東天アパート

第三章 これからの眺め( 1 / 3 )

カイコさんと翌日から行動を共にする。
畑も家もあり、生活費の一部を都会の息子から送金してもらっているという老夫婦、ないしは老寡婦とか何人も町にはいて、ヘルパーやデイサービスとか介護保険を使う人もかなりいる。それでも孤老の生活は難しい。
こんな村落だからこその、カイコさんの需要があったのだ。小山の想像の範囲外だったが
カイコさんは無くてはならない人物になっていた。
畑や家周囲の草抜き水遣りごみ出し、畑の手入れ野菜の洗い、柿の摘み取り、皮むき、干し柿作り、年賀状を出しに行く、一時間五百円でカイコさんの仕事は尽きることなくあった。

「そもそも創造主こそ実は諸悪そのものである。つまりエネルギーの物質化こそ!」
こんな風な、やや希望が見えてきた日々に、突然小山なずさを襲った恐ろしい考え。
命が、生命体が実は悪そのものであろうなどと一度も考えたことは無かった。自分が生まれたことを呪ったりしたことはあっても、自分の中の善であろうとする願いは信じていた。戦争に参加する羽目になれば或いは敵を殺すよう洗脳されるかもしれない。発生の段階で何かが起こるか、或いはDNAの変異その他の影響で、さらには生育環境の影響で、憎悪の感情や自己否定感や孤独感が募り、未発達な性衝動が暴力へ傾くことがあるとすれば、それは偶発的な不運だと思われる。個人的には性善説を何となくとっていたろう。そのほうが自分に安心するはずであるので。
小山なずさは、では今や性悪説に襲われたのか。
「そやない、そんなひとりの私が善だの悪だの選べるよなこっちゃない。人間だけが仲間同士で殺し合いしたり、地球を壊そうとしてるから悪いとかいう次元やない。
百億年以上前の無の状態から、物質と反物質が同数生じて、対消滅する計算やったという。どんな理由であれ、わざわざ物質が残ったのは何故なんやろ。
物質があれば環境しだいでは自ずと生命が生じる。
生命が生じたが最後、条件次第では社会と文化を持つにいたるやろ。
死んだり美しかったり、殺しあったり愛し合ったり、そんなどたばた劇場を誰かが喜んで観ているんやな。人間が映画を作り、疑似体験して愉しむように?

生命は小から大にいたるまで、弱肉強食と知っているのに、他利も自己利益のためであると知っているのに、これは悪いシステムだと知っているのに、何故思い及ばなかったんやろう?これほどに複雑な悪いシステムを作ったものは誰や?
生命は、物質は、悪でしかない。非存在のままでよかったのに。
私ら物質世界は滅ぼされてしかるべきやないのか。どんな宗教であれ、生命や人間を作った創造主を崇めるけれども、それが存在するとするとそいつこそが悪魔とちゃう?神などではなくて?我らは悪の権化やんか!
はよ滅ぼそ。地球を。
そや、人間だけがみんなを絶滅させ、地球を少なくとも生命体の居られんようにすることが出来る」
ヒトにいたるまで生命体は他を殺生するしかない。人の成すべき仕事はこの地球を終わらせることである。せめて。
そしてせめてこの人たるもののみが絶滅を自ら招きうる存在である。子孫を残さないように配慮すれば静かに我らが夢想も終わる。この世があるかのごとき夢想も。そして我らが無想であったことが明らかになるであろう。

第三章 これからの眺め( 2 / 3 )

「そうかぁ、最も強大な殺傷者である我々のみが、この殺生のシステムを壊滅させられる。その能力を培ってきた。これには悪魔も思い及ばなかったやろう。ざまみろ」
小山なずさの疲れた前頭葉は、決して脳が許さないようなことを考えさせた。
「死んで意識が無くなる。それで苦労が絶えるのは良いとして、しかし、何でエネルギー不滅の法則やねん!ああ、いやや。自分が悪の存在やて。時には美しいこの世も殺生の世界を巧妙に隠すためやて。美しさも善も囮作戦なんやな。自分で自分を騙しとんのか!」
怒りと絶望とショックの渦に巻き込まれ、小山は、我を忘れてカイコさんに愚痴った。
「なあどう思う、カイコさん」
命の恩人のカイコさんにしがみついた。
二人とももう余り匂わなくなっている。体を清拭したり、時には町のなんとかランドに、洗い立てのこざっぱりした格好で出かけて、何食わぬ顔でお湯に浸かった。冬に臭っていた二人ではなかった。
「しょ、しょない。な、しょない。どしょもない」
と、カイコさんはしがみつかれて困っていた。
小山の言うことはうわ言のように思ったのだろう。

