私は自宅へと戻っていました。
事務所のあるビルを後にして、瓦礫の町を歩き、下水管の汚水をかき分け、三丁目の路地を抜け、私の住んでいる町へ戻って、自宅に到着したのでした。
その間誰に会う事もありませんでしたが、部屋に入るとそこには給仕をする百合子と、何故か邑がいました。
百合子は椿が芋虫便で届けてくれる予定でしたから驚きもしなかったのですが、邑は何故ここに居るのでしょうか。
というかどうやって私の住居を知り、どうやって入ったのでしょうか。
私はそれを邑に訊きました。
「あなたが教えてくれたんじゃないの。鍵は開いてたから勝手に入らせてもらったわ」
どうやら鍵を掛け忘れていたようです。不用心でした。これでは何も文句が言えません。
「恋人は見つかった?」
恋人。恋人ではありません。愛すべき友人です。邑は勘違いをしているようです。
私は邑の勘違いを正しました。そして塔子は見つからなかったこと、塔子はもうこの世界にはいないことを伝えました。
「そう。あなたが彼女を恋人だと認めないから彼女は消えてしまったのかもしれないわね。気付いてる?」
どういうことでしょうか。私は何のことだか分からないと返します。
邑はそう、と短く答えると悲しそうな顔をしてから眼鏡の奥の鋭い目をぎらつかせて私を見ました。
またです。私は邑のこの目が苦手なのです。心の中をぐちゃぐちゃにかき回されるようなとても不安な気持ちになるのです。
「私が後三ヶ月で死ぬことは伝えたわよね。あなたには私を看取ってもらうわ。良いわね」
何故私がそんなことをしなければならないのかと言う気持ちもありましたが。ほとんど自棄になっていた私は邑の申し出を受け入れました。
どうせ私には沢山の時間があるのです。その時間の一部を邑の為に使っても罰は当たりませんし、塔子の言いつけ通りに周りの人間を大事にするのも良いでしょう。
邑は儚気に笑うと、ありがとうと言いました。
私は椅子に座り、百合子にコーヒーを二つ頼みます。
百合子は畏まりましたと流暢に言うと台所へと移動しました。
どうやら多少メンテナンスされているようです。歯車の削り合う音も聞こえてきません。
これは椿に感謝すべきでしょう。
会話をしているうちに何となく落ち着きました。
ほどなくして百合子がコーヒーを持って現れました。
とても美味しいコーヒーです。
塔子のいない寂しさが紛れたわけではありませんが、静かに進んでいく時間が私には何だか心地よく感じたのでした。