巡る話

第七話( 1 / 2 )

 大通りへ戻って来た私は橋の方へと歩みを進めます。

 十三氏の言う事には、橋は透明になっているだけで確かにそこにあるとの事でした。

 橋の場所まで辿り着くと、私は注意深く透明の橋を見ます。
 やはり舗装された道路しか私の目には映りません。しかし透明というからには目には映らないものなのでしょう。

 決意して足を踏み出します。
 すると私の足は道路ではなく道路の少し上の何かを踏みつけました。
 おお、これこそ透明の橋なのでしょう。何か不思議な感動が私の中で巻き起こりました。

 そうして私は二歩三歩と歩みを進めます。一歩進むごとに私の体は道路から離れていきます。どうやらこの橋は湾曲しているようです。
 湾曲の頂は道路から三十メートルは離れているように見えます。私は体を震わせ、出来るだけ下を見ないようにして歩みを進めました。

 私は高所が苦手なのです。股間の縮むような感覚が嫌で嫌でたまらないのです。

 こんな橋はさっさと渡ってしまうに限ります。私は歩みを早めました。
 どうして走らないのかと言えば、後ろから着いて来ているであろう加楠に気を使ったからなのです。

 少なからずあのストーカーと私には縁があります。縁があるならばそれがストーカーであろうと強盗であろうと大切にしなくてはなりません。
 少しやり過ぎな感はありますが、自分の周りの人は大切にした方が良いと塔子が言うのですから仕方がありません。
 塔子は人との縁をとても大事にする人間で、困っている人間は仕事であろうとなかろうと進んで助けに行き、そして助けきるのでした。私はそれにとても感心していました。
 対人関係の苦手な私がそれを真似しようというのはあまりに滑稽ではありますが塔子はそんな滑稽な私を褒めてくれたのでした。
 そのとき私の中に久しく感じていなかった、名前も覚えていない感情が渦巻いた事は言うまでもありません。
 それ以来私は塔子の期待を裏切らない為にどんな無茶もこなして来たのです。
 ですから縁を大切にすることも無茶であろうとやらなければならないのです。


 そんな事を考えているといつしか私は橋を渡りきっていました。そこから東へと進み、市場を抜けると大きなビルが私の前に現れます。

 ここです。ここが塔子の務める探偵事務所です。確か事務所は三十階にあったと記憶しています。

 私は自動ドアを潜り、受付嬢に挨拶をするとエレベーターへと乗り込み、エレベーターボーイに行き先を伝えます。
 エレベーターボーイは恭しくお辞儀をすると畏まりましたと言い、三十階へのボタンを押しました。

 エレベーターの中は私とエレベーターボーイの二人だけです。
「久しぶりに来られましたね」
 エレベーターボーイは私に話しかけます。
 今は職務中ではないのでしょうか。
 しかしどうせこの空間には私たちだけですし、このエレベーターボーイにはいつもお世話になっています。それに彼はとても真面目な青年なのです。少しくらい世間話をしても咎めるものはいないでしょう。

 私は、ああ君も久しぶりだねと返しました。
「本当にお久しぶりです。最近はなかなか来られないのであなたの体と自分の財布を心配していましたよ」
 エレベーターボーイは担当する相手がエレベーターに乗らなければ仕事が出来ないのです。私は高所の苦手な質ですからほとんどエレベーターに乗ることがありません。故に彼のエレベーターボーイとしての待遇はとても悲惨なものなのです。仕事をしなければお金は貰えません。
 彼の生活が困窮している事は容易に想像出来ます。これからは高所恐怖症を克服し彼に仕事を与えてやらなくてはならないでしょう。

 私はすまないねと謝罪し、これからはエレベーターの利用を増やすように約束しました。
「ありがとうございます。高所恐怖症の方の為に横移動のエレベーターも用意されていますので、ご利用の際は受付の者にお申し付けください」
 ほう、最近はそう言ったサービスもあるようです。利用してみる価値はあるかもしれません。
 しかし高所恐怖症を克服出来ないとなるとそれはそれで不便な事もあります。自分を甘やかさない程度に利用する事にしましょう。

 とりあえず彼には利用してみるよと伝えました。
 彼はありがとうございますと言いました。

 彼が言うとほぼ同時にエレベーターがチンという金属音を奏でました。

 しかしエレベーターは止まる気配を見せません。
 今の音は何なのでしょう。
 私が首を傾げていると、エレベーターの壁からカレーが出てきました。カレーは出来立てです。
 エレベーターボーイは失礼しますと言うとおもむろにカレーを頬張り始めました。
 なるほどこれは彼の夕食のようです。
 エレベーターボーイは一日中エレベーターに詰めているので食事から排泄まで全てをエレベーターの中で行わなければなりません。

第七話( 2 / 2 )

 そういった事情がありますから、彼がカレーを食べている事を咎める気にはなりません。
 そもそも夕食の時間帯にエレベーターに乗ってしまった私が悪いのです。人に見られながら食事をするというのは何とも居心地の悪いものです。
 その居心地の悪さを私は彼に味あわせてしまっているのです。これでは腹が満たされるだけで楽しみを見いだす事など出来ないでしょう。
 彼は顔に出さない質なので涼しい顔で食べていますが、私は他人の心を想像するのが苦手なので彼が内心どう思っているかなど分かりません。気を使ってくれているかもしれませんし、本当に気にしていないだけなのかもしれません。
 因に私の対人関係の苦手な事はこの他人の心を想像出来ないという事に起因しています。