二人とも、少しずつ喋ることの出来るパートナーとなっていた。
「誰かをころ、殺したいの、んか」
「今生きてるものを殺すのは矛盾やんか。殺生の上塗り」
「よかったぁ、どしょうか思た」
「ごめんな」
一息ついて、カイコさんが世間話のついでのように、
「わたしなんか、昔男を殺したよ」
とあっさり告白した。
「石のような子やって、父ちゃんが怒鳴った。学校は大変やった。男もぶった。石のように黙っていたんやけど、みんなますます叩いたんよ」
淡々と作文のように話す。小山はカイコさんを抱きしめた。
「そ、それで」
「ある夜な、男が眠ったときな、もうお前は充分我慢した、よろしい、って誰かが許した。それで息の根を止めた」
「嘘やろ!」
と、小山は思わず叫んだ。
「ウウン、血がどくどくって」
憎むべき卑小な哀れな男は、簡単に生涯を閉じた。その後のことは、余り意識に無いらしい。
カイコさんの身体を抱いて揺すりながら、そうか、そうか、と小山は自分に呟いた。
きっと罪を償ったり、治療されたりしたのだろう。その時だれかが、きっと小園佑子さんのような人が世話してくれたのだ。
そしてこんな小さな共同体の、山と野原と小さな町のそばの、このアパートに暮らすよう取り計らってくれたのだ。
善良で素朴でだれに害も与えない何も求めないカイコさんがこうして、その死のときまで静かにここで暮らす。
「ついでに私を、救う気なんか無しに、生き延びさせてくれた、生まれたからにはやがて死の時が来るまで」

「金や権力、名誉に憑かれた連中は、欲と好奇心にかられて、やがて決定的に踏み出してしまうだろう。栄華のさいちゅうに地球が破滅するまで。それは間違いないし、そうあるべきだ。でも、私ら、それについて行けなかった者は絶滅の日までも貧乏の悲惨な毎日が続くわけやなあ」
と、小山が呟くのをカイコさんはじっと聞いてくれる。
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「というか、向こうは勝手にやってもろたらいいんやけど、こっちら、こっちらで静かに生きる算段をせなあかん。飢え死にとか凍え死にとか自殺とか、それはやはり可哀想やもん、人間の尊厳とか言うわけやないけども。尊厳が欲しかったらそれに値いせなあかん。人間の尊厳なんて、高望みというもんや、ねぇ。悪業のなかでも、悪行を避けられなくとも、幽かに生きる方法を探す」
小山が「かすかに」という漢字を、幽霊の幽だというと、カイコさんがヘヘ、と歯を少し見せた。
意を得たり、という感じの、小山には初めてのカイコさんの破顔であった。

第三章 これからの眺め( 3 / 3 )


小山なずさの脳神経が、思いもしない回路で発火した。大体人間の意識は、回路に左右されているのだから無理も無かった。神経たちにしろ、何らかの目的があって伝達物質を光速でやり取りしているのでもあるまい。ある環境で肉体が同じような効率で生き延びていけば自ずと回路は太くなる。通行量の多い幹線道路だ。
現在の幹線道路では、個人で何が出来るものか、政府や役人や行政が悪い、という通念が普通横行している。個人では何もできないと。しかし小山なずさは、ずたずたの道路を、しかも脇道を高速で走っていたので、つっと路地に入り込んだ、という感じだ。
小山に高次の存在を信じるかけらでもあれば、天からの啓示とでも思っただろうか。
「そうっか。あれは言い訳だったんだワ。一人でもいいやん、たった一人ずつでも手を取り合って歩いて行けたら」

