東天アパート

第四章 夢のように( 2 / 7 )

まずは東天アパートの現在の住人と知り合いになる、という課題を小山はもらった。お願いですけど、と赤松は両手を小さく合わせたのだ。
夜窓に明かりのついている部屋を確認する。自分の部屋、カイコさんの部屋の両隣にも誰か棲息している気配がある。赤松陽司がくれた名簿には名前と年齢、性別の欄はあるのだが、空白がいくつかある。
名前にしても本名ではないのかもしれない。
小山の左隣の仮名「大山」さん、女性三十歳前後、彼女とはもう話をした。どうした、と小山は直裁に尋ねる。世の中にどうもしない人は稀なので、失礼な質問でもない。うつ、失恋、と言う。驚きもしない。そか、と小山は言う。くっついて背中をさすってあげる。
大山さあん、小山だよ、とノックすると顔を出して嬉しそうにしている。どう調子は、尋ねるまでもなく大分落ち着いて、こざっぱりした格好だ。
「ちょっと散歩がてらやけど、川向こうの一人暮らしのお婆さんを大丈夫か見に行かへん?」
「え、私が?」
と、世話されるのに慣れた大山さんは目を白黒させた。
「弱いもん同士、お互い様やん」
とりあえず外の空気は気持ちいい。
「なんか食べた?」
と、小山がクリームパンをポケットから出す。
途中のコンビニで文明の利器自動販売機でお茶を買う。
学校でのいじめ体験のことや以前の仕事の収奪や、ボツボツ喋りつつ小さな橋を渡っていくと少し棚田があり、次第に雑木林が増えていく。空に雲雀がうるさいほど囀っていた。風に楠の新芽の香りが混ざっている。
お婆さんは大変なことになっていた。庭で転んだまま動けなくなっていた。もっと早く来てあげていたら、と小山は悔やんだ。骨折らしくひどく痛がって話すこともままならないでいるのを、二人で抱え起こしたが無理に動かしてもいけないと判断して、大山に頼む。
「あのな、そこら辺の人を見つけて電話を頼んで、多分救急車や」
このうちにも電話はあるのだろうが、無断で入ることがためらわれたのだ。
大山は意外とすばしこく動いた。さっきのコンビにまで走った。従業員に説明する間に、客の一人がもう携帯をかけてくれた。
人間ってけっこう人助けも好きやな、面白いからやろけど、と小山は思う。

翌日から二人は、首からぶらさげるIDカードを赤松からもらった。地域ボランティア云々と書かれている。カイコさんもエヘヘと言いながら、自分のカードを一緒にぶら下げた。
さて、小山の右隣の部屋の、仮名右野さん、彼は神戸で派遣社員として製薬会社で営業をしていて、無慈悲に切られた。カイコさんの左の通称猫ちゃん、彼女は知的障害を持ち市道を歩いているところを保護された。右隣の実名牛山さん、彼はなんと絵を上手に描く人だった。しかし売れないままに路上で暮らしていた。
赤松陽司が、ソーシャルワーカーらと協議して、これらの人々をこの東天アパートに住むよう取計らったのだが、普通そんなことは簡単にはいかない。それもこれも、このアパートの所有者が、自分の会社の倒産の憂き目に会い、ここを手放すことで借金を減らすことが可能となった、そんな経済的な事情が有利に働いたのだ。ひとつの幸運である。

小山なずさは自分自身は信心とは縁遠いと思っている。しかし、仏教でも何でもいいが、社会の中に大いなるものの慈悲の手に困難の中にいる生物を救い上げてくれる、そんな組織が存在してくれたらいいな、と思うのだ。特に、その組織が魂の救済のみならず、場合によっては眠る場所と食べる物や、あるいは当座働く機会も与えることが出来れば、いまや四万人に近いこの国の自殺者を半分は減らすことが出来るはずだ。
確かに死ぬのは個人の自由決定でもある。しかし、喜んで自死するわけではないはずだ。

第四章 夢のように( 3 / 7 )

ともあれ、と小山は意欲に溢れて腕組みをした。そのためには施設と資金と人材が必要だ広報も必要だ。
半ば芸術家の村とでもいうもの。
小山の脳裏にそのアイデアがひらめいた。作業場でもあるもの。生産の場であり、ヘルプサービスを与える側でもある場。

余り行政からの援助を必要とせず、ある程度自立した組織であって、お互いに貧しくても補助しあうこととが許しあえるような、麗しい共同体。そこでは心の潤いと美への喜びを芸術が感じさせてくれるだろう。人間の尽きないアイデアも束縛を受けないことで泉のように湧き出てくるだろう。
それは武者小路実篤のいわゆる美しい村現代版か、とうろ覚えの本を思い出した。
小山なずさは急に嬉しくなってくるりと自転した。この東天アパートはそんな小さな多様性を花咲かすのにぴったりではないか。


二〇〇九年以来の経済破綻。自由資本主義の行き過ぎ、ないしは誤りの影響下で、人類は生き残りを賭けて必死に改革、改善を模索し、試行していた。
架空のお金が蒸発してしまって以来、本物のお金の分配のために、結局競争原理が激しさを増していた。ふるい落とされる多数の不運な人々。彼らが有能でない、わけでは無い。運が悪かったのだ。
いや、と小山は抗うように頭を振った。巻き込まれてなるものか、運良くも、我々は不毛な果てない競争から軌道修正したのだ。

たとえば画家の牛山さんは、応募しては落選していた有名な画展の条件に何かが、少し足りなかったのだろう。だからといって彼の画家としての価値の絶対性に変わりはない。自然を切り取り永遠のものとする。日々その腕前は向上していたのだ。その作品は彼自身でありえた。
「牛山さぁん、時々、気候がよいときにやけど、絵を売りに行ってみる気ないか」

元営業マンの右野さんが、当時は苦痛で仕方なかったというのに気軽に牛山さんに話しかけている。ドアから首だけ突っ込んで。牛山さんの声ははっきりとは聞こえないが、部屋の中から生活臭とは異なる匂いが出てきた。紙や絵の具、油。
小山とカイコさんと大山も覗き込む。他の住人同様鶏がらのように痩せて髪の毛がむちゃくちゃなまま伸びているのが見えた。

まずは身だしなみ、と頭を洗う手伝いをする。この季節、暑いといっていいくらいの日だった。その髪を緑の輪ゴムできっちりまとめる。顔の周りにたらしても、まるでキリストのようで感じがいいのだが、とりあえず印象をさっぱりとさせよう。牛山さんは嫌がるわけでもなく、ハイとか言って清潔にさせられている。
「みんなで渡れば怖くない」
と、何とカイコさんが発した。小山はその背中に自分を軽くぶつけた。

牛山さんの絵の中にはここの窓からの景色、空と山と木々という、やたら色のしっかりした存在感あるものもあり、かと思うと夢のように美しい女や男の顔もあった。
「これもいいねえ!ほしいなあ」
小山も大山も口をそろえて言う。牛山さんはすぐに二人にそれらの絵を提供しようとした。
「いいよいいよ、とりあえずは社会に見せに行こう。誰だって美しいものは欲しいよね。値段の問題やね」
小山は自分が政治経済の専門家だったのを少し思い出した。

第四章 夢のように( 4 / 7 )

洗濯当番の大山を残して、四人で畑の中の道を出発する。カイコさんの自転車に前後左右六、七枚の絵を取り付けた。
人通りがある程度ある駅近くまでは三十分は歩くので、動きなれていない牛山さんはすぐにへたり出した。水を飲ませ、帽子をかぶせ、無理にサドルにまたがらせる。全員で籠行列のようにそれを支えて進んだ。
滝野町の商店街は勿論ほとんどシャッターが閉まったままである。大きな店はスーパーとコンビニくらいで、この前までがんばっていた衣料小物屋はついに力尽きたらしい。

駅に近い場所で歌っている二人組みがいた。
いい声なので、ついでに聞くのもいいか、と少しだけ離れた所に陣取ることにする。
二人組みの男の子達の声が涼しいので、買い物や帰宅中の通行人がついこちらに惹きつけられてやって来る。それを聞いたりきょろきょろすると、自ずと隣の美しい絵に目が行くという仕掛けになった。

ひとりの初老の人がついに意を決してやってきた。
「売ってるんかな」
「はいはい、美しいでしょう。こちらが画家です。おうちに一枚飾ってみませんか」
と、右野さんがすらすらと誘う。
「いくらやねん」
「相談次第ですよ」
「ふーん、この小さな美人はいくら」
牛山さんは右野さんの耳に、六万円と囁いた。右野さんはびっくりして首を振り、
「六、千円ですって」
「ほお、そんなもん?額縁なしやけども、それじゃ」
「あ、では五千円で」
男性は絵を手にとってぐっと近づけて眺めた。「よっしゃ、もらっとこ。綺麗や。はい」
ポケットから無造作に一万円札を出す。そして、おつりはいい、と呟いてすたすた去って行った。嬉しそうだ。

みんな牛山さんをさっと見返る。彼はどんな気持ちでいるか、と。
「ありがとうございます」
と、牛山さんは笑いもせずに少しお辞儀をした。
それから若い女性が、美しい男の絵を六千円で買って行った。景色の絵も人気があった。似顔絵書かないの、というおばさんもいる。
牛山さんは、実はすでにコンテを描き始めていた。となりで跳ね回ったり、静かに囁いたりしている若者の姿を二本のギターと共に。
顔が非常に魅力的に描かれていた。
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休憩に入った彼らが興味津々と言う顔で近づいてきた。
「ぼくらを描いたんすか」
「ごめんなさい、怒ってはる?」
「いやぁ、そんな人間と違いまぁす、ぼくら。涼しげですやん、シャープやし」
歌の歌詞も書くのだろう、言葉に敏感そうだ。しばらく共通の時間をすごすうちに離れ難い気がしてきた両方のグループは、自然にどこに帰るかという話になった。若者達はとりあえず野宿だという。あさっての夜は隣の市のライブに出演するので大阪から出張してきたのだ。

帰り道を二人増えた影法師が、東天アパートへ向かっていた。牛山さんが、
「音楽に生きてるんだ、君ら」
と、何度も感心したように言った。
一階の端の部屋が彼らにあてがわれた。一応楽音的騒音を立てる可能性があったので。

実はもうひとつの小さめの影が彼らの後をついてきていた。やせ細った十歳位の少年である。継父が彼を虐待する、というまるで新聞種そのものの境遇にいるらしい。彼は新聞の見出しを読んで自分の状況を理解し、勇気を出して逃げ出したのだ。
「そうなの、偉かったやん。新聞も役に立つもんやね。よく出てきたね。ここに住んだらいいよ。ソーシャルワーカーに話してあげるから」
と、小山が言った。自分の部屋に連れて行った。小山の父親は離婚後二度と結婚しなかったから、無駄な虐待を受けたことは無かった。
自分が産んだかりなが幸せなように、この子が幸せに暮らせるよう親身に尽くしたかった。

地元で生きようNPOの赤松が太陽のような笑顔を見せて小山のドアをノックしたのは翌日の夕方である。
もうひとつの顔が小山のわきの下からのぞいているので、赤松の顔は笑顔から驚いた表情に変わった。小山はニヤ、と笑った。
「小山さんの子?」
「そんなわけないでしょ、一晩で出来る?」
と、冗談さえ言う。その目にはしかし涙がにじんできていた。

第四章 夢のように( 5 / 7 )

赤松は見なかったことにしてくれるという。少年をしばらく小山に預けた。
そうなると、ますます生活資源がやはり問題だった。
赤松は彼らに里山手助けの仕事をせっせと回すことにした。晴耕雨読のような生活になった。敷地の前には自前の畑を作ろうと、誰彼が暇なときに耕したり水をやったりする。きゅうりやトマト、小松菜、ねぎ、韮、植えるものには事欠かない。

カイコさんと大山がセットになって、孤老介助と、それが無いときは空き缶新聞集めに回った。普通の暮らしをしている界隈でも、それらの廃棄物を影のように回収してくれるのを待つ人が多かった。
牛山さんの絵には似顔絵も加わったので、珍しがられた。カイコさんの仏の木彫りも並べた。

音楽家たちは本拠地を東天アパートとして活動した。CDも小規模ながら製作しているらしい。何よりも音楽が好きで、音楽を食べて生きていた。
みんなが忙しいときは、猫ちゃんが少年、カズちゃんの相手をしてくれた。実はカズちゃんのほうが世話していた。

小山がドリルを買ってきた。すると少年は喜んで勉強するのだった。
「君、すごいな。ハンサムでスマートじゃん。優しくて賢いって意味だよ」
小山は泣きそうになりながら褒めてやる。カズちゃんはその微妙な表情を見ている。しかし大口を開けて笑ってみせ、小山にすがりついた。アア、神様神様、心の中で叫びながら小山はしっかりと小さなやせた少年を抱きしめた。

東天アパートにソーシャルワーカー小園佑子が配置してきたのは、驚いたことに老人と老女だった。ふたりとも人生の半分を路上で過ごしてきたのだという。そして今や人生の最後のときを迎えるというのだ。

小山は、これはいわゆるホスピスの代わりだな、と了解した。しかし、どうすればいいのか。年若い連中は回復していくが、死んでいくひとに自分が寄り添ってあげられるのか、見当もつかない。
すると、母の大野みずさが手伝いを申し出た。自分は例によって夫に縛られているので使い物にならないのだが、友人で看護師の資格を持っている女性を引き込むことに成功したという。彼女自身は独身で通したため、年金はあり、時間もあり、人助けの精神的余裕もある。こうして彼女もやってきたので、一気に東天アパートは三部屋埋まった。
医療の知識のある人物がいることは実はどんな施設にも重要なことだった。小山はさしずめ心理カウンセラーという役どころだった。


赤松陽司と、右野さん、小山なずさ三人で町役場の支所の一室のひとつのデスクの周りでそろう機会が多くなった。

やや元気を取り戻した若い三人、小山、大山、右野の生活保護が打ち切られそうな気配になった。完全に社会復帰できるとは小山には思えなかったし、これまでのように暮らしたのでは元の木阿弥ではないか。

社会的弱者に空いた施設を提供する、という方法はかなり現在広まっている、と赤松は言う。財政的に厳しいのは、行政が税金を使いたがらないことにもよるが、日本では募金活動ないしは寄付という概念が一般的でないことにもよると付け加えた。

「そうやなぁ。お寺さんや神社にお賽銭を投げるのは自分のためやもんね。お寺の檀家もお寺を金持ちにするだけやしね。その点,キリスト教では自分の救いなんやけど、善人でありたい、そうすれば天国にいけるってんで必然的にひと助けっていう効果がでてくるんやね」  
「はあ、そうなんや」
と、大山がこっくりをする。彼女はコンピニでアルバイトする覚悟を固めつつあった。それを相談するためにその日大山も支所に来ていた。

募金を募るのはひとつの実行できる考えだった。小山なずさは、赤松陽司を見つめて尋ねた。
「赤松さん、ここで私パソコン使わせてもらえへん?ネット接続してサイトを探したいと思うて」
「東天サイトをたちあげるんですか。僕も協力しますよ」
「たちあげる、というても、寄付を募るというのが目的やけど」

「わかりますよ。でもそのためには一度新聞とか取り上げてもらわないことには。つまり世間的に名を知らしめアドレスを知ってもらわないとですね」

「ふうん、やっぱりそうきますよね。そのためには何か、お金をせびるだけじゃないシステムでないとあきませんね。社会の負け組みへの施しではなくて、これがひとつの別の生き方であるような。そんな説得方法、というか、むしろ哲学かな」
と、さすがに小山も言いよどむ。


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