 私が内心オロオロしていると、ごちそうさまでしたと彼は言い、壁から出現した台の上に皿を置き、ハンカチで口を拭きます。
 台は壁の中へと戻っていきました。

「失礼しました。夕食の時間だったようです」
 彼は私に謝罪しますが、謝罪しなければならないのは私の方です。
 私は彼に謝罪を返しました。
 彼は恐縮したようで、お客様に頭を下げられては堪りませんと言いました。

 私は彼を困らせてしまったようです。この辺で謝罪大会は終わらせるべきでしょう。

 間の良い事に調度エレベーターは三十階に到着したようでした。
「三十階、オフィスフロアで御座います」
 彼は食事をしたばかりだというのにもう職務に戻っています。流石と言うべきでしょう。彼もプロなのです。

 私はエレベーターを下ります。

 後ろで彼が、またのご利用をお待ちしておりますと言うのが聞こえてきました。

 私は嘘は吐きますが約束は守る人間です。
 きっとまたエレベーターを利用します。


 約束したのですから。

第八話( 1 / 1 )

 どういう事なのでしょうか。

 私は今探偵事務所に居ます。塔子の職場である「榊・名探偵事務所」の所内です。
 扉は開いていましたが人っ子一人いません。塔子は椿と同じく従業員を雇わないので塔子がいなければこの事務所内は無人になるのですが、今に限れば無人であるというのは不自然です。何故ならここには塔子がいるはずなのですから。



 しかし何処にも居ないのです。
 訳が分かりません。
 私の中に焦りと悲しみが押し寄せてきます。
 鼻の奥がツンとします。今日はよく涙の出る日です。私は滅多に涙を流さない質ですので、一日に二回も泣くというのはかなり珍しい事であるでしょう。

 しかし泣いてばかりもいられません。
 落ち着く為に私はスーパーマーケットで買った埃味のタバコを吸います。吐いた煙はただ揺らめいていました。


 脳の血管が収縮するのを感じながら私はある事に気がつきました。
 それは塔子にあるのは放浪癖であって消失癖ではないということです。

 塔子は消えてしまったのです。それは私自らが証人であるので真実です。

 彼女はドアを開けて外に出て行ったわけではないのですからこれは放浪ではなく消失と言えるでしょう。

 何故こんな簡単な事に気付けなかったのでしょうか。
 いえ、簡単だからこそ気付けなかったのでしょう。
 簡単な事を簡単にこなす人こそこの世で一番生きるのが巧い人なんだよと言う塔子の言葉を思い出します。


 体から力が抜けていくのを感じます。
 塔子は消えてしまったのです。それならば捜す意味などありません。消えてしまった者は何処にもいないのですから。
 この旅は最初から無意味なものだったのです。くたびれ儲け以外の何ものでもなかったのです。

 塔子はこの世界にはいない。ならば私は死ねません。死にたくありません。
 私はこの瞬間から完全に寂しい人間になってしまいました。

 またも瞼は涙を流します。

 私は項垂れ、生きる希望を無くし、生きる絶望を手に入れたのでした。

第九話( 1 / 1 )

 私は自宅へと戻っていました。

 事務所のあるビルを後にして、瓦礫の町を歩き、下水管の汚水をかき分け、三丁目の路地を抜け、私の住んでいる町へ戻って、自宅に到着したのでした。

 その間誰に会う事もありませんでしたが、部屋に入るとそこには給仕をする百合子と、何故か邑がいました。

 百合子は椿が芋虫便で届けてくれる予定でしたから驚きもしなかったのですが、邑は何故ここに居るのでしょうか。
 というかどうやって私の住居を知り、どうやって入ったのでしょうか。
 私はそれを邑に訊きました。
「あなたが教えてくれたんじゃないの。鍵は開いてたから勝手に入らせてもらったわ」
 どうやら鍵を掛け忘れていたようです。不用心でした。これでは何も文句が言えません。
「恋人は見つかった?」

 恋人。恋人ではありません。愛すべき友人です。邑は勘違いをしているようです。
 私は邑の勘違いを正しました。そして塔子は見つからなかったこと、塔子はもうこの世界にはいないことを伝えました。
「そう。あなたが彼女を恋人だと認めないから彼女は消えてしまったのかもしれないわね。気付いてる?」
 どういうことでしょうか。私は何のことだか分からないと返します。
 邑はそう、と短く答えると悲しそうな顔をしてから眼鏡の奥の鋭い目をぎらつかせて私を見ました。
 またです。私は邑のこの目が苦手なのです。心の中をぐちゃぐちゃにかき回されるようなとても不安な気持ちになるのです。
「私が後三ヶ月で死ぬことは伝えたわよね。あなたには私を看取ってもらうわ。良いわね」

 何故私がそんなことをしなければならないのかと言う気持ちもありましたが。ほとんど自棄になっていた私は邑の申し出を受け入れました。

 どうせ私には沢山の時間があるのです。その時間の一部を邑の為に使っても罰は当たりませんし、塔子の言いつけ通りに周りの人間を大事にするのも良いでしょう。

 邑は儚気に笑うと、ありがとうと言いました。

 私は椅子に座り、百合子にコーヒーを二つ頼みます。

 百合子は畏まりましたと流暢に言うと台所へと移動しました。
 どうやら多少メンテナンスされているようです。歯車の削り合う音も聞こえてきません。
 これは椿に感謝すべきでしょう。

 会話をしているうちに何となく落ち着きました。

 ほどなくして百合子がコーヒーを持って現れました。
 とても美味しいコーヒーです。

 塔子のいない寂しさが紛れたわけではありませんが、静かに進んでいく時間が私には何だか心地よく感じたのでした。
うおぎみ たいよう
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