よし、もっと体力をつけよう、と小山が決意したその日に、母親の大野みずさが訪れた。
いつもの眉間の皺がなく動作が軽々していた。ふと、母の愛が感じられた。私のためにこの人喜んでいる。
「なっちゃん、元気そうじゃない。今日ね、ほら見て、食料と衣類と化粧品と、サプリメント、薬、と、」
と、次々に取り出した。かってないほどの量を運んできたらしい。並べて得意そうに笑顔で小山を見た。最後に写真を二枚出した。
小山は瞬時にあらゆる想像をしたが、見当もつかなかった。
手に取って見ると、顔がぼかしてある写真だった。家族写真らしい。子供が二人いる。普通の居間で楽しげに体を寄せ合っている。もう一枚には小さいほうの子供がひとり写っていた。これも顔に加工が施してある。しかし顔中で幸せを信じて笑っているその口元が少しばかり見えた。きれいな大人の歯が二枚揃いはじめた、可愛らしい女の子だ。


小山なずさは涙をほろほろとこぼした。わが子だった。こんなにも愛らしい子を失ったのだ。小山に人間の欲が本能のままにふつふつと沸いた。
「なっちゃん!」
と、大野みずさは自分も泣きながら、わが娘の手に自分の手を重ねた。
「ママもなっちゃんを失って悲しかった。でも今は会うことできて嬉しい」
「あの子は幸せ?」
「そうよ、実の子として幸せに」
「私は幸せとは言えなかったんよ」
「わかってる。でもいつもそばにいたのよ、ママは。学校にも大学にも寮にも、下宿にもどこにだって」
「わかってた。手紙もくれたよね」
小山なずさの父親が、心を閉ざすタイプだったのが理由だったのかどうか知らないが、そこから飛び出して再婚した母のみずさは、それ以来、なずさと接触するのに異常にこそこそした態度をとるようになった。そんな態度にかえって苦しめられた。母親の気持ちを思いやったことは一度もなかった。
それでも小山なずさは、母親と暮らしたかった。だから憎んだ。しかしかりなは違う。さびしい。しかしそれがかりなの幸福なのだ。大人になれば、また会えるようになるかもしれないから、と母と娘は慰めあった。かりなの写真を長いこと眺めた。どう見ても心から幸せそうだった。

とりあえず食べよう。
カイコさんもいれて三人で町のレストランにくり出した。どこかのチェーン店ではなく、地元の素材で素朴においしく作ってある。三人とももりもり食べた。母親が食べているのを何十年ぶりに見たのだろう。こんな食べ方をする人だったんだ、と小山は観察せざるを得なかった。大野みずさも娘を見つめつつ食べた。カイコさんも楽しげにウンウンと頷きながら堪能しているのが、小山にはもうひとつ嬉しいことだった。

第四章 夢のように( 1 / 7 )


「すみません、お邪魔します」
カイコさんに向かって話しかける男の声が頭上から降ってきた。
その声には小山なずさの性ホルモンに少々訴えるような感じがあった。恋愛のメカニズムにおいて外見や声、生き残る能力の優秀さなどを如何に瞬時に人は認識するのか、きっとそれについての研究はまだ道半ばだろう。第一、天下のアイドルのような存在には、おおまかに定義しての話だが、皆が認める美質があり、かつ皆にとって高嶺の花だ。それが得られない万人のそれぞれの男女が如何にして次善の、あるいはそのまた次善の人間に惚れることが出来るのか、考えてみると可笑しいことだ。
そんなことを瞬時に小山の脳が思った時、カイコさんが彼を指差し、小山を見た。すぐに察して首にぶら下げている名札を見せつつ、
「地元で生きようNPOの赤松陽司です。始めまして、小山さん、もうお名前を」
と、真っ白い歯を見せた。いい色に肌が光っている。まだ二十二、三歳に見えた。
「どうして」
小山は久しぶりに世の中の人と話すので、気持ちのままにぼんやり尋ねた。
「おととい花村さんところの豌豆の収穫をお手伝いされたでしょう。犬塚さんと一緒に」
そうそう、カイコさんは犬塚という名前だったのだ。犬塚典子って堂々とした名前。
小山が頷くとカイコさんもそうそう、と頷いた。赤松陽司はさっさと、失礼します、と言って大野みずさの横に座った。
「お母さん、ご苦労様です」
と、勝手にお母さん呼ばわりするのを、大野みずさが苦笑いしつつ許している。
「あそこの東天アパートで暮らしている人でですね、まあ、社会復帰の馴らしといいますか、人手が欲しいところに入って貰ってるんですよね。シルバー人材センターなんて市の組織がありましょう、シルバーじゃなくてリハビリ人材センターといいますか」
ここ数年の経済危機のために、年齢を問わず職を失い痛手を負って、地元に戻った非正規労働者は増加の一途である。と、小園佑子から小山は聞いていた。都会に居ても田舎に戻っても資本主義の恩恵を受けられる人は少なかった。

