東天アパート

第一章 夢から覚めて( 4 / 4 )


カイコさんがコンコンノックする。
バナナ二本と鰯のカンズメ一個、それを押しながらカイコさんは膝頭でずるずるそばまで這って来る。くさい。
けれども、最近はそのくささに懐かしさも覚えて、目が目を求める。
小山なずさは三十九歳の瞳を開ける。カイコさんの年齢不詳の、皺の中にある瞳らしいところをさぐってみる。一秒間くらいだ。
カイコさんは意に介せず、汚い手で小山なずさの散らかしたものを綺麗に寄せ集めて、持参の袋に妙に正常に入れる。その袋と共にバックしてずりさがっていくと、くささも遠去かる。
ドアが閉まり、階段を上る音、上のドアが開き、ドス、ドドス、と移動する音。
その時、小山なずさは自分の苦しみを考えていない。カイコさんにこのアパートが与えられてよかった、というような感情を抱いている。ほとんど意識せずに。

そんな二〇〇九年の夏を小山なずさの心身は執拗にまだ生きていた。
長い休養、郭公のような母親のもたらすパキシルその他の薬、カイコさんの給餌、トラウマとなった環境の中で幾重にも強化されたストレス耐性、そんなものが小山なずさを死なせなかった。

秋風の立つ頃、夜に窓を見上げた。小山なずさの意識としては何も思わずにした行動だったが、それこそが脳の意欲だった。
光る丸いものがあった。その周りは濃い青色だった。
訳がわからない気がした。これは何だったっけ。よく見ると光を発するものには薄い影の形があり、その周囲は明るいが、次第に遠ざかるにつれ暗い青色が増した。
それらは不思議であり、懐かしく、それらを美しいと感じた。
「月だ」
「夜空だ」


小山なずさは自然を切り取り、それを概念となし、その概念を記号で表した。日本語の。
それから自動人形のように、空腹も食欲もさして感じないのだが、行事として手を伸ばした。
カイコさんの水道水、バナナ、鯖のカンズメ、今日はどういうわけか薬にそえてある食パン、それらを口に入れ汚い歯で噛んで呑み下した。
それぞれの味がした。味覚、嗅覚、触覚が電気信号を伝え、脳の伝達物質セロトニンがわずかながら働いた。細々と回路が繋がった。もうひとつの伝達物質ドーパミンも働いた。

小山なずさは何と、
「さて」
と、呟いた。
力が入らないので、カクンカクン、としながらドアを開けた。普段は廊下を右に洗面所に行くのだが、そうはならじ、とばかり直進した。すると空の下に出る。
涼しい風が小山なずさのうすっぺらな身体に沿って、流動力学的に正しい線を描いて流れた。肌からべったりした暑苦しい空気が吹き飛ばされる。
風は次々とやってきた。
小山なずさは息を吸った。息を吐いた。また吸うために。吐ききるまでいつまでも吐いた。苦しい、と感じてもまだ吐くことができるのだ。同時に脳内のどこかでは苦しさを和らげようと緊急処置セロトニンが放出された。
吸った空気はできるだけ体中にためた。
よどんだ空気を肺のどんな片隅からも追い出して、代わりに涼しい自然の力を体の隅々まで行き渡らせ感じさせた。
月に向かって、両腕を差し上げた。
涙が流れていたが、自分では感じないで、そのままゆっくりくるくると自転した。天から地面まで一筋の月光の線に突き刺されたように、団子三兄弟よろしく頭蓋と胸腺と丹田を一本の何かで貫かれて回転した。
その動きと、その動きを無意識なままに感じている本人の様子は、不気味な汚い光景ではあるが、小山なずさトレーニング開始の瞬間であった。


第2章 これまでの道( 1 / 7 )

夜になり、月や星があり、風が吹く。
どうしても涼みたくなる。筋肉が無いのでよろばいながら外に出て、その肉体が天と地の間にまっすぐに立たされるのを感じる。
両腕を立てたり広げたりして回る。

すぐ疲れるので、だらだらと上半身を前に垂らして両腕を脱力させる。両脚の膝が曲がり、深く頭も落とす。そしてぶらんぶらんと揺する。この体勢も気持ちのいいのはしばらくだけだ。
「は、シンド。よいしょっと。わ、くさ」
つい言葉が出た。
「あんたくさいナ」
と、小山なずさが自分に伝えた。


カイコさんだ。お勤めからご帰還。
明らかにぎょっとして暗闇を見透かすように小山なずさの方へ顔を向けている。立っている小山なずさにカイコさんは遭遇したことがなかったのだ。

意味不明な音を出しながら、自転車を止めてプラスチック袋を2つ手にしたカイコさんの方へ小山なずさは歩いていった。そして力尽きたように体ごと倒れかかり、肩を抱くような形になって止まった。
カイコさんも口を開閉させるのみだった。

そのうちお互いに押し退けあった。双方ともにくさかった。カイコさんは汗が、小山なずさのほうはコケ類が強烈だった。
カイコさんは意外にも、押し退けたことを間が悪いと感じたらしく、慌てて袋のひとつを渡そうとした。
それは小山なずさの手によって受け取られた。双方の間で行き来したのはどうも、を意味するド、いいから、を意味するン、いつも、を意味するソ、いいって、を意味するア、そんな音のみである。

そこらへんから徐々に脳の穴が、再生していく神経細胞によって埋められていったらしい
小山なずさの意識としては、問題から離れる、問題を気にしない、という心の動きとなった。どうしても、としがみついたいたことがどうでもいい、と意識される。

その次に、むくむくと無から意欲が湧いてでた。そうしてきのうから外に出た。


昼間出た。
日光アレルギーでないのは天の恵み。

ぶっといめがねで眼を保護、厚手のマスクでのどを保護。すべての近代的人工物から遠ざかる。しかし、ここにはそんなものが余り存在しないことに間もなく気づいたのだが。
この社会の呪縛にからめとられ、しかしそれから今や解かれようとする小山なずさだ。

今日も今日とて、春風に吹かれながら、土の路をポクポクと進んでいた。
癖になって口の中で唱えていた春の七草は、もう全部言えるようになった。
良寛様よろしく、と思っていたのだが、春休み中の悪童どもが回りにこそこそしていたのに小山なずさが近づくにつれ、ついにわーっとばかり逃げ出していく。

おやおや、遊んでくれへんの、と、笑ってやるのだが、怖いもの見たさという小さな顔がいくつか木立に見え隠れしている。
あの子もこんなくらいかなあ。

ぽつりと思いが浮かんだ。
小山なずさの産んだ女の子だ。一歳のぽやぽやの髪のまあるい顔が、昼の光のどこそこにぽっかり浮かんだり消えたりしている。
夜の時代には完全に抑圧されていたその顔とそれをめぐる感情。
事実はしっかりわかっていた。

第2章 これまでの道( 2 / 7 )

直線の断髪の、プロ意識にいよいよ侵食されていた三十歳のころだったっけ。
小山なずさは、他にもいろいろな意識に翻弄されていたが、その最たるものは逆説的ではあるが、子を産む機械である女体の義務感であった。

一に、エストロゲンを分泌せよという、脳の視床下部の命令は絶対だった。
従って、二には、オスメスどちらの主導であれ、社会の要請が大きな蓋のように、特にメスを洗脳し刺激して恋愛へと鼓舞していた。

生物である限り生殖の要請はすさまじく、狡猾だ。それに押し流された。オスは美しい青年の姿をして、小山なずさを幻惑し圧倒した。一人の唯一の特別なオスとして。

彼の射精欲は彼自身を圧倒したし、メスはそれを受容したいという欲に押し流された。
あれほど小説や映画で宣伝されているいわゆる快楽に程遠かったにもかかわらず、そもそもそんなことは自然のちょっとしたアメにすぎないわけで、ともかくどうするという意図もないうちに受胎してしまった。


ひどい仕打ちだった。
小山なずさはひっかけられたのだ。
自然のたくらみばかりではない。

誰一人として本当の真理を知らないくせに、したり顔で結婚や性愛や家庭や子育てや学業と職業や経済や政治や名声や効率や芸術や技術や戦争や進化や宇宙やらを論じた。

二十世紀の後半は、当時の社会のシステムが女性を外の労働へと外へと駆り出した時代だ。
その渦の中で、強烈な働き蜂として育成された、それなりに男に伍して充分な知力に恵まれた女であった小山なずさは、当然なこととして仕事人間だった。
まず自分がプロとして自活できること、それしか考えていなかったはずなのに、ふと三十歳に惑わされた。無意識に焦っていた。


小山なずさの身ごもった子の父親は、それを知らずにアメリカに栄転していった。
ここで、泣き喚いたりするようには二十一世紀のキャリアウーマンは作られていない。
あってしかるべき現象である。
小山なずさ自身も栄転した。

どうせ別居結婚の形態しかなかったのだから。
いわゆるシングルマザーというのも流行を通り越して普通の現象となっているのだし。
そんな気持ちで時代の流れに流されていった。


がんばった。
父も母も助けとはならなかった。
一歳になるまでは、赤ん坊はまだ喋らず動かなかったので元気でありさえすれば問題は少なかった。

一歳から二歳半まで、かりなは母親を全身で、その存在意義をかけて必要とした。そのために自分が愛されているか、どこまで許されるか試しにかかった。

可哀想なかりな、小山なずさはわざとぼんやり呟いた。良かれと思ってなずさがしてやることをかりなは嫌がった。泣き喚く顔を憎らしいと感じた。眠ってしまうと後悔して自分が泣いた。自立した強い賢い女性となって欲しいとのみ思っていたことが、今は間違いだとわかる。社会の要請に幻惑されていた。

かりなにはしっかり甘えさせてくれる抱擁が大事だったのに、一度も眼を見てわかるようにはっきりと、愛してるよ、可愛い娘よ、と感じさせたことが無かった。
その事の意味を、ある時理解した。もう救いはなかった。
崖下に落ちていく時間の尻尾をつかみ損ねてしまった。もう取り返せない。落ちてしまった。



第2章 これまでの道( 3 / 7 )


かりなは里親に渡された。小山なずさが養育できなくなったからだ。
そなアホな、苦労して自分が生んだ子を、と思う反面、自分ひとりを支えきれない自分がいた。そんな日々はごちゃ混ぜの感情のカクテルだった。今は里親の下できっと可愛がられて自分の仕打ちを忘れてくれているだろう。その方が勿論かりなにはずっといいのだ、と思う。それにすがった。

かりなのことは、今はどうしようもなかった。
「とりあえずはカイコさんと話をしよう。イヤァ、実は話したことが無かったかも」
カイコさんの話す声を知らないことに思い至る。
「そういえば二人して失語症だったような。
カイコさんも私のようなアダルトチルドレンだったかな。それとも虐待されていたのかな」
下り坂になる頃に、理解と救いをもとめて読み漁った本の知識が徐々に立ち上がってきた。

小山なずさ自身の脳は、この数年の安静のうちに修復されつつあった。子供時代に母親に置き去りにされたトラウマから回復したのかどうか、それはわからない。自分の環境への過剰な適応反応を思い返すと、それこそがトラウマの作用だったかもしれない。
社会的に成功を収めることで母親の関心を買おうとしたのだろうか、小山なずさの眼の前に自分に似た、苦しげで卑怯そうな母の顔が刻印されている。

それにしても、カイコさんこそ自分の千手観音ではなかったか。
小山なずさはすっと立ち上がった。
習慣となった横たわり姿勢が耐え難くなった。
考える前に、すでに電流が脳神経細胞間に流れていた。それから考えが意識され、同時に体が反応している。
小山なずさはドアをがぱっと開けた。
階段を駆け上った。後ろにかしましい音が残されていく。
二階の廊下にあがると、眼の中に薄赤い小さな花びらのようなものが浮かんでいた。木の枝の先についている。木はもちろん地面から伸びてきていた。そんなものがあったのか。裸木だったのが、新芽を吹いていたのだ。
ハナミズキ。
そうかそうか、と小山なずさは合点した。

東天
作家:東天
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