青闇夜藍色-こばなし-

プラチナ( 1 / 1 )

 それは、とても遠い日のことだ、とヨハンは言った。
 空に、冬のプラチナが見えはじめていた。
 彼は首の横をしきりに掻きながら、オリオンを睨みつけている。
 その首には、オリオン座の中心とそっくりな三つのホクロがあって、ヨハンが言うには、オリオンを見るとやたら痒くなるそうだ。
 ならば見なければいいのに、というわけにもいかない。
 僕たちは、たくさんの人に見送られてここまで来た。(らしい)
 それは、悲しくなるくらい遠い日のこと。
 星を見つめながら、そう、ヨハンは言う。
 けれども、それがほんとうのことなのか、僕には判断しようがない。
 そのとても遠い日、僕はまだ孵化前で、カプセルのなかにいた。
 それにヨハンは僕と同じような年格好なのだ。

「プラチナ...」

 空に輝く星をみて、ときどきヨハンは呟く。
 変調子なリズム。
 それが妙に可笑しくて、ヨハンが話そうとする遠い日の話を、いつも遮ってしまう。
 それで、十歳になるというのに、僕はいまだにその日のことや、ここに来るに至ったいきさつを、ほとんど知らない。
 ヨハンは、いい加減知らなくてはならない、と大人びた口調で僕を睨みつけた。
 正直、あまり興味がない。
 悲しくなるような遠い日のことよりも、僕にはこれから先のことが気がかりだった。

 僕が孵化したとき、十歳の少年だったヨハン。
 そして、僕が十歳になろうとする今、僕と変わらない年格好のままのヨハン。
 四角い硝子が、うちの玄関のドアには嵌め込まれていて、その硝子越しに外を見ようとするとき、ヨハンはほんのすこし、かかとをあげる。
 僕もこれまでそうしていたけれど、必要ないことに気づいた。今朝のことだ。
 気づいてみれば目線ひとつ、僕のほうが高くなっていた。
 そのことに、ヨハンはきっと、まだ気づいていない。
 だが、直に気がつくだろう。
 僕たちの時間が、この先どんどん隔たっていくことに。

「プラチナ、」

 変調子の可笑しなリズムが、ちがう響きを持ちはじめるだろうか。
 そう思えば、うまくヨハンの名を呼べない。

 まあ、いい。とヨハンはかすかな溜め息をついて、それから厳しい目をした。

「あのプラチナのことだけ、覚えておけ。」

 僕はその意味を聞かなかった。
 それから幾日か経った朝、目を覚ますとヨハンの姿は消えていた。
 寝具は整えられ、部屋はきれいに片づけられている。
 僕はブランケットにくるまったまま、ストーブを点けて湯を沸かした。
 曇りはじめた窓から重い空が見える。
 今日の予報では雪。
 この冬、最初の雪が今夜にも降る模様。
 外に出ると、足の裏から芯まで、いっぺんに冷えた。

「寒い、」

 白い息が鉛色の空へのぼっていく。
 僕は、見えないプラチナの位置を探した。
 見る間に低くなってくるような、重い雲の向こうに、この瞬間にもあの光はあるのか、確信が持てない。

「ヨハン、」






紅茶の香り( 1 / 1 )

「血が欠落しているんです。」

 という理由で、彼女は今日、会社に行かなかった。
 目が覚めたばかりで、まだ聞こえださない耳に、囁くような彼女の、話す声。
 僕の横で寝転がったまま、携帯にしゃべっている。
 上司だろう。

「ええ、はい、血が欠落しているので。今日は休みます。はい、はい。」

 あと何度か、はい、はい、をくりかえして、携帯を閉じる。

「そうなの?」

 聞いてみる。

 彼女は、ころん、と寝返りをうって、目を閉じた。
 どうやら、彼女の今日の血の欠落は、相当に酷いらしい。
 普段から真っ白な顔は透き通りはじめている。
 閉じられた目蓋は、二度とひらかれない懸念さえ感じさせた。

 ほおのあたりにそっと触れてみる。
 かすかな体温。
 窓から入る朝日が、睫毛にあたっている。
 彼女の色素の薄い睫毛は、日があたると透明感を帯びて、やわらかな色になった。

「ねえ、」

 すこしだけ、睫毛がふるえる。

「血、欠落してるの?」

 目をあけず、日を避けるように僕のあごに頭をつける。

「そんな理由で、よく休ませてくれたね?」

 彼女は更にからだを丸めて、僕のあごの下に頭をすっぽりと入れた。

「そんなわけないでしょ、」

「やめちゃった」

 眠りに入りかけている彼女の声は、普段にも増して囁くよう。
 睫毛とおなじ色の髪。
 紅茶の香りがするシャンプーが、切れかけだったのを思いだす。

「ダージリン、アールグレイ、セイロン、」

 あと、なんだっけ...

「おれんじぺこー」

「ぺこー?」

 囁く寝言。
 穏やかな朝。



遠音( 1 / 1 )



かみほとけ。

かみほとけ。


わたくしのまじないことば。
稚児の頃から気がつけば、口にしていたのだそう。


かみほとけ

かみほとけ

かみもほとけもいつになく。


民らは皆、わたくしのまじないに耳を塞ぎ、目をつぶるけれど、口も閉じているようでした。



かみさま。


かみさまのおわすところ、風、無く。

かみさまのおわすところ、音、無く。

それはどうして?とおばあさまにききましたら、
おばあさま曰く。

「時、無い処にありますれば。
 時、無し処、なにもありますまい。」

なれば、かみさまはそこにおわっしゃらないの?

そうきくと、おばあさまはおわらいになって、

「われわれのようには、おわっしゃりますまい。
 とおんのはじめから。」


とおんのはじめに風は無く

とおんのはじめに音は無し

かみほとけ

かみほとけ

かみもほとけもどこになく。


まじないことばを口にするとき、どうしてでしょう、
わたくしは天をみる。

かみさまは、そこにおわっしゃって?





青黎
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