生産しても生産物が過剰となり、地球環境が悪化するのみ、という悪循環の現状となっていた。機械による生産システムでは優秀な人手しか要らない、自然からの生産システムは世界を分断している。過剰と、不足が同時にあった。今までの生産と消費の関係では、もうひとにぎりの成功者と、あとはスラムしか残らない。その後は両者の間で収奪と強奪の戦いになるほか無い。国は内戦状態となり、荒廃した国はまた環境を悪化させる。戦後の日本やドイツのように立ち直ることが出来たのは、根本的にはやはり資本主義勃興のいいタイミングの波に乗ることが出来たからであろう。

小山なずさが猛烈社員であったころ、考えないようにしていた可能性が、静かに潜行し顕現してきた。何とかなる、とも思っていたし、
誰かがいい案を思いつくだろう、とひとまかせにしていた。第一自分ひとりでどうするってのさ、個人で。政治の問題でしょ、と思っている間に金融世界が政治を置き去りにして暴走した。
非政治的非営利的団体があることは勿論承知していたが、その活動に少し懐疑をもったり、おおいに感心したりしつつ、流されて生きてきた。赤松陽司は、内戦の一応終了したスーダンのことを語り始めていた。

弱冠三二歳の日本人女性が、内戦後に兵士たちが所有し続ける銃器を回収する仕事をしているという。兵士としてしか生きてこなかった若者に危険な武器を捨てさせ、教育の機会を作って社会に戻す、それをDDR活動というのだ。勿論、これには国連や資金や政治が手を貸している。彼女がその国に滞在する期間も長くは無い。
荒廃そのもののスーダン国内の視察を続けるうちに、彼女は一人の若者に目をつける。兵士を辞めて学校に行きたい、という兵士だ。勿論孤児であり、テント張りのキャンプに暮らしている。生まれて以来、環境の悪化によって希望を打ち砕かれ続けてきた。それでも麻薬などに手を出さなかったが、もう人間の言葉を信じることが出来なかった。
彼女は、彼が学校に行けるように出来ること全てをする、と約束する。彼にとっては荒唐無稽なので、さっさと去っていく。翌日また会いに行く。兵士達は今や警察に属しているのだが、退職が許されないのだという。

彼女はまず軍の准将に会う。それができるのは無論彼女の背後に国際的な組織があるからなのだが。
准将は、勿論兵士は自由に辞職を決定していいと言う。
念のため地域の軍の連隊長にも問いただす。何の問題も無いという。若者が信じていたのは根も葉もない噂だったのか。
もうひとつ念のためその村の警察署長と話す。
「とんでもない、みんなが勝手に辞めたら組織がめちゃくちゃになるでしょう。今の身分から抜け出ることは許されないのです」
頑として譲らないではないか。彼女は最後まで食い下がった。
「彼はただ学びたいのです。学校はできていますよ」
「アア、学校に行くのはいいのです。警察の仕事が終わったら学べばいいのです。彼の自由な時間ですから」
彼女はこの言質をとると、即若者のもとに行った。
経緯を語り、顔色を見る。まだ疑っている。どこまで信じればいいのか、本当に実行できるのかわからないでいる。
「あのね、私のできることはここまで。これは私の問題じゃないから。君の問題、君の人生だよ。ここからは君が実行していくのよ。君にかかっている、ひとえに」
しばらく彼は考えていた。聡明そうな眼に次第に光が輝く。
「そうだ、これは僕の人生だ。僕がやるんだ」
銃を用いずに生きる道を彼が自ら切り開いていけるよう、彼女は少し勢いをつけてやることが出来たのだ。
「勉強して何になりたいの」
「パイロットかな、先生かな」
「それじゃあ、よっぽど頑張らなくちゃね」
彼の仲間が彼を見習うことを彼女は知っている。ひとりが歩き出すと次第に道が広くなる。

「ね」
と、赤松は小山の目を見た。
「運が良ければ、人間ってそんな風に前進していけるのかな。というか、運も作っていくわけよね」
小山なずさはひとりごちた。

東天
作家:東天
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