「すみません、お邪魔します」
カイコさんに向かって話しかける男の声が頭上から降ってきた。
その声には小山なずさの性ホルモンに少々訴えるような感じがあった。恋愛のメカニズムにおいて外見や声、生き残る能力の優秀さなどを如何に瞬時に人は認識するのか、きっとそれについての研究はまだ道半ばだろう。第一、天下のアイドルのような存在には、おおまかに定義しての話だが、皆が認める美質があり、かつ皆にとって高嶺の花だ。それが得られない万人のそれぞれの男女が如何にして次善の、あるいはそのまた次善の人間に惚れることが出来るのか、考えてみると可笑しいことだ。
そんなことを瞬時に小山の脳が思った時、カイコさんが彼を指差し、小山を見た。すぐに察して首にぶら下げている名札を見せつつ、
「地元で生きようNPOの赤松陽司です。始めまして、小山さん、もうお名前を」
と、真っ白い歯を見せた。いい色に肌が光っている。まだ二十二、三歳に見えた。
「どうして」
小山は久しぶりに世の中の人と話すので、気持ちのままにぼんやり尋ねた。
「おととい花村さんところの豌豆の収穫をお手伝いされたでしょう。犬塚さんと一緒に」
そうそう、カイコさんは犬塚という名前だったのだ。犬塚典子って堂々とした名前。
小山が頷くとカイコさんもそうそう、と頷いた。赤松陽司はさっさと、失礼します、と言って大野みずさの横に座った。
「お母さん、ご苦労様です」
と、勝手にお母さん呼ばわりするのを、大野みずさが苦笑いしつつ許している。
「あそこの東天アパートで暮らしている人でですね、まあ、社会復帰の馴らしといいますか、人手が欲しいところに入って貰ってるんですよね。シルバー人材センターなんて市の組織がありましょう、シルバーじゃなくてリハビリ人材センターといいますか」
ここ数年の経済危機のために、年齢を問わず職を失い痛手を負って、地元に戻った非正規労働者は増加の一途である。と、小園佑子から小山は聞いていた。都会に居ても田舎に戻っても資本主義の恩恵を受けられる人は少なかった。
生産しても生産物が過剰となり、地球環境が悪化するのみ、という悪循環の現状となっていた。機械による生産システムでは優秀な人手しか要らない、自然からの生産システムは世界を分断している。過剰と、不足が同時にあった。今までの生産と消費の関係では、もうひとにぎりの成功者と、あとはスラムしか残らない。その後は両者の間で収奪と強奪の戦いになるほか無い。国は内戦状態となり、荒廃した国はまた環境を悪化させる。戦後の日本やドイツのように立ち直ることが出来たのは、根本的にはやはり資本主義勃興のいいタイミングの波に乗ることが出来たからであろう。
小山なずさが猛烈社員であったころ、考えないようにしていた可能性が、静かに潜行し顕現してきた。何とかなる、とも思っていたし、
誰かがいい案を思いつくだろう、とひとまかせにしていた。第一自分ひとりでどうするってのさ、個人で。政治の問題でしょ、と思っている間に金融世界が政治を置き去りにして暴走した。
非政治的非営利的団体があることは勿論承知していたが、その活動に少し懐疑をもったり、おおいに感心したりしつつ、流されて生きてきた。赤松陽司は、内戦の一応終了したスーダンのことを語り始めていた。
弱冠三二歳の日本人女性が、内戦後に兵士たちが所有し続ける銃器を回収する仕事をしているという。兵士としてしか生きてこなかった若者に危険な武器を捨てさせ、教育の機会を作って社会に戻す、それをDDR活動というのだ。勿論、これには国連や資金や政治が手を貸している。彼女がその国に滞在する期間も長くは無い。
荒廃そのもののスーダン国内の視察を続けるうちに、彼女は一人の若者に目をつける。兵士を辞めて学校に行きたい、という兵士だ。勿論孤児であり、テント張りのキャンプに暮らしている。生まれて以来、環境の悪化によって希望を打ち砕かれ続けてきた。それでも麻薬などに手を出さなかったが、もう人間の言葉を信じることが出来なかった。
彼女は、彼が学校に行けるように出来ること全てをする、と約束する。彼にとっては荒唐無稽なので、さっさと去っていく。翌日また会いに行く。兵士達は今や警察に属しているのだが、退職が許されないのだという。
彼女はまず軍の准将に会う。それができるのは無論彼女の背後に国際的な組織があるからなのだが。
准将は、勿論兵士は自由に辞職を決定していいと言う。
念のため地域の軍の連隊長にも問いただす。何の問題も無いという。若者が信じていたのは根も葉もない噂だったのか。
もうひとつ念のためその村の警察署長と話す。
「とんでもない、みんなが勝手に辞めたら組織がめちゃくちゃになるでしょう。今の身分から抜け出ることは許されないのです」
頑として譲らないではないか。彼女は最後まで食い下がった。
「彼はただ学びたいのです。学校はできていますよ」
「アア、学校に行くのはいいのです。警察の仕事が終わったら学べばいいのです。彼の自由な時間ですから」
彼女はこの言質をとると、即若者のもとに行った。
経緯を語り、顔色を見る。まだ疑っている。どこまで信じればいいのか、本当に実行できるのかわからないでいる。
「あのね、私のできることはここまで。これは私の問題じゃないから。君の問題、君の人生だよ。ここからは君が実行していくのよ。君にかかっている、ひとえに」
しばらく彼は考えていた。聡明そうな眼に次第に光が輝く。
「そうだ、これは僕の人生だ。僕がやるんだ」
銃を用いずに生きる道を彼が自ら切り開いていけるよう、彼女は少し勢いをつけてやることが出来たのだ。
「勉強して何になりたいの」
「パイロットかな、先生かな」
「それじゃあ、よっぽど頑張らなくちゃね」
彼の仲間が彼を見習うことを彼女は知っている。ひとりが歩き出すと次第に道が広くなる。
「ね」
と、赤松は小山の目を見た。
「運が良ければ、人間ってそんな風に前進していけるのかな。というか、運も作っていくわけよね」
小山なずさはひとりごちた。