひどく暑かった。

 爾来四〇年、毎年六月はじめを迎えるとあのときの叔母を想起する。いつの間にか私は叔母よりずっと年上になった。自らの死を意識せざるをえない年齢になった。

 人はあんなに立派に死んでいくものなのだろうか。

みづたま( 1 / 1 )

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みづたま


 叔母が亡くなった。遺児がふたりいた。あたしよりちょいと若い従兄弟である。

 小さいほうが高校へ進むことになった。叔母が意外にも貯金を残していたためなんとかなったのである。

 父母がいない従兄弟の入学式にあたしの母が出席する約束をしていた。だが母も病身で脚が不自由だった。当日の朝、どうしても起き上がることができなかった。そこであたしが代わることにして従兄弟の了承をえた。代理のそのまた代理である。

 あたしは一九歳。

 従兄弟は不満顔だった。

 学校から来た案内書を一緒に見て、ほらここに父兄って書いてあるだろ。父は無理だけど、兄くらいにはなれるよ。そう言って納得させた。

 菜種梅雨というのか。ぐずついた雨模様の日々がつづいていた。二人して電車に乗り学校につくと傘の花が咲いていた。

 空からのみづたまがあたしたちの顔を打った。天が校庭の水たまりに雨の粒を落とすたびに泥水が跳ねた。

 母子二人連ればかりのなかであたしたちは浮いていた。

 式が始まった。

 父兄席にいたあたしはとりわけめだっていた。晴れ着というものがなかったので、家でいちばんいいと思える服を着てはいたものの、四十歳前後のお母さんたちに囲まれた十九歳の「父兄」はいかにも異質だった。父兄だか生徒だかわからないのがそこにいることが異彩を放っていた。あたしはしだいにいたたまれない気持ちになった。

 あめあめ降れ降れ

 母さんが蛇の目でお迎えうれしいな

 ぴちぴち

 ちゃぷちゃぷ

 らんらんらん

 あたしたちいとこに迎えてくれる母さんはいなかった。

 母をなくしたばかりの従兄弟はこう歌いたかっただろう。

 雨雨降れ降れもっと降れ

 あたしのいい人連れてこい

 雨雨降れ降れもっと降れ

 あたしの母ちゃん連れてこい

夏檸檬( 1 / 1 )

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夏檸檬


 永田町の国会図書館の前と館内に

「ナショナル・ダイエット・ライブラリー」

と大きく書いてある。

 ダイエット、である。初めてみたとき奇異を感じた。ダイエットって何のことだ? 痩身術の本を集めた国立痩身図書館じゃないのに。ロングマンの英英辞典を引いたら「政治または教会の問題について話し合いをすること。(いくつかの国で)パーラメントのことをいう。」となっていた。それで謎が解けた。日本の国会をダイエットと英語訳しているのだ。ふつうの英語だと、議会をパーラメントとかコングレスというので、日本の国会もそうなのかと思っていた。

 議員さんが痩せるほどはたらく場所という意味ではないらしい。

 夏が近づいた。

 浄土真宗の門徒は先祖供養をしないから盆だとてとくべつなことをしない。門徒はふだんから線香を立てない。香炉に横に寝かせて置く。火災予防のためである。現在のように立派な消防署がなかった江戸時代は仏壇から出火する火事が多かったのだ。線香を灰に突き刺して直立させる風習は禅宗からひろまったのではなかろうか。線香一本が燃え尽きるまでとか、座禅する時間を線香で計るからである。寝かせたら線香が見えない。

 ぼくは夏が好きだ。秋と冬が嫌いだ。晩秋はとくにいやだ。もしできるなら、毎年八月半ばから一月まではオーストラリアに住みたいくらいだ。

「中国人は時間的推移を分解して周期とし、その周期を四分する傾向を有する。まず自然的な時間では一年を周期としてこれを春夏秋冬の四季に分ける。四季に分けるのは必ずしも必然の結果ではなく、夏と冬のニ季に分けることもまた可能なのである。」 宮崎市定「史記を語る」五五頁

 大和朝廷時代の先祖が中国輸入の四季概念をこの列島へ導入したのだろう。季節は二季でも三季でもいいはずだ。無季だって可だ。春夏秋冬という概念が刷り込まれているために、ぼくたちは春とか夏の季節の実在を実体視してしまう。ほんとうは概念だけがあるのだ。冬とか秋は存在しないのだ。

 それはそうとしてぼくは十代のときからおもっていたのだが、一年を陽半期と陰半期の二季に分けてみても良いのではなかろうか。

 陽半期は二月から七月。陰半期は八月から一月である。太陽の光が増え、生命たちが繁茂する拡大の季節を陽半期。その反対が陰半期である。年で最も暑い八月を陰半期の開始とするのは、気温こそ高いが、八月に入ると翳りと衰退の兆候をあきらかに感じざるをえないからである。日中の時間が短くなる。夜には秋の虫が鳴く。生命衰える秋の始まりがすぐそこに来ていることを感じざるを得ないからである。夏の終わりは、一年の終わりの哀愁をぼくにもっとも強く感じさせる。

 柑橘の花は春に咲く。濃い緑色の葉の間から香り高い綺麗な花を咲かせる。残念ながら檸檬の花をぼくは見たことがない。ふつうの温州みかんの花ならばたくさん見た。檸檬も蜜柑も、陽半期に花を咲かせ、真夏の陽光を浴びて実を太らせる。夏はきらめく生命の季節である。やがて時が過ぎ、実りの陰半期に、房もたわわに檸檬の実をつけることだろう。

 ぼくは直接触れた情報のみ信用する。この目でみた物ごと、この耳で聞いた誰かのお話、耳にきこえた音、鼻で嗅いだ匂い、夏の日射しに打たれる檸檬の葉をぼくは信用する。田園の農地で汗にまみれてはたらく農夫の言葉をぼくは信用する。テレビ新聞インターネット等々を通した情報をぼくが信じ用いることはない。それらは概念だからである。仏教哲学のことばで表現すると、それは虚妄なる識がみる「境」であるからである。それは真でない「仮」である。諸法の仮相である。仮なる概念を実体視すると、ぼくたちはひっくりかえってしまい、ひっくりかえった逆さまの世界こそ正義だと主張する人に変わってしまう。それが暴力と不寛容など世界のあらゆる不幸の連鎖の根源なのである。

金井隆久
作家:金井隆久
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