今は二千十年なので、昨年の切り抜きだ。こんな世界でいったい有益な何が出来るか、出来ることをしている人々の記事がいくつか集めてあった。
「バレンボイム、エジプトでアラブ、イスラエルの若い演奏家を率いて指揮、二千八年にはウィーンで」
指揮者だというその名前ははじめて読んだ。小山のまだ回復中の海馬に以前自分が冒涜的な言葉を吐いたことが思い出された。絶えずどこかで行われている領土をめぐる戦いが、いわゆる人種と宗教の違いにかこつけて猛烈を極めている中東の地域の人々に、同情を通り越して軽蔑さえ感じた結果だったのだが。
それは個人の力で争いに対して何かなしうる規模を余りにも超えているからだっただろう。
別の切り抜きには、解雇された非正規社員が住むところも無く寒空にさまよう羽目になった年の暮れ、有志によって派遣村なるものが作られた。全国から助け手がはせ参じて、ささやかなテントと炊き出しが実行された。残念ながらそれらの阿修羅のような人々も限定的にしか助けとならなかったのだろう。
小山は運の強い自分を思い知る。
自殺防止電話相談を始めた人物の訃報もあった。東京山谷の日雇い労働者のために、彼らが年を取り仕事も無くなり、病気になった時に出来るだけ安らかに生を全うするためにと、ホスピスを自前で建設した夫婦の話もあった。
里山の回復に力を傾けた男性の話があり、また、田舎に老人ホームを作り、国の認定外で行き場の無い老人を介護していた施設が、火事を出し犠牲者が出た、という記事もあった。
または自宅待機児童という妙な言葉もあった。かりなも遠い無認可の保育園にずっと預けた。保育料が高くてしかも保育の質は悪かったものだ。
「要するに、世間では助けが必要な人と、助けてくれる人とがいて、しかしそのバランスがどうも悪いってのが常らしいってことですか」
小山は考え考えまとめを述べた。
小園佑子はにこりとして、
「小山さん、絶望の中にも光あり、です。何でもねえ、考え方次第ですや。あせらずゆったり行きましょ」
「どうせ、死ぬまでの間や、そう言えば。ついあせるんですよねえ。死んだら終わりやのに」
小園佑子は少しあわてて小山に応じた。
「小山さん、小山さん、そこまで一足飛びに行かんでも。きっと笑う日もありますって、絶対きっと」
「そうですかあ」
「そうですって。そんな人たくさんいますよ。
私たちが直接係わらせてもらった方々、自分の納得する生き方を見つけていらっしゃいますよって、安心してくださいよ」
「そやね、安心が大事、あせらずゆったり、受け入れて」
小山がそれから黙ってしまったので、小園佑子はかばんからお茶のセットを出した。やはり持ってきていた電気ポットでお湯を沸かしてお茶を一緒に飲んだ。中等程度のお茶っ葉なのだが、ゆっくりと淹れる小園裕子に見とれているうちに、心を和ませる香りが漂った。
小園佑子が帰った後、小山は少し手足が衝撃で震えるのを感じた。ただの心理生理的反応だ、と落ち着かせる。
そうなのだ、巻き込まれないこと。前頭葉のコントロール能力を回復するのだ。またバナナを手に取る。残りのお茶も飲んだ。
「私ゃ、ほんとは運が強いね。潰れたのじゃなく、ここらで休めという合図を受けたんや。解釈次第ヤね。こんなガリガリになってもうたけど、さ、今から取り戻せるやろ」