私は研究所のビルの隣のスーパーマーケットの中におりました。
いつの間にここまで戻って来たのでしょうか。
涙は止まっています。
釈然としない気持ちで椿に渡された紙を見ると、そこには何処かの住所が記されていました。
紙の右端には『橋職人:桐崎十三(きりさきじゅうぞう)』と申し訳程度に記載されています。
なるほど、この住所は桐崎十三なる人物の工房か何かの場所を示すものなのでしょう。
橋職人ならば橋がなくなった事情に着いて知らないはずがありません。これは光明が見えてきました。
私はスーパーマーケットで埃の味がするタバコを買うと外に出ます。
外は雪が降っていました。
これは急いだ方が良さそうです。雪には毒性がありますから吹雪くとまず助かりません。
幸い橋職人の工房は瓦礫山の麓にあるようなので、全速力で走れば吹雪く前には到着出来るでしょう。
私はタバコの煙で風の向きを確かめると、煙が飛ばされた方へと走りだしました。
テナント募集中のほぼ廃墟と化したビルを通り過ぎ、大きなブラウン管に映る偶像を尻目に、豚の糞を出汁にしたスープを売りにしているラーメン屋台を吹き飛ばし、私は走ります。このまま吹雪いてはたまらないのです。
私は死にたくないのですから。
夢中で足を動かす私の後ろから息遣いのようなものが聞こえます。ぜえぜえと苦しそうに鳴るその音は一向に私の耳から離れようとしません。
誰かが私を追いかけているのでしょうか。
もしかしたら私は落とし物をしたのかもしれません。そしてそれを拾った後ろの何者かが、親切にも直接届ける為に追いかけてきているのかもしれません。
そうでも無ければ他人を全速力で追いかける理由が他に思いつきません。
悠長にしている暇など無いのですが、私は一旦足を止めました。
振り返ると真っ白な髪をした少女が息を切らせて私に追いついて来ます。
私は、何か御用でしょうかと尋ねます。
少女は、もう少しゆっくり移動してくださいと言いました。
ゆっくりと移動しろと頼むのが用であるとは意味が分かりません。
また変な人間に捕まってしまったのでしょうか。
白を基調とする人間にはまともな人間はいないと相場が決まっているのです。
あの真っ白な死体もまともとは言えない性格でした。
私は警戒しながら少女の様子を伺います。
「突然走り出すなんて聞いていませんわ。普段は運動なんざしねえクセにどういう風の吹き回しだよ。何をそんなに急いでいるのですか?生き急ぐ身分でもねえだろうに」
やはりまともな人間では無かったようです。
ころころ変わる口調は混乱を誘います。私の頭の上ではクエスチョンマークが竜巻を起こしていました。
「もうちょっとペースを落として下さいませんこと?距離を保ちながら着いて行くのって難しいんだよ」
指摘したい点は多々ありますが、まず私が普段運動しない人間だという事をなぜ当然のように知っているのか、という点は非常に気になる所です。
まるで私の日常を覗いているかのような発言ではありませんか。
私はそのことを彼女に問いつめました。
「それは私があなたのストーカーだからです。あんたのことなら何でも知ってるぜ。性嗜好はもちろん、趣味や好みの服装まで承知しております。だからあんたが普段運動をしない人間だってことぐらいお見通しだよ」
最悪です。いつの間にか私は監視されていたのです。
ああ、なんと言うことでしょう。こんな不幸が許されるのでしょうか。
いえ、私にだからこそ許される不幸かもしれません。見ず知らずの人間に全てを知られるという不幸など、私以外には起こり得ないでしょう。
雪はどんどん強さを増していきます。このまま死んでしまいたい衝動に駆られます。
しかしこのまま雪に埋もれては死ぬ直前に深く後悔する事になるでしょう。
私は塔子を見つけなければならないのです。
とは言えこのまま進むのは得策とは言えません。
私は金魚すくいの屋台を見つけると、そのまま水槽に飛び込みました。
水の中でならば雪を完全に防ぐが出来ます。
金魚達は迷惑そうな顔をしました。私は一言謝罪を入れます。そして水槽の端まで移動しました。
あめ玉のような酸素が上昇するのを見ていると、白い髪の少女が飛び込んでくるのが見えます。
この少女は何処まで着いてくるつもりなのでしょうか。
とにかく雪がやむまではここでやり過ごさなくてはなりません。
「すごい雪ですね。屋台があって本当に助かったぜ。それにしても何故あんなに急いでおられたのですか?」
ストーカーでも知らない事があるようです。
私は橋職人を訪ねる為に瓦礫山の麓に行かなければならない事を告げました。