壊れた脳神経だって再生する、そのことは最近の医学的常識だ。
バナナが安くて腹持ちがいいのが幸いだった。天の恵みのひとつ。
それから鰯のカンズメ、鯖の味噌煮カンズメ、安くて旨い。
このまま動く気も無い、自殺する元気も無い、死ぬまで待つことになろう、などと本気で思っていた。なのに運良く、日に一度真上の部屋のカイコさんの訪問によって野垂れ死にを免れたのだ。
カイコというのは勿論その人物に対する小山なずさの印象である。
その足音を夜に聞いていた。いびきやため息も聞こえた。ドアの軋みと階段を下りる足音、廊下をこちらに曲がってくるゆっくりした歩み、均等な歩調ではない。
ノックされる。一度ドアを開けて以来、鍵をかけてなかったのでカイコさんはのそっと入ってくる。
多分女性で、多分中年だ。
毛糸の帽子の下の藁のような髪の毛にかこまれて、陥没箇所の大きくて深い、蚕の体のような色と皺からなる顔の部分がある。
何も言わない。ペットボトルに水道水を入れてあるのを、小山なずさが駱駝のように寝転がっている方向へ向かって、すうっと投げてよこす。
小山なずさの物憂い目差し、カイコさんの無表情の口元。
それから、床にある箱の中から小銭をいくばくか取ると、カイコさんは黙って去る。
自転車の音。
十五分ほど走ると温泉町滝野がある。
街を周回して雑誌やアルミ缶、お金など拾うのだろうと小山なずさは昔の記憶を使って推測する。まさか街角に立つのではあるまい。万引きをするのでもあるまい。
と思うのも一瞬のことだ。
薬からの覚醒時間。
自分の内面の苦しさに呻く。頭を抱える。深く深く身をかがめる。絶望の色にすべてが彩られている。その闇の色。
頭より先に、体に感じるその鋭い刃。
胸が切り裂かれる。全身が震える。逃れようとして自分の髪を力いっぱい引っ張る。涙まみれだ。もう理由など考える余裕は無い。
日に一度、共用トイレまでよろめいていく。大したものは出ない。くさい。自分の体もくさい。と、一瞬だけ思う。
がっくりとうなだれて、空も外も見ない。
暗い暑い部屋に倒れこむ。
この部屋はどうして見つけたのか。
休職して医者に行けばまだ回復すると思っていたはずなのだが、休職中に、あろうことか、かっこ良かったマンションからこんな三畳のアパートに移った。すべてが疎ましかったような、自分を失っていたような。いい服もかばんも化粧品、靴、アクセサリー、疎ましくて捨てた。のだろう。
そのまま退社となった。失業保険のほかにお金は少々持っていた。
潰れた娘のために母親の大野みずさが薬を持ってくる。自分が病状を訴え、娘に成り代わって診察してもらっているそうだ。
親の愛? なもんか、こそこそした利己主義の知らんぷりのあの人、私を置いて出て行った母親。十歳にもなっていなかった。偽善と自分を守ることのその間のすれすれを生きている女。
母親を見ていると憎しみに支配されたくなる。大野みずさは眉根を寄せ、両目の目尻を垂らして
「頑張ってね、どうしても何とか頑張ってね、祈ってるから」
と、不愉快な声音で言って帰る。
「今度来たら殺せ、生かしておくな、今度は殺せ」
頭の中で文章が発声される。憑かれそうだ。その文章を繰り返したら気持ちいいだろうと想像がつく。だめだ、試しにでも言ってしまったらいけない、と小山なずさの最後の理性が点滅する。
避けろ、近寄るな、母子関係の修復が可能であろうと不可能であろうと。
暑く、寒く、死にたく、助けて欲しく、ヒイヒイいいながらも夕方